第十六話 椎奈の世界
「おい、椎奈、今帰り?」
家の前で声をかけられた。
「あ、光輝。うん、そう」
その場でしゃがみ込んで、光輝が連れていた犬の頭を撫でてやる。がしがし、わしゃわしゃ。
そぼろー、お前久しぶりだなー、と。
この残念な名前の茶色のトイプードルは、そぼろがたくさんついているように見えるからそぼろ、という名前になったらしい。なんでそうなった、ふわふわしてて可愛いのに、不憫だな。
「今日兄ちゃん、駅前でライブするって。来ないの?最近来ないから、寂しがってるぞ」
「んー、今日はいいかな」
失恋したし。ぼそっと言う私の声と、光輝の「失恋したから?」と聞く声が被った。肩をこぶしで叩きながら抗議する。
「もー、知ってたのかよ。人から言われるとなんか腹立つ」
光輝の兄で、私の想い人、流星くんは、大学生でたまに駅前で路上ライブをしている。頼りなくて可愛い見た目なのに、ギター一本持ってかっこよく寂しげに歌う姿に恋をした。駅前近くのコンビニに寄るという口実を作り、何度も流星くんのライブを見に行った。そのうち私と同い年の弟光輝とも話すようになった。しかし三週間ほど前、流星くんと仲良く話す女性を見かけて、関係を聞くとその人は流星くんの彼女で、私はあっさり失恋してしまった。彼女がいることを知ってから、駅前へあまり行かなくなった。流星くんと彼女さんが仲良くしているのを見るのが辛いというのもあるが、まだ流星くんを好きかもしれない私が、幸せそうな二人の所に行くのはいけない気がしたのだ。
「ふーん、まぁ気が向いたら来たら」
光輝にはこの乙女心は分かるまい。そぼろの頭をわしゃわしゃしながら睨む。
「…流星くんに頑張ってって伝えといて」
「おう」
「お前、夏の大会出るだろ」
「うん!ばりばり練習してるよ。光輝も出るでしょ?絶対負けないからね」
「ばか、男子と女子じゃ違うだろ」
光輝がそぼろを連れて、手を振って去ろうとする。私も手を振り返して光輝の後ろ姿を見送った。
家の中に入ると、醤油のいい匂いがした。お、これはもしかして…
「お父さん、今日肉じゃが?」
「おかえり。うん、もう、食べられるよ」
私は台所に立つ父にお礼を言って、仏壇へ向かった。お母さんに手を合わせる。ただいま、今日も一日見守ってくれてありがとうございます、と。
食卓に座り二人揃って「いただきます」と手を合わせる。お父さんはいただきますの時、食卓の端に置いてあるお母さんの写真を必ず見る。写真のお母さんはいつも笑顔だ。
お母さんは病院の匂いがする人だった。元々体が弱くて、私が生まれてからすぐ入院したらしい。私が小学校に入る前にいなくなってしまったから、私はお母さんの事をほとんど覚えていない。学校の友達は、お母さんがいないというとかわいそう、と言ったけれど、いないことが当たり前になっていて、不幸でもなんでもなかった。
父が珍しく作る肉じゃがの味は薄く、食材に味がしみ込んでいるとは言い難い。お母さんが作る料理だともっとおいしいのかなと思ったりするけれども。まぁ、私が料理練習すればいいだけの話だし。お父さんととは仲いいし、話すのも楽しいし、特に問題はない。幸い友達は多いから、父に言えないことも相談できる。といっても劇的に困っていることもない。
今は陸上が楽しい。私は走ることが好きだ。走っている間は、ドキドキもモヤモヤも全部風に預けて忘れることが出来る。私が所属している陸上部は強豪なので、自分の記録が思うように伸びない、早い人と比べてしまうなど、日々焦りを抱えている人も多い。特に夏の大会が近くなってくると、みんなピリピリしてくる。私はタイムはあんまり気にせずに気持ちよく走れたらそれでいいと思っている。中学の時は特に、競技として、タイムを縮めようと努力している人を見ると申し訳ない気持ちになっていた。でも今は走りたいからというだけでただ気持ちよく走るのも良いと思うようになった。そう思うようになったのは中学最後の陸上競技大会で、他校の男子生徒に「あんた、気持ちよさそうに走るね」と言われてからだ。その大会では、期待されていたのに思ったより記録が伸びなくて、部の皆に申し訳なさを感じていた。部にとっていい成績を残せなかったのに、自分は楽しかった。だからもやもやしていた。その時にそんな言葉をもらえて、救われた。私、楽しくていいんだって。その人のことは、名前も出身中学も覚えていないが、その人の言葉だけは、今でも胸に残っている。
あの言葉がなかったら私は今楽しく陸上を続けていられなかったかもしれない。
中学の頃より純粋に走ることが楽しいと思える今、大好きな友達も家族もいるし、とても幸せだと思える。
椎奈はその夜、夢を見た。
もし、あの時こうだったら、訪れていたかもしれない、未来の話。
私は大学生になっていて、流星くんと並んで歩いていた。私は流星くんと恋人同士になり、頻繁に会っていた。でもその夢には光輝もそぼろも出てこなかった。
家に帰るとお母さんがいて、夕飯はロールキャベツで、すごくおいしそうなのに家に入った時にするはずのトマトのいい匂いがしなかった。夕飯を食べながら恋愛相談をした。お父さんは話を聞きながら気まずそうにしていた。
そして、私は陸上をやめていた。中学三年の最後の陸上競技大会で、記録が伸びなくて、自分は楽しかったけど、部の成績に貢献できなくて、悶々とした気持ちを抱えて引退して、高校では陸上部に入部する気が起きなかったらしい。
目覚めて、安堵した。いくら幸せでも、走り続けていない自分は嫌だな。あの大会の時に言ってもらえた言葉がなかったことになっているのは、悲しすぎる。
それに、お母さんがいなくても、彼氏がいなくても、今の私はとっても幸せなのだ。
きっと、夢の中の私も幸せなんだと思う。私はきっとこれから何かを無くしたり、失敗したりをたくさん繰り返す。でもその度に何かと出会って見つけてを繰り返して、楽しく生きていけるのだろう。私が絶対そうする。何か悲しいことがあっても、楽しいことを見つけて、楽しい人生にしていく。私にはそれが出来る。今だって、流星くんに失恋しても、私には優しいお父さんがいるし、たくさん友達がいるし、光輝と馬鹿話が出来るし、明日も部活で走れるし、楽しいことばっかりだ。そうだ、流星くんにちゃんと好きって伝えてない。今度駅前で会ったら伝えよう。玉砕して、ちゃんと終わりにしよう。
中学の時転校していったあのお姫様みたいに綺麗な友達も、心に大きな傷を負ったはずなのに、あの日笑顔だったのだから。
私達は、皆と悲しみを乗り越えていく事が出来るよ。
一人の女友達の顔を思い浮かべる。私今すごく楽しいよ。だから結ちゃん。結ちゃんにあの時期、何があったか分からないけど、話してほしい。結ちゃんの周りには、たくさん結ちゃんを見てくれる人がいるよ。このまま楽しくしていけるなら、それでもきっといいんだろう。けれど、結ちゃんが嫌な思いを抱えていかなきゃいけないなら、話を聞くことで、私達が出来ることもあるかもしれない。中学三年の三月、心配していた。高校で会ったら、あの時の事をすっかり忘れていて、もっと心配した。結ちゃんの中で、あの出来事はきっと辛すぎて、なかったことにしてしまったのかな。無理してほしくないけど、話せる時が来たら、結ちゃんの言葉で話してほしいな。あの子の笑顔を思い浮かべる。