3話
「あのっ、あなた様のお名前は?」
レレリスに名前を問われ、一瞬思考が停止した。魔界ではいつも魔王という立場名で呼ばれているので、自分の名前がすぐに出てこなかったのだ。
「俺様の名はディブールだ」
振り向きざまに答えたら、レレリスは目を見開いて固まった。
「そんな……魔王と同じ名前なんですね……お嫌でしょう。お気の毒に」
「え? いや……別に。嫌ではないが?」
ディブールが悪い名前という気はしないし、そもそも俺様がその魔王自身なのだから嫌なわけがない。首を傾げる俺様にレレリスは顔を曇らせる。
「いえ、魔王と同じ名前だなんてあなた様が可哀想です。あんな大悪党と同じだなんて。ご両親はクズ魔王の名前を知らなかったのでしょうか」
「ク……クズ魔王……?」
育ちの良さそうなレレリスから荒い言葉が出て思わず固まる。それにレレリスの声色に静かな怒気が感じられる。
「先程、とある人々に食事を振る舞っていると言いましたが、それは勇者様のことなんです。私は勇者様の仲間になりたくてあのロールパンを作ったんです!」
「え、勇者……?」
「はい! 私の夢は魔王討伐! 私は世界1魔王ディブールを憎んでいますので!!」
魔界へ戻ってきた俺様は腹を下して便所にこもった。人間界の食材を喰ったからだろうか。この身体に甘い物は毒なのだろうか。
腹の痛みは波のようにやってきて俺様を長期間苦しめた。しかし喰ったことを後悔はしていない。美味い物を味わうのは幸せだ。そういう懐かしい感覚を思い出せた。
(来週はどんなものが喰えるだろう……)
便所にこもりながら、そんなことばかり毎日考えていた。
「さて、そろそろ食事を取らなければ……」
腹痛が治まって丸1日が経った。ベットで身体を起こすと軽快に戸を叩く音が聞こえてきた。
(寝ていると言ったのに誰だろう。まあ、大体の見当はつくが……)
返事をする気になれず黙っていると、案の定アテリナが顔を出した。
「良かった、魔王様。起きてらしたんですね。お身体の具合はいかがですか?」
「ああ、だいぶ良くなった」
立ち上がろうとしたら空腹のせいか身体に力が入らず、グラッとよろけた。近寄っていたアテリナに支えられ……たかと思ったらそのままベッドへ押し倒された。
「ふらつく魔王様も素敵ですわ。アテリナが魔王様をもっと元気にして差し上げますね♡」
たわわな胸が俺様の胸板にボヨンと乗っかり、深いスリットから現れた白く長い脚が俺様の脚に絡みついた。
「止めてくれ、そういう気分ではない」
「あら、アテリナは魔王様を見るといつだってそういう気分ですのよ♡」
肩を掴んで押し返したが、再び強い力で押し倒された。こうなるとアテリナは驚くほど力が強い。長いピンク髪がサラリと顔の上に垂れてきた。かゆい。
「退け!」
アテリナを持ち上げ床に放り、俺様は扉へ向かった。襲われそうになったのは今回で何度目だろう。来る度に突き飛ばしたり、蹴落としたりして拒んできたのだが、どうやらドMのサキュバスには逆効果だったらしい。日に日に夜這いの頻度が高くなっている。受け入れたら精気や魔力を大幅に吸い取られてしまうだろう。体力が落ちている今は危険だ。
「ああんっ、魔王様ったら♡」
扉を閉めるために振り返ったら、アテリナは頬を桃色に染めて涎を垂らしていた。
長い廊下を歩き食堂へ入る。するとゴブリン達が忙しなく朝食の準備に取りかかっていた。俺様が入ってきたことにゴブリン頭のススーが気付き、駆け寄ってくる。
「魔王様、ど、どうされましたっ?」
「腹が減った。早めに朝食を出してくれないか」
「承知ですっ! お待ちくださいませっ!」
座って待っていると、深皿を大切そうに掲げたネビロウスが入って来た。
「魔王様、お加減良くなられたんですね」
カッ、カッ、と革靴の鳴る音が食堂に鳴り響く。
「何を持ってきた?」
「スープです」
目の前にコトッと置かれたのはスープというより、目玉の浮いた真っ黒い泥だった。
「オークの目玉と睾丸、それにドラゴンの肝を数日煮込んでおりました」
「……」
高級食材なのは分かる。栄養価が高いのも分かる。でもドラゴンの肝は数日ずっと口の中が苦くて、中々寝付けなくなるシロモノだ。あれが煮込まれてスープになっているとは……。過去に食べた記憶が口の中で蘇り、全身に悪寒が走った。
ネビロウスは丸眼鏡をクイッと持ち上げて、俺様が食うのを今か今かと待ち侘びている。
震える手でスプーンを手にし、俺様は恐る恐る泥を掬った。真っ黒な泥はスプーンで掬うと灰色になった。細い血管のようなものがチラホラ浮いている。湯気は紫色。ヘドロのような匂い。深く濃いため息を吐き、俺様はスプーンを口に運んだ。
「ぐぅ……マズい……」
マズすぎて頭を抱えた。眉間にシワが寄ってしまう。でも空っぽだった体内にジワリと温かいものが流れ込んでいくのがわかった。
(栄養だ! 薬だ! 俺様は魔王だ! こんな喰い物がなんだ!!)
言い聞かせ、奮い立たせ、俺様は皿を持ち上げてゴクゴクと飲み干した。「ゴン!」と皿を置くとネビロウスは「流石は魔王様」と盛大に拍手した。
口元を拭いながらフラフラとした足取りで自室に戻った。アテリナはもう居ないようだ。良かった。
「もうひと眠りするか……」
吐きそうなのを堪えつつ、バタンとベッドへ倒れ込む。
「ああ……またあのロールパンが食べたいなー」
ふわふわの優しいパン。懐かしい素朴な味。
「ああ、でもやっぱりクロワッサンの方がいいかなー」
サクサクで甘いパン。あの食感は忘れられない。
「いやもう、どちらでも良い! 早く食べたい!!」
レレリスに会いに行くのは明後日だ。明後日が待ち遠しい。
やっと1週間が経った。会議を終え、ネビロウスやアテリナ、カブコスの三幹部は魔王城のテラスへ向かった。会議後恒例のお茶会だ。お茶会と言っても彼らが飲んでいるのはお茶ではない。ドラゴンの血だ。
(あんなマズい物、よく飲めるな……げえ……)
ソロ~っと魔王城を抜け出した俺様は先週と同じくフォーリオへやってきた。先週と同じ建物の裏に隠れ、人間化する。先週と同じ顔、同じ服。何度見ても冴えない男だ。ただ死ぬ前の自分よりもだいぶふっくらしている。それだけが拠り所だ。
レレリスが憎んでいるのは魔王ディブールであって、人間のディブールではない。きっと約束通りレレリスは来てくれるだろう。
そう思って前回出会った草原へと俺様は歩いた。
経った1週間しか経っていないのに懐かしい景色だ。晴れ渡る青空、遠くに見える緑の山。道端に咲く赤い花。
(人間界は色が多いな……)
「ディブールさん」
鈴の鳴るような声が聞こえて振り返ると、本日も手にカゴを持ったレレリスが立っていた。
「やあ、レレリス……」
何とか笑顔を作って返事をしたが、レレリスはスッと目を伏せた。
(なんだ? 様子が変だな……)
「あの、お聞きしたいことがありまして……」
レレリスはそう言ってやっと顔を上げたが、沈痛な面持ちだった。怒っているような気配もある。
「聞きたいこと? なんだ?」
(まさかバレた? 俺様が魔王だと気づいたのか?)
もし気づかれたのなら、すぐにでも人間化を解こう。俺様は後ろ手で指を鳴らす準備をした。




