4.よくやった!
4.よくやった!
宿泊三日目。
明日は土曜日なので、両親がやってくる。
(という事は、明日の夜はバーベキューだな)
などと考えつつ、キッチンでお湯を沸かしてコーヒーを入れ、昨晩のうちにコン
ビニで買っておいたサンドウィッチとサラダを朝食に、ひと時のまったり気分に
浸る姚子。
海が近いからなのか、気温の上昇が抑えられて非常に快適な朝を迎えている。
小鳥の囀りが心地いいし、蝉の鳴き声も、自分の家にいる時より穏やかで優しく
聞こえるのは、気のせいだろうか。
キッチンも自由に使う事が許されていたのだが、自宅のものとはレイアウトが違
う為に使い勝手に慣れていないのと、事後の掃除が手間なので、汚さないように
なるべく調理は控えて最低限に留めていた。
コーヒーを片手に、徐に自分の携帯をチェックする。
姚子は、昨日までの様子を携帯で写真に撮り、「海いいよー」とコメントをつけ
て友人達に送っていた。
「羨ましいなぁ」とか「海綺麗だね」的な返信を期待していたのに、代わりに
「一緒に写ってるイケメンは誰!」や「後ろにいる巨乳の女の子は誰?」「めっ
ちゃ可愛いんですけど」といったコメントばかりが返ってきていた。
松子への反応はある意味予定通りで、わざと彼がしっかり写っているものを選ん
でいたので、これはしてやったり。
超素敵な隣人さんを思いっきり自慢してやりたい自己満足欲求は、これでかなり
満たされた。
(ふふん、なんかふふふん)
ただ、侠兎については、後ろの方で小さく写っている程度なので問題ないだろう
と思っていたにも関わらず、予想を超えて反響が大きかったのには驚かされた。
何も事情を知らぬとはいえ、侠兎に関心が向かうのは喜ばしくない。
友人達に変態との接点を持たせる訳にはいかないのだ。
(くそ、加工しとけばよかった・・・)
その侠兎がダイニングに現れ、清々しい空気を帳消しにする。
「姚子ぉ〜、愛してるよぉ〜」
「な、なんなの気持ち悪い。
冷蔵庫にサンドウィッチ入ってるから勝手に食べてね。
でも全部食べちゃダメよ、墨さんとナリの分もあるんだから」
侠兎は、話も聞かずに椅子に座る姚子を後ろから抱き締め胸をまさぐる。
寝ぼけ眼で薄ら笑いを浮かべ、どんなに姚子が抵抗を試みても強い力で抑え込ま
れて無効化されてしまう。
変な夢でも見たのだろうか。
「愛してるよぉ〜」
「朝からやめろバカ」
「おみゃあの水着姿に俺が興奮しにゃあとでも思ったか。
どんなにかおみゃあを早くグチョングチョンのジュポンジュポンにしてやりた
いと・・してやりたいと願った事か。
この可愛いベン子のニセモノがぁ」
「変態かあんた」
「俺がこんなに愛してるのに、なんでそれが伝わらん。
俺の愛をおみゃあの中にブチ込んでやりたいのに、そのブチ込むものが付いて
にゃー!
俺の大事な大事な菊一文字三日月丸が、ソウル・ソサエティーに拉致されても
うたのじゃぁー!
だからこのバナナをおみゃあの中に・・」
「やめんかあっ!」
目一杯に体を捩ってようやく解放された。
「ったく、いい加減にして」
「あ〜面白かった。
腹減ったな、姚子、飯」
「もう知らん!」
こんな救いようのない変態侠兎だが、一昨日はナンパ野郎達に大人気、そして昨
日は近所の子供達に大人気になった。
昨日、海水浴場で出会ったのは、近所に住むママ友グループとその子供達の一団。
きっかけは、波打ち際で砂遊びをしていた子供達の浮き輪が一つ、目を離してい
るうちに沖の方へ流されて行ったのを侠兎が泳いで取ってやった事だった。
思考回路が単純で精神年齢が未熟な侠兎が、幼稚園児や小学低学年の子供達と打
ち解けるのに時間は不要で、瞬く間に仲良しになり、姚子と業平もつき合わされ
て、けたたましい歓声の中で一緒に遊ぶ事になったのであった。
この歳で砂遊びはないな〜と思って、初めのうちは少し戸惑い気味の姚子だった
が、無邪気で可愛い子供達に囲まれているうちに、次第に楽しさを覚えるように
なっていった。
遊ぶ事が楽しいのではなく、遊んでいる子供達を見ている事に、なんとも言えな
い幸福感めいたものを感じたからだ。
それは業平も同様だったようで、彼は砂のお城作りに男子ならではの才を見せて、
子供達の注目を浴びた。
侠兎については、もういちいち説明の必要もなく、体力任せに走り回っているだ
けで人気者だったし、常に輪の中心にいた。
ママ達は松子にぞっこんだったし、おかげで、一昨日とは一転して小うるさいけ
ど緩〜いほのぼのとした時間を過ごす事が出来た。
そして、三度の海へと向かう道すがら、侠兎は、浜で待ち受けているハプニング
に期待しながら、横の姚子に聞こえる音量で独り言を呟くのだった。
(普通それは呟くとは言わない)
「さぁて、今日は何があるかな。
ナンパーズがいたら今日こそボコボコにしてやるんだけどな」
「ナンパーズって何」
「案外むっさいオヤジ軍団なんかがいたりしてな。
昼間っから酒飲んでタプタプのビールっ腹で踊ってたらどうするよ、しかも海
パン一丁で」
「それはそれで嫌だなぁ。
雰囲気壊れるわ」
「壊れるどころか地獄曼荼羅図絵だ、特殊刑事課勢揃いだ悪夢に魘されるぞ。
ピチピチギャル軍団にしてくれってんだ」
「そんなのいない」
「またチビ共がいたら、今度はビーチバレーでもやるか」
(その水着じゃ無理だろ、ポロリ確実だ)
その後から付いてくる業平と松子もまた、急速に親密度を高めていた。
これまで、松子は時折枢家に顔を出しても長居はせず、侠兎と関係する姚子や早
苗と話をするだけだった。
業平との接触はほとんどなく、挨拶を交わす程度の間柄でしかなかった。
それが、一昨日昨日と夏休みの宿題の分からない所などを教えてもらえるように
なってからは、みるみる親しくなり馴染んでしまった。
塾講師もしているという松子の教え方が上手いのだろう、業平はかなり機嫌がよ
くなっている。
それとも、思春期の男子の心情に理解を示してくれる人にやっと会えた、と思っ
ているのかも知れない。
砂浜には、幾つかの家族連れや小学生のグループなどがやってきていて、早くも
ビーチを占拠していた。
その中に混じって、見覚えのある一組の親子の姿があった。
昨日、侠兎と一番仲良くなった美空という小学1年生の女の子とその母親だった。
母曰く、今日はもう会えないと諭したのに、美空がどうしてももう一度侠兎と遊
びたいとごね続けたので、いない事を確認させる為に連れてきたのだという。
念願だった再会を果たした美空は大喜びで駆け寄り、侠兎の手を引いて海へ誘う。
侠兎もそれに応じ、喜んで相手をしてやった。
泳げるようになりたいという要望に応えて、浮き輪を付けた美空の手を引いて、
バタ足の方法を教え始める。
やんちゃな侠兎にしては珍しい、微笑ましい光景だ。
昨日もそうだったが、侠兎は子供の扱いが非常に上手い。
なぜ、そんなに上手いのか。
初め、姚子は全く気付かなかった。
美空の母の指摘でようやく理解出来たのは、侠兎は常に子供達と対等に接してい
るという事だった。
端から見ていると、いつも輪の中心にいて子供達を牛耳っているように見えるの
だが、よくよく観察すると、早計に自分の方からは何をして遊ぶか言い出してい
ないのだと分かる。
存分に好きな事を好きなようにさせておきながら、その中で上手なやり方や新し
い遊び方を提示して驚かせて喜ばせ、彼等の好奇心を鷲掴みにする。
子供達にしてみれば、いつもの自分達の遊びに新しい発見と楽しさを与えてくれ
る、驚異的な存在として映る訳だ。
故に、彼等は決して支配されている、操縦されているという受動的な感覚に陥る
事がない。
自発的に始めた遊びの延長線上にいるだけなのだから。
姚子に対する時の独善的で利己的、高圧的で暴力的な態度とは、真逆の姿勢を見
せている。
(私は一体なんなんだ)
そんな、昨日と同じ緩い雰囲気が急転したのは、その直後だった。
突然、松子が何かの異変を嗅ぎ取って、侠兎に向かって声を上げた。
「おい、侠兎!」
その瞬間、侠兎の目の前にいた美空が、いきなり浮き輪の中から滑り落ちるように
ズボッと水の中へ入って行った。
只ならぬ異常さを察知した侠兎は、すかさず海に潜って後を追う。
比較的波打ち際に近い、数十センチくらいの浅瀬にいたはずなのに、一体何が起こ
ったのか。
辺りは騒然とした。
突如海中に消えた美空とそれを追った侠兎。
溺れるにしても、その状況が常軌を逸脱している。
母親は悲鳴にも似た大声で娘の名を呼び、パニックになって飛び込もうとするが、
松子がその腕を取って止めた。
代わりに業平が潜ろうとするも、松子はそれも止め、救急に通報するよう指示し
た。
姚子は、あまりに急過ぎる事態に驚き、しかし何をどうしたらいいのか分からず、
ただ二人が消えた波間をハラハラしながら見守るだけだった。
海は、海岸を少し沖へ出るだけでいきなり深くなる。
水深は10メートル前後だろうか、下の方は海面付近より透明度が低い。
海底にはゴツゴツした大きな岩が連なっていて、至る所に暗い陰になっている箇
所がある。
その陰の部分から、得体の知れぬ黒い帯状の物が伸び、美空の片足首に絡み付い
て、奧へ奧へと引き寄せているのが見えてきた。
侠兎はそれを阻止しようとその帯を捕まえるが、美空と一緒に岩陰にジワジワ引
き込まれていく。
それならばと、岩に足をかけて踏ん張り、逆に両手で力任せに思いっきりグイッ
と引っぱり返してやった。
すると、帯はあっさり美空の足を解いて、大人しくスルスルと引き下がっていっ
た。
反撃を被るとは予期していなかったような反応ぶりだ。
侠兎が美空を抱えて海面に戻る。
美空は大量の水を飲んでいたが、松子が心肺蘇生を施し、駆け付けたレスキュー
隊に預けて救急車で運ばれた。
見送る姚子は不安顔。
「大丈夫でしょうか・・」
「問題ない。
救出が早かったので脳へのダメージはほぼないだろう。
外傷もないし、後は海水中の細菌による感染症とかがなければ、すぐ元気にな
れるさ」
侠兎が人助けをした。
初めて姚子と出会った時の暴力劇は、ただの偶然がもたらした突発事故的なもの
でしかなかったが、今回は違う。
自発的に人の役に立つ行動を取ったのだ。
こんな事が起こるとは思ってもみなかった。
初めていい事をした!
姚子は感動し、我とはなしに侠兎を褒めた。
侠兎は肩で息をしながら、それでも今までと何も変わらない、いつもの尊大な侠
兎だった。
「よくやったわね侠兎」
「へん、俺の可愛い舎弟を取って食おうなんざ1億年早いわ」
「何があったの?」
「なんか知らんが、美空を岩陰の中へ引っぱり込もうとしてた」
「なんだったの?」
「知らんわさ、そんなの。
黒くて長くて、柔らかくてフニャフニャで、いい感じにヌルってたぞ」
「ワカメ?」
「アホかおみゃあは。
松子が気配を感じたんだから植物な訳あるか」
「じゃあタコ?、黒いタコ?、そんなのいるかな?
あ、ウツボとか」
松子は、あの時感じた異様な気配を分析する。
「あの気配は、そんな具体性のある生物のものとは違うな。
行動原理が本能に由来するという点では変わらないと思うが」
「じゃあ、なんなんですか?」
「いわゆる妖怪の類と推測していいんじゃないかな」
「妖怪!?」
「恐らくね。
他に説明のつく現象とかがあるのかどうか、考えても思いつかない」
また出た、意味不明生物。
そんなものが本当に存在しているのか。
まあ、仙人がいるって言ってるんだから、見えないからと言って否定しちゃいけ
ない。
姚子は、自分もそんな危険な場所で泳いでいたのかと思うと、恐ろしくなって身
震いした。
「いるんですか?、ここに?」
「今はもう気配を感じないから、逃げ去ってるんじゃないかな」
「そんなにいるもんなんですか?、あっちにもこっちにもって感じで」
「場所にもよると思うけど、平均すればそんなに多いという事はないだろう。
言い換えれば、いる所にはそれなりにいるって事だね」
「もしかして、毎年あちこちの海で起こってる事故って、そういうのと関係ある
んですかね」
「全てではないけど、関連を無視は出来ないね。
海に限った事だけではないよ、川もあれば山もある。
昔の人はそれを神隠しと呼んだ」
行楽、キャンプ、登山、海水浴、出かけた先で人が行方不明になる事故は毎年後
を断たない。
それらに妖怪という得体の知れないものが関係しているとしたら、いくら捜して
も見つからないのも納得する。
「どんな妖怪なんでしょうか・・」
「海に棲む妖怪も昔から色々言われてきているからな。
侠兎の話の通りだとすると、海坊主とかかな」
「海坊主って、名前は聞いたことはあるけどよく分かんないんですよね」
話を聞いていた侠兎が加わってきた。
「くそ、上まで引っ張り上げりゃよかったな。
正体曝いてやりたくなってきた」
「あんた、海の中の妖怪にも勝てるの?」
「おみゃあ誰に物言ってる、ザクとは違うのだよザクとは。
あんな雑魚相手に何を手こずるかよ」
「確かに、本来の侠兎なら妖怪如きは物の数ではないだろう。
妖怪どころか、地上に住む者は誰一人として太刀打ち出来ないし、指一本触れ
る事すらも不可能だ。
だが、今のお前はただの人だ。
そこを弁えて気をつけるんだな、目立つと逆に狙われるぞ」
「松子の分際で俺に説教するんじゃにゃあよ。
そういうのをチャカに鉄砲子牛にリンゴって言うんだぞ、憶えとけ」
「一つも合ってないぞ」
(釈迦に説法孔子に論語だってば)
夜になって、美空の両親がお礼を言いに訪れ、侠兎に対して何度も何度も深く頭
を下げて行った。
その侠兎はと言えば、感謝されるよりもむしろお礼のケーキの方が嬉しかったよ
うで、唐揚げの方が良かったなどと減らず口を叩きながらも美味しそうに頬張っ
ていた。
翌日には両親も合流して、枢家久々のバーベキューで盛り上がったとさ。
<続>