追いかけても掴めない
霧が濃くなってきた。
レミリネアいわく、タクヤの森と呼ばれるその場所は、ともすれば異界のような雰囲気をたたえている。
実際に、通常ありえないような現象も起こるとか。
それを聞き、当然ながら飛鳥は震えてユナミールの背中から離れなくなっていた。
なにが起こるかもわからない。なんだって起こりそうな不穏な空気すら感じる。
辺りに充満してきた霧は、森の名前の由来でもあるタクヤという植物が原因で発生するものらしい。一定の周期で、タクヤというクリアブルーの植物から、なんらかの理由でこの霧が発生するのだという。メカニズムも解明されていないような現象であるが、近辺の土地の者なら誰もがしっている事実だった。
その原因である、タクヤという植物自体が珍しいもので、この場所の他には大きな群生地もないのだとか。
濃い霧の中、数メートル先の視界すら閉ざされてゆく。飛鳥はぴったりくっついているユナミールの背中だけ見て進んでいて、ネムールとレミリネアの姿はとうに見失っていた。
「ユナミール、もうちょっとゆっくり……」言って、そこにあったはずの背中がなくなっていることに気がつく。
鳥肌が立った。
━━ユナミールとはぐれてしまった!
思ったが、そんなはずはない。だって、その身体に触れながら進んでいたのだから。離れるわけがない。見失うわけがないのに━━それなのに、はぐれてしまうなんて。
あり得ないことが起きている。焦りそうになる気持ちを落ち着けて、冷静になろうと努めた。
と、ネムールの背中が見えた。
右手方向の、先にいる。
あまりにも霧が濃いために、すでにうっすらとしか見えないが、まだ追いつく。
「待って、ネムール!」
走る。けれど、追いつかない。あったはずの背中は霧に紛れて、いなくなった。「ネムールっ!」叫んでも、応答はない。足音も、気配すら感じない。
誰の声も聞こえない。
するとまた、誰かの影がすぐ側を通る。飛鳥はすぐさまそちらの方向へ駆け出すが、誰の姿も確認できない。走って、走って、どれだけ追いかけても掴めない影だけが見え隠れする。不気味で異質な空間をさまよっている。
そのことを確信し、心細さが限界を迎えようとした頃、飛鳥の耳に声が届いた。
『あそぼぅ』
遊ぼう……確かに、そう聞こえた気がした。
『ねぇ……遊ぼうよぉ…………』
空耳ではない。はっきりと、知らない少女の声がする。
ユナミールでもネムールでもない、別の誰かがどこかにいるのか。
しかし霧の中、わずかな視界には草木しかなく生き物の姿すら見られない。
なのに、視線を感じて振り返った━━そこに。
ぼろぼろの衣服に身を包んだ、全身が真っ赤な少女が空中に浮いていた。
ぎょろりと剥いた白目だけが、赤い中に目立っている。口角から赤い泡。そこまでをはっきり確認してから、飛鳥は悲鳴を上げて逃げ出した。
「うわあああああああああぁぁぁぁーっん!」
でたらめにギリギリで木々を避けながらどこまでも逃げた飛鳥は、そのわずかな体力が底をついた時点で地面から浮き出した木の根に足を取られて転倒した。
「ぼげっ!」と顔面から地面に突っ込むと、そのまま気を失って動かなくなった。
めくれ上がったスカートの下で、大きな水溜まりができていた。
*
「おーい、アスカー、大丈夫ぅー?」
聞こえたユナミールの声を、アスカの脳がようやく拾うと、その意識は急速に回復していった。目を開くと、すぐ目の前に顔があり、慣れたつもりでいたはずの飛鳥も、その鼓動を速くしていた。
「ゆ、ユナミール……あれ、どうなって……」
記憶が曖昧な部分があったが、自分が霧の森でみんなとはぐれ、最終的に恐ろしいお化けに襲われたということは、はっきり覚えていた。
だが、なにがどうなっているのか、飛鳥にはわからない。
「不用意にタクヤの森へ入ると、こういうことになる……という、お勉強でした」
「ちょっと……なにが『お勉強でした』よ。あんただって不用意に入ったじゃないの」ネムールが恐い顔でレミリネアに詰め寄っている。
「それは……ごめんなさい」
言い返すかと思ったレミリネアが、意外にも素直に謝っている。ところから察するに、彼女もうっかりしていたのだろう。
レミリネアのことだから、わかってはいたはずなのに、ついうっかり失念していた━━というところか。
いずれにしろ、飛鳥は何が起きたのかを尋ねた。そこが一番問題だ。
「一定の周期でタクヤが吐き出す霧にはな、我も愛用するエルエスデイとも似たような作用がある。けれど、エルエスデイのものとは違って、高次の存在と邂逅できるような良いものではない。ただいたずらに精神を狂わせて、我らそれぞれの中にある恐怖を呼び起こし、さながら目の前にあるかのように錯覚させる。なぜそうなのか、どうしてタクヤがエルエスデイのような効果の霧を吐くのか、理由まではわからんのだかね」
━━要するに、幻覚を見せるということか。
飛鳥はそう解釈した。そして、自分が見たものが幻覚であるということも、その時にははっきりと自覚していた。なぜならば、あの血まみれの少々には見覚えがあったからだ。
━━あれは確か……ホラー映画『少女の怨霊が来る』に出てきた『ササコ』の姿だ。以前にオレがいた世界の作り物であり、つまり、この世界には存在しないはずのものだから、たとえ実在していたとしても、この世界で出会うはずはないんだ。
すべては、タクヤが吐き出した霧による幻覚。心の中に隠された、あらゆる恐怖が具現化する。当然それは、人により様々で━━
「わたしはね、すごくアゴが長くなって左右の目が離れててお口からずっとキモッシーの卵を吐き出し続けるネムちゃんに追いかけられたんだよ!」
「って、なによそれっ!」
ユナミールの恐怖の対象は、誰にも意味がわからなかった。おそらく、本人にも。
一番仲のいい大切な友達が、あり得ない形相になるのが恐い……みたいなことだろうか。と、飛鳥は勝手に納得した。
「ネムちゃんは?」
「わたしは……周りが急に真っ暗になって、すごくたくさんの目が出てきたわ。すぐにレミリネアが助けてくれたからよかったけど、さすがに漏らすかと思ったわよ」
「ちょい漏れな」と、レミリネア。
「漏れてないっ!」
というわけで、恐怖体験をしたのが飛鳥だけでなかったことがわかった。
レミリネアだけは、普段から幻覚作用に慣れ親しんでいるので大丈夫だったようだが、悪くすれば精神を病んでしまうだろうということだったので、レミリネア以外の三人はもう二度とこんな経験はしたくないと思った。
「すまんかった。向かうべき地へは、タクヤの森を突っ切るのが一番早いという理由だけで、迂闊に踏み込んでしまったのは、すべて我の不注意だ。申し訳ない。この森は広くてな、迂回するには時間がかかるのだ。しかし、ケチるほどの時間ではないのだから、迂回すればよかったのだ。恐い思いをさせたことは、謝る。だがもう森は抜けた、我のエルエスデイでも使わぬ限り、幻覚を見ることはもうないぞ」
背後を振り向くと、その先に森があった。まだ霧が立ち込めているのが、遠目にもわかる。あれに、恐怖の幻覚作用があるのか。
「知らないで入ると、出てこれないですよね、あれ」飛鳥は"ササコ"の姿を思い浮かべながら、レミリネアに訊いた。
「出れなくなる者もいるだろう。出れたとしても、頭がおかしくなっている者がほとんどだそうな。もっとも、この辺りの人間はみな知っているだろうが、あんたらのように遠くからたまたま訪れた人間が、運悪く霧の周期に重なってしまうと……我のような術者でもなければ、まず助からんだろうな」
「わたしたちは、レミリネアがうっかりしてなければ大丈夫なはずだったんだけどねぇ」
ネムールがわざと言った嫌味に、レミリネアはしかし「すまんかった」と謝った。うっかりしていたという話は、どうやら本当であることが態度からわかった。なので、ネムールもそれ以上はイジメないで、水に流した。
「さて、次なる目的地は、この先の町になるが━━その向こうは山越えになる。必要なものは買っておかんと、山の向こうはなんもないぞ。いよいよ人里からは離れるからな」
心しておけよ、と言われた。ユナミールは元気よく返事をして、ネムールは嫌そうに、それでも返事をした。飛鳥だけはまだ先ほどのショックが残っていた上に疲労もあって、無言のままに遠くを見つめる。
風の精霊の力が集まるその場所は、まだまだ遥か先にある━━
おいちょっと待てよ!
ちょ、待てよー!
大人も子供も、ちょっと待てよー!
ねーちゃん、ちょっ、待ってくれよー!
なんでユナミールから逃げるんだよー!
どうして……人間……ユナミール……逃げる…………。
え……わたしはもう、人間じゃ、なくなっていたの…………?
次回は「ミッシング!」ですよー!
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