あやかしかしや
りん、と扉の鈴が鳴り、貸し屋の店主が帳簿から顔を上げた。
そしてそこに立つ男を視界に捉え、にやりと口角をあげる。
来客だ。
かといって、いらっしゃい、等と愛想を振りまく仲でもない。
「六の旦那、あんたが来るってことはもう日が暮れたのかい?」
「バカ言うな、まだ昼過ぎだ」
うんざりとした返答に、店主が苦笑を浮かべて肩を竦めた。
もちろん冗談である。
今がまだ昼過ぎであることなど、確認するまでもなく外からの光で分かるし、昼食を終えたばかりの腹が「夕飯にまだ早い」と訴えているのだ。
ただ、休日はもっぱら寝て過ごし、たまにふらと現れても夕刻過ぎ、そんな出不精なこの男をからかって言ってやっただけのこと。
双方それは承知の上で、店主がクツクツと笑みをこぼすと男はばつが悪そうに頬を掻いた。
そうして、男がコホンと咳払いを一つして、店主の机に肘を置いた。
さて本題だ、とでも言いたげなその表情に、それでも店主は苦笑を崩さない。
「それでだな貸し屋。いつもの借りたいんだが」
「そうだろうと思ったよ。でも六の旦那、あんたツケが溜まってるけど」
「一応は持ってきた」
ドン!……とはいかず、チャリンチャリンと軽い音をたて、店主の机に袋が置かれる。
見たところそう量もなく、どれと中身を確認したところで驚くほどの金額でもない。所謂、端金というやつだ。
これは到底ツケには足らない……と店主が視線で訴えれば、それを受けた男が再びばつが悪そうに頬を掻いた。
男の視線が泳ぐ。飄々とした態度を取り繕うとするその様は、男の不器用さもあって随分と白々しい。
察してくれ、と、そういうことなのだろう。
はぁ……と店主が深い溜息をついた。それでも、金の入った袋を受け取り手早く数えて帳簿につけるあたり、交渉は成立である。
「それじゃこれで四度前のツケを支払ったってことで、それで今回もツケかい」
「そういうこった」
「胸を張って言うことじゃない。でもまぁ、夕刻までにはあんたの所に行かせるよ」
「おう、すまんな。あぁそうだ、いつもの子で頼む」
「うちはそういう店じゃないんだけどね」
ふんと不満そうに断言する店主に、対して思惑通りに商談が成立した男は楽しそうに笑いながら
「それじゃよろしく」
と片手を上げて店を出ていった。
りん、と軽やかに、扉の鈴が客の帰りを店中に響きわたらせた。
男の名前は六。仕事は火消し、住まいは長屋。
そこそこ見目の良い顔に、体が資本の仕事ゆえ鍛えられた体つき。おまけに女に弱く……ではなく女に優しいときて、これでもてないわけがない。
だがどういうわけか女運がめっぽう悪く、悪い女に騙されること二度、金目的で乗り換えられること三度、その果てに「男は仕事に生きてなんぼだ」と吹っ切れてしまい今に至る。
ゆえに男の住まいに女っ気は無く、女を連れ込まないから散らかっていく一方。飯食って酒飲んで寝れればいい、という、まさにズボラを極めた部屋に成り下がっていた。
悲しいかな、やもめ暮らし。
到底、人がちょいと手を貸したところでどうにかなる代物ではない。
……あくまで、人が、だが。
「そういうわけだから、また六の旦那から依頼がきたよ」
「六さん!」
「六の旦那、うちの子を借りればいいからと部屋の掃除を怠ってるな……」
「六さんちで仕事!」
「まったく、縁談のあるうちに嫁さんでも貰えばいいのに」
「六さんち行く!」
「しっかり者……とはいかずとも、せめて旦那の尻を蹴っ飛ばして掃除させるくらいの嫁さんを」
「六さんち行ってきます!」
「はい、ちょっと待とうか」
ぶつぶつと文句を呟く店主の隣で、一人の少女が嬉しそうに飛び回り、果てには話も聞かずに店から飛び出そうとした。
慌ててその首根っこを掴み引っ張り戻す。
「いいかい垢舐め、勝手知ったる常連とは言え、あくまで六の旦那はお客さんなんであって」
「六さんの家、好きー」
「はいはい、それは良いことなんだけどね。でも六の旦那は人間で、あんたは」
「いってきまーす!」
「…………はい、いってらっしゃい」
これは無理だ、と判断した店主が、意気揚々と店を出ていく少女に手を振った。
垢舐め、と、そう呼ばれたこの少女。
楽しそうに歌を歌いながら長屋を目指す姿こそ愛くるしい少女そのものだが、その正体は少女にあらず。
言ってしまえば妖怪だ。
それも、垢舐めという妖怪。
その名の通り、住まいの風呂場や台所に現れて、風呂桶や釜の垢を舐めとるという妖怪である。まぁ熊だってハチミツを舐めるし、虫だって樹木の樹液を吸うわけで、そう考えれば垢舐めが垢を舐めるのも道理がいく……かは微妙であるが、そういう妖怪である。
そんな妖怪垢舐めが、なぜ一介の火消しの部屋に行くのかと言えば
「こんにちはー、あやかしかしやから来ましたー!」
「いつも悪いね垢舐めちゃん」
「きゃー、六さんち汚い! 頑張ってお掃除するね!」
というわけだ。
つまり、掃除。
男一人で暮らす六に掃除能力が無いのは前述の通りで、嫁もいなけりゃ掃除してくれる身内も居ない……その結果が人頼みならぬ妖怪頼み。
下手な掃除屋や万屋に依頼してぼったくられるくらいなら、人ではないことに目を瞑れば適正価格で丁寧に掃除してくれる妖怪の方が良いに決まっている。
とりわけ、貸し屋に数人いる垢舐めの中でもこの子は六に懐き、丁寧に掃除してくれるうえ時には料理までしてくれるのだ。おまけに、見た目も人間に近くそのうえ可愛らしいときた。
まさに至れり尽くせり。自分の為に可愛らしい少女がせっせと掃除をしてくれるのだ、金で雇った身とはいえ悪い気分はしない。それどころか忙しそうにしつつも楽しそうに笑ってくれるのだから、こちらまで嬉しくなるというもの。
「それじゃ、悪いけどいつも通り頼むよ」
「はーい!」
任せて!と胸を張って、ついでに袖捲りをする垢舐めを横目に、六は欠伸を一つすると暢気に布団に横たわった。
……が、数十分後に
「六さん、布団片すよ!」
と、布団を引っ剥がされ、それどころか部屋から追い出されたのは言うまでもない。
「ただいまー」
と嬉しそうに帰ってくる垢舐めを、店主が労いの言葉と共に迎えた。
多種多様、数いる妖怪の中でも掃除に適した垢舐めは仕事が多く、中でもこの垢舐めは働き者で愛嬌もありそれゆえに人気がある。
つまり多忙なのだ。思い返せば同じような掃除の仕事が相次ぎ、彼女には昨日も一昨日も出てもらった。人ならぬ妖怪と言えど、こうも忙しくては疲労がたまる。
いや、本来ならば人間とは違い仕事等という柵に囚われない妖怪だからこそ、疲労はよりいっそう溜まる。
相変わらずコロコロと楽しそうに笑っているが、連日掃除の仕事を頼んでしまった身としてはそろそろ休ませてやりたいところだ。
「おかえり、六の旦那の家はどうだった?」
「んっとね、汚かった」
「だろうねぇ」
「お風呂場、垢いっぱいでお腹いっぱいだけど、お掃除したらお腹すいた」
「お疲れさん。磯女達が夕餉の準備してるから、なんかつまんでおいで」
「はーい!」
パタパタと嬉しそうに台所へと向かう垢舐めの背中を見送り、再び店主が机に戻った。
しばらくあの子に仕事を振らないようにしてやろう。なに、垢舐めなら他にも居るし、どの子も愛嬌があって働き者、おまけに可愛らしい子揃いだ。
もしも仮に六のように「あの子が良い」なんて我儘を言う客が来たとしたら、それこそ「うちはそういう店じゃない」と追い出してやろう。いくら金になるとはいえ、そもそも掃除は自分で行うべきなのだから。
そんなことを考えつつ、さて、と帳簿に視線を落とした。
数ある中の一冊、顧客帳簿。それを数ページめくり、目当てである六のページを見つけると手を止めた。
今までの受けた仕事と金額、ツケの溜まり具合。それに余所から集めた六に関する個人的な情報……それも、少しばかり深いところまで調べ上げている。
もちろんこれは可愛い妖怪達を仕事に向かわせる為に必要なもので、店主としても最低限知っておくべきことだ。いくら金を積まれたとしても、身元の怪しい者の所になど行かせる気はない。
それらに一通り目を通すと、ふむ、と店主が一息ついた。
まさかとは思うが。
いや、有り得ない話に近いのだが。
それでも有り得ないと断言できないわけで。
「ちょいと忠告でもしておくか」
そう呟く店主の声に、夕餉の準備ができたと店内に響く一斉放送が覆い被さった。
りんと鈴が鳴り、店主が呼ばれたように顔を上げた。
そうして扉の前に立つ男を視界に捉え、呆れたように溜息を一つ。
まったく……と、試しに数えてみれば前回から約半月ほどしか経っておらず、これはちょいと早すぎやしないかと店主の眉間に皺が寄った。
掃除するより汚す方が簡単。それは分かる。
ツケで溜まるとは言え、仕事があれば金が入る。それも分かる。
だが可愛い我が家の垢舐めがせっせと掃除してやったのだ、それをいともあっさりと汚されて飄々と顔を出されたのでは気分が悪い。
「六の旦那、あんたねぇ……」
「悪いな貸し屋、ちょっと急ぎなんだ」
「急ぎ?」
一言いってやろうかと思ったが、それよりも先に切り出されて店主が目を丸くした。
「急ぎってどういうことだい?」
「ちょっと来客があってな。急ぎで部屋を片してほしいんだ」
「来客ったって、六の旦那の客なんて火消し仲間か飲み仲間だろ。掃除して取り繕う必要なんてあるのかね」
「それが客に対する態度か……」
「金を払ってくれるのが客さね」
「…………とにかく、急ぎで垢舐めちゃんを貸してくれ。その……俺のお袋が来るんだよ」
至極居心地が悪いと言いたげにそっぽを向く六に、店主が再び目を丸くした。
お袋が来る、とは尋常ではない。
それも良い年をした男の長屋に、だ。
「ただでさえ見合い写真を山のように持ってくるんだ。そこに俺のあの部屋だ、適当な女相手に強引に見合いを押し進めてくるに違いない。下手すりゃ顔も見ずに結納だ」
「母親心ならそうだろうねぇ」
「俺はもう色恋沙汰は御免なんだよ」
ふん、と不機嫌そうにそっぽを向く六に、さすがに第三者がこれ以上口を挟むのは野暮かと店主が肩を竦めた。
この男との縁は長く、それだけ彼が傷ついた姿を見てきた。不器用で意地を張るところもあるが、それでも根は真っ直ぐで一途な男だ。惚れた相手には常に真摯に向き合い未来を見据え……そして、女たちは悉く彼を傷つけて去っていった。
だからこそ、酔いの冗談ならまだしも見合い写真を前に「そう意地を張らずに娶ってみたらどうだ」なんて言えやしないのだ。
そりゃ、一人寂しく汚い部屋で過ごす息子に嫁をあてがってやりたいと思う母親の気持ちも分からなくもない、だがそれが分かっていても見合いを薦める気にならないのは、もう二度と六が傷つく様を見たくないからだ。
散々「嫁を娶ればいいのに」とは言ったものの、その根底には二人が愛し合っているという条件が付く。押し売りのような見合いなぞ断固として反対だ。そう思えるほどには店主と六の関係は良好であった。
「まぁそういうことなら、協力してやらないこともないね。早いうちに垢舐めを行かせるよ。それとも連れていくかい?」
「連れて帰れるならそうしようか」
「そうかい。垢舐め、六の旦那が掃除を頼みたいってさ」
おいで、と店主が店の奥へと声をかける。
それと同時に聞こえてくるのはパタパタと徐々に大きくなる足音と
「六さーん!」
という、垢舐めの元気な声だ。
そういうわけで、垢舐めと六の二人で長屋までの道を歩いていた。
「六さんと一緒!」
「あぁそうだな。帰ったらよろしく頼むよ」
「うん、がんばる!」
ニコニコと嬉しそうな垢舐めに、手を繋がれてどこか気恥ずかしそうな六。
端から見ればまるで恋人同士……些か年の差があるかもしれないが、それでも仲睦まじく歩く姿は微笑ましさもある。
あくまで、妖怪だと知らなければの話だが。
いや、妖怪だと知っている者でさえも、その光景を微笑ましく見守っていた。
そうして長屋に着くや直ぐに掃除を開始したのだが、これが案外にあっさりと終わってしまった。
「六さんち、あんま汚くなかったね」
「そりゃ半月しか経ってないもんなぁ」
と、のんびりと二人でお茶をすする。
ずぼらな生活を送っている六とは言え、さすがに半月足らずでは散らかすにも限度がある。なにより散らかそうとして散らかしているわけでもないのだ。
あちこちに洗濯物こそ放ってはあるが、水回りや風呂場などはさして汚れてもいない。それどころか、ここ最近は風呂屋に通っていたために風呂場に至っては半月前とさして変わりはない。
それを掃除するとなれば、慣れた垢舐めならあっという間だ。
「六さん、お母さんいつ来るの?」
「明日だよ」
「それまでに汚しちゃだめだよ」
「さすがの俺でもそれはしないよ」
苦笑をもらしながら、垢舐めの湯飲みにお茶を注いでやる。
この湯飲みも急須も、散らかった部屋から彼女が発掘してくれたものだ。
そう広くないとは言え混沌と化したこの部屋で、買ってきた茶器は悉く行方不明になっていた。飲んでそのままどこかに置いて……はてどこに置いたか、とこんな具合だ。
ズボラな六がわざわざ探すことなるするわけがなく、茶が飲みたくなる度に新しく購入し、そしてまたそれを無くし……の繰り返しである。
懐かしい。
初めて垢舐めが仕事を受けて六の部屋を掃除した日、計七組の茶器が発掘されたのだ。
「人間はこんなにお茶を飲みますか?」
と不思議そうに首を傾げて尋ねる垢舐めに、どう説明したものかと悩んだのを今でも覚えている。
その後しまう場所を戸棚の三段目に確保し、余分な茶器を売り払って今に至る。
「いつも悪いねぇ、垢舐めちゃん」
「いいの、六さんち好きだもん」
「……俺の家が好き?」
「うん、六さんち好き。汚いけど、女の人が裸になってる本があるけど、虫がいるけど好き」
湯飲みを両手で持ち、まるで小動物のようにコクコクと音を立ててお茶を飲む垢舐めに、六が気恥ずかしそうに「そうか」と答えた。
色恋沙汰とは無縁だと貫いてきた。女なんて二度と御免だと常に言ってきた。自分自身、女相手にどうこうといった感情は二度と抱かないと思っていた。
でも垢舐めは可愛い。
ほかの垢舐めに掃除を頼んだことも幾度かあったが、今目の前にいる垢舐めはとりわけ可愛い。
たとえ妖怪だと知っていても、その見た目は可愛らしい少女そのものだ。
健気で、自分に尽くしてくれる。
無邪気に笑うその笑顔は、まるで太陽の日を受け咲き誇る向日葵のようだ。
そんなことを考えつつ、そっと六が手を伸ばした。
垢舐めの肩に手をかけ「どうしたの?」と首を傾げる彼女の頬を撫でる。
くすぐったいのだろう、垢舐めの瞳が細まり僅かに身じろいだ。
だがクスクスと小さく笑う声とその表情から嫌がっている様子はなく、それを見て取った六が試しにと頬を撫でる手をスルリと下に滑らした。
首筋を撫で、擽るように指先を掠める。
「六さん、くすぐったいよう」
そう告げられる垢舐めの声に、それでも拒否の色はどこにもない。
それどころか、くすぐったいと言いつつ自ら頬を擦り寄せているような素振りさえ見えた。
甘えるような、誘うような、その仕草に六の胸が締め付けられる。
誘う?
誰を?
俺を?
気のせいじゃないか?
自分が好意を抱かれていると思い上がった挙げ句、自分に都合のいいように解釈しているだけじゃないか……。
女と長く縁の無かった六にとって、向けられる視線の意味を察することは容易ではない。
だがその真意を聞けるほど無頓着でもなく、かといってここで怖じ気付くほど初心ではない。
色恋事から顔を背けたとは言え、男を捨てたわけではないのだ。
ならばここは、この自惚れに任せてしまえ……
そう開き直ると共に、グイと垢舐めを引き寄せた。
丸い瞳が僅かに驚いたように見えたが、拒絶するでもなく恐怖の色を見せるでもなく、それどころか次第に縮まる距離に心地良さそうに瞳を細めた。
「旦那ぁ念のため言っておくけど、人間と妖怪が一線越えると妖怪になっちまうから気をつけて……」
長屋の扉を開けると共に放たれた店主の言葉に、薄暗い一室がシンと静まった。
頼りなげな灯りだけが灯された部屋の中には、質素な布団が一組。しなびた万年床になりかけていたのを救われたのは今から数年前のこと、定期的に訪れる掃除屋のおかげでなんとか布団としての機能は保たれている。
そこにいるのは一組の男女。
仰向けに横たわる女と、それに覆い被さる男。布団がかけられて二人の腰から下は見えないが、露わになっている上半身は共に裸だ。
誰が見たって分かる。
情事の最中。
齢いくつもいかない初心な女ならまだしも、それ相応に、それどころか人の常識から外れた年月を生きてきた店主からしてみれば、聞くまでもなく察することができる状況である。
だからこそ、ヒクと店主の頬がひきつった。
それと同時に、布団の中の男が慌てて近場の服を手繰り寄せて跳ねるように身を起こした。
「お、おい店主! 今のどういうこった!」
「……どういうも何も、さっき言った通りさね。ようこそ旦那、妖怪の世界へ」
「じょ、冗談じゃねぇ!!」
衣服を着る余裕すらないのか、手繰り寄せた服を局部に押しつけるようにしてひとまず隠し、六が声を荒げる。
一方布団で横たわっていた垢舐めはキョトンとした表情のまま、ぎゃぁぎゃぁと言い合う二人を眺めていた。
白く綺麗な肌と丸みを帯びた胸が無防備にさらけ出されているが、今この状況においてそれを気にかけてやれる者はいない。
「冗談じゃないって……六の旦那、うちの子に手を出して冗談で済ませるつもりだったのかい!?」
「そういう話じゃねぇよ! ただ妖怪になるなんて……俺が妖怪に!? どういうこった!!」
「ちったぁ落ち着きなよ五月蠅いね! うちの子に手を出してくれて、私の方が訴えたいくらいさ!」
「……俺が、俺が妖怪に…………」
ようやく事態を理解したのか、今の今まで怒鳴っていた六が力なく肩を落とした。
その表情がサァと音立てて青ざめ始めるが、極平凡に暮らしてきた中で突如『妖怪になる』等と言われれば誰だってこうなるだろう。気絶しなかっただけマシな方だ。
そんな六の姿に、店主も冷静さを取り戻したのか一息つき「あがるよ」と返答も待たずにずかずかと上がり込んだ。
そうしてチラと周囲を見回す。
六の長屋を訪れたのはこれで二回目になる。最初に六が貸し屋に来た日、流石に年端もいかない垢舐め一人を向かわせるわけにはいかないと同行したのだ。
それはそれは目も当てられないほど汚れきっていて、こんなところ人の住む場所ではないと、人ならざる身でそう思ったのを今でも思い出す。
それに比べれば今のこの部屋は見間違える程に整頓されている。それが自分のところの垢舐めの功績だと思えば誇らしくもあるのだが、流石に今はそれを褒めてやる時ではないと溜息と共に垢舐めの頭を撫でた。
「ほら垢舐め、せめて布団で隠すくらいしなさい」
「六さん、妖怪になるの?」
「そうさねぇ、一線越えたかどうかにもよるんだけど。聞くのは野暮ってもんだし」
チラ、と店主が六に視線を向ける。
暗に「どこまで手を出したのか言え」と問いつめているようなもので、それを察したのだろう顔面蒼白の六がふるふると首を横に振った。
手を出していない、という意味ではない。
もちろん
「手遅れ」
という意味だ。
つまり、最後まで事に及んだと、一線を越えてしまったと。
それを見た店主が深く溜息をついた。
「改めて、ようこそ旦那。まぁなっちゃったもんは仕方ないから、諦めな」
「お、俺も垢舐めになるのか……?」
「いや、いくら垢舐めと一線越えたからって同じもんになるとは限らないからね。そこはまぁ、なってからのお楽しみってやつで、明日には分かるでしょ」
「……そいつはまた適当な」
「何百何千生きてりゃ、今日か明日かなんて微々たるものよ」
あっけらかんと言い切り、店主が垢舐めの頬を撫でる。
痛くなかったか?怖くなかったか?と心配するその様子に、六への気遣いは一切ない。
「六さん、いつ妖怪になるの?」
「さぁねぇ、明日か早ければ今日中かな」
「六さん妖怪になったら、ずっと一緒に居られる?」
「そうだね、ずっと一緒に居られるよ」
店主の返答を聞いた垢舐めが、ほぅと一つ息をもらした。
感慨深げな、うっとりとしたその吐息に思わず六も店主も視線を向ける。
そうして二人からの視線を受けた垢舐めは、まるで噛みしめるように
「……嬉しい」
と、小さく呟いた。
「う、嬉しいって、垢舐めちゃん、俺が妖怪になるってのに嬉しいのかい?」
「だって、六さんとずっと一緒に居られるよ」
「そりゃそうだけど……」
「六さん、妖怪になったら死なないね。ずっと一緒だね」
嬉しそうに話す垢舐めに、六が僅かに目を丸くして店主に視線を向けた。
「説明を求む」と、そう言いたいのだろう。それを察し、店主が肩を竦めた。
「人間の寿命なんて、良くて八十、早けりゃ一桁、百まで生きれりゃ万々歳だ。六の旦那、あんたあと何十年生きるつもりだった?」
「何十年って……」
「せいぜい四十年くらいだろ。死ぬことのない妖怪からしてみりゃあっという間だ」
「仕方ないだろ、寿命なんだから」
「そりゃ分かってるよ。分かってるからこそ、この子は旦那が死んだ後が怖くてたまらなかったのさ」
「えっ……」
驚いたように六が視線を向ければ、話が分からなかったのかきょとんとした表情の垢舐めが首を小さく傾げた。
普段と変わらぬ可愛らしさ。
布団の中で何度も愛しいと思った彼女が、自分に置いていかれることを考えて胸を痛めていたとは……。元々の違い、寿命があって当然の六からしてみれば、不死の妖怪である垢舐めの悩みや不安など予想もしなかったのだ。
そう考えれば、六の胸中に申し訳なささえ募った。どんな思いで自分に会いに来てくれたのか、自分の手を繋いでくれたのか、考えれば切なさに胸が締め付けられる。
「……垢舐めちゃん、俺、妖怪になっちまうんだって」
そう呼びかけ、そっと手を伸ばす。
頬を撫でてやれば、嬉しそうに瞳が細まり「うん」と小さな声が返ってきた。
「なんの妖怪になるんだろうなぁ。せめて強くてかっこいいのが良いけど」
「どんな妖怪でも、六さんなら好き」
「そっか……じゃぁ、ずっと俺と一緒に居てくれるかい?」
「うん、六さんとずっと一緒にいる」
嬉しそうに笑い、垢舐めが大きく頷いた。
細まった瞳にうっすらと溜まっていた涙が、それを受けて頬を伝う。それを見て取った六がゆっくりと指先で拭い、そのまま頬を撫でた。
数分前までこの世の終わりと言わんばかりに絶望していたというのに、くすぐったそうな垢舐めの笑顔を見た途端「それも良いか」等と思ってしまうのだから、まったく参ったものである。
「それで、どうしてよりによって……」
そう不機嫌に呟く六と、その傍らでは店主がケタケタと笑い声をあげていた。
随分と品も遠慮もなく笑い方だが、それを咎めようと六が睨みつけたところで止む気配もない、
だが店主が笑い転げるのも無理はない。
なにせ六の姿が昨晩と少し変わっているのだ。それも随分と滑稽な方向に。
短く切られた黒い髪には、その髪色にあった三角の耳が左右に一つずつ。
男らしくガッチリとした腰には、それに反して細長い尾がゆったりと揺れている。
そこから彷彿とさせるもの。そう、猫だ。
それも人に化ける、化け猫。
たとえばこれが若い女や幼い子供であれば、猫を模したその格好も様になったであろう。頭部の耳も腰から延びる尾も、猫を擬態した愛嬌だと言える。
だが六は男だ。それも火消しとして生きてきた、そんじょそこらの男よりも体格の良い、まさに男の中の男。
それが猫を模した格好となれば、お世辞にも愛嬌があるとは言えない。
だからこそ滑稽で、店主の笑いを誘うのだ。
あの六が、あの火消しの六が、よりにもよって猫ときた!と、こんなところだ。いや、現に数度そう叫んでいる。
「おい店主、ちょっと笑いすぎじゃないか?」
「そうか……いや失礼。だってあんた……」
チラと店主が六に視線をやり、滑稽でしかないその格好に溜まらず視線をそらした。
クツクツと揺れる肩に、最早怒りを通り越して六が溜息をつく。
それと同時に一匹の黒猫に姿を変えた。瞬く間のその変化は、化け猫になってまだ数時間だが随分とこなれたものだ。
漆黒の滑らかな毛で覆われた自分の体を見下ろし、ふんと鼻を鳴らして立派な髭を揺らす様は、案外に満更でもないと言いたげだ。
そんな一匹の黒猫を、店の奥から顔を覗かせた少女が見つけ、嬉しそうに駆け寄るとひょいと抱き抱えた。
勿論、垢舐めである。
「六さん、にゃぁって鳴いて」
「にゃぁ」
「六さん、六さん。猫の六さん」
くすくすと笑いながら、垢舐めが六の体に頬を寄せる。
黒猫はそれを受けて、ゴロゴロと喉を慣らせながら返すように鼻先を寄せた。
まるで頬にキスでもするかのようなその甘ったるい光景に、いつの間にやら店主の笑みも呆れに変わり、帳簿をパタンと大げさに音立てて閉じて抗議の声を上げた。
もちろん、それだけでこの二人が止まるわけがなく、
店主が二度三度わざとらしく咳払いをしたのは言うまでもない。