2-(1) 黒い髪の青年と魔法の花
キララはとても不機嫌だった。
アカネに叱られたとか、ミルにいじめられたとか、そういうのではない。
最近では、部屋を抜け出してアカネの授業中に教室へ潜り込んでも怒られなくなった。毎日脱走するキララの様子に、アカネ達は諦めていた。
「せめて授業中は大人しくしててね」
そう言われ、アカネの隣で先生の話を子守唄に昼寝をするのが日課となっている。キララは鳴くことがないとても静かな動物である、またとても賢い生き物である、それらの事実がキララの行動に目をつぶる一つの結果となっていた。
彼が不機嫌なのは、アカネが皆に嫌われているから、という理由でもない。
なんでこんなに優しいアカネが嫌われているのか。キララにしてみれば不思議で仕方ないのだが、アカネが嫌われていることは、かえって嬉しいことだと思っていた。
〝余計な虫がつかなくていい!〟
ただし、一人だけ例外がいた。
キララの不満の元凶。
薬学の授業、全教室内でも比較的大きな講義室の中。静かな教室内には教師のカツカツと黒板に文字を刻む音と、生徒達の板書をノートに書き込む音だけが響いている。キララはそっと瞼を開き、アカネの隣で、アカネ達と同じく真剣な表情でノートをとる男の横顔を見た。
正直言って、キララの方が分が悪い。
明らかだった。言葉の壁という前に、種族の壁がある。彼女は振り向いてもくれない。それに対して、ヤツはアカネに対してガンガンと積極的なアプローチを見せている。あまり友人の多くないアカネにとって、彼の存在は特別だった。
やり場のない怒りを抱え、キララはヤツに見せ付けるようにアカネの膝の上に丸まった。隣の男はチラリとこちらを眺めただけで、すぐに黒板に目を戻す。アカネはキララを見ることもなく、ただ教師の話を聞きながら空いている左手でキララの頬を撫でていた。
「最近ってば、物騒よね~」
アカネの後ろにやって来たミルは、唐突に話し始めた。
エリュクフィル魔法学校の食堂はとても大きい。かつてエリュクフィル城として機能していたこの建物は、食堂でさえ広く豪華であった。天井からはシャンデリアが釣り下がり、壁には有名画家の絵が残されている。しかし、ここが学生達の大衆食堂になってから年月も長く、造りはりっぱではあるがお世辞にも美しいとは言い難いものであった。
そんな食堂のテラスに近い窓側の席、四人がけの丸いテーブルにアカネは座り、その隣にミルは定食の乗ったお盆を置いて座った。
「物騒って、何が?」
アカネはキララに自分の定食の野菜炒めを与えながら聞く。
「さっき、他の子達が話してたのを聞いたんだけどさ。また列車強盗だって」
ミルはそれだけ言って、キララのそっちもおいしそうだなという視線を無視して、自分の定食をガツガツと食べ始めた。
「テロなの?」
「いや、それはちょっと違うんじゃないかな? 犯行声明出てないし。それに、もう犯人は捕まったんだって。祭も近いんだし、止めてほしいよね」
そうは言いながらも、ミルは完全に他人事の口調だ。
「アカネは列車に乗ったことあるんでしょ?」
列車は非常に高価な乗り物だ。まだまだ辻馬車での移動の方が主流である。大移動をする場合には便利だが、やはり小回りのきく馬車の需要が減ることはない。
「一回だけね。ミルミギアから、ここへ出てくる時に乗ったの」
「どうだった?」
「最初は恐かった。でも、すごいスピードで草原を駆けてゆくのは、とても感動したわ」
「いいなぁ~、あたしも乗ってみたい」
「今、また強盗に襲われたって話してたのに?」
「そんなに遭うなんて、宝くじに当たるような確立なんだから、大丈夫に決まってるでしょ。事故の多い馬車の方がよっぽど危険よ」
キララに漬物を与えながらミルは気楽に話す。初めて与えられた食べ物に恐る恐る、それでも興味津津といった様子でキララはカリポリと漬物をかじった。
〝うぇ~っ!?〟
お気に召さなかったらしい。ミルを睨みつけながら、ペッペッと吐きだしている。
「ま、あたし達が気をつけなくちゃいけないのは、そんな強盗より誘拐事件だろうけどさ」
可愛いあたし達が次に狙われるかもよ? おどけた表情でミルは言う。
〝ミルを誘拐しようとするヤツなんていないよ〟
固いパンをかじりながら、キララは一人呟いた。
「ミルは良家のお嬢様なんだから、気をつけた方がいいよ」
アカネは真剣な表情で忠告した。
ミルはこう見えて、街の仕立て屋の社長令嬢である。機械が徐々に発達し、布の仕立ても手動から機械に変わりつつある。そして街の伝統工芸も汽車を足にして大陸全土へと広がっている。ミルの親の会社は、その最先端を行く巨大企業。
昔ながらの貴族ではないために、一部の貴族の生徒達はミルのことを嫌っているし、ミルもそんな貴族達を毛嫌いしている。
「あはは。大丈夫だよ、この学校に通ってるうちは」
寮も学校の敷地内にあるので、今の生活が一番安全であるのは確かだった。
「今のところ、この学校からの被害者は出てないんだし」
「でも、最近は若い女の人の失踪事件、多いらしいよ。今朝の新聞にも載ってたみたいだし」
「そんなの載ってたっけ?」
寮の食堂にある新聞をアカネは毎朝少しだけ読んでくる。ミルもたまに読むが、彼女の読むような記事はそういった記事ではなく、目についた面白そうな記事だけ。
「失踪事件だけじゃなくって、『エーテル症候群』も流行ってるみたいだから。気をつけた方がいいよ」
「『エーテル症候群』って、例の『魔族病』ってやつ?」
「そう」
〝魔族病?〟
正式には『エーテル魔法元素過敏性赤眼症候群』と名付けられているが、一般的には『魔族病』と呼ばれるものである。原因不明の地域病で、大陸全体でもこの地域だけの特有の病気である。
「あたし、詳しいことは知らないんだけど。発症すると魔族になっちゃうっていう病気でしょ?」
「別に、本当に魔族になるわけではないけど」
そもそも魔族の定義自体が曖昧なので、魔族になるというのも都市伝説や迷信のようなものである。
「軽い症状であれば微熱が続く程度なんだけど、重いものになれば、魔族のように目が真っ赤になるの」
目の充血などとは違い、また雪ウサギなどのように色素異常で血液の色が映り赤く見えるのではなく、文字通り瞳が真っ赤に染まる症状。その姿はまるで、魔族や泥頁竜セラドンのような魔物を彷彿とさせる。発症後の症状には個人差があり、軽いものであれば微熱や頭痛が続く程度だが、重くなれば精神錯乱や細胞異常による死もありうる。
「でも、死ぬって言っても、体力の弱ってる爺婆だけでしょ? 風邪で寝込むのとほとんど変わんないんだし」
「風邪も流行り病も、恐い病気だと思う」
「それに、原因不明じゃあ予防しようにも何もできないんだけど」
「……それは、手洗いうがいをかかさないとか、体力落とさないようによく寝るとか」
一説には、大気中の魔法元素が原因で発症すると考えられている。しかし、魔法元素の存在自体があまり世間には認知されていないので、『魔族病』は原因不明の奇病として恐れられている。
また、症状が治まれば眼の赤みも取れることもあり、原因不明の奇病でありながら、風邪と同様に比較的軽視しがちである。
「まぁ、アカネみたいに、生まれつき目の赤い人もいるわけだしね」
気にしないとばかりに話すミル。
アカネはいつものように微笑んだが、その笑みには少し陰りがあることをキララは感じた。
「じゃあ、ミルは今朝、何の記事をあんなに真剣に読んでいたの?」
朝の様子を思い出してアカネが尋ねる。
「それはもちろん、魔王の記事よ!」
「魔王?」
この地の出身ではないアカネは、魔王の話についてよく知らない。最近の話は、断片的にしか聞いていない。
「それは、『リーゼの予言』の魔王?」
「そう、それ」
『リーゼの予言』とは、イシュチェル教会が十数年に一度行っている伝統儀式の一つ。今後数年間の天災などを大々的に予言するという神事である。かつては、大地震や日照りによる食料不足などを予言したらしい。
「でも、それは結局、予言じゃなくって占いなんでしょ。それほど信憑性のある話とは思えないんだけど」
「何言ってるのよ、毎朝の新聞で見てる『今日の運勢』とは違うの! 街の皆も信じてるんだから」
ミルは興奮しながら嬉しそうに話す。
例年の『予言』の儀式では、断片的な天災の予言や、まるで占い師が人を煙に巻くように曖昧にしか表現していなかった。しかし、今から5年ほど前、前回の予言の儀式では、唐突で思いがけない予言にエリュクフィルの人々は度肝を抜かれた。
曰く、エリュクフィルの地にまもなく本物の『魔王』が誕生する、と。
以来この街は、次の新たな魔王を歓迎するかのように、空前の魔王ブームとなっている。
「はぁ~、今度はどんな魔王様なのかしら……」
理想の魔王を想像し、トリップしているミルの様子に、アカネとキララは呆れている。
この地では様々な伝説として語られている魔王。女の子が一度は白馬の王子様に憧れるように、この地の女の子達は魔王に憧れる。
この土地の出身ではないアカネには、いまいちピンとこない話であった。
「ねぇミル、ここの街の『魔王伝説』って、いくつくらいあるの?」
「ん~、細かい伝説っぽい話を合わせるといっぱいあるみたいなんだけど、詳しくは知らない。なんていうか、『準魔王伝説』ってやつ? あたしとしては、それは認めてないんだけど」
「じゃあ、ミルの認めてる魔王伝説は?」
「それは二つだけ。これはアカネも知ってると思うんだけど、『琥珀の魔王』と『蘇芳の魔王』の伝説よ」
その物語は、アカネも聞いたことがあった。
「『琥珀の魔王』は、たしかこのエリュクフィルの街の創設者の人だよね」
「そうそう。そして『蘇芳の魔王』は、魔族を率いて神の使徒イシュチェルと戦った、史上最悪の魔王よ」
魔王という人物には、善人もいれば悪人もいる。何かしらの力に秀でていて、その時代に大きな影響を与えた人物が、後に魔王となり伝説として伝えられている。
「『蘇芳の魔王』の伝説は、私の実家の、ミルミギアの方でも伝えられているわ。でも、この街の伝説とはずいぶん違うみたいなんだけど……」
「そうなの?」
「ええ。だから、この街では『蘇芳の魔王』の印象があまりにも悪いから、初めてその話を聞いた時は本当に驚いたわ」
「そうなんだ。でもね、この街でも『蘇芳の魔王』のイメージは、5年前からガラリと変わったのよ」
力強く言い切るミルを、アカネは少しだけ不思議に思った。
と、アカネ達の背後にやってきた一人の男が、二人の会話に割り込んだ。
「ミルが好きな魔王って、両方とも国立劇場で舞台化されたやつだろ」
図星を指され、ミルは思わず閉口した。
「ミルは二つとも見に行ったんだ」
その男は、ミルに向けて意地悪な笑みを浮かべていた。
「フィベル、余計なことは言わなくいいの!」
ミルは拗ねた様子でその男に、フィベルという名の男に怒りをぶつけた。彼はクスクスと笑いながら、アカネ達の向かいの席に腰を下ろした。
テーブルの上に居座る白鴒獣は、獣でありながら、まるで人間のように、苦虫を噛み潰したように嫌そうな表情をしてその男を睨みつけていた。
黒目黒髪の男。傍目には、優しそうな顔をした好青年。
このフィベルのことが、キララは大嫌いで仕方がなかった。