1-(1) 赤い髪の少女と白い魔物
「……で、この子はついてきちゃったわけだ」
机の上の動物を見ながら、彼女の同室の友人、ミルは話した。
「それでアカネ、どうするの?」
問いかけられて、その白い獣を連れてきてしまった本人であるアカネは、ため息交じりに呟いた。
「どうしよう……」
学校の裏から戻ってくる途中、寮の入り口で気が付いた。通り過ぎた女の子達が何やら小声で騒いでいる。後ろを振り返って、この獣を見つけた時は本当に驚いた。上着で隠して、慌てて部屋へと連れてきた。
このエリュクフィル魔法学校付属女子寮では、ペットを飼うことは禁止されている。
濡れた制服から私服に着替え、アカネは肩にかかる髪をタオルで拭いた。アカネの髪は茶というよりも朱に近い赤色だった。瞳の色も同じ色。エリュクフィルでは珍しい、母を思い出す優しい赤い色。
「手の傷は大丈夫?」
鏡を見てボーっとしていたアカネに向って、ミルが心配そうに尋ねた。手の傷には、先ほど部屋に戻ってすぐに、ミルが寮長さんからもらってきてくれた包帯を巻いている。
「うん、大丈夫。血はもう止まってるし、さっき消毒もしておいたから」
痛みは少し残っているが、ペンを持つにも差し障りはない。
白い毛の獣の方は、ハンカチを包帯に代えようとしたらとても嫌がったのでそのままにしてあった。まだ痛みが残っていて、触られるのが嫌なのだろう。それとも、ハンカチが気に入っただけなのか。
ミルは机の上の白い生き物を見ながらアカネに聞いた。
「それで、この子はもう一度捨ててくるの?」
「それはさっきやった。捨てて……というより、学校の外まで連れていったのだけど、結局また付いてきてしまったの」
このままでは埒が明かないと思い、結局寮の部屋まで連れてきてしまった。
「食べ物やったわけでもないのに、なんで付いてきたんだろう……」
ネコなどの場合、一度エサをやるとそのことを覚えてしまい、以後そこに住み着いてエサをねだるというようなことがある。アカネも昔、実家の裏でヤマネコにエサをあげたところそれ以来住み着いてしまい、そのヤマネコは今でも我が家で寝起きしている。
「恩感じて、何かお返ししようとしてるんじゃないの? この子、けっこう頭いいみたいだし」
気楽にミルは言う。それはアカネも同感だった。この生き物は非常に頭が良いと思う。だったら、余計な手間をかけさせないでほしいとも思った。
珍しい動物であれば売られることもあるし、捕まって処分されることもある。こんなに白くてきれいな毛並みの生き物、何かしら良からぬ事を考える人間がいても不思議ではない。他の生徒達に捕まれば、見世物にされてしまうだろう。
「心配なら、首輪でも着けてあげれば? 飼いネコなら一応誰も手出しはしてこないと思う」
「この子を飼うつもりはないよ」
「諦めて飼ってあげれば? おいしい食べ物もらって、この場所も覚えたみたいだし」
きっと外に逃がしてもこの子はまたこの部屋にやってくるよ、ミルは机の上で一心不乱にクッキーを食べている白い動物を指差しながら言う。
「餌付けしたのは、ミルでしょ」
「……いや、だって、そうでもしないとあたしには懐いてくれそうになかったし」
最初、この獣はミルの姿を見て当然のように威嚇していた。しかし、ミルが持っていたクッキーを差し出すと、手のひらを返したように馴れ馴れしくなった。
「やっぱ第一印象ってのが一番大事だよね、うん」
「そのおかげで、この子は完全に帰る気をなくしたみたいだけど」
「変わった動物だよね~。なんていう名前の生き物なの?」
「知らない。こんな生き物、今まで見たことも聞いたこともない。生物分類学の教科書に載ってなかったから、後で図書館に行って調べてみないと」
「物知りなアカネでも、知らないことがあるんだね」
「別に、私は……」
謙遜してアカネは言葉を濁した。
「私はミルと違って田舎育ちだから。雑学が多いだけだよ」
アカネの実家があるミルミギアは、エリュクフィルとは比べ物にならないほどの田舎だった。人よりも家畜や動物達の方が多い、そんな山の中の小さな村。大陸の流行が最後に辿り着く南の終着点。そこで育ったアカネには、都会育ちのミルにはないたくさんの知識を持っている。
「それに、私はただの世間知らずだから……」
外で取ってきた薬草でお茶を入れたりと、そんな知識は豊富だが、街のことはここに引っ越してくるまで何も知らなかった。だから、そこは反対にミルから都会での生活知識を教えてもらっている。
この学校の寮にやってきて2年と少し。ようやく街での生活に慣れてきたところ。
「アカネ、この子に名前つけないの?」
「名前つけちゃうと、かえって別れが辛くなるよ?」
「すぐ別れちゃうの?」
「私はそうしたいと思ってるんだけど……」
ちらりとその動物を見ると、イヤイヤと首を横に振った。
ペット禁止の寮であっても、ペットを飼おうとする生徒は何人もいる。当然、学校の先生方に見つかればすぐに取り上げられる。
「諦めて飼ってやりなって。寮のみんなには口止めしとくからさ」
しかし、生徒に甘い寮長さんは割と寛容な目で見てくれている。ルームメイトや他の寮生達と協力すれば、卒業まで買い続けることは決して不可能ではない。今もこの寮で、ペットにネズミを飼っている生徒が一人だけいる。
「……でも、動物飼うなら、鳥籠みたいな物が必要でしょ?」
「あ、それなら大丈夫。上の階の先輩が、確か去年までリス飼ってたらしいから。頼めばその籠貸してもらえると思うよ」
籠と聞いて、その動物は嫌そうにピクリと反応してみせた。
「それに、エサとかどうするの?」
「大丈夫。寮婦さんに頼めば、残り物分けてもらえるよ。あたしもよく夜食もらってるし」
「……ミルって、そんなことしてたの?」
と、気がついて二人は、そろって机の上の白い獣を見つめた。
赤いつぶらな瞳が可愛かった。キョトンと、クッキーを抱えたまま「なになに?」と彼女達を見上げている。
「こいつって何食べるの?」
「さぁ? 犬歯があったから、私は肉食かなって思ったんだけど」
「少なくとも、クッキーとチョコとキャンディは食べるらしい」
雑食のようだった。
「ミル、お菓子ばっかりやってたら、虫歯になっちゃうよ」
「……なるの?」
「……さぁ?」
しばらく話していた二人だったが、とりあえず自分達の寮の晩御飯を食べに行くことになった。
「何かもらってきてあげるから、少し待っててね」
白い獣からの反応はなかった。
「素直に待っててくれると思う?」
「わからない。でも、普段私達は授業に出ているんだから、待つことも覚えてもらわないと」
「まぁ、外から鍵をかければ、部屋は完全な密室にできるわけだけど」
大人しくしててね、そう白い獣に言い残してアカネとミルは部屋に鍵をかけ、寮の食堂へと向かった。
「部屋で動物飼うなんて、本当に大丈夫なのかしら……」
「学校の教師連中にばれなければ、まぁ大丈夫じゃない? 寮長さんは見て見ぬフリしてくれるし。部屋汚したり、他の生徒に迷惑かけなければ問題ないでしょ」
「ミルはいいの? ひょっとすると、部屋が少し獣臭くなるかも」
「アカネ、もっと山行ってハーブ取ってきて!」
先ほど抱いた時も、それほど目立って獣の匂いは感じられなかった。
「それに、隣や上の階から、鳴き声の苦情がこないかどうか……」
とそこまで言って、二人は目を見合わせた。
「あの子って鳴くの?」
「……さぁ?」
聴いたことがない。
「狼に襲われて威嚇の音は出してたけど、それ以外では一度も鳴いてないわ」
「ふ~ん、鳴かないなら静かでいいね。心配事は一つ減ったかな」
しばらく前に子犬を飼おうとした生徒がいた。しかし、その犬はキャンキャンと高い声で鳴き続け、寮の中は大変な騒ぎとなった。飼う動物はしっかり選ばなければと、他の生徒達はいい教訓を得たものだ。
「どんな声で鳴くのかな?」
あの美しい姿からは、どんな歌声が聴こえてくるのだろうか。ミルの疑問にアカネは答えた。
「あのタイプの小動物なら、チーチーとかキーキーっていう高い鳴き声かな?」
「意外にワンワンとか鳴いたりして」
「あはは、それはおもしろいかも」
あの姿を見るかぎり、イヌやネコというよりもリスに近い生き物だと思った。
「ネコみたいに、ニャーニャー鳴くとか? それはそれで可愛いかも」
「ネコ科ではないみたいよ? 髭もないみたいだし」
そう言うアカネに対し、ミルは得意げに話した。
「髭はあったよ」
「え、そうなの?」
「うん。白くて短いのがちびっとだけ。白いからほとんど目立ってないみたい。引っ張ったら、怒って噛みつかれた」
「それはミルが悪い」
「引っ掻くんじゃなくって噛みつくんだから、鳴き声としてはワンワンの方が有力なのかなぁ」
二人は話しながら、トレイを持って食堂の生徒達の列へと並んだ。
その獣達の集落は、エリュクフィルの街の北の森奥深くにあった。人里離れた樹海の奥、そこには人間達の知らない動物達の文化があった。
その白い生き物は、人と変わらない高い知能を持っていた。各集落をそれぞれの族長が統括し、高い生活水準を保ち、時には遊びや娯楽を楽しむことができた。木を彫りぬいて作った家があった。小さな洞窟のような家もあった。中には、木を組み立てた手作りの家というものもある。
人のように道具も使う。使えるものはなんでも使う。とはいうものの、人間ほどモノを作ったり利用したりはしない。それほど器用ではなかった。
そこには一つの社会があった。人間社会とは少し違うが、幼い子供達が集まる学校のようなものもあった。本はないが、黒板とチョークのようなものはあり、子供達に文字や算数を教えていた。
昔、彼は、族長であり学校の教師でもある祖母に聞いたことがあった。
ねぇおばあちゃん、どうしてこの森から出ちゃいけないの?
この社会において、森の外は禁忌。決してこの森から出てはいけない。年若い好奇心旺盛な彼にとって、この森での生活は単調で退屈なもの。彼はもっと外の世界を見てみたかった。
親心に子心。行くなと言われれば行きたくなってしまうもの。
しかし、祖母は言った。
〝ダメよ。外の世界にはとても恐い生き物がいるの。外に行っては、あなたは殺されてしまうわ〟
大丈夫だよ。俺、逃げ足早いもん。
そんな彼に、祖母は念を押して言う。
〝ダメ、そんなこと言わないで。あなたがいなくなってしまっては、私が悲しいわ〟
おばあちゃん子である彼としては、祖母を悲しませるようなことはしたくなかった。彼は、森の外へ遊びに行くのはもう少し控えようと思った。
おばあちゃん、恐い生き物って何? あの灰色の狼?
あの狼なら恐くない。見つかって追われたこともあるけど、何度も逃げ切ったもの。
〝いいえ。違うわ、本当に恐いのは狼達じゃない〟
いつになく真剣な祖母の姿。彼は祖母の深紅の瞳がキラリと光ったような気がした。
〝本当に恐ろしいのは人間達なの。ごく稀にこの森の奥まで入ってくる人達もいるけど……。いい? 人間達には、決して見つかってはダメよ〟
祖母だけではない、村の大人達は口を揃えてそう話す。
今の彼には、そんな大人達の忠告が嫌と言うほど身にしみて感じられた。
〝おばあちゃん、ごめんなさい。言いつけを守らなかった、ボクは悪い子です。人間は本当に恐ろしい生き物です〟
人里に下りてきたことを、激しく後悔した。
〝ボクは今、身売りに出されようとしています〟
エリュクフィル魔法学校付属女子寮。寮の夕食も終わり和やかな雰囲気に包まれた団欒室の一角、一際華やかな賑わいを見せる人だかり、その中心に彼はいた。
彼は怯えていた。
彼を取り囲む無数の目は、さながら獲物を品定めする飢えた猛禽類の瞳。そこには知性の進化とともに忘れ去られてしまった動物としての本能が垣間見える。これほど人間とは恐ろしい生き物だったのかと、彼は愕然とする。
ガシガシ! ガシガシ!
爪で引っ掻こうが、なけなしの小さな牙で噛みつこうが、固い鉄製の籠はビクともしない。手から伝わる無機質的な冷たさが、彼の心へと深く染みこんでいく。首に深く食い込む首輪と、それに付属された奴隷プレートは、彼の絶望そのものだ。彼は街の外れで放牧されているヒツジ達を初めて羨望した。
『キララ 300エル』
奴隷プレートではなく、値札である。
「ねェ、ミル! 300エルって、ちょっと高くない?」
人だかりの先頭でまじまじと彼を見つめていた女の子が、籠の隣に座るミルに言う。
「たしかに可愛いんだけど、さすがにその値段は……」
「何言ってるの?! この美しい白銀の毛並み、愛らしいルビー色の瞳、マフラーにでもしてみたいふくよかな尻尾、小さな口から見える申し訳程度の犬歯とか、もう最高じゃない! これ以上まけらんないわ!」
バシバシと籠を叩きながら偉そうに胸を張るミル。
籠の中で、彼は本気で怯えていた。
「何ていう種類の動物なの?」
「知らない。調べても分かんなかった」
「何食べるの?」
「基本的に雑食。肉は生よりレアくらいに焼いた方が好みらしい。好物はチョコレート。ピーマンには拒絶反応を示す」
お菓子も食べるんだぁと、女の子にクッキーを差し出される。
〝食べるけどさぁ……〟
泣きながらかぶりついた。それはもう親の仇のように食べつくした。
小さな手で自分の顔よりも大きなクッキーを食べる彼の様子に、お客達はうっとりと見惚れている。
また別の女の子がミルに尋ねた。
「この子、全然鳴かないね。どんな鳴き声なの?」
「あたしも聞いたことない。静かな生き物だから、寮で飼うにはうってつけ!」
〝うわぁ~ん!!〟
泣いている。
「そこらのペットショップでは買えないレアな生き物だよ! 寮で飼うもよし、毛皮にするもよし、芸を仕込んでもよし! 今なら300エルポッキリで、この籠もつけちゃう! お買い得だよー!」
〝毛皮は嫌だぁ~!!〟
必死で首を横に振っている。
鳴いても叫んでも伝わらない。彼の声は人間達には聴こえない。
人間とは可聴領域が違う。声を高くしたり、低くしたり、いろいろと試してみたが、結局人間達との意思疎通手段はジェスチャーしかなかった。
籠の前に立つ、彼に釘付けの小さな女の子に視線で訴えかける。
〝うるうる。お願い、可哀そうなボクを買って〟
外界とを隔てる固い冷酷な鉄柵、その向こう側から差し出された女神の手に彼は飛びついた。救いの女神様の指先には、チョコレートがのっている。彼は指までしゃぶりつくした。彼女の愛らしい笑顔の向こうには後光まで見えるようだ。
「おねぇちゃ~ん! この子買ってー!」
「ダメです、そんなお金はありません」
「一生のお願いだから! ちゃんと世話もするからァ!」
「そう言って買ってあげたペット、この前死なせたばかりじゃないの」
その瞬間、彼の動きがビクリと止まった。
女の子の顔を恐る恐る見上げる。その無垢な笑顔が、もう悪魔の微笑みにしか見えなかった。彼の本能が、この子はヤバいと警告を鳴らしている。
〝いーやーだぁーーっ!! 助けて~~~!!〟
籠の反対側まで後ずさり、鉄製の柵にガリガリと爪をたてながら、誰にも届かぬ悲鳴をあげていた。
取り巻くお客達は、可愛い可愛いと声をあげながらも、なかなか手を出そうとはしない。
「ちっ。今日の客はノリが悪いわね。ねぇキララ、ちょっと芸かなんかしてくれない?」
〝鬼! 悪魔! 人でなしー! 貧乳!〟
容赦ないミルの声に、ありたっけの罵声を浴びせ続けた。
そして、漸くして本当の救いの女神は現れた。
ミルの後ろから、ボソリと声がかけられる。
「……何をしているの?」
「どきっ!」
ミルの表情がサーっと白くなる。
〝アカネ~~!〟
驚くわけでもなく、怒鳴るわけでもなく、ただアカネはそこにいた。普段静かで大人しい彼女からは、何やら強い威圧感を感じる。周りのギャラリー達も、ヒソヒソと声を潜めていく。怒っているのに静かなのが、かえって恐かった。
「ミルは、この子を外に逃がしてくるって、そう言って連れていったよね?」
「あはははは……いや、キララが山に帰りたくないって言うからさぁ……」
そもそもミルは寮からさえ出ていない。
無言でアカネは籠から彼を救いあげ、胸に抱きかかえた。ヒシっとしがみ付いた彼は、アカネの服を咥えて泣き続けた。
〝二度とアカネから離れるもんか……〟
「ミル……」
「……」
しばらくの沈黙の後、蛇に睨まれた蛙のように小さくなって、ミルは一言呟いた。
「……ごめん。やっぱ、売るんじゃなくて、有料のレンタルくらいにしとくんだった」
呆れるアカネの代わって、キララは思いっきり飛び上がってミルの顔をひっかいた。