プロローグ
学校裏の森の中で、その生き物を見つけた。
美しい生き物だと思った。リスより大きくヤマネコより小さい、ウサギのように耳の尖った小さな獣。ミルミギアでもこんな生き物見たことない。遠目には白い花のようにも見えた美しい毛並み。花を濁らせるこの長雨は、さながら卯の花腐しの五月雨のよう。
弱々しく睨みつける深紅の瞳には、彼女の姿は敵として映っているのだろうか。
ケガをしているようだった。見ると、右後ろ足から背中にかけて血に汚れている。その獣は小さな体を精一杯大きく伸ばして、荒い息を吐いて威嚇している。
「大丈夫、だから……」
雨が強くなる前に寮へ戻りたかった。でも、この子を放っておくことはできない。優しく声をかけて、ゆっくりと手を伸ばす。白い獣は脅えていた。
手を止めて見つめ合って、しばらく根競べ。
サーっという静かな雨は、彼女の伸ばした掌に小さな水滴を作り始めた。雨が少し強くなってきたのかもしれない。雫は手を伝い、彼女の袖を濡らしていく。
どれほどの間見つめ合っていただろうか。
白い獣のピンと張った耳は徐々に力をなくし、全身を覆っていた緊張はゆっくりと和らいでいった。先に根負けしたのは白い獣の方だった。
彼女はホッと一息ついた。
この子を連れて、とりあえず雨のあたらない所へ移動しよう。
そう考え彼女が動こうとした時、後ろの茂みがカサリと音を立てた。
葉についた雨の雫が落ちた、そう思った。しかし、目の前の獣はピンと耳を立て、再び警戒心を張り巡らせている。彼女の方は見ようともせず、ただジッとその茂みを見つめている。
彼女は振り返った。
その瞬間、茂みからは黒い大きな影が飛び出した。
「危ない!」
白い獣を庇って地面に転がった。
黒い影は、灰色の深い毛に覆われた大きな獣だった。捕らえ損なった獲物を見つめて、グルルと咽を鳴らしている。
彼女はこの獣のことを知っていた。
「アッシュウルフが、どうしてこんなところに……」
この狼は森のもっと奥を縄張りにしている。こんな森の外近くに現れるなんて聞いたことがない。
彼女は腰に持っていたナイフに手を伸ばした。野草を取ろうとして持っていたもの。もっと森の奥へ行くのであれば、火をおこす道具やアッシュウルフ達の嫌いな匂いを出す獣除けなどの道具も持って行くが、今はそういった物も持っていない。
慌てて身を起こすと、ナイフを構えてアッシュウルフと対峙する。もう片方の手で、胸の中の白い獣を庇う。
「ここはあなた達の縄張りではないわ。森の奥へ、帰りなさい」
アッシュウルフは白い獣を狙っていた。白い獣を追って、こんな所までやってきてしまったのだろうか。
先ほど庇った時にケガをしたのだろうか、ナイフを構えた手からは赤い血が雨水に混じってポタポタと垂れている。血の匂いを感じ取って、アッシュウルフは興奮しているようだった。
なんとか逃げられないだろうか……。
彼女は必死に考えていた。このままでは、自分もアッシュウルフもただでは済みそうにない。
その時、白い獣が彼女の胸から飛び出し、彼女とアッシュウルフの間に立ちはだかった。彼女を守るようにして、狼を威嚇している。
白い獣は深い紅の瞳を爛々と輝かせて、アッシュウルフを睨みつけていた。先ほどまでの脅えた様子はなかった。まるで、守るべきお姫様を見つけた、目覚めた勇者のように。
二匹の獣は睨み合う。
しかし、アッシュウルフが何かに気がついた様子を見せると、突如脅えたように身を引き始めた。白い獣は微動だにせず睨み続けた。相変わらず雨は降り続け、風は少し寒気を増したように感じる。
アッシュウルフが何に脅えているのかわからなかった。
しばらくして、アッシュウルフは彼女達の前から姿を消した。
アッシュウルフの気配が十分になくなった頃、白い獣はゆっくりとこちらを振り返った。しかし、その瞳に映るのは、安堵ではなく戸惑い。僅かな警戒の色を残して、彼女をジッと見つめている。
彼女は慌ててナイフを降ろした。
どうしてアッシュウルフが去ったのかわからない。
でも、これだけはわかった。
「助けるつもりが、逆に助けてもらっちゃったね……」
微笑みを向けると、ようやくその白い獣は緊張を解いたようだった。
近寄ってきた命の恩人を抱き上げると、彼女はその場を後にした。
まだ日が出ている時間なのに、辺りはもう暗くなっていた。雲は厚くなり、降っていた雨はより強くなって森の草木を打ち据える。
学校の裏門、雨のあたらない壁際に腰掛け、彼女は傷口の止血をしていた。ケガをした右手の甲を左手で押さえる。幸いかすり傷だったので、しばらくすれば血も止まるだろう。
止血には持っていたハンカチを使った。井戸から汲んできた水で傷口をきれいに洗うと、白い獣の方にはハンカチをナイフで切って包帯の代わりとした。こちらも傷は浅かったようで、彼女が看た時にはもう血は止まっていた。
先に治療の終えた獣は、嬉しそうに彼女の周りを動き回った後、ついさっきから姿を消している。
彼女は傷口をハンカチで押さえながら、静かに森と空を見つめていた。
微かな足音が聞こえ、彼女が横を向くとそこには草を咥えた白い獣がいた。彼女のもとまで歩いてくると、その草を彼女の目の前に置く。
その草は、血止めに使うことのできる薬草だった。
「まぁ、これを使えって言うのね」
その獣が頷いたように見えた。
「ありがとう」
とても賢い生き物だと思った。昔の人はこれを止血の薬草に使っていたし、彼女は祖母からもその応急処置のやり方を教えてもらったことがある。森の動物達も、これを止血に使っているのだろうか。
「でも……ごめんね。その薬草は治療には使えないの」
本能でわかっていたのだろうか。人間の見よう見まねで覚えたのだろうか。確かにこの薬草の成分には、血を固めて止血を促す成分が含まれている。
しかし、
「この薬草をこのままでは、止血の効果は薄いの。傷口から雑菌が入ってしまうこともあるから、このくらいの傷ならかえって使わない方がいいの」
先人の知恵とは、とても素晴らしいもの。しかし、その全てが全て正しいというものではない。
「私達生き物にはね、自分で傷を癒そうとする力があるから、その力を使ってやればいいのよ。さっきまで血の出ていた傷口も……ほら、押さえているだけで血は止まる」
素人が下手に治療するよりも、自然の力に任せた方が良い。手の甲の傷は、ほとんど血が止まっていた。
彼女の言葉を理解しているのか、白い獣は残念そうに肩を落とした。
その様子に彼女はなんだかおかしくなってしまった。
「この薬草は止血に使うよりも、お茶にする方がおいしいのよ。後で使わせてもらうね」
彼女は薬草を手に取った。この薬草は香草として料理にも使われるもので、独特の香りが伝わってくる。
白い獣はふてくされたように、彼女の膝の上を陣取って丸くなった。
「本当はね、この薬草を使って、昔の人達は魔法を使うことができたらしいの」
獣がピクリと体を動かした。
見ると、小さな口をめいっぱい開いて大欠伸をしている。可愛らしい口からは、肉食獣を思わせる小さな犬歯が見えた。
「でも、今の私達には魔法は使えない。科学を使ってそれの真似事はできるけど、呪文を唱えるだけで火をおこすことや雨を降らせることはできないわ」
魔法とは、もはや失われた力だった。本当にそんな力があったのかどうかさえ、今を生きる彼女達にはわからない。ただの伝説だったのかもしれない。
彼女は上を見上げた。高い壁の向こうには、大きな城のような建物がある。この学校は、かつてのエリュクフィル城だったもの。数十年前に城を改装し、国の指定重要文化財であるその大きな建物は、現在は学校として使用されている。
「それなのに、私の通うこの学校はエリュクフィル魔法学校と呼ばれている。本当に魔法が使える人なんて一人もいないのに、おかしな話だよね……」
独り言のように呟きながら、彼女は膝の上の獣の頭を優しく撫で続けた。
「おまえもそろそろ、森の奥へ帰りなさいね」
そう言って、彼女はお城へと戻っていった。
白い獣は取り残された。
だが、森へ戻ることはなかった。
彼女は知らなかった。
その生き物は、ヒトと変わらない高い知能を持っていた。
彼女は気付いていなかった。
この白い獣は、並の男達と変わらない、とても執念深い性格であった。
彼は迷った。
人間はとても恐い生き物だということを知っている。昔からそう聞かされ続けてきた。人間達に見つかり、絶滅寸前にまで追いやられたことも遠い過去の話ではない。
しかし、彼女が見えなくなって、彼は慌てて結論を下した。
〝このまま逃がしてたまるもんかっ!〟
気に入った相手を見つけたなら、なりふりかまわず積極的にアプローチしていかなければならない。黙って見ているだけではいけない。恋は人間であっても他の動物達であっても、何も変わることはない。
〝待ってろよ、マイハニ~!〟
白い獣は彼女の後を追った。