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作者: 右田優

陽はすでに山稜に隠れて、橙色の淡い空が急速に薄暗闇に変わりつつある。十一月下旬の空はいやに高く、凍てついた細かい空気が少女の体をすっぽり包んでいた。   

ナオミはそっと深呼吸をしてから、かじかんだ両手に自分の息を吹きかけた。二十分か二十五分、いや三十分は待ったかもしれない。彼女は何も考えず、ただひたすら彼を待ち続けた。

 彼、圭吾とはナオミの友達である。正確にいうなら友達であった。まだ二人が幼稚園生のころ、小さかった圭吾と手を繋ぎ、送迎バスの窓からこれといった特徴のない、北国の田舎町の景色を並んで眺めたのは、かれこれもう十年以上前のことだ。

 二人は同じ小学校に入学したにもかかわらず、六年間という決して短くない期間、一度も同じクラスにはならなかった。小学生になってからはナオミと圭吾は友達らしいことなんて何一つしていなかった。中学校はわずかな距離の違いで別々になった。高校生になってナオミと圭吾は再会し、二年になって同じクラスになったが、すれ違うときなどに軽く会話を交わす程度のつきあいだった。そのため友達であったと過去形で語るのが正しい表現だと思う。

 ナオミはうらぶれた校舎裏の風景をぐるりと眺め回した。寒い一人ぼっちの薄暗い校舎裏には、鮮やかな青春の空気などほんの欠片も漂っていなかった。

 ナオミは先月、両親とともに大学病院で肝臓がんの告知を受けた。ステージⅢ。

退屈で長い入院期間中、ナオミが二十代半ばの若い研修医にカマをかけてみたところ、その若い研修医は彼女がステージⅢの肝がんであるという事実をあっさり認めた。当然だろうとナオミは思った。

高校二年生という若さで二ヶ月も入院するということが異常だということを、彼女はもちろん理解していた。病院では痛みを伴うありとあらゆる検査を受けさせられた。体重は日に日に落ちていった。立ち上がるたびに地球の地軸がずれてしまったのかと思うくらいの酷いめまいがするのも、頻繁に熱が出るのも、体内でなにかしら異常事態が起きているということを如実に物語っていた。

 インターネットで情報が氾濫しているこの時代、人手不足で多忙を極める医師や看護師たちの表情や仕草をほんの少し注意深く観察すれば、自分の体が現在どれほど深刻な状況にあるのかは、ナオミでなくともおそらく誰にだってわかることだった。

整った顔立ちの美人だが、内気で存在感の希薄な母親の信子と、ナオミより三歳年上で、現在東京で一人暮らしをしている兄の雅彦は、見舞いに来るたびに、かえってこちらが気恥ずかしくなるほど彼女に対して優しく振るまった。父親は遠慮がちに短く娘に話しかけると、まるでなにかに怯えるように足早に病室から出て行った。

 

 うっかり真実を打ち明けてしまった若い研修医は真っ青な顔をしてナオミの病室へ謝罪をしに来た。

「ねえ、もう謝らないでよ」とナオミは言った。「お人好しな先生のことをうまく言いくるめてこっそり聞き出した私が悪いんだから。両親にもそう何度も説明したのに」

「こんなふうに伝えてしまうなんて本当に残念だ」と研修医の青年は俯きながら言った。「すまない」

 ナオミは顔の前で手を何度かひららさせて軽く笑った。「だからさ、もう本当に気にしないで。遅かれ早かれ人はみんないつか死ぬでしょう」

 若い研修医はこめかみに手を当てると、軽く首を振った。

「君は僕よりずっと若いのにずいぶん強いんだな」

「強くなんかないよ。ただ、そんなもんかなって思っただけ」

「そんなもんって?」

「実感がないんだ」とナオミは言った。

「生きている実感?」

「そう」とナオミは言った。「今生きていることも、いつか死んでいくことも、そこにどんな理由があるのかが私にはわからない」

 青年はしばらく沈黙する。「僕はまだ研修医の若造だけど、これまで担当した患者さんの何人かが亡くなった。そのたびに自分が無力だとあらためて思い知らされて落ち込む。僕はきっと医者に向いていないんだろうな」

 なんと言えばいいのかナオミにはよくわからなかった。それでもナオミは、初めて病院で見た二ヶ月前よりもげっそりとやつれ、疲れや不安、哀しみという感情を必死に押し隠そうとしている若い純朴な研修医の青年に、とにかく何かを言わなければならないと思った。

「でも先生はここにいる」

「うん。未成年の君にご両親の承諾なしに告知してしまって指導医にはさんざん叱られた。自慢じゃないけど、僕は他にも口にできないほど沢山のミスをしている。ほとんどが患者さんとの向き合い方についてだ。看護師さんたちにもすっかり煙たがられているよ。だけどね、ごくまれにだけど患者さんから『ありがとう』って言われるんだ。そのたったひと言のおかげで、今もこうしてなんとか歯を食いしばりながら、ここに踏ん張っている。僕には医者として、きっといつか患者さんに何かができると信じている」

「先生は戦っているんだね」

「君も僕と一緒に戦おう」

「いったい何と戦うの?」とナオミは少し間を置いて尋ねた。「ねえ先生、死ぬのは負けなの? じゃあこの世界の人たち全員負けるとわかっている戦いをしているの?」

青年は目を細めて唇を噛むと、何も言わずナオミの手をそっと取って握った。それからきつく目を閉じ顔を伏せた。

「すまない」

「ごめん」とナオミは言った。「先生を困らせるつもりはなかったの」

「本当に頼りにならないな、僕は」

「あのさ、はっきり言って先生のほうがよっぽど病人に見えるよ」とナオミは軽く微笑んだ。「これじゃあどっちが病気なのかわかんないね」

「全くだ」

 若い研修医の青年も同意した。

「先生の口から正直に教えてもらって良かった」とナオミは言った。「ありがとう」


 退院したナオミは自宅に戻り、再び学校に通いはじめた。ナオミは放課後の校庭を飽きることなくがむしゃらにボールを追いかけ、何周もぐるぐると走り続けている圭吾の姿を自然と目で追うようになっていた。

 圭吾は背が高く、いかにも健康そうに日に焼けていて、肌は綺麗な小麦色だった。顔立ちはいくらか彫りが深く、直毛の髪は常に短く切られている。切れ長の黒い瞳は、まるで深い森にすむ肉食獣のように力強く光り、少年の意思の強さと溢れ出る生命力をたたえていた。

 二人の通っている高校は県内の公立校では二番目の進学校だった。圭吾は成績が良く、もちろんスポーツは万能だった。ナオミの見る限り、彼は毎日部活には顔を出していたが(キャプテンなので当たり前といえば当たり前だ)それでも成績はたいてい上位にいた。圭吾は先輩にも後輩にもまんべんなく人気のある生徒だ。友人も多く、教師たちからもかわいがられている存在だった。

 圭吾の口元には、だいたいいつも楽観的な笑みが浮かんでいた。子供のころから今に至るまで、圭吾の口から他人の悪口や陰口をナオミは一度も聞いたことがなかった。圭吾の家はたぶんそこそこお金持ちで、彼の父親は小児科医院を経営していた。西野小児医院という名前で、開業して三十年以上の評判のいい小児科だ。訪れた患者に安心感を与える笑顔の暖かい、太った母親が受付をしている。圭吾の人好きのする笑い方はきっと母親譲りなのだろう。

 彼は綺麗な歯並びをしていて、よく焼けている小麦色の肌とは対照的に、歯の色は真っ白だった。彼は一見すると無愛想な印象を相手に与えるが、実際は誰に対しても親切で面倒見はよく、加えて正義感もあった。男だらけの四人兄弟の長男だということも性格に影響しているのかもしれないな、とナオミは思った。

圭吾はナオミとは比べ物にならないくらい成績もよかったが、かといって彼はそのことを自慢したりもしない。さばさばとした性格で冗談も気軽によく口にした。当たり前だが圭吾は女の子にもてた。それは当然だろう。しかしだからといって、簡単に女の子と付き合ったりはしなかった。圭吾には彼にお似合いの、清楚でかわいらしい一年生の彼女がいた。

 

ある日の帰り道、仲のいい女友達がナオミに向かって言った。「サッカー部の圭吾くんってほんとにかっこいいよね」

「まあ、そうかもね」

「ナオミと圭吾くんは幼馴染だったんでしょ? 彼って今フリーらしいから合コンでもセッティングしてほしいんだけど無理かな?」

 ナオミは首を振ると呆れたように言った。「いやだよ、そんな面倒なこと」


 薄暗い空には、西から流れてきた大きな黒い雲が広がり、今にも強い雨が降り出してきそうだった。

遅くなってごめん、と言いながら、圭吾は息を切らし、突風のようにナオミのそばに駆け寄ってきた。

圭吾が息を整えてから言った。「おまえから手紙をもらうのなんてガキのとき以来だよな」

「突然呼び出してごめん」とナオミは言った。

圭吾は首を振った。「先輩に捕まっちゃってさ、少し遅れるって連絡入れたかったんだけど、おまえ今どき携帯もってないだろ」

 私が携帯を持っていないことをなぜ圭吾は知っているんだろう? とナオミはその時思った。

 寒かったか? と圭吾がナオミの瞳を覗き込んで尋ねた。

 どれだけ背が高くなっても肩幅が広くなっても、圭吾の印象深い、黒く澄んだ瞳は5歳の頃と全く変わっていなかった。そのことをナオミは嬉しく思った。

平気だよと言ってナオミは首を振った。  

 圭吾は首に巻いていた赤いマフラーを乱暴に外すと、彼女の首に素早く巻き始めた。

「話ってなに?」

 ナオミはポケットから右手を差し出した。

「部屋を片付けていたらさ、これがでてきたんだ」

 圭吾は口元に手をやると、ナオミの右手に乗せられた、小さな缶バッジをしばらく眺めていた。

「覚えてない?」

圭吾は首を傾げ、ナオミの手の上にある缶バッジを見つめながら、自信なさそうに答えた。

「もしかして幼稚園のころに動物園で作ったやつか?」 

その缶バッジは、ウサギを抱いている五歳の頃のあどけない二人の笑顔の写真で出来ている。バッジには遠足の日付が書かれている。下には圭吾の汚い字で(しょうらいはサッカーせんしゅになるぞ!)と書いてあった。動物園とはなんの関係もないメッセージだ。

「なんで今になってそれを俺に渡すんだよ?」

 不思議そうな顔をしている圭吾にナオミは言った。

「これを圭吾に持っていてもらいたかったの。今もちゃんとサッカー頑張っているみたいだから」

 圭吾はしばらく黙ってから短く肯くと、ナオミの手から缶バッジを受け取り、肩にかけているかばんの中にしまうと礼を言った。

「それだけのために呼んだのか?」

 ナオミはなんと言えばいいのかわからなくなり、慌てて小さく微笑んだ。

「そうだよ」

 変なやつ、と圭吾はさらりと言うと、ナオミに手招きする格好をした。

「退院したばっかだろ。家まで送って行く」

 圭吾はぶっきらぼうにそう言うと、さっさと駐輪場に向かって歩き出した。

 ナオミは圭吾の自転車の後ろに、スカートがめくれないよう注意して跨がった。

 思い返せば四歳や五歳の頃はよく圭吾の自転車の後ろに乗せてもらった。あのときの自分と今の自分の間には、おそらく何光年もの隔たりがある。

圭吾の大きくなった背中をブレザー越しにそっと掴んだナオミは、顔が真っ赤になった。

大きな背中越しに見える見慣れた帰り道は、普段とは全然違う風景に彼女の目に映った。


「おまえ痩せたよな?」と前方の圭吾がペダルをこぎながら言った。「それ以上痩せたら無理やりでも食い放題につれていって、いやって言うほど沢山食わせるからな」

鼻の奥がつん、として、目頭が熱くなった。

「あんまり動かないから食欲がわかないんだよ」

「じゃあ少しは運動しろ」

  ナオミは圭吾の背中にそっと手をあてると、五本の指でその大きな背中を時間をかけて撫でた。前方から「くすぐったいぞ」と笑う圭吾の声がした。その笑い方は五歳の時と全く同じだった。

「おい、聞いてんのかよ?」

「運動のことは考えとく。じゃあ退院祝いってことでご飯はおごってよね」

「いいよ」

 チェーン店の安いところはパスね、とナオミが言うと、図々しいやつ、と圭吾が答えた。

「悩みがあるなら言えよ」

圭吾は大きな声で言うと、一瞬だけ振り返ってすぐに前を向きなおした。

「悩み?」

「おまえって昔から一人で抱え込むからな」

「そうだっけ?」とナオミも大声で返事をした。

「あの日動物園で、俺らだけ迷子になったの覚えているか?」

「覚えている」

「たぶんおまえも泣きたかったのに、我慢して泣いてる俺の手握ってさ、大丈夫だよって何度も言ったじゃん?」

「あの頃の圭吾はちっちゃくて弱虫だったから」とナオミは言った。「もうあの時とは違うね」

 圭吾はなぜかその場で静かに自転車を止めると、二、三秒してからゆっくりと背後に座っているナオミに向かって振り返り、座っている彼女の顔をじっと見下ろした。

「ナオミがあの日泣いていた俺のことを必死でなだめながら、暗くなった動物園で先生のこと見つけてくれたんだよ。そこではじめてナオミが泣いたんだよな」

 彼女は圭吾を見上げると少しだけ唇を歪ませた。「ずいぶんよく覚えているね」


幼稚園で動物園に行ったあの日、ナオミと圭吾はぞろぞろと先生の後をついて園内を歩くのにつくづく飽きてしまった。ナオミは動きの緩やかな象を見ているよりは、もっと猿の檻をじっくり眺めていたかった。彼女が圭吾にそう言うと、圭吾は目をきらきらと輝かせ、二人だけで園内を冒険しようと言い出した。

 二人とも初めて訪れた広い動物園で、幼稚園の団体から先生たちに見つからないよう、こっそりと離れた。好きなところに自由に行けるんだと思うと、幼かったナオミはわけもなく優越感に浸り、すっかり大人になったような気分だった。圭吾は四つ葉のクローバーを見つけるのが得意なんだと誇らしげにナオミに言うと、プレゼントすると言って広場に走り出した。そのうちにかけっこになって、かくれんぼになった。

 初夏を思わせる小さな雲が空に浮かんでいたが、空はどこまでも澄んだ青色で、それはあの日のナオミの気持ちと同じように快晴だった。しかしその新大陸を目指す小さな冒険者たちの喜びはそう長くは続かなかった。いつのまにか陽はかげり、西に傾いた太陽が見慣れた近くの山にふれそうな時刻になっていた。初夏といってもまだうっすらと寒い、日本海側の冷たい夕方の風があどけない二人を包んだ。あたりに人影はなく、目に入ってくるのは様々な種類の木々と草原だけだった。そろそろ戻ろう、とナオミは言ったが、そもそもどこから歩いてきたのかがその時にはわからなくなっていた。もやしのように細く、白かった圭吾は、目にたくさんの涙をためたままこくりとうなずいた。

「圭ちゃん、必ず先生たちを見つけるから心配しないで」とナオミは言った。圭吾は何度もうなずいていたが、すぐにしくしくと泣きはじめた。ナオミも泣きたかったが、自分よりも小さくて白い、大粒の涙を流してしゃくりあげている圭吾を見ているうちに、何があっても私が守らなければと考え直し、少女は今にもこぼれてしまいそうな涙をこらえ、繋いでいた手を再びきつく握った。「誰でもいいからとにかく大人を探そう」と圭吾に言い聞かせたナオミは、早足で山を目指して歩き出した。


「いつかおまえが困ったときは、俺がそばにいてやろうってあのとき思った」

本当に? と彼女は圭吾の目を見つめて訊いた。圭吾は深くしっかり肯くと、本当に、と繰り返し自転車から降りた。

彼女も跨がっていた自転車からそっと静かに降りると、二人はしばらく無言で立ち尽くしていた。

 圭吾は鼻をこすった。「ところで俺がお見舞いに行った時なんで面会断ったんだよ? いくらおばさんに尋ねても何も答えてくれなかったから心配したんだぞ」

「あの日は入院中で一番体調の悪い日だったんだ」


 圭吾がお見舞いに来てくれた日、ナオミは病室のベッドの上で長いあいだ仰向けになって、なんの変哲もない天井をただじっと眺めていた。

病院特有のかすかな消毒液とシーツの匂いがひとつになり、がらんとした四人部屋の病室をすっぽり覆っていた。同室の患者はナオミ以外全員六十歳を過ぎていた。白い真四角の病室には、病院独特のどんよりとした重苦しい空気が漂っていた。

看護師たちは皆無表情で、キュッキュッと乾いた靴音を立てて長い廊下を歩きまわっていた。彼女がぼんやりと天井の薄いシミを見つめていると、母の信子が病室へやってきて、いくぶん困った表情を顔に浮かべた。

「ナオミ、学校のお友達がお見舞いに来てくれたよ」 病室に入ってくるなり母が小さな声で言った。

「誰が来てくれたの?」

「幼稚園のとき仲の良かった圭吾くん」

「圭吾?」

不意を突かれたナオミは大きな声で言うとベッドの上で起き上がった。隣のベッドで横になっていた、八十歳前後のやせ細った老婆は、ナオミの方を見て弱々しい笑みを浮かべた。ナオミは慌てて頭を下げた。

「圭吾ってあの圭吾? ひとりで来たの?」

「そうよ。あの圭吾くん。そういえば高校でまた一緒になったってあなた言ってたわね」と母が言った。母の瞳に哀しみの影が一瞬よぎった。「あんなに背が高くなったのね。時間がたつのは本当に早いわ」

「私はそんなふうに思ったことはない」とナオミは早口で言った。「ここでの一日は、一分が一時間に感じる」

「確かに若いあなたにとって入院生活は退屈よね」

信子が眉を下げて小さく首を振った。ナオミは黙っていた。

「あなたたちは本当に仲が良かった。将来は結婚するんだってよく言ってたわね。どうする? 少し待っててもらう?」

「そんな子供のときの昔話をしないで」とナオミは言った。

 母の信子は自分が何か娘の気に障ることを言葉にしてしまったらしいことに気がつく。信子の顔色が少し蒼くなる。

「別に母さんは悪くない」

 信子は小さくうなずいた。

「母さん。悪いんだけど圭吾に帰ってもらうように伝えてくれる?」

 信子はこめかみに手を当てた。

「本当にそれでいいの?」

「こんな顔で会いたくないよ」とナオミは言うと、信子に向かってうっすらと微笑んだ。「昨日だったら良かったのにね」

 少ししてから信子が言った。「わかったわ。母さんからお礼を言っておくわね」

 信子のよく通る声は、普段よりずっと低く、ネジが緩んでしまったように奇妙に間延びしていた。

 母親が病室のスライドドアを開けて廊下に出るのを確認すると、ナオミは個性のない真っ白な無地のかけ布団を頭からかぶり、中で丸まって親指を噛んだ。

 幼馴染みというだけで今はさして親しくもない圭吾がわざわざ自宅から決して近くはないこの病院まで会いに来てくれたのだ。そう考えると彼女の心臓はいつもより早くどくどくと動き続けた。

 もちろんナオミは圭吾に会いたかった。しかし、今朝顔を洗ったときに鏡をのぞくと、彼女の肌の色は血の気を失い、うっすらと黄色がかっていた。彼女の二つの目は、鏡の中で一瞬凍り付いた。それはまるで自分の顔に見えなかった。

 彼女は自分がまだ生きていることを確かめるように、ほっそりとした右手の指でおでこと口元をゆっくりと撫でた。母は十七歳になったばかりの、若かった頃の自分に瓜二つの娘の顔を見て、少しのあいだ言葉を失っていた。


「まだ悪いのか?」

ナオミはその問いかけに対してすぐに返事ができなかった。二人のあいだに長い沈黙が流れた。圭吾は生真面目な顔をしたまま、ナオミの説明を辛抱強く待っている。まるで滝に打たれる修行僧のように。

「来月の初めに再入院する」としばらくしてナオミは口を開いた。「手術をするの」

立ち止まった圭吾は、しばらく呆気にとられた表情をしていた。彼はどこかに言葉を探すように黒い空を見上げた。

 やがて圭吾は頭を軽く二、三回振ってから言った。「少し歩くぞ」

 圭吾とナオミの二人は、十一月下旬の今にも冷たい雨が降り出してきそうな黒い空の下を一列に並び、無言で自転車を押しながらゆっくりと歩きはじめた。

「その手術をすればもう良くなるのか?」といくぶん語気を強めて圭吾が尋ねた。

「どうだろう。まずは開いてみないとね」

「そうか」

「それより一年生の彼女と別れたらしいじゃん。結構かわいかったのに」

「振られたんだよ」

「嘘だね。だってあの子、圭吾にべた惚れだったじゃん」

「なんで知ってるんだよ?」

「圭吾のことを狙っている子はたくさんいるから。噂で聞いた」

「それって都市伝説じゃね?」

 圭吾は立ち止まると、大きな黒い雲の浮かんでいる空を見上げてから、何度か大きく息を吸い込んだ。


「もし夜中に急に具合でも悪くなったら俺んちに来いよ。救急車呼んでもたらい回しにされるくらいなら、何時だって親父のことたたき起こすから」

 ナオミは顔を上げて、すぐ目の前にある圭吾の背中をじっと見つめた。やがて彼女は酷く息苦しい、哀しみに似た懐かしさを感じた。その大きな背中を眺めているうちに、ナオミは突然大声で叫びだしてしまいたい激しい衝動にかられた。圭吾はその場を仕切り直すように、腕を大きくぐるりとまわすと「遅くなったな」と言って腕時計に目をやり、再び自転車に跨がった。そして左手の親指でナオミに後ろへ乗るよう合図をした。ナオミは混乱したままでスカートがめくれないよう、注意しながら圭吾の後ろに跨がった。


 ステージⅢのがんだと知らされた日の夜。ナオミはなかなか眠ることができず、病院の地下にある、とっくに閉まった売店の前に備え付けられた自動販売機で、紙パックのオレンジジュースを買うと固いソファーに座った。ナオミは四方八方にほどけた思考をまとめることができずに、深い緑色に塗装された古いエレベータの扉をぼんやりと眺めていた。壁に掛けてある装飾のない白くて丸い形の時計に目をやると、針は午前二時を指していた。こんな時間にわざわざ霊安室のある薄暗い地下で時間をつぶしているのは、もちろんナオミ一人だけだった。 

 どこかから、猫の甲高い鳴き声が聞こえてきた。

 ナオミは顔をしかめてあたりを見まわしたが、大学病院の地下ホールに猫がいるわけがない。空耳かなと思った彼女はオレンジジュースにストローを差してひとくち飲んだ。そのとき再び甲高い猫の鳴き声がした。

 それは先ほどよりもずっとはっきりとナオミの耳に響いた。

 最初それは猫の泣き声だと思ったが、よく聞いてみると赤ん坊の泣き声だった。ナオミはソファーから立ち上がってがらんとした地下ホールを注意深く見まわした。するとナオミの座っていたソファーから五メートルほど離れたエレベーターの扉が『チン』というベルの音とともに左右に開いた。ゆっくりと開かれたエレベーターの中には、誰も乗っていない一台のストレッチャーだけがひっそりと置かれていた。

ストレッチャーは意思を持ち合わせたロボットのようにひとりでに動き出すと、がらがらと軋んだ音を立てながら、ゆっくりとナオミの前、わずか三十センチ先でぴたりと止まった。やがてエレベーターの扉は酷くゆっくりと閉まった。階数表示の点灯は地下で止まっていた。ナオミは息を呑んで目の前のストレッチャーを見守っていた。脇の下がひやりとした。

ナオミはそのまま五分から十分、何をするともなく、ただ黙って無人のストレッチャーを凝視していた。汗が止まらなかった。やがて彼女は強く唇を噛むと、階段を駆け上がって地下を後にした。

 病室に戻ると、ナオミは布団にくるまってがたがたと震えた。胸が苦しくて息ができなかった。あれは私をあの世へつれていくために、誰か、そう、たとえば死神――が迎えによこしたのだろうか? 彼女は布団にくるまり震えながら思った。どうして私なんだろう? ナオミはこれまでもちろんタバコを吸ったことはないし、お酒だって一口も口にしたこともない。彼女は毎朝六時には起きてたいてい十一時には眠りについた。山の多い北国の街だったので、バスは一時間に一本しかなかった。ナオミは健康のために片道四十分もかけて毎日通学した。決して運動不足でもなかったはずだ。

 ナオミは赤ん坊の泣き声と、自分の前でぴたりと止まったストレッチャーを思い浮かべた。もしできることなら今すぐにでもハンマーとスパナとのこぎりを持って地下に降り、あの大きくて重たそうな、不吉で忌々しいストレッチャーを思い切り蹴り飛ばし、車輪をもぎ取り、接続部分をめちゃくちゃにへし折って、二度と使えないよう革張りの部分をズタズタにはさみで切り裂いてやりたかった。だってそうじゃないか? 肝臓がんといったら過度の飲酒とたばこが主な原因ではないのか? 私はこれまで誰のことをいじめたこともないし、ゴミをのポイ捨てをしたこともないし、万引きだってしもちろんたこともない。両親の言いつけも、たとえそれが多少理不尽な八つ当たりだとわかっていても、なるべくきちんと守ってきた。妹に一ミリの興味もなく、用事を頼むときにしか話しかけてこないずる賢い兄とだってそれなりにうまく折り合いをつけてきた。中学三年になって隣の中学校に通う圭吾の希望する高校名を共通の友人に頼んで突き止めた。あの日からナオミは生まれて初めて真剣に勉強へ取り組んだ。そうしてやっと圭吾と再会できた。いつか近いうちに、勇気を出して圭吾を誘い、思い出の動物園に行って気持ちを打ち明けようとやっと決心した矢先だったのに。ねえ、どうして? この際なんの神様だってかまわない。あなたはいったいどこにいるの? 私が何をしたっていうの? 私はまだ十七歳になったばかりでキスすらしたことがないの。いくらなんでもこんなのってあまりにも酷い仕打ちなんじゃない? ナオミはその日一睡もできずに、夜が明けていくのを息を潜めて待ち続けた。

「ごめんね圭吾」とナオミは声を出さずに唇を動かした。崖の下から吹き上げてくる冷たい風が、髪をなびかせ彼女の顔にあたる。

 次の急な下り坂に差し掛かったら、私は立ち上がって圭吾の大きな背中にしがみつき、全ての体重を斜面にかけ、自転車ごとガードレールの遥か下にある、奈落の底まで落ちてしまおうとナオミは思った。そうすればきっと上手くいくはずのない手術や、苦しくて髪が抜け、肌がぼろぼろになるという悪い噂しか聞こえてこない抗がん剤を受けずにすむはずだ。圭吾は私と一緒に、おそらく誰も見たことのない、どこか知らない遠い場所についてきてくれるだろうか? それともそこはただの無なのだろうか? 

「おい大丈夫か?」と圭吾が前方を向いたまま怒鳴った。ナオミが黙っていると、圭吾は緩やかな下り坂で急ブレーキをかけ自転車を止めると、急いで彼女に振り返った。「具合でも悪いのか?」

 ナオミはうつむいたまま首を振った。馬鹿みたい。これじゃあただのメンヘラ女だな、と心からうんざり思った。

「体調が悪くなくてもいいんだ。つらいときとか生きるのがしんどいときとかさ、まあなんだっていいや。口にしたってなんの解決にもならないかもしれないけど、俺でよかったら頭の中の黒いぐちゃぐちゃしたもん全部吐いたっていいんだぞ」と圭吾はうつむいているナオミを見下ろしながら穏やかな声で言った。「風邪と同じでさ、人にうつすと軽くなることってあるから」

「人にうつしたって風邪は治らない」とナオミはうつむいたまま言い返した。「あんた本当に医者の息子なの?」 

なかなか発進しない自転車の後ろで、彼女が不思議に思って顔を上げると、ナオミと圭吾は正面から向き合う格好になった。彼は制服のポケットから小さな包み紙を取り出すと、ん、と言ってその包み紙をナオミに無理矢理押しやるように差し出した。なに? とナオミは尋ねた。

「缶バッチのお返し」と圭吾は無愛想に答えた。

 ナオミは黙って圭吾からその包み紙を受け取った。中を開いてみると小さい真っ白な御守りと、ティッシュに包まれた四つ葉のクローバーが出てきた。御守りにはどこかの神社の名前が刺繍してあった。ナオミは驚いてその御守りとクローバーを見つめていると「嘘だよ」と圭吾が小さな声で言った。

「これをおまえに直接渡そうと思ってあの日お見舞いに行ったんだ」と圭吾は言った。圭吾のその瞳は、まだ誰にも発見されていない深い湖のように澄んでいた。

「知る人ぞ知る有名な神社で、毎月一日にだけしか数量限定販売していないレアな御守りなんだ。大抵のどんな病気も吹き飛ばすって死んだじいちゃんが言ってた。先着順だから暗いうちに親父に車出してもらって、三時間も並んで買ったんだぞ」

「そんな……」とナオミは言った。「私のために?」

「そうだ。おまえは昔強かっただろ。元気になったらまた知らない場所に冒険に行くぞ」と圭吾は彼女に背中を向けて大きな声で言った。「飛ばすから振り落とされないようしっかりと掴んでいろよ」


  下り坂の強い風が彼女の頬にあたり、顔に冷たい水滴の感触がした。気がつくと、ナオミの両目からは二筋の涙がこぼれていた。彼女は自転車の後ろで肩を震わせ、圭吾の体を両手できつくしっかりと掴んだまま、彼に気がつかれぬよう、長いこと声をあげずに泣き続けた。

 結局のところ、私は圭吾に思いを告げる気なんて最初からこれっぽっちもなかったのだ、とナオミはそのとき思い当たった。私は彼に気持ちを伝え、それでいったいどうしたかったのだろう? 遠くない未来おそらくこの世界から消えていく幼馴染の少女から、ずっと好きだったと告白された少年に、私はなんと答えてもらいたかったのだろう?  同情してもらいたかった? 哀れんでもらいたかった? 

 ブレザーの胸ポケットに入れた白い御守りからは、懐かしい不思議な暖かさが伝わってきた。それは彼女のことを小さいながらしっかり守っているようだった。ナオミは体を大きくそらせ、暗い空を見上げた。目を細めて見つめていると、通り過ぎていった雲の合間から、青白い月と瞬いている星たちが、冷たい明かりをともしながら姿を現した。その光があまりにも眩しくて彼女は何度か瞬きをした。


 それはどことなく、希望の光のように見えなくもなかった。

 

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