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バス

作者: 通りすがり

山道を進むバスの中で、健次は深い呼吸を繰り返していた。全身にまとわりつく湿り気が不快で、着古したTシャツが肌に貼り付く感触に思わず顔を顰める。また、あの夢だ。バスが横転し、動けない体で意識が薄れていくあの悪夢。一体何度、この悪夢に苛まれただろうか。

健次はこれまで、バスどころか車での事故にさえ遭遇したことはなかった。にもかかわらず、なぜこれほどまでに生々しい夢を見るのか。もしや、これが予知夢というものなのだろうか。だとすれば、健次には未来で事故に巻き込まれる運命が待ち受けているということになる。そんな未来など、真っ平御免だった。もし夢の通りに事故に遭うというのなら、バスに乗らなければいい。幸い、健次が普段バスを利用する機会はほとんどない。予知夢であろうとなかろうと、念のためバスには乗らないでおこう。健次はそう心に決めた。



それから一月ほどが過ぎたある日、健次は仕事の都合で県外れの山間にあるM村へ向かうことになった。M村には鉄道が通っておらず、最寄りの駅から車を利用するしかなかった。当日、駅からはタクシーに乗る予定でいたが、実際に駅に着いてみると、そこは駅舎がぽつんと佇むだけの小さな駅で、駅前にはタクシー乗り場はおろか、タクシー一台さえ見当たらなかった。

どうしたものかと駅舎の駅員に尋ねると、この辺りでタクシーを拾うのはまず無理だという。だが、M村へはバスが出ており、間もなく駅前のバス停にやってくるはずだと教えてくれた。バス......その言葉を聞いた瞬間、健次はあの悪夢を鮮明に思い出した。ここへ来る前に交通事情を確認しなかった自分を、健次は激しく呪った。しかし、もはや健次に選択肢はなかった。M村へ行くには、バスに乗る以外の手段がないのだ。

そう考えている健次の視界に、年季の入った古めかしいバスがゆっくりと姿を現した。バス停に停車したバスの扉が、けたたましい音を立てて開く。健次は覚悟を決め、バスの中に乗り込んだ。



夢の中では、健次はバスの進行方向右側の座席に座っていた。ならば左側に座れば、少なくとも夢の通りにはならないはずだ、健次はそう考えた。バスは真ん中に通路があり、両側に二人掛けの席が並ぶタイプだった。意外にも乗客が多く、空いている席は見当たらない。

困惑気味に立ち尽くす健次に、運転席に座る運転手から声がかけられた。


「ここからは山道でバスは揺れますので、空いているお席にお座りください」


バスの壁には『山道危険 揺れに注意』と太い字で書かれた貼り紙もある。再びバスの中を見渡すと、一席だけ空いている席を見つけた。だがそれは、バス前方の右側の座席だった。

もし右側の席に座ったら、あの夢の通りになってしまうかもしれない。健次が躊躇していると、一番前の席に座っていた老人が健次に向かって言った。


「早く席に座れ。バスが発車できないだろうが」


周囲を見渡すと、他の乗客たちの視線が健次に注がれていた。彼らの顔には、健次がなぜすぐに座らないのかという苛立ちが露わになっていた。健次はその状況に居たたまれなくなり、慌てて右側の空いている席に座った。バスはゆっくりと動き出し、健次は他の乗客たちの視線からようやく解放された。



座席に身を沈めた健次は、頭を抱えてこの後どうすべきかを考えていた。このままバスに乗っていれば、もしかしたら夢の通りになってしまうかもしれない。たかが夢だと割り切れないほど、この状況は健次を不安にさせた。次のバス停で降りてしまおうかとも考えたが、どこだかわからない場所で降りるのも、後々のことを考えると不安が大きい。考えがまとまらないまま、バスは山道を進んでいく。途中、狭い山道で対向車線を大型トラックが走り抜けるたびに、健次の心臓はきゅっと締め付けられるように苦しくなった。

駅員に聞いた話では、目的地まではバスで1時間ほどかかるらしい。まだバスは走り始めて10分ほどだ。目的地に着くまで、とてもこの状況に耐えられそうにない。次のバス停で降りて、電話でタクシーを呼ぼう、健次はそう決意した。どれくらい待つことになるのか、タクシー代がいくらかかるのかは分からなかったが、この状況が続くよりは遥かにマシだと思えた。

健次は座席横の壁にある停車ボタンを押した。バスの中にブザーの音が響き渡る。その途端、他の乗客の視線が健次に集中した。先ほどとは違い、どの顔にも驚きの表情が浮かんでいる。どういうことだ。次のバス停で降りることに何か問題でもあるのか。困惑しながら周囲を見回すと、健次とは反対側の席に座っていた若い男性が尋ねてきた。「あなた、どこで降りるつもりですか」


健次は次のバス停で降りたいことを伝えた。すると男性は呆れたような顔で言った。「このバスは、この先終点までノンストップですよ。途中で停まるバス停なんてありません」

健次は耳を疑った。ノンストップ?そんなこと、どこにも書かれていなかったし、あの駅員も一言も言っていなかった。健次は慌ててバスの前方にある運賃表に目をやった。確かに、表示されているのは健次が乗り込んできた駅名と終点の村の名前だけで、その間に停留所の表示は一切ない。健次の背筋に冷たいものが走った。このバスは、途中下車ができない。つまり、夢の通りになるかもしれない恐怖を抱えたまま、このバスに乗り続けなければならないのだ。

健次の不安な気持ちとは裏腹に、バスはさらに山奥へと進んでいく。道はますます狭くなり、ガードレールのない崖沿いの道が続く。対向車はほとんどないが、たまに大型トラックが猛スピードでバスの横をすり抜けていく。その度に健次の身体は硬直した。時間は永遠のように感じられた。10分、20分、30分……。時計を見るたびに、まだこれだけしか経っていないのかと絶望した。バスのエンジン音、タイヤが路面を擦る音、そして何より、自分の荒い息遣いだけが車内に響くように感じられた。

他の乗客たちは、まるで最初からこの状況を知っていたかのように、誰もが静かに座っていた。彼らの視線が、時折健次に突き刺さるように感じられた。まるで、健次のこの恐怖を楽しんでいるかのようにすら思える。

「あとどれくらいで着くんですか」

耐えきれなくなり、健次は身を乗り出して運転手に尋ねた。運転手はバックミラー越しに健次の顔をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「もうすぐですよ。この道を抜ければ、すぐに終点です」


その言葉に、健次はわずかに安堵した。もう少しでこの状況から抜け出せる。しかし、一瞬見えた運転手の表情は奇妙に歪んでいた。まるで、何かを隠しているかのように思えた。



バスが急なカーブを曲がると、開けた場所に出た。しかし、見えたのは村ではなかった。そこにあったのは、廃車となった古びた車が何台も放置された、薄暗い広場だった。そして、その中央には、朽ちた一台のバスが横倒しになっていた。それを見た健次は凍り付いた。それは、夢で見たバスと瓜二つだった。右側を下にして横倒しになり、潰れた車体。乗ってきたバスはそのまま、その横倒しのバスのすぐ隣に停車した。

「着きましたよ、お客さん。ここが終点です」

運転手の声が、健次の耳には死刑の宣告のように響いた。乗客たちは一人、また一人と静かにバスを降りていく。彼らは何の迷いもなく、横倒しになったバスの横を通り過ぎると、その先に続く薄暗い道を奥へと消えていった。

健次は身体が震え、席から立ち上がることができなかった。近くの座席に座っていた男性が、健次の肩をポンと叩いた。


「ほら、あなたも早く降りなさい。バスはすぐに発車するんだから」


男性の声は、先ほどまでとは違い、どこか冷たく響いた。健次は顔を上げ、男性の顔を見た。そこには、これまで健次に向けていた怪訝な表情や呆れた表情はなかった。ただ、無表情に、健次を見つめる瞳があった。まるで、健次がこの場所にたどり着くことを知っていたかのように。

健次は意を決してバスを降りた。バスは健次が降りた途端、ゆっくりとUターンし、来た道を戻っていった。健次は一人、廃車が並ぶ広場に取り残された。夕暮れが迫り、空は不気味な赤色に染まっている。風が吹き荒れ、廃車が軋むミシミシとした金属音が不気味に辺りに響く。



健次は横倒しになったバスに近づいた。潰れた窓ガラスから中を覗き込むと、泥や埃で汚れたままの座席が散乱していた。その中に、見覚えのある座席を見つけた。それは、健次が夢で毎回座っていた、バスの進行方向右側の座席だった。そして、その座席には何か黒く汚れた布のようなものが落ちている。さらに近づいて見てみると、それはどこかの幼稚園の園児服のようだった。

その時、健次はハッと息をのんだ。健次の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇ったのだ。それは、幼稚園に通っていた頃、遠足で健次が乗るはずだったバスが事故を起こしたというものだった。乗っていた引率の先生や多くの幼稚園児が亡くなった痛ましい事故だった。たまたま健次は、その遠足には高熱を出して参加できなかったので難を逃れていたのだった。

健次の心臓が激しく脈打つ。もしかして、あの夢は、予知夢などではなく、健次が参加できなかったあの遠足での事故で死んだ誰かの記憶だったのではないか。そして、健次は、その事故で死んだ誰かの視点で、あの夢を見ていたのではないか。

だとすれば、なぜ健次は今、ここにいるのだろう。健次は、横倒しになったバスの残骸をじっと見つめた。そして、先ほどバスに乗っているときのことを思い出していた。不自然なほどに混んでいたあのバス。そして他の乗客たちが健次に向ける悪意のある視線。もしかして彼らは、全てを知っていたのだろうか。健次がこのバスに乗ることも、そして、健次がこの場所にたどり着くことも。ならば、このバスに乗っていた乗客たちは、一体誰なのだろうか。そして、健次はなぜ、この場所へ導かれたのだろうか。分からないことだらけだった。健次は、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。暗闇が健次を包み込み、冷たい風が健次の頬を撫でる。健次は、もはや自分が生きているのか、それともすでに死んでいるのかさえ、分からなくなっていた。



「健ちゃん」

突然、子供の声が聞こえた。健次は幼い頃、友達から「健ちゃん」と呼ばれており、その声にはなんとも言えない懐かしい響きを感じた。すると、バスの陰から人が出てきた。背丈は健次の半分ほどしかない幼い子供だった。

「健ちゃん」

その子供は健次に向かってそう呼びかけた。健次は自身に呼びかけてくる子供が誰なのか思い出していた。幼稚園の時、一番仲が良かった友達のことを。

「慎ちゃん、慎ちゃんなの?」

幼い子供は嬉しそうに頷いた。

「覚えていてくれたんだね、嬉しいよ」

健次も嬉しくなり笑おうとしたが、その瞬間にあることを思い出し、笑顔が凍りつく。

「でも慎ちゃんは、あの遠足で……」

そう、慎ちゃんはあの遠足の事故で多くの級友と共に帰らぬ人となっていたのだ。

慎ちゃんはそれには答えず、ただ笑って健次を見ているだけだった。しばらく無言で見つめあっていた二人だが、やがて慎ちゃんが口を開いた。

「健ちゃん、一緒に行こうよ」

それを聞いて健次の顔が強張る。

「どこに行くの」

「大丈夫だから一緒に行こう。皆でこうして迎えに来たんだよ」

慎ちゃんが健次に手を伸ばしながら近づいてくる。

「やめてくれ、俺はまだ死にたくない」

健次は慎ちゃんが差し出した手を振り払い、後ろに下がった。慎ちゃんは子供の甲高い声で笑い始めた。

「何言ってるの、もう健ちゃんは死んでいるのに」

「はっ、何を言ってるんだ」

その時、背後から何かが迫ってくる気配を感じ、健次は振り返った。大型トラックが健次の立つ方に向かって突っ込んでくる。けたたましいクラクションの音が辺りに鳴り響く。健次は逃げようとするが、足に根が生えてしまったかのように動けない。トラックが目前に迫る。健次は背後を見ると、慎ちゃんが先ほどと同じ場所で笑顔で健次のことを見つめている。

健次はすべてを悟ると、逃げるのを諦め、目を閉じ、体を硬直させた。やがて体に強い衝撃を感じると、健次の意識はその瞬間に途絶えた。



「次のニュースです。本日午後5時頃、N県Y村の山中の道路で、車道に立っていた男性を撥ねたとトラックを運転していたドライバーから110番通報があり、警察と救急隊が現場に向かったところ、N県M市在住の〇〇健次さん(32)がトラックに轢かれて心肺停止の状態で近くに倒れており、その後救急車で搬送されましたが、病院で死亡が確認されました。現場は近くに民家もない山中で、〇〇健次さんが何故そのような場所にいたのかは分かっておりません。警察は事件、事故の両面から捜査に当たるということです」

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