5.雨のせいだ
5.雨のせいだ
今日は雨。
これで、ようやく連日の猛暑日から解放される。
たまには、窓の外でシトシトと降る雨音を聞きながら、こうして部屋の中でゆっ
くり本でも読んでメランコリックな気分に浸るのも悪くない。
こいつさえいなければ・・・。
「なぁなぁ姚子たん、どっか行こうぜ」
「どこかってどこ」
「面白いとこ、キャパクラ、ピンサロ、ノーパン喫茶」
「行けるか」
「じゃあショッピングモールとか」
「勝手に行けば」
「金持ってにゃあ」
「嫌よ、私だって無駄遣いしたくない。
雨降ってるし」
「こんな小雨、すぐやむだろ」
「今日は一日中雨だって、天気予報でも言ってたよ」
「これくらいどって事にゃあだろ、濡れたってむしろ涼しくていいくらいだ。
おみゃあも水も滴るいい女になれるぞ。
ついでに股間も滴らせてやる」
「いい加減にしろ、墨さんに言いつけるぞ」
「なんだ、今日はやけに大人しいな。
いつもならすぐ怒鳴りつけるのに」
「今日はそんな気分じゃない」
「だったら俺に乳揉まれろ、気分良くなるぞ」
「なるかバカ。
あ〜そっかぁ、風邪でも引いたかな・・・、なんだか怠いし」
「なに!、それは一大事。
俺の大事なペットたんを介抱せねば。
どこだ?、どこが悪いんだ?、ここか?、ここか?」
「くっ付くな鬱陶しい、風邪移すぞ」
「愚か者め、俺がそんな病気になるとでも思ったか、そんな柔には出来てにゃあ
ぞ」
「そうね、バカだもんね。
だったらあんたが弁天様にお願いして雨を止めてよ。
雨を降らせるのは神様なんでしょ」
「アホか、雨ってのは太陽熱と地球表面の大気の対流の影響で起こる気象現象で
水循環の過程の一つだ。
神がいちいちそんなのに関わるか」
「だって、弁天様は水の女神様だって言うし」
「だからってなんでも出来るって訳じゃにゃあ。
あいつが出来るのは、せいぜいちょこっと風を吹かせて雨雲を動かすくらいだ
ぞ」
「だからその風を起こして雨雲をどっかやってってお願いしてよ」
「嫌だね、ベン子に頼み事なんて死んでもするか」
今日も、侠兎はエアコンのある姚子の部屋で朝からゴロゴロしている。
何もする事がなく、暇を持て余して退屈の極みにいるのだ。
最近、侠兎が段々ネコ化してきているなと姚子は感じていた。
常に勝手気ままに振る舞い、暇になって遊んで欲しくなると必ずちょっかいを出
してくる。
円らな瞳で物欲しそうに見つめ、甘えた猫撫で声で名を呼びながら擦り寄ってき
てスキンシップを求め、強く拒絶し抗うまでしつこく纏わり続ける。
だからといって、こちらの指示や要望に応える気など更々ない。
まるでネコじゃん。
おかげでゆっくり読書も出来やしない。
普通のネコなら可愛いものだが、侠兎はやたらと胸やらお尻ばかりを狙ってくる
ので益々嫌だ。
しかも、姚子が休みに入った事で接触時間が長くなると、それにつれて家族の目
も憚らずにベタベタ寄り添ってくるようになった。
これまでの強引に力づくで押し倒すやり方が減ってきたのは喜ばしいが、人前で
女子同士が変に仲良くしているのも要らぬ疑念を抱かれかねない。
どんなに見た目に惑わされても、頭の中身は好色一代男なのだ。
一刻も早くこの状況を打破したい。
どこかに妙案でも転がっていないものだろうか。
ただね、ネコのように丸まって眠る時の姿は、本当に抱き締めたくなるくらい可
愛いくてたまらないんだよ。
このままでは、またいつもの堂々巡りだと思った姚子は、仕方がないので外出す
る事にした。
出来るだけ雨には濡れたくないので、近場の駅前商店街で適当に時間を潰してお
茶を濁すつもりだ。
(本屋さんにでも行くか)
連れだって外へ出た二人。
確かにこの程度の小雨なら、多少濡れるくらい苦にならないのは侠兎の言葉通り。
買い物など積極的に外出する動機がありさえすれば、姚子だって二の足を踏む理
由にはしなかった。
ただ、その言葉をそのまま実践するのが癪に障っただけ。
自分の思い通りに運ぶと侠兎はすぐにつけ上がるから、そうなるのを避けたかっ
た。
その侠兎は、傘を差していても既に若干濡れている。
差してるんだか振り回してるんだか。
駅前までのおよそ10分間、ゆっくり歩いていたせいだろうか、徐々に雨足が強
くなり始めた。
家にいる時はずっと小雨だったのに、なんと間の悪い。
風邪を引いたと嘘をついた罰が当たったか。
その後も雨はどんどん降り続け、商店街に着いた頃には本降りになっていた。
もうスニーカーベチョベチョだよ・・・。
「アハハハ、バシャバシャ降ってきたな。
これじゃパンツまでずぶ濡れよー」
「アハハじゃない、あんたのせいだ」
「俺のせいじゃにゃあ、濡れたのは雨のせいだ」
(あーもう最悪、やっぱり家にいればよかった)
完全に気持ちの切れた姚子は、早々に書店に行くのを諦め、すぐそこにある喫茶
店に退避する事にした。
このまま雨の中にいたらスカートまで濡れてしまう。
散財も已む無し。
“どんぐり”という名のその喫茶店は、この界隈では自家製のコーヒーゼリーが
美味しい事で有名な店だというのは知っていたが、だいぶ前に母親と入った事が
あるという記憶しかない。
どこか洋風でレトロな雰囲気が漂う静かな店、という印象しか持っていなかった。
「そこの喫茶店で雨宿りするよ」
「お、いっちゃんの店に行くのか」
「いっちゃんって誰」
「店のマスターに決まってんだろ。
苗字が市春だからいっちゃんなんだって、常連のジジババが言ってたぞ」
「あんた知ってるの?」
「もうナエちゃんと何度も来てるからな、顔馴染みだ」
そう言って、侠兎は慣れた手つきでドアを引き開けて中に入る。
後に続いた姚子は、店内に一歩足を踏み入れて思い出した。
そうだった、このお店は全体がログハウス風の内装だったんだ。
床も壁も天井も木目調で統一され、テーブルや椅子も木製で、ボックス席のパー
ティションは木材を×の字に組んだ手摺り様に作られている。
窓は玄関側の正面にしかないので、奧の方の席は仄暗く、電球色の淡い照明が
なんだか落ち着く。
席数も少ない小さな店だが、こんなに素敵な雰囲気の店だとは思わなかった。
たぶん、前回来たのは小学生の時だ。
「いっちゃんこんちわー」
「やあ侠兎ちゃん、いらっしゃい。
今日は枢さんと一緒じゃないのかい?」
「今日はそこのバカ娘を連れて来た」
「雨、強くなってきちゃったね」
「俺はこのくらい平気だけど、姚子が雨宿りしたいって言うんでね」
「どうぞどうぞ、ゆっくりしていって
この天気だからお客さん少ないし、大歓迎だよ」
気さくな態度で、50歳くらいで地味な銀縁メガネのマスターとカウンター越し
に話す侠兎。
先客がお爺さん一人しかいないのは、やはりこの雨が原因になっているらしい。
だが、この日はいつもの店内とは他にもどこか様子が違うようだ。
「ところでいっちゃん、これは誰だ?」
侠兎の視線の先には、ちょっと照れ気味に微笑むメイド服姿の女性がいた。
常連でも知らない店員とは、大学生の新人アルバイトだろうか。
言ってはなんだが、この店にメイド服は些か不自然な組み合わせにも見える。
「あ、この子は姪のリス子だよ」
「いらっしゃいませー、メニューでーす」
マスターに紹介されて、リス子というその子は席に着いた侠兎にメニューを手渡
した。
「おみゃあリス子っていうのか?」
「本当は葉桜 栗珠って言うんだけど、子供の頃からみんなリス子って呼ぶから、
まぁそれでいいやって」
「前からいたか?、初めて見たぞ」
「叔母さんの代わりなんですよ」
リス子の言葉をマスターが補足する。
「実は、女房が腰痛で入院しちゃってね。
ちょうどリス子が夏休みで家にいるっていうから、少しの間だけヘルプで来て
もらってるんだよ」
「それでおばちゃんいにゃあのか」
「重症化する前に治しておこうって判断だから、そんなに長期になるとは思わな
いけどね」
侠兎がメニューを閉じた。
「俺はいつもの」
(それじゃメニュー見た意味がないだろ)
「はいよ、ココアプリンセットね。
枢さんのお嬢さんは何にする?」
「え?、ココアプリンなんてあるんですか?」
「姚子のくせに知らにゃあのか、おみゃあは地元民だろ」
「地元民だって知らない事ぐらいあるわよ。
コーヒーゼリーが有名なんですよね」
「まあね、でもウチの売りがゼリーだけじゃ淋しいと思ってね。
あと一品くらい目玉が欲しいと思って、色々試行錯誤してるんだよ」
リス子が話に絡んでくる。
「でもすんごい人気なんだよね、叔父さん」
「一応、おかげさまでね」
「普通のカスタードプリンも美味しいし。
だからもう喫茶店閉めてスイーツ店にしちゃった方が絶対いいよって言ってる
のにさ」
「いやさすがにそれはちょっと行き過ぎだと思うな。
競争激しいからね、スイーツ業界は。
僕は僕のペースでやりたいから、このままでいいんだよ」
「って言うんだよ、勿体ないねー。
ゼリーとプリンだけでも十分商売になると思うんだけどなぁ。
バリエーション増やしていけばね。
あと、パンケーキとかシュークリームとかもあったらいいな、生クリームのヤ
ツね」
「おいおい、勝手にメニュー増やすなよ」
姚子の知らない間に、侠兎は早苗と買い物のついでによくこの店を利用していた。
母の侠兎に対する特別扱いは、服や夕飯のおかずだけではなかったのだ。
いくら侠兎の生活に掛かる経費は松子が補填しているとはいえ、ちょっと甘やか
し過ぎではないか。
この分だと他にもまだあるかも知れないと思うと、実の娘としてはちょっと害さ
れた気分になる。
(なんか悔しい)
ここで、急にリス子が何かを思いついて、カウンターでコーヒーを入れているマ
スターに向かって声を上げ、次いで姚子達の方へ笑顔を向ける。
「あ、そうだ、二人に手伝ってもらおうよ、叔父さん」
「いや、いくらなんでもいきなりそれは失礼だろ」
「大丈夫だよ、二人とも可愛いし、絶対上手くいくって。
ねぇねぇ二人共、バイトやらない?」
「え、バイトですか?」
いきなりの提案に引き気味になりつつ姚子が質問を返すと、リス子とマスターが
詳細を語り始めた。
「来週、隣り町でイベントがあって、そこに出店してくれないかって叔父さんに
依頼があったんだよね」
「イベント、ですか?」
「隣り町にある稲荷神社の、夏祭りの前祭りと盆踊り大会を兼ねた自治会のイベ
ントなんだよ。
その自治会に喫茶店の店主仲間がいてね、是非にと頼まれたんだ。
ゼリーとかのスイーツだけでも出店出来ないかってね。
でまあ、一日だけならなんとかなるかなぁと思って、引き受けたんだけどね」
「でも、そしたら叔母さんが入院しちゃったって訳。
その日は私は学校だし、夜ならいいけど昼間だって言うし。
だからさ、そこで売り子の手伝いをして欲しい訳さ。
どう?、やらない?」
姚子は悩んだ。
どう言って断ろう。
アルバイトなんてやった事もないし、ましてや売り子なんて人前に出る仕事なん
かやりたいとも思わない。
まともに役目が果たせるとも思えないし、失敗した時の責任も取れない。
お客さんと直接対面する店員は、いわば店の顔そのものであり、その応対が店の
評判に直結する。
接客態度の悪い店員のいる店が繁盛しないのは常識以前の問題だ。
その接客のノウハウも知らなければ、現金を取り扱う事への不安もある。
責任感の強い姚子は、すぐにネガティブな状況ばかりを想定して、そこに至る最
悪の事態を回避する方法を考える。
経験のない事にチャレンジする時は、事前にしっかりした予習と心の準備が必要
だ。
出来ない事は軽々にやらないのが一番損をしない。
バイト代は魅力だが、取り立てて欲しい物もないし、今はお金に困ってもいない。
とにかく、恥ずかしいのだ!
普通のお店の店員でさえ荷が勝ち過ぎるのに、屋外イベントのような不特定多数
の人が集まる場所での売り子なんて、恥ずかしさの極致だ。
(やっぱり無理だ、どう考えても成功する画が見えない)
思案する姚子に侠兎が聞いた。
「なぁ姚子、バイトってなんだ?」
「仕事を手伝ってって事よ」
「なんだ、そうか・・・」
仕事と知って、つまらなさそうな顔で上を見上げた侠兎。
姚子は、そのまま断ってくれるのを期待した。
侠兎がきっぱり言い切ってくれれば、誰も反論はしないだろう。
そこにリス子が一言付け加える。
「ユニフォームもあるよ。
私、服飾系の学校に行ってるから、授業の課題で作ったヤツだけど自信作だよ。
今着てるこれも自作だし。
採寸だけさせてくれればサイズ合わせもしておくし」
「やる!、俺もそれ着たい!」
(逆きっぱり言い切ったぁ!)
「やったー!、決っまりー!」
「本当かい?
ありがとう二人とも。
えっと、侠兎ちゃんと姚子ちゃんだっけ、よろしく頼むよ」
無邪気な笑顔で高々と手を挙げた侠兎の一方的な一言で、姚子の生活の歯車がガ
タガタと音を立てて狂い出す。
横から別の歯車が勢いよく飛び込んできて追加され、他を押し退けて勝手に高速
で回り出してしまった。
止め方が分からない。
なんでこう、思っているのとは反対の方向へばかり物事が動くのか。
こういう時はもう一方の意見も聞くのが普通だろ。
マスターとリス子の喜ぶ顔は、動揺し憤る姚子から拒否するタイミングを奪い去
った。
ほとほと今日は運がない。
帰り道、侠兎はものすごく上機嫌で、鼻歌交じりで傘をクルクル回しながら差し
ていた。
それやると、横の人に飛沫がかかるんだよ、バカ。
侠兎が安請け合いなんかしてしまうから、また余計な事に巻き込まれてしまった。
自分がスッパリ断れなかったのが原因ではあるので、強く叱責出来ないのがもど
かしい。
不安と後悔と焦燥で頭が一杯の姚子。
足が重いのは、スニーカーとソックスがグシャグシャに濡れてしまったからだけ
ではない。
「なんで勝手に決めちゃうの、決める前に相談してよ」
「おみゃあは反対なのか?」
「当たり前でしょ、やった事もないのに」
「心配すんな、誰でも最初は弱気になるもんさ、深く考えるな。
杏より瓜が安しって言うだろ」
「フルーツ売ってる場合か。
もう、なんでこう無頓着で大雑把なのかな、あんたは。
がさつで向こう見ずで、そんなんじゃそのうち必ず自分に返ってくるからね、
まるでキリギリス人生だよ」
「そげキングだろ?」
「ウソップ違う!」
「何をそんなに目くじら立てるよ。
決まったもんは覆せんぞ、そっちの方が迷惑ってもんだろ」
「売れなかったらどうする気なのよ」
「いっちゃんのココアプリンは絶品だぞ、あれが売れにゃあ訳がにゃあ。
おみゃあだって食ったんなら分かるだろ」
「そりゃ確かに美味しかったけど・・・。
でも、美味しいからって絶対に売れるとは限らないのよ」
「不味くても売れる物があるってのか?」
「そうは言ってないけど・・」
「心配すんな、あれなら黙ってたって売れる、ミッチー・ミャウスグッズ並みだ。
もし余ったら俺が全部食ってやるさ、100個だろうが200個だろうが平気
で食えるからな」
「どんな胃袋だ」
(バイト代全部飛ぶぞ)
それもこれも、みんなこの雨のせいだ。
<続>