第十話 美実の世界②
ゴミ出しをしに外を出ると朝日が眩しくてつい目を細めた。青いビニールシートを持ち上げて燃えるゴミを置こうとすると、横から手が伸びてきてブルーシートを持ってくれた。
「あ、おはよう、雪」
「おはよう。樹、もう起きた?」
「いや、まだやけど」
「起こして来るよ」
彼の細い手足や白いを通り越して青白く病弱そうに見える肌、家に入っていく様子を見送った。
随分頼りがいがあるようになった。初めて見た時は綺麗で色素の薄い容姿と相まって人形の様だった。遠くからお店の方を見ていた。話しかけてもほとんど応答がなく、ただ人形の様に突っ立っていた。伸びた前髪のせいで表情が見えなかった。細身で性別がない天使のようだった。
彼を見て思い当たることがあった。女の子か男の子か分からない。天使のように綺麗で無機質。
あの女の人が言ってた少年ではないか。よく店に来てくれた綺麗なお姉さん。綺麗なのにどこか悲しそうな笑みを浮かべていた人。
あの日「私を止めて」と言った。話を聞こうとすると、私悪い人だからと言った。
お姉さん何か悪いことしたの?当時小学生だった妹が聞くと笑って、たくさん、と言った。特にあの子にはかわいそうなことしちゃったな、と。性別のない天使のように綺麗な子。
もし、ここに来たら助けてあげてくれるかな、ごめんね、そういって店を去った。それから、ぱったりと来なくなった。
彼は、お姉さんが言った、可哀想なことをしたあの子、なのか。お姉さんは、止めて、と言った。あの子を助けてあげて、と言った。それからずっとそれらの言葉が心に残っていて、しばらくして従妹から事件の話を聞いた。あのお姉さんは捕まったらしい。それから、お姉さんの言ったことは私の中で約束になった。一番目の約束は守れなかった。せめて、二番目の約束だけは守るんだ。これ以上、悲しい思いをする人がいないように。
彼の腕を引っ張って無理矢理店の中へ入れた。
「なぁ、あんた名前は?」
「うちここで一人で店番やってるねん。あんたも手伝ってぇや」
店の中に入れて椅子に座らせてからも、ぼーっとしていて私の言うことが聞こえているような聞こえていないような感じだった。
ふと彼が目線を上げた。目線の先には、黒砂糖と小麦粉を練って棒状にしたお菓子(黒棒)が入った瓶があった。あのお姉さんがよく買いに来てくれたお菓子だ。
「なぁ、食べてみる?」
黒棒を口に入れた彼は眉をひそめて「甘っ」と言った。
「愛さん、よくこんなの食べてたな」
ぼそっとひとり言を言った。
あ、やっぱりこの人、あの人が言ってた人なんだ。あの女の人は、愛さんっていうんや。うち何にも知らんかったな。
それから、その透き通るように白い肌をしていて今にも消えてしまいそうなその人が、その姿にふさわしい雪という名前であることを知った。
愛さんとの約束を守りたかった。
同時に雪のことをもっと知りたくなった。
雪が店の近くにいる時は必ず店の中へ引っ張っていった。
自分からは何も話さず動こうとしなかった雪が、次第に話をしてくれるようになった。
自分から店の中に入って来てくれるようになった。弟や妹に懐かれ、そのうち毎日店に、家にも来てくれて手伝ってくれるようになった。
自分のことも話してくれるようになって、だんだん彼の事を知っていった。
雪には定期的に愛さんから手紙が届くらしい。雪は愛さんの話をするときだけは表情が違った。優しそうな、でもとても辛そうな顔をする。愛さんはきっと雪の大切な人だった。従妹から事件の話を聞く限り、雪は利用されたらしかった。とても大切な人に裏切られたから、あんなにつらい顔をするんだ。でも同時にあんな優しい顔をするのは、きっと今でも大切だからだろう。私は詳しいことは分からないけれど、二人はきっと会ったら分かり合える。だから、その間はうちが少しでも雪の辛さを助けてあげるんや。そう思って、できるだけ一緒にいた。賑やかなうちにいたら、気がまぎれるんじゃないか。学校にも行けるようになったらいいなって。
ある日、急に家に来なくなった。家に来なくなる日の前日、「最近手紙が来ない」と呟いた。きっとそれが原因なのだろう。雪を元気づけて家から出さなきゃ。そう思って、毎日雪が暮らす一人暮らしのアパートの部屋へ行った。雪は何度行っても出てこなかった。
だんだん足が遠のいていった。雪は手紙が来ないだけで、元の雪に戻ってしまう。私が今までしてきたことは、雪にとってあまり影響を与えていなかったんじゃないか。何をしても、雪の心は愛さんを中心に回っていて、私の事なんかこれっぱちも思っていない。雪の中に私はいないんだ。
そう思うと、雪のアパートに行けなくなった。私はお姉さんの約束を守りたくて、雪を助けたくて動いていたはずなのに、なんて自己中心的なんだろう。
でも雪を助ける使命がある。自分じゃどうしようもなくて、椎奈や結の力を借りようと思ったけど、やっぱりこれは自分の問題だ。雪の所に行かなきゃ。
結達に話をしたその日、雪のアパートに行った。雪は雪の部屋の前にいた。手紙を持っていた。
「愛さん、もうすぐ帰って来るんだって」
安心したように笑った。
その笑顔を見てかなわない、と思った。何がかなわないんだ、一体誰に。だってうちは、雪の助けたいだけ、愛さんの約束を守りたかっただけなのに。愛さんが戻ってくれば、私の役目が終わる。約束を守ったことになる。私にとっても、嬉しいことのはずなのに。
でも、もう雪に会えなくなるかもしれない。だって雪はずっと愛さんを想ってきたんだ。うちの事なんて、もう見向きもしてくれなくなる。
そうか、私、雪の事が好きだったんだ。
なんて自分勝手なんだ。もしうちがいなかったら。雪の世界に私がいなかったら。うちの世界に雪がいなかったら。こんな感情芽生えなかったのに。雪は、愛さんと幸せになる。その世界にうちはいらない。二人の幸せを純粋に祝えない自分は嫌だ。もしうちと雪が出会ってなかったら―
「もう、終わりにするんだ」
嫌、
雪の居ない世界は、嫌。雪を好きになった自分は消さない。
このまま雪との関係を、雪と過ごすようになったこの日常を
「終わりになんてせぇへん」