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短編(異世界など)

状態異常しか治せない俺の《治療》を魔王に使ったら、魔王が治りました

作者: みき
掲載日:2026/08/22

 俺の《治療》は、傷を治せない。


 切られた腕も、折れた骨も、火傷も治せない。治せるのは毒、麻痺、眠り、混乱、それから呪いのような状態異常だけだ。


 だから、十五歳のときに神殿で《治療》を授かった俺、ルーク・フェルトを見て、神官は何とも言えない顔をした。


「……珍しい能力ですね」


「強いんですか?」


「毒キノコを食べたときなどには、とても便利でしょう」


 つまり、弱いということだった。


 普通の治癒術師なら傷を塞ぎ、病を癒やし、上位の者なら毒まで消せる。それに比べて俺の《治療》は、怪我人を前にしても何もできない。


 そんな俺が勇者パーティーに選ばれた理由も、別に期待されていたからではなかった。


「魔王城には呪いや毒の罠が多いらしい。念のため、状態異常を治せる者も連れていこう」


 ただ、それだけだった。


 勇者アレン。


 聖女リリア。


 宮廷魔導師のゼノ。


 剣士ガルド。


 そして、予備の治療役である俺。


 五人で王都を出てから一年と三か月。


 俺は何度も役に立った。


 毒矢を受けたガルドの毒を消した。呪われた沼で動けなくなったアレンを治した。眠りの魔法を受けたリリアも起こした。


 それでも、最後に言われるのはいつも同じだった。


「ルークも一応連れてきて正解だったな」


 一応。


 俺自身も、それで十分だと思っていた。


 勇者になるわけでもない。魔王へ最後の一撃を入れるわけでもない。


 俺の役目は、勇者たちが魔王までたどり着くための補助だ。


 そのはずだった。


 魔王との最終決戦で、俺が世界を救うことになるまでは。


     ◇


「アレン!」


 リリアの叫び声が、崩れかけた玉座の間に響いた。


 魔王の大剣を受けたアレンが壁まで吹き飛ばされる。聖剣を取り落とした勇者の腕から血が流れ、すぐにリリアが駆け寄った。


「《大治癒》!」


 白い光が傷を包む。


 一方、ガルドは右肩を負傷し、ゼノも魔力をほとんど使い果たしていた。


 俺も無傷ではない。


 さっき魔王が放った衝撃波を受けて、左足がまともに動かなかった。


「人間どもよ。よくぞここまで来た」


 玉座の前に立つ魔王ヴァルガスが、低い声で言った。


 三メートル近い巨体。頭から生えた二本の黒い角。全身を覆う黒い魔力は、見ているだけで息が苦しくなるほど濃い。


「だが、ここまでだ」


 魔王が剣を振り上げる。


 アレンが立ち上がろうとするが、間に合わない。


「くそっ!」


 俺は床を蹴った。


 何ができるかなんて考えていなかった。


 アレンと魔王の間へ入ろうとして、動かない左足がもつれた。


「うわっ!」


 情けない声を上げながら床を転がり、そのまま魔王の足元まで滑っていく。


「ルーク!」


 仲間の声が聞こえた。


 顔を上げる。


 目の前に魔王がいた。


「……何だ、お前は」


「予備の治療役です」


「なぜ名乗った?」


「俺にも分かりません」


 怖すぎて頭がおかしくなっていたのだと思う。


 魔王が俺を見る。


 そのときだった。


 いつもの感覚があった。


 俺の《治療》は、触れなくても、近くにいる相手が治療可能な状態異常を受けていれば何となく分かる。


 毒なら舌の奥に苦みを感じる。


 麻痺なら指先が痺れる。


 呪いなら胸の辺りが冷たくなる。


 魔王を前にした瞬間、全身にそれまで経験したことのないほど強い反応が走った。


「……え?」


 俺は魔王を見上げた。


「どうした」


「いや」


 おかしい。


 こいつ。


 治せる。


「お前……状態異常にかかってるぞ」


 玉座の間が静かになった。


 魔王まで黙った。


「……何?」


「ルーク!」


 後ろからアレンが叫ぶ。


「何を言ってる! そいつは魔王だぞ!」


「分かってる!」


「なら早く離れろ!」


「でも治せるんだ!」


「何を!?」


 俺にも分からない。


 ただ、能力は確かに反応している。


 それも、今まで治してきたどんな毒や呪いより強く。


 魔王が眉をひそめた。


「人間。何が見えている」


「見えてるわけじゃない。俺の《治療》は、治せるものが分かるだけだ」


「我に何があるという」


「だから、それを調べてる」


 意識を集中する。


 普段なら、毒なのか麻痺なのか、すぐに分かる。


 今回は違った。


 あまりにも大きい。


 まるで魔王の全身そのものが、一つの状態異常に覆われているようだった。


 それでも、ゆっくりと名前が浮かんでくる。


「……魔王化」


「何?」


 自分でも信じられず、もう一度確認した。


 間違いない。


「状態異常、《魔王化》」


 誰も動かなかった。


 アレンが最初に口を開いた。


「そんな状態異常、聞いたことないぞ」


「俺だってないよ」


「魔王なんだから、魔王なのは当たり前だろ!」


「俺に言うな!」


 それはそうなのだ。


 狼に《狼化》なんて状態異常があるはずがない。


 人間に《人間化》もない。


 だったら、《魔王化》とは何だ。


 魔王自身も動揺していた。


「……馬鹿な」


 初めて、その声から余裕が消えた。


「魔王様?」


「あり得ぬ」


「何か知ってるのか?」


「我は……魔王だ」


「だから、その魔王になってる状態を治せるらしい」


 自分で言っていて意味が分からない。


 でも、一つだけ確かなことがある。


「試していいか?」


「待て待て待て!」


 アレンが叫んだ。


「何で魔王を治そうとしてるんだ!」


「だって治せるから」


「そういう問題じゃない!」


「じゃあどうする?」


「倒す!」


「でも倒す前に治せるぞ」


「魔王を治すって何だよ!」


「俺が聞きたい!」


 魔王との最終決戦とは思えない会話になっていた。


 リリアが恐る恐る手を上げる。


「……試してみてもよろしいのでは?」


「リリアまで!?」


「もし何も起こらなければ、そのあと倒せばよいでしょう?」


「魔王相手に『ちょっと治してみましょう』みたいなことするの?」


 もっともだった。


 そのとき、魔王が大剣を床に突き立てた。


「やれ」


 今度は全員が魔王を見る。


「本気か?」


「我自身も知りたい」


「罠じゃないだろうな」


 アレンが聖剣を構える。


 魔王は答えなかった。ただ俺を見下ろしている。


「人間。名は」


「ルーク」


「ルーク。我を治してみろ」


「分かった」


 俺は魔王へ右手を伸ばした。


 これで何も起きなければ、きっと後世まで笑い話になる。


 魔王との最終決戦で、予備の治療役が魔王に回復魔法をかけた、と。


 それでも能力は間違いなく反応している。


「《治療》」


 白い光が魔王を包んだ。


 その直後だった。


「ぐっ……!」


 魔王が膝をついた。


「ルーク!」


 アレンが俺を引き戻す。


 魔王の体から、黒い煙のようなものが噴き出していた。


「何だ、これ……」


 黒い魔力が天井へ昇り、そのまま薄く消えていく。


 そして。


 ぽろり。


 何かが床に落ちた。


 魔王の角だった。


「……え?」


 もう一本も落ちる。


 巨大だった体が縮んでいく。


 三メートル近かった背丈が二メートルほどになり、黒かった皮膚が人間と同じ色へ変わる。


 鋭い牙も消えた。


 爪も戻った。


 黒い魔力が完全に晴れたとき、そこにいたのは魔王ではなかった。


 白髪交じりの、五十歳ほどの男だった。


 全裸だった。


「……」


「……」


「……」


 リリアが無言で後ろを向いた。


「ガルド、何か着せろ」


「あ、ああ」


 ガルドが外套を投げる。


 元魔王らしき男は、それを受け取って体へ巻いた。


 俺は呆然と彼を見る。


「治った……」


 アレンが俺を見る。


「お前、今何した?」


「だから」


 俺は答えた。


「魔王を治した」


     ◇


 それからしばらく、誰も戦わなかった。


 戦う相手がいなくなってしまったからだ。


 先ほどまで魔王だった男は、崩れた玉座へ腰を下ろし、自分の手を何度も見ていた。


「人間の手だ……」


「元は人間だったのか?」


 アレンが尋ねる。


 男はしばらく黙っていた。


「名前を」


「何?」


「自分の名前を思い出した」


 震える声だった。


「グレン・アルヴァード」


 ガルドが息を呑んだ。


「嘘だろ」


 俺には分からなかった。


「知ってる人?」


「知ってるも何も……」


 ゼノが青ざめた顔で答える。


「三十年前の勇者だ」


 今度は俺が固まった。


 グレン・アルヴァード。


 教科書にも載っている名前だった。


 三十年前、当時の魔王を討伐した英雄。


 ただし魔王討伐後、帰還途中で消息を絶ったとされている。


 遺体は見つからなかった。


「あなたが……あの勇者?」


 リリアが振り返る。


「ああ」


 グレンは苦しそうに頷いた。


「魔王を倒したところまでは覚えている。聖剣で胸を貫いた。その直後、黒い何かが俺の中へ入ってきた」


 アレンの顔色が変わった。


「黒い何か?」


「最初は何ともなかった。だが数日後、声が聞こえ始めた。人間が憎い。殺せ。滅ぼせ、と」


 グレンは自分の額に触れた。


「仲間を傷つけるのが怖くて、一人で逃げた。王国へ戻れば治療してもらえるかもしれないとも思ったが、そのころには角が生え始めていた」


「それで魔族領へ?」


「気づけば、そうしていた。何年も抵抗したつもりだ。だが少しずつ、自分が何者だったのか分からなくなった」


 彼は玉座の間を見回した。


「いつから自分を魔王ヴァルガスと名乗ったのかも覚えていない」


 誰も声を出せなかった。


 俺はグレンへ近づいた。


「ちょっといいか?」


「何をする」


「もう一度調べる」


 能力を集中させる。


 《魔王化》の反応はない。


 完全に消えていた。


「治ってる」


「そうか」


 グレンは目を閉じた。


 その頬を、一筋だけ涙が流れた。


 三十年間。


 この人は魔王だった。


 いや、魔王にされていた。


 そのとき、アレンが低い声で言った。


「待て」


 全員が彼を見る。


「三十年前、グレンさんが魔王を倒して《魔王化》した」


「ああ」


「じゃあ今回、俺があんたを倒していたら?」


 誰も答えなかった。


 答えは分かっていた。


 俺はアレンを見る。


「たぶん」


 喉が乾く。


「次は、お前だった」


 アレンの顔が引きつった。


「……俺が魔王?」


「可能性は高い」


「いやいやいや」


 アレンが首を振る。


「待ってくれ。俺、世界を救いに来たんだけど」


「グレンさんもそうだったんだろ」


「……」


 グレンが静かに頷いた。


 アレンは聖剣を見る。


 そして、そっと床へ置いた。


「危なかった……」


 本気の声だった。


「俺、あと少しで勝つところだったぞ」


「人生で初めて、負けかけてよかったですね」


 リリアが言う。


「聖女がそんなこと言う?」


「結果的には」


 アレンは床へ座り込んだ。


「じゃあ、歴代の魔王って……」


 ゼノが考え込む。


「すべてとは限らない。だが少なくとも、今の魔王は前代の勇者だった」


「調べれば分かるかもしれない」


 俺が言うと、グレンが顔を上げた。


「地下書庫がある」


「魔王城に?」


「歴代の魔王が残した記録だ。読もうと思ったことはなかったが……今なら意味が分かるかもしれない」


     ◇


 地下書庫で見つかった記録は、俺たちの予想よりひどいものだった。


 百八十年前の魔王ゼルディス。


 その四十二年前、勇者として魔王を討伐した記録が残っていた。


 百三十年前の魔王バルカン。


 やはり、その前代の勇者と同じ名前だった。


 八十七年前。


 五十八年前。


 そして三十年前。


 何度も繰り返されている。


 勇者が魔王を倒す。


 勇者が消える。


 数十年後、新たな魔王が現れる。


 誰も、それが同じ人間だとは気づかなかった。


「何百年これやってるんだよ……」


 アレンが呆然と呟いた。


「少なくとも二百年以上ですね」


 ゼノが答える。


「もっと古い記録もあります」


「じゃあ勇者が魔王を倒すって……」


 俺は古びた本を閉じた。


「魔王を倒してたんじゃなくて、交代してただけなんだ」


 世界を救うための英雄。


 人類を滅ぼそうとする魔王。


 正反対だと思われていた二つの存在が、一本の線でつながっていた。


 リリアがグレンを見る。


「ですが、グレン様が元に戻ったということは」


「ああ」


 俺も頷く。


「《魔王化》そのものは消せる」


 つまり。


 もう、魔王を殺す必要はない。


「今後また《魔王化》した人間が現れても、ルークが治せばいいってことか?」


 アレンが言う。


「俺が生きてる間ならな」


「じゃあ弟子を取れ」


「俺の能力、固有能力なんだけど」


「何とかしろ」


「無茶言うな」


 久しぶりに全員が笑った。


 ただ、グレンだけは笑わなかった。


「俺はどうなる」


 静かな声だった。


 アレンの表情も戻る。


 難しい問題だった。


 グレンが《魔王化》という状態異常に操られていたことは間違いない。


 だが、魔王ヴァルガスとして大勢の人間を殺したことも事実だ。


「治ったからといって、俺がしたことが消えるわけではない」


 グレンは自分から言った。


「王国へ連れていってくれ」


「でも」


「裁きを受ける」


 俺は何も言えなかった。


 グレンは少し笑った。


「三十年前、魔王を倒したら王都へ帰ると約束したんだ」


「誰と?」


「国王だ」


 アレンが目を丸くする。


「今の?」


「あいつがまだ王子だったころ、一緒に旅をした」


 知らなかった。


 歴史書には、勇者グレンの仲間として若き王子が旅の途中まで同行したことが記されている。


「ずいぶん遅くなった」


 グレンは自分の人間の手を見る。


「それでも、一度くらい帰っておきたい」


     ◇


 魔王討伐隊は、六人になって王都へ帰った。


 正確には、魔王を討伐していない。


 そのため、途中の町で聞かれるたび説明に困った。


「魔王は倒したのですか?」


「いや」


 アレンが答える。


「では、まだ生きている?」


「生きてる」


「どこに?」


「後ろ」


 グレンを見る。


 町の人が悲鳴を上げる。


 毎回これだった。


「だから説明の仕方を変えろって言ってるだろ!」


「じゃあルークが説明しろよ!」


「魔王を治しました」


「そっちも意味分からない!」


 結局、王都へ到着するまでまともな説明方法は見つからなかった。


 そして王城。


 謁見の間には国王、宰相、神官長、それに多くの貴族が集まっていた。


「勇者アレンよ!」


 年老いた国王が立ち上がる。


「よくぞ帰った! 魔王ヴァルガスは討ち取ったのだな!」


 アレンは一瞬迷った。


「いえ」


 広間がざわめく。


「何?」


「魔王は倒していません」


「では、なぜ戻った!」


「必要がなくなったので」


「どういう意味だ」


 アレンが俺を見る。


「ルーク」


「俺?」


「お前が説明した方がいい」


 嫌だった。


 けれど仕方なく前へ出る。


「魔王は、《魔王化》という状態異常にかかっていました」


 沈黙。


 国王が眉をひそめる。


「……もう一度言ってくれ」


「魔王は病気みたいなものだったので、《治療》したら治りました」


 さらに沈黙。


「治った?」


「はい」


「魔王が?」


「はい」


 国王はしばらく俺を見た。


「私は今、何を聞かされているんだ?」


「俺も一年旅して、最後にこんなことになるとは思ってませんでした」


「それで、その魔王は?」


「連れてきました」


 兵士たちが一斉に武器へ手をかける。


 アレンが手で制した。


「大丈夫です。もう魔王ではありません」


 謁見の間の扉が開く。


 グレンが入ってきた。


 借り物の服を着た、白髪交じりの男。


 角もない。


 牙もない。


 ただの人間だった。


 国王は怪訝そうな顔で彼を見る。


 グレンが数歩進む。


 それから立ち止まった。


「……老けたな、アル」


 国王の顔から表情が消えた。


「今」


 声が震える。


「何と呼んだ?」


「アル」


 グレンが笑った。


「昔、お前はそう呼べとうるさかっただろう」


 国王の手から杖が落ちた。


「まさか」


 一歩。


 もう一歩。


 国王が玉座から下りてくる。


「グレン……?」


「ああ」


「グレン・アルヴァード?」


「三十年ぶりだ」


 国王は止まった。


 そして次の瞬間、グレンを殴った。


 広間中が凍りついた。


「痛っ!」


「三十年だぞ!」


「分かってる!」


「死んだと思った!」


「俺も帰りたかった!」


「だったら帰ってこい!」


「角が生えてたんだよ!」


「知らん!」


「知らんじゃないだろ!」


 六十を超えた国王と、かつて魔王だった男が子どものように言い争っている。


 誰も止められなかった。


 やがて国王がグレンの服を掴んだまま、顔を伏せた。


「……生きてたのか」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


 グレンも泣いていた。


「遅くなった」


「遅すぎる」


「すまん」


 国王はしばらく何も言わなかった。


 それから、グレンを抱きしめた。


「おかえり」


 その一言で、グレンは声を上げて泣いた。


     ◇


 もちろん、それですべてが終わったわけではない。


 グレンが魔王として行ったことについては、これから調査が行われる。


 《魔王化》によってどこまで意思を奪われていたのかも調べなければならない。


 歴代魔王についても、神殿と王国が共同で記録を洗い直すことになった。


 俺の《治療》については、神官長が目の色を変えた。


「この能力を詳しく研究させてほしい!」


「嫌です」


「なぜ!」


「十五歳のとき、毒キノコに便利な能力だって言いましたよね?」


「昔のことではないか!」


「覚えてます」


「世界のためだ!」


「毒キノコでも食べてください」


 少しくらい意地悪をしても許されると思う。


 アレンには国王から褒美が与えられた。


 魔王を倒していないので勇者としてどうなのか、本人は気にしていた。


「俺、本当に世界を救ったことになる?」


「なるだろ」


「最後ほとんど何もしてないぞ」


「魔王に負けかけた」


「そこ褒めるところじゃないよな?」


「もし勝ってたらお前が次の魔王だったんだから、立派な功績だ」


「『魔王に負けた功績』って嫌だな……」


 そう言いながらも、アレンは笑っていた。


 俺にも褒美の話が来た。


 何が欲しいかと聞かれたので、一つだけ頼んだ。


「俺の《治療》を、神殿の記録で『劣化治癒魔法』って書くのをやめてください」


 神官長が気まずそうな顔をした。


「では、何と?」


 少し考えた。


「状態異常専門でいいです」


「それだけ?」


「十分です」


 傷は治せない。


 骨折も火傷も治せない。


 普通の治癒術師ができることの多くを、俺は今でもできない。


 だから別に最強の治療師になったわけではない。


 ただ一つ。


 世界で最も重い状態異常を、一つ治しただけだ。


 それから数日後、王城の庭でグレンを見かけた。


 裁判までの間は王城の一室で過ごすことになったらしい。


「ルーク」


「どうした?」


「礼を言っていなかった」


「何の?」


「治してくれたことだ」


 グレンは自分の両手を見る。


「三十年間、ずっと夢を見ているようだった。自分が何をしているのか分かる瞬間もあれば、何も分からない日もあった」


「そうか」


「殺した人間もいる」


 その声は重かった。


「治ってよかったのか、今でも分からない」


 俺は少し考えた。


「それは俺には決められない」


「ああ」


「でも」


 グレンを見る。


「治すかどうかは俺が決めた」


「……そうだな」


「そのあとのことは、今のあんたが考えればいい」


 グレンはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑った。


「厳しい治療師だ」


「傷には優しくできないからな」


「そうだった」


 その日の夕方。


 王都の鐘が鳴った。


 魔王討伐を祝う鐘ではない。


 正式な発表では、


『長年続いた魔王による脅威が消滅した』


とだけ伝えられた。


 間違ってはいない。


 魔王はもういない。


 ただ、死んでもいない。


 三十年前に姿を消した勇者グレン・アルヴァードが帰還したという知らせも、やがて王国中へ広がった。


 人々は驚いた。


 信じない者もいた。


 当然だと思う。


 俺だって、魔王城へ向かう前にこんな話を聞かされたら信じなかった。


 けれど事実だった。


 魔王は種族ではなかった。


 生まれつきの悪でもなかった。


 何百年も勇者から勇者へ受け継がれてきた、世界で最悪の状態異常だった。


 そして今回、その連鎖は終わった。


 勇者は魔王を倒さなかった。


 聖剣も最後の一撃を放たなかった。


 予備として連れてこられた、傷一つ治せない治療役が、一度《治療》を使っただけだった。


 その日。


 魔王は倒されなかった。


 魔王は、治った。


 そして一人の勇者が、三十年ぶりに帰ってきた。

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