2話
『ラヴィ、もう少しだ。ほら、膨らんできたぞ!』
懐かしい香りと共に懐かしい声まで聞こえてきた。この声は誰の声だっただろうか。ああ、そうだ。優しい父の声だ。
『うわーすっごく膨らんでる! それにとっても良いにおい!』
そうだ。今日は僕の誕生日。年に1度だけ、お父さんがご馳走を作ってくれる日だ。
お父さんは毎日汗だく泥だらけになって畑から帰ってくる。ものすごく疲れてるのに、2人でお粥を回し飲むだけの夜ご飯。
「ラヴィがもっと飲みなさい。育ち盛りなんだから」
お父さんはそう言っていつも少ししか飲まなかった。お母さんは僕を生んだ後、すぐに死んでしまった。だから6年間ずっと2人暮らしだ。
今日は真っ白な小麦の柔らかいパンが食べられる。どんな味がするんだろう。早く食べたい。
「もうすぐで完成だぞ」
そう言って目を細めた父。この懐かしい香りは、あの時のパンと似ているーー。
いつの間にか俺様は目から涙、口からは涎を垂れ流していた。香りが転生前の記憶を引き出したらしい。
目の前にはカゴを持った若い女が心配そうに俺様を見下ろしていた。ゆるふわの長い金髪にベレー帽を被っている、まるで天使のような女だ。
「大丈夫ですか?」
女は心配そうに俺様の顔を覗き込んできた。
(近い……)
女の持つカゴから香ばしいパンの匂いがする。
「体調不良かしら、お医者様に診ていただかなければ……」
女は地面にカゴを置いて立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回した。
パンを奪うチャンスだと思い、俺様はカゴに手を伸ばした。だが、絶妙な位置に置かれたようで、血のまわっていない身体ではあと数センチの距離が届かない。
「ダメだわ、人がいないわ。この方を担いで行くしかないわ」
女は背中のリュックを下ろした。そして俺様をどう背負うかとブツブツ呟き始めた。
「まず片手を持ち上げて……それから……」
目の前に置かれたリュックからも美味そうな香りがしてくる。どうやらリュックには甘い喰い物が入っているらしい。カゴがダメならリュックだ。俺様はそっとリュックに手を伸ばした。垂れ下がった紐を掴んで、ぐっと引き寄せる。
「あれ?」
女は急に振り返った。そして俺様をジッーと見つめた。
涙はもう止まったのだが、まだ涎はダラダラと垂れ流れ続けている。女はそれを見て、ハッと口を押さえて目を見開いた。
「もしかして、お腹が空いてるんですか?」
コクコクと頷くと、女はカゴの中からロールパンを1つ取り出し、俺様に差し出した。
(違う!)
最後の力を振り絞り、俺様はカゴを女から奪い取った。横になったままカゴを抱え込み、入っていたロールパンを両手にむんずと掴むと勢いよく口に入れた。
「はむっ、はむっ」
ふわふわで柔らかい。パンは父が作ってくれたあの時のパンとそっくりの味だった。噛み締めていると、またボロボロと目から涙が出てきた。
「うっ……うっ……」
嗚咽を漏らしながらパンをむさぼる俺様を、女は呆気に取られた様子でただジッと見つめた。
「うまいっ……うますぎるっ……」
魔界にもパンはある。その名も”苔パン”。固くて臭くてまるで泥団子を食べているような味と食感だ。
魔王に転生して15年。ようやくありつけた飯らしい飯だ。
「ああ……もう無くなってしまった……足りん……」
夢中になって喰っていたらカゴの中のロールパンはあっという間に無くなった。女が持っていた最後の1つも奪い、この場にあったロールパンは全て俺様の腹に収まってしまった。
頭や体に血が巡っていく感じがして、俺様は体を起こした。
「女、そのリュックにも喰い物が入っているだろう。寄越せ」
ギロリと睨んで凄むと、女は目を丸くしてリュックをギュッと抱えた。
「何で分かったんですか?」
「甘い匂いがする。今すぐ寄越すんだ、さもないとーー」
「あ、じゃあ! 何が入っているか当てたら差し上げますよっ!」
「……え?」
さもないと命はないと思え、と言うところだったのに、女は呑気にもクイズを出してきた。甘い喰い物なんか俺様は喰ったことがない。甘い喰い物の名前なんてひとつも知らない。
転生前は味のしない粥かスープばかりだった。転生後は毒々しくて苦い物ばかり喰ってきた。
「えーっと……」
「ブーッ! 残念! 時間切れです!」
女は手でバッテンを作ると、腿に乗せていたリュックを開けた。
「正解は……クロワッサンでしたー!」
中から出てきたのはピカピカに輝く三日月型のパンみたいな喰い物だった。
「クロ……ワッサン……これが?」
「あれ? もしかして知らないんですか?」
キョトンとした目で女が見つめてくる。
「い……いや、知ってはいるが、その……ド忘れしていたんだ」
悔しくてそっぽを向くと、女はクロワッサンとやらを俺様に差し出し、ニッコリ笑った。
「どうぞ、差し上げます。感想を聞かせてください」
甘い香りが俺様の胃袋を刺激する。
「ああ、まあ、そうか。仕方がないな。感想を述べるために喰ってあげよう」
クロワッサンを受け取ると表面の1枚がパリッと音を立てた。
(なんていい香りなんだ。もしやあの憧れていた砂糖が入っているのでは……)
パリッ、サクッ、ジュワッ。
端をかじったら甘みと旨味がジュワーっと口の中に広がった。
「うんまっ!!」
こんな喰い物があっていいのか。美味すぎて気付くと俺様は仰け反っていた。
「こんなに美味いクロワッサンは喰ったことがないぞ! 優しい甘さだからいくらでも喰えそうだ。焼き具合も申し分ない」
クロワッサンすら喰ったことがないのに、知ったかぶりを貫いてさもそれっぽい感想を述べた。
「自信作だったので嬉しいです!」
女は豊かな胸に手を当てニッコリ笑った。そして腿に乗せていたリュックをまた開けた。
「まだありますので良かったらどうぞ」
空っぽのカゴの中にクロワッサンを入れていく。1、2、3、4、全部で5つ。
「え……これもいいのか?」
「ええ」
「……」
(何者なのだろう、この女。パン屋かと思ったが、もっと身分が高いかもしれない)
上下共に生地の良い服を着ている。白シャツの上に深緑色のポンチョを羽織っているのだが、ベロア素材で所々に金糸の飾りが付いている。何より胸元に輝くバッジは純金製だ。一般庶民が付けられる代物ではない。
「言ってふぉくがな、女。俺様は金貨など持ってないぞ? 支払いとかふぁできないからな?」
クロワッサンを頬張りながら言うと、女はニコニコと微笑みながら頷いた。
「大丈夫です。捨てるのは心苦しかったので、美味しそうに食べてもらえて良かったです」
「はあ!? 捨てる!? なんでだ!?」
勿体無さ過ぎる言葉に俺様は思わず怒鳴った。すると女は眉を下げて苦笑いした。
「実は先ほどのロールパンはとある人々に振る舞うために作ったんです。でも不合格と言われて、返されてしまって……」
「あんなに美味かったのに、なんで不合格なんだ!?」
俺様が苦々しく睨むと、女は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます」
女の嬉しそうな顔を見ていたら、ふと妙案を思いついた。
「女……また喰いに来てもいいか?」
「え?」
「またその者たちから返されるようだったら俺様が貰ってやろう」
「ええ!? いいんですか、助かります!! では来週のこの時間に……」
女に手を取られ、気が動転した俺様は咄嗟に手を強く振り払い、立ち上がった。
「貴様っ! 軽々しく俺様に触れるでないっ!」
「すっ……すみません……」
気安く話し過ぎてしまった。もう人間界に用は無い。
「女よ、貴様の名前は?」
「レレリスです」
「レレリス、じゃあまた来週ここに来る。その時は余った喰い物を持って来るがいい」
「はい。分かりました」
レレリスも立ち上がったので、俺様は踵を返した。あの木の裏へ回ったら魔界へ飛び立とう。
しかし、歩き出して間もなくレレリスに呼び止められた。




