秘められた関係

作者：麻弥

自サイトよりの転載。

「その他に狂気のキス」から派生したお話です。

R18の短編集よりどうぞ。

https://novel18.syosetu.com/xs3906a/

　　秘められた関係

　彼は、一回りも年上で、私の先生だ。

　男爵令嬢の私と、芸事の師。

　身分が違うのは傍目からも明らかだった。

　見た目も年の離れた兄妹にしか見えず、私が彼を密かに想っていることなど

　誰も想像すらしていないだろう。家族も、当の本人も。

　いつも、優しく、臆病で弱いのに

　それでも、私を守ろうとしてくれる。

　まさしく妹を可愛がる兄のように。

　繊細で、美しい手は、頭を撫でてくれるだけ。

　周りから思われている通りの関係を示そうとする。

　だから、私も彼好みに、妹を演じて見せているのだ。

　大好きな兄を慕う、穢れのない純真な妹。

　小憎らしくて愛しい貴方。

　私がどれだけ、あなたを好いているかも知らないでしょうに。

　妹のように、柔らかく優しく包まれる日々は、

　歯がゆいくらいだった。

「君がそんな間違いをするなんて。今日はどこか具合でも悪いのかい? 」

「いいえ」

　心配そうに見てくる彼を恨めしく見つめ返す。

　不協和音を奏でる弦が耳障りだけれど、集中すらできないのだ。

　目の前のこの人を思う気持ちが恋に変わったのはいつからだろう。

「もう、今日はここまでにしよう」

　放たれた言葉が信じられず、頭を上げる。

　合わせた視線。

　絡み合う眼差しで先生は、淡く微笑むばかりだった。

「疲れているんだろう。昨日も縁談相手と……」

「何よ、私の気持ちも知らないで! 」

　激しく言い募り立ち上がる。彼は私の激情に驚いていた。

「私は、日向の家に生まれた以上、自分の務めは果たすつもりでいたわ。

　女学校でもそつなく皆の手本になるように目立ちすぎず、

　それでも、皆から一目置かれる存在でいることが当たり前で。

　お茶にお花に、お琴に、お裁縫、

　お家に帰っても、先生に教わって毎日同じことの繰り返し。

　嫌じゃなかったのよ、それでもね。

　私が生きている意味、存在する価値って何かしらって、

　考えたら、家のために、必死に自分を磨いてお嫁に行って、

　旦那様に尽くし、生まれた子の為に良き母になること。

　それしか、ないの。

　私じゃなくても皆そうだわ……

　抗っては生きられないのだもの」

　ぐ、拳を握り締める。

　爪があたって皮膚から血が滲んだ。

　痛々しい物でも見るような目を向けていた彼が、ふと立ち上がり目の前まで来る。

　そっと、取られた手に、心臓が、とくんと鳴った。

「っ……」

「駄目だよ。大切にしなければ」

　ポケットから取り出したハンカチーフをくるくると手のひらに巻く。

　優しすぎる仕草。

　涙が、瞳の奥から溢れてくる。

「どうして、優しくしてくれるの。

　世話になっている家の娘だから?

　芸事を教えてくれるだけの先生なんかに同情されても、みじめになるだけよ」

「違うって言ったら? 」

　頬を撫で、包み込んだ手のひらは、驚くほど熱かった。

　ふるふると首を振る。

　今聞いた言葉の意味を考えて、彼に問いを返すために。

「どういう意味なの」

「……心底惚れているんだよ、まどかに。こんなおじさんから

　想われたら気持ち悪いかもしれないけれど」

　切羽詰ったような、声音。強く、抱きしめられて、息をつめる。

　夢、それとも、現。

　しばらく、それを知覚できなくて

　呆然と腕の中に捕らえられたままだった。

　彼の息遣いを、肌に触れるほどの距離で感じたのは初めて。

　気がついたのは、顎を掴まれた時。

　影が近づく。頬に息が触れる。

　その瞬間をただひたすら待ち望んでいた私は、

　生まれてはじめてのくちづけを永遠にも長いときに感じた。

「……お兄様」

「先生じゃないのか」

「先生なんて呼びたくないのよ、

　だってあなたは幼い頃、遊んで下さったお兄様で、

　私の大切な殿方なんですもの。

　世界で一番愛しているお方に距離を感じるのは嫌だわ」

　ぎゅ、と抱きつく。

　彼の背中も腕も思ったより、

　ずっと広くて、たくましくて、自分とは違うと感じられた。

　まさしく男の人。

「おじさんって……ふふ。

　私はそんなこと思ったこともないのに。

　大人の男性からしたら私こそ子供でしょう」

「そう、思えたら楽だったのにね。

　いつ頃からか、僕にとって君は女になってたよ」

　胸の中、甘えるように頬を寄せて、鼓動を確かめる。

　同じくらい高鳴っているのが不思議。

「ね、口づけて。大人の女の人にするみたいに」

　眼鏡を外して、着物の袂（たもと）に仕舞う。

　その様に見惚れている隙に肩を抱かれた。

　躊躇いなんて、感じさせない仕草で、唇がこじ開けられる。

　すっと押し入ってきた舌が、熱く絡んでくる。

　貪欲な動きに支配されている内に、自然と口づけに応じていた。

　湿った音が響く。

　粘膜で混ざり合う水が、熱い。

　激しくお互いの唇をむさぼり合って、ようやく

　口づけが終わる。吐息が宙ではじけていた。

「火をつけるな。止まれなくなるだろう」

「……お兄様のものになれるなら、どうなったって構わない」

「馬鹿な事を」

　挑発に、彼がひるんだ気配を見せて体を離した。

　私は唇をとがらせ、不満を訴える。

「なら……私を連れて逃げて、お兄様」

　早く、一刻も早く。

　この贅沢な箱庭から逃れたかった。

「そうしたら、小さな躊躇（ためら）いなんて、消えてなくなるわ」

　じわ、とまた涙が滲んでくる。

　彼の手を握りしめると汗ばんでいて緊張が伝わってきた。

　震える両手が背中に回る。

「後で、悔やんでも二度と手を離してやらないぞ」

　再度抱きすくめられた腕の中で、恍惚（こうこつ）の吐息をついた。

　約束をするみたいに、口づけが落ちてきた。

　甘く、息がかすれる。

「悔やむくらいなら、最初から好きにならないわ」

「同じ気持ちだよ」

　頭を抱きしめられて、きゅんと胸がうずいた。

「行こう」

　大きな手のひらが、私の手に重なる。

　この日、箱庭の世界を飛び出した。

　駆け落ちをまさか、この私がすることになるとは

　思いもしていなかったが、

　胸に満ち足りた感情しかなくて、今しか見えなかった。

　この先の未来が、茨の道だとしても、戻るつもりなど最早（もはや）なかった。

　想いを分かちあい、先が見えないとわかりつつ

　手を取り合い、逃げてから、しばらくの時が流れていた。

　いつも、ふいに思うことがある。

　何故、君がいとおしいのだろう。

　君を妹の様に感じていたあの美しい日々を

　壊してまで、刹那を選んだのは、何故だろう。

　……ただ、愛しているからに過ぎない。

「ねえ、お兄さま? 」

「何だい、まどか」

見上げてくる瞳はきらきらと輝いていて、

邪気のなさに時折恐れさえ抱く。

純粋で過激で、俺を、刺し貫く意志を持ったその瞳。

前を歩いていたまどかはくるりと振り返って、

その愛らしい唇から出てくるとは思えぬことを口にした。

「桜って人の生き血を吸って色づくのよね。

あの木の下には死体が埋まってるのだとしたら……恐ろしいわね」

「そんなことを言う君の方がよほど恐ろしいよ」

「そう? 」

　おどけで首をかしげて、腕を取って引っ張る。

「お兄さま……って呼ぶのそろそろやめてくれないか」

「いけないことをしている気になるから……じゃないわね。

　そんな理性的で秩序を守る方じゃないもの」

「人聞きが悪いな」

「どうして急にそんなことを仰るの?

　他人の目から隠れる為でもあるでしょう」

　傍から見ても歳が離れている二人が、

　師弟関係で、必要以上に近い距離にいるのは違和感があるが、

　兄妹なら、仲がよく微笑ましいで済ませられるからだ。

「君は俺の愛しい人。恋人だからだよ」

　説明づけるなら、屹度（きっと）そんな理由。

　兄妹はずっと離れなくて済むのだろう。

　本当の兄妹なら。

　だが、俺たちは違う。

「……総一朗さん? 」

　抱きついてきた勢いに、体がかしぐ。

　小さな体を受け止めて抱きよせる。

　胸元に寄せられた頬から伝わる温度。

　どこからか、梔子が香った。

　甘く、悪戯な声が鼓動に直接響く。

「まどか」

「私がお兄さまって呼びたいんだけど駄目かしら? 」

　腕が巻きつけられている。

　横を向いているまどかの表情はよく見えない。

　朱色のりぼんが風に揺れていた。

「いいよ」

「……よかった」

　君が望むなら俺の望みなど容易（たやす）く掻き消える。

　ほう、とついた吐息が、胸を熱くした。

「私、貴方が血の繋がったお兄さま

　だったとしても……恋をしていたわ」

「危ないことを言うんだね……でも俺も同じ気持ちだよ」

　頭を引き寄せる。黒髪を梳き、撫でながら笑った。

　お互いがお互いである限り、

　俺たちが恋をしてしまうのは必然だ。

　解けない鎖を絡め合って、茨の道を突き進む。

　明日の光なんて、いつ見えると知れなくとも。

　あの日手を取り合い逃げてから、一年と少し、

　未（ま）だ私達は結ばれてはいなかった。

　ようやくたどり着いた隠れ家は、二人で暮らすには手狭だったけれど、

　逆に二人きりを意識してしまう。

　一人でも大変なのに貧しい暮らしの中、

　私を養う彼は、とてつもなく優しかった。

　触れてくれないことを除けば何の不満もない。

　今宵も視界を染め上げる彼は、淫靡な美しさを秘めている。

　彼は私を壊れ物のように扱う。

　どうしようもなく泣きたくて仕方ない。

　指先を絡めて、頬を寄せ合って、肩に凭れる。

　あの世界から連れ出してくれた、久代総一朗は、

　私をとても大事にしてくれる。

　潤んだ眼差しで見上げれば、力をこめないように抱き寄せてくれた。

「お兄様……」

　全部貴方のものにして欲しい。

　そう口にできたら、この苦しさからは一時的に解放されるだろうが、

　拒絶された時の痛みは、この胸を引き裂く。確信できているからこそ

　口にすることは躊躇われた。

　駆け落ちという背徳的な甘美に、

　酔いしれていられたのは、最初だけだった。

　二人だけの世界で、心は頼りなく揺れるばかり。

　心だけじゃなくて真実の意味で結ばれたい。

　先の見えない状況で、もっと確かなものが欲しい。

　あの時脅して見せただけで、本当は女として

　見ることはできないのかもしれない。

　初心（うぶ）な令嬢は怖がって逃げると思ったのだ。

　馬鹿みたいよ、ねえ？

　私は、お綺麗なだけのお人形じゃないわ。

「まどか……そんな瞳で見ては駄目だ」

「お兄様こそ、とてもいやらしくてよ」

　銀縁の眼鏡を、すっと奪ったら裸眼の瞳で見つめられた。

　眇（すが）めて、こちらを捉えるから、心臓がはねる。

「私のことを本当に、愛してくれている?

　流されて、一緒に来たことを後悔しているのではないの」

　鼻声になっているのを自覚する。泣くなんて、嫌だ。

「愛しているよ。後悔なんてしていない」

　屹然（きつぜん）と、口にしたお兄様の

　言葉に嘘はないようだから、もうためらわないことにした。

「抱いて……」

「……まどか」

「こんなことを言う私を汚らわしいって思う? 」

「まさか」

　ぎゅっ、と抱き寄せられ髪を梳かれる。

　後悔していないなら、その先だって想定していたはずだ。

　手を握り締める。　

　熱く火照り湿った骨ばった手は、何かの感情がもたらした物だ。

　さっさと、ゆだねるべきだ。

「今すぐ貴方のお嫁さんにして」

　はあ、と深い息をつく気配。

「まどか……俺はね、結婚してからでもいいと思ったんだ」

　結ばれる意味でなら、いつだってできるでしょう。

「待ってたら、いつ抱いてもらえるか分からない」

　とくん。鼓動が、激しくなる。

　大胆になっている自分は、女そのものの顔で彼の前にいるのだろう。

「積極的過ぎるな、君は」

「駄目? 」

「まったく……そうやって俺を翻弄（ほんろう）するから。怖い」

　背中でリボンが解（ほど）かれる。

　ぐい、と思いのほか強い力で腕を引かれて横たえられた。

　否、押し倒されたというほうが正しい。

「俺がどれだけ堪えていたと思うんだ」

　頬を撫で、首筋を撫でる熱い手。

　ああ、やはり彼は、欲情していた。

　上唇を人差し指で押さえられ、何も言葉を発せられなくなる。

「君を滅茶苦茶に壊してしまうかもしれないよ」

　頬を染めて、頷く。

　とびきり甘く聞こえた声に、体の奥が疼く。

　背中を、強く抱きしめられ、こちらも彼の広い背中に腕を伸ばした。

「好きだよ。愛しくて死にそうだ」

　耳元で囁（ささや）かれて、背中を人差し指で撫でられる。

　軽く跳ねた体を彼が押さえつけた。

　目を瞑った。

　貴方のことは、心の中で想っている。

　体中で感じているから、視界で掴めなくても十分。

　深い接吻（くちづけ）を受けたのと同時に体の奥底が満たされていた。

　文字通り壊されるくらい、滅茶苦茶に

　愛されて、ため息をついた。

　充足感によるもの。

　肌に咲いた華、指の痕。

　貴方が、くれた証。

　どちらともなく狂おしく叫んでいた。

　白く淡い光が、瞬いて意識が、溶けた。

　ぐっ、と彼の手を掴んで爪を立てながら。

　けだるい空気の中、彼の背中を指先でなぞった。

「どこまでも、許してあげる。貴方だけよ」

「君は恐ろしいほど可愛いんだな」

「あら。嬉しい」

　しがみついたら、頭を抱え込まれる。

　もう、離さないでね。