夏眠
「お母さーん」
娘の声で目を覚ました。いつものように、朝から騒がしい。朝ごはんの内容について愚痴っているのだろう。
重い体をゆっくり起こす。遮光カーテンの間のわずかな隙間から光が差している。その光が朝という現実を突きつけているようで、胸の奥でさらにぐっと肉体が沈んだように感じた。布団を掻いてベッドから足を投げ出す。立ち上がろうとした時にふらついて本棚の縁に手を付いた。昨夜の酒のせいだろうか。そんなに飲んだ覚えはない。しかし最初の缶ビールまでしか思い出せない。寝室の扉を開いた。階段に続く廊下を歩く。足が少し遅れてついてくるようで、それはおそらく寒さのせいだろうと思う。階段をゆっくり下りながら娘との話題を探す。
階下に降りるとさらにひんやりと肌寒さを感じた。まだ季節は春に差し掛かったばかりだ。先日雪が降ったせいもあって、春はまだ遠いように感じる。
廊下を歩きながらちらっと食卓を覗いた。なに食わぬ顔で妻と娘が朝ごはんを食べていた。私の気配は感じているはずなのに「おはよう」はない。まるで私が存在しないかのように、下を向いたまま黙々と食べ、こっちに目も合わせてこない。
ほのかに香るバターやハムの匂いが食欲を刺激したが、そのまま彼女たちの空間に行くのは気が引けた。居間に行き、ソファに身体を沈める。
すぐさま目の前のリモコンを手に取り、テレビをつける。どこも同じような休日の家族に向けた、にぎやかでしかない番組たち。ノイズとしてしか耳に入ってこない。こめかみを指の腹でさすりながら、目の奥の方にある鈍痛を感じる。
画面の中では、アフリカに生息するハシビロコウという、嘴がものすごく大きな鳥の生態を追うドキュメンタリー番組をやっていた。
主に湿地帯にいて、現地では「動かない鳥」と言われている。それは餌となるハイギョという名の魚が、水面に浮かんでくるまで何時間でもその場から動かないかららしい。
番組はハシビロコウの特集をしているのに、私はなぜかその鳥に狙われるハイギョの方が気になった。携帯で調べてみる。ハイギョは不思議な生物で、産まれたときは通常の魚のようにエラを持つが、成長に伴って肺が発達し、酸素の取り込みの大半をエラではなく肺に依存するようになる。そのため、乾期に水が干れても次の雨期まで地中で「夏眠」と呼ばれる休眠状態で過ごすことができる。しかしながら、基本的には水中で生息しているため、時々水面に顔を出して空気を取り込まないといけない。
生き抜くために進化したその生物は、その優れた性質のおかげで、不運にもいつも死と隣り合わせの状況を自ら作り上げてしまった。ある日、息継ぎのために水面に上がってきた瞬間、大きな影に覆われたと思いきや、そのまま世界が真っ暗なまま、この世を去ることになる。そんな無念なハイギョについて思いを巡らせる。
「お父さん」
急に娘の声がして我に返った。寝ていたのだろうか。霞んだ目をこする。久しぶりに自分へと向けられた声に心拍数が上がった。とくんとくんと、耳の奥で鳴っている。
娘は私の足元に指を差しながら、「爪」と言った。
爪?
久々に娘の顔を見た気がした。彼女がとても遠い存在に感じる。そして彼女が指を差した方向をゆっくりと眺める。フローリングの床の上に投げ出された自分の両足。最近、指毛がやたら長くなってきたのを気にしていたことが、頭の中をさーっと通り過ぎていった。そして、その流れが唐突に途切れた。
最初その異変を特定することができなかった。自分の足はいつもそこにあるもので、疑うという行為をしたことがない。それでもそこには疑わなければならない異変が確実にあった。さっき聞いたはずの娘の乾いた声が今になって響いてくる。
爪が消えていた。
叫び声を上げる代わりに、私の唇が勢いよく内側に入ろうとしてきた。自分の身体なのに制御が利かない。次に、呼吸が苦しくなる。喉元に触れた時、私はいつの間にか首に巻かれたネクタイの存在を感じる。吸おうとするたびに布が喉元に食い込む。解こうにも解けず涙が溢れてくる。そして、なぜか私は娘の目を見て微笑もうとする。この状況で親であろうとする自分に嫌気がさす。それでも笑顔を作ろうとする行為をやめられない。それに反して、私の口角は一向に上がってくれない。
パチン
遠くで、何かが切れる音がした。
「休みだよ」と言う声が遠くで聞こえる。なぜかそれは小さい頃の娘の声だった。
手にはいつの間にかカバンが握られている。取っ手の革の感触を感じ、条件反射で玄関にある社員証が頭をよぎる。チク、タク、と時計の秒針が頭の中で鳴り、追いかけられているような切迫した感覚に胸が締め付けられていく。苦しさにどうしようもなくなり、顔を上げる。目の前には妻がいる。他人を見るような顔をしている。私は彼女の目を見ようとするも、うまく捉えることができない。妻は私を見るようで見ていない。ただ私の前に立っているだけだ。手を伸ばしたが彼女に触れることができない。次第に世界が濁り始めていく。身体がどんどん重くなる。手足が痺れ、やがて自分ではどうすることもできなくなる。
私の視界は少しずつ狭くなっていく。その中で必死に彼女の目を捉えようとする。視界の端から色が抜けていき、彼女の輪郭だけが残る。どうしても見たい。その衝動だけを頼りにもがく。しかし、目の前にいるはずの彼女には次第に靄がかかっていく。私は必死に手を伸ばす。そして私は最後に彼女の目を捉える。しかし、それはもはや彼女のものではない。既視感がある。気づいた瞬間に完全な暗闇が私を覆った。
そのとき、ようやくわかった。
ハイギョは、生きるために水面に向かうのだ。




