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勇者になった俺  作者: 狐御前
第1章
9/22

エピローグ:勇者と姫君

 王都エルデンティアには、ふたつの“守りの柱”がある。

 一つは、王国騎士団。王家直属の武装組織として、城や都市中枢の防衛、国境線の警備、そして王族の護衛を任務とする精鋭たちだ。

 その責務はあくまで国家規模の秩序維持にあり、民間の争いごとや街道の小さな事件には原則として関与しない。


 そしてもう一つが、冒険者ギルド。

 商人の護衛、盗賊退治、魔物の討伐――民衆の生活に根ざしたあらゆる依頼を受け持ち、腕に覚えのある者たちが集う民間組織である。

 公的機関ではないが、王都においては準国家機関として認可されており、地方自治体とも連携を取りつつ活動している。


 両者の関係は、決して上下ではない。

 王国騎士団が「盾」であるならば、冒険者ギルドは「網」――

 国家と民間、それぞれの領域において防衛線を張る役割を担っており、緊急時には横のつながりとして情報交換や人員の派遣が行われることもある。


 そして今――

 その“網”の方に、少しばかりのほつれが生じているらしい。


 王都近郊の町で、不自然に魔物の出現頻度が高まっているとの報告があったのは、ほんの数日前のことだ。

 最初は単なる季節変動かと思われたが、どうやらそれだけでは済まないらしい。


 それが、次の出来事の幕開けだった。


 王都の東端に位置する石造りの建物――

 それが、エルデンティア王国における冒険者ギルドの本部だった。


 騎士団の詰所とは異なる熱気。

 人々の声、武具の音、紙をめくる音、誰かが酒をこぼす音。

 そのすべてが雑多で、それでいて妙に調和していた。


 俺は、少し戸惑いながら扉をくぐった。


「……勇者様、どうか気負われずに」


 背後から声をかけてくれたのは、リアノ姫だった。

 今日の姫は、王族のローブを控えめにあしらった旅装姿。

 冒険者たちにとっては“上得意の依頼人”としても知られており、その姿には場の緊張感さえあった。


「研修の一環として、現場を知ること。それもまた、勇者としての務めにございます」


「……はい、心得ております」


 軽く一礼し、受付で名を告げると、すぐに案内された。


 ギルド長室。

 応接用の長椅子と、奥に設えられた一枚の大机。

 そして――その机の向こうにいたのが、アザレアだった。


 背筋を伸ばして座るその姿は、まるで騎士団の教範に出てくるような“静かなる矜持”を体現していた。

 年齢は二十代後半から三十手前ほどだろうか。

 艶のある漆黒の髪を後ろで一つにまとめ、視線には研ぎ澄まされた落ち着きがある。


「ようこそ、勇者殿。並びに、リアノ=ルヴィア姫。お運びいただき光栄です」


 声は低く、心地よく響く。

 それでいて、どこか剣の刃に似た緊張感があった。


「わたくし、当ギルドの運営責任を務めております、アザレア・クラリモンドと申します」


 軽く頭を下げるその所作は、無駄なく、静かで、凛としていた。


 まるで――

 騎士の甲冑を脱いだまま、心だけを研ぎ澄ませたような人。


 そんな印象だった。


「勇者殿には、研修として一日、当ギルドの現場をご覧いただきます。どうぞ、お気軽にお過ごしくださいませ」


「……よろしくお願いいたします」


 言葉を交わしただけでわかる。

 この人は、強い。そして、信頼されている。

 剣ではなく、振る舞いそのものが“立場を守る力”になっているようだった。


 冒険者ギルド。

 それは、騎士団とはまったく異なる“もうひとつの守りのかたち”だった。



 ギルド長室を後にし、俺たちは一階の広間へと降りた。

 賑わいの中心――そこにあるのが、依頼掲示板だった。


 石の柱に囲まれた空間の中央。

 そこには無数の紙が貼られ、次々と人の手に取られては消え、新しいものがまた貼られていく。


 討伐、護衛、採取、探索――

 記された文字は多岐にわたり、そこには“生きるために戦う者たち”の息遣いがあった。


 アザレアが、立ち止まる。


「ここが、依頼の発着場となります。掲示された内容は、すべて現地での実戦に直結します」


 彼女は声を潜めるでもなく、騒がしい中でも明瞭な調子で語った。


「冒険者たちは、剣技においては騎士に劣ります。体系だった訓練も、護衛の隊列も、彼らにはありません」


 しかし――と、アザレアは視線を掲示板に向けた。


「それでも、実戦においては彼らが騎士を凌ぐ場面がある。理由は単純です。“生きるために戦っている”からです」


 周囲を見渡せば、鎧の代わりに革装備を身にまとい、剣の代わりに斧や槍を握った男たち。

 手早く依頼を選び、仲間と視線を交わして出ていく女たち。


 そこには、騎士団にはない“泥の強さ”があった。


「だからこそ、勇者殿には――」

 アザレアは、こちらへと顔を向けた。


「剣の形だけではなく、“現場で勝つ術”を学び取っていただきたいのです。

 貴方様がさらに強くなり、王国を守る柱となってくださることを……わたくしは、願っております」


 その言葉に、わずかに揺らぎがあった。


 それは“上役としての義務”ではない。

 一人の人間として、未来に託す想いが、そこには宿っていた。


「……はい。必ず、糧にします」


 俺は深く頭を下げる。


 ――その隣では。


「……ふふっ、“野良羊の大群、道路封鎖事件”……可愛らしいお仕事もあるのですね」


 リアノ姫が、楽しげに掲示板を覗き込んでいた。


 目線の先には、どう見ても“王族が手を出す案件ではない”ような依頼書が貼られている。

 無論、姫は依頼をこなす気などないのだろう。

 ただ、興味深げに民間の暮らしへ触れている――その仕草が、どこか微笑ましかった。


「姫様、あまりおふざけは……」


「おふざけではございませんわ。勇者様の研修にお付き添いするからには、わたくしも学ぶべきかと」


 そう言って、ほんの少しだけ――

 姫は、楽しげに目を細めた。


 騎士団では得られない何かが、ここにはある。

 そんな確信が、胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じていた。


「クエストに出向くには、まず登録が必要です」


 アザレアがそう告げたのは、依頼掲示板を一巡した後のことだった。


「形式とはいえ、冒険者としての証を持たぬ者に依頼を任せることはできません。お手数ですが、勇者殿にもカードを発行していただきます」


「はい、お願いします」


 頷くと、案内されたのはカウンター奥の鑑定室。

 壁際には魔術式の刻まれた台座があり、その中央には球状の水晶が嵌め込まれていた。

 魔力の有無、戦闘経験、身体能力――冒険者としての“総合的な適性”を測定する、簡易鑑定装置だという。


「では、手をかざしてください」


 受付係が促す。

 俺は静かに、両手を水晶の上に重ねた。


 ――光が、走った。


 水晶の内側に、ぼんやりと浮かび上がる色と記号。

 緑がかった淡光の中に、浮かび上がったのは――


 《C》


 その瞬間、周囲から微かな笑いが漏れた。


「……えっ、C? マジで?」


「まさか、勇者様ってその程度だったのかよ」


「いやいや、さすがにギャグでしょ? 登録ミスじゃね?」


 気づけば、近くで作業をしていた他の冒険者たちが、面白がるようにこちらを見ていた。


 その反応に、俺は――特に何も思わなかった。


 というのも。

 俺の隣に立つ二人の表情が、まったく揺らいでいなかったからだ。


 アザレアは、腕を組んだまま、ただ一度小さく頷いた。


「……想定の範囲内です。現場の経験を経れば、すぐに数段階は上がるでしょう」


 口調は静かで、何ら動揺の色もない。

 むしろ、あらかじめ結果を見通していたかのような落ち着きがあった。


 そして、リアノ姫。


「ふふっ……」


 彼女は柔らかな笑みを浮かべたまま、何事もなかったように手を合わせていた。


「では、これで晴れて登録完了ですわね。勇者様、さっそく依頼を選んでまいりましょうか?」


 まるで、《C》という評価に一片の価値も置いていないかのように。


 それで充分だった。

 信じる者が笑わない。それだけで、自分の足元が揺らぐことはない。


「……お願いします」


 俺は静かに答え、カードを受け取った。


 名前と顔写真の下、金属めいた枠に浮かぶ“C”の文字。

 だが、それは今の俺にとって、通過点に過ぎない。


 この先に、見せるべきものがあると――そう思えた。


 冒険者カードを手にした俺は、そのままC級相当の依頼を受けることになった。

 内容は、王都郊外の巡回と簡易な魔物の排除。騎士団で言えば訓練の延長のような任務だが、冒険者にとっては日銭を稼ぐ基本中の基本だという。


「現地には、私の代わりに案内役を用意してあります」


 アザレアはそう言って、任務の詳細を綴った文書を手渡してくれた。


「アルフレッド・ガードナー。B級冒険者としては中堅ながら、指導経験もあります。今回は研修として、彼に随行していただきます」


 彼女の口調は変わらず静謐だったが、その名を口にする際、わずかに――ほんのわずかに言葉が重たくなったような気がした。


 * * *


 待ち合わせ場所は、王都の外れにある集積所。

 木箱が積まれた一角に立っていたのは、黒の軽装鎧に身を包んだ長身の男だった。


「……あんたが、勇者様ってやつか」


 声は低く、言葉の端に棘があった。


 アルフレッド・ガードナー。

 年齢は二十代後半、腕は確かだと聞いていたが――どうやら、素行の方はあまり整っていないらしい。


「悪いけどな。オレは、実力がすべてだと思ってる」


 鋭い視線で俺を値踏みするように見ながら、アルフレッドは鼻で笑った。


「水晶でCって出たんだろ? だったら、オレの指示には絶対従ってもらうぜ。足引っ張るなよ、勇者様」


 その言葉に、俺は何も返さなかった。

 否、返す必要がなかった――というべきか。


「……あら、わたくしの方が足を引っ張ってしまいそうですわね」


 リアノ姫が、何気ない調子で口を挟んだ。


 その声音に咎める色は一切なく、まるで風景の一部にでも語りかけるかのような柔らかさだった。

 だが、そのまなざしは明確に“関心の外”にあった。


 アルフレッドがわざとらしく咳払いをし、肩をすくめる。


「……まあ、いいさ。今日は講師役だからな。王族が見てるってんなら、オレも本気出してやる」


 そう言って、彼は背を向けた。


 その背中に、姫は一度も視線を向けなかった。


 それでいい。

 誰がどう思おうと、今の俺の歩幅で進むだけだ。


 そう思いながら、俺は黙ってその後を追った。


 王都から馬車で半刻。

 薄く霧のかかる丘陵地帯を抜けた先に、それは静かに姿を現した。


 大陵墓――かつて王家に連なる血族が埋葬されたとされる古墳群。

 すでに信仰の対象ではなくなった今では、辺境魔物の出没地としてギルドに報告されることの方が多い。


「へえ……さすがに雰囲気だけはあるな」


 アルフレッドが鼻を鳴らし、肩を回す。


「魔物が出るっても、精々群れからはぐれた雑魚ばっかだ。気張る必要なんかねえよ、勇者様」


 俺は無言で頷いた。

 彼の口調には相変わらず刺があったが――それ自体は、もはや気にもならなかった。


 ただ、その直後だった。


「よし、じゃあ適当に周囲を見て回るぞ。あんたは勝手に付いてきてくれ。まあ、見て学べってやつだ」


 それだけ言い残し、アルフレッドはさっさと階段を降り始めた。


 状況説明も、隊列の指示も、注意点の伝達もない。

 単なる同行者としてでなく**“講師”として指名された人間が果たすべき最低限すら、そこにはなかった**。


 その瞬間、ふっと風の向きが変わったように感じた。


「――アルフレッド殿」


 リアノ姫の声が、陵墓の石壁に柔らかく響いた。


 だがその柔らかさは、決して曖昧なものではなかった。


「勘違いなさらないでいただきたいのですけれど」


 姫の足取りは優雅なまま、しかし視線だけは冷静にアルフレッドの背を射抜いていた。


「たとえあなたより実力が劣るとはいえ、勇者様は遊びで来たわけではありませんもの」


 足を止めたアルフレッドが、肩越しにこちらを振り返る。

 だが姫は、その目を逸らさず、あくまで中立的な口調を崩さなかった。


「研修とは“教えること”が前提であるはず。

 指導の責務を放棄しているようでは、それこそ“講師としての資質”が問われますわ」


 その声音には、嘲りも怒りもない。

 ただ、王族として当然の責務を語る者の静かな威厳があった。


 アルフレッドはしばし無言で、俺と姫とを見比べたのち、舌打ち混じりに言葉を返す。


「……へいへい、わかってますよ。お姫様の言う通りにしましょうか」


 だがその口ぶりとは裏腹に、次に彼が告げたのは的確な指示だった。


「勇者様。まずは足元に気をつけろ。ここは苔が滑りやすい。あと、こっちの棺は過去に何度か開いてる形跡がある。油断するな」


 表情にはまだ反発の色が残っていたが――

 それでも、彼が一歩だけ“講師”としての責務を思い出したのは確かだった。


 俺は静かに頷き、再び足を踏み出した。


 陵墓の最深部――

 割れた石棺の中に巣食っていた魔物は、今や沈黙していた。


「……ふう。これで全部か?」


 アルフレッドが剣を払ってそう言うと、メモを取っていたギルドの助手が小さく頷く。


「討伐対象は完了です。報告に戻れば、正式な完了扱いになります」


 クエストは、特に危険もなく順調に終わった。

 多少の連携不足はあったが、地形の把握と物量対応を俺が補い、全体の流れとしては及第点といえた。


 だが――その安堵の空気は、一瞬で打ち消された。


 空気が変わった。


 まるで空間そのものが軋んだような音と共に、大陵墓の気配が一変する。

 気温が下がったわけではない。だが、肌の奥に冷たいものが触れた気がした。息が詰まる。空気が重い。明かりの範囲が、狭まって見えた。


 ――“異質な存在”が、入ってきた。


「何か来る……! 離れて!」


 叫んだ瞬間だった。

 奥の通路の闇、その一角から、ぬるりと男が現れる。


 長身痩躯。軍服を思わせる漆黒の外套。

 整った顔立ちをしているが、口元には不敵な笑み。何より――瞳が、人ではなかった。


 黒の中に、紅が浮かぶ。眼差しひとつで人間の倫理を嘲笑するような、そんな“深さ”があった。


「……やれやれ、随分と遅かったな。こちらも、あまり暇ではないんだが」


 声は低く、響きが深い。言葉の端々に、ぞわりとするような余裕がにじむ。


「誰だ……貴様!」


 アルフレッドが剣を構え、一歩前に出る。

 だが、その背中は少し震えていた。


「ふむ……この気配を前にして、なお武器を抜ける胆力は悪くない。だが――」


 男は、何かを試すようにこちらを見渡し、


「貴公ではない。狙いはあくまで――そちらの姫君だ」


 その指先が、リアノ姫を指し示した瞬間――俺の中の空気が一気に変わった。


「……また、姫様を」


 低く、俺はつぶやく。


 だが、それより早く。


「王女リアノ=ルヴィア……予言の勇者とともに現れた、王家の“鍵”」


 その言葉に、姫様の瞳が細く揺れる。


「なるほど、確かに気配が異なる……この時代にしては、随分と整った“器”だ。やはり、排除すべきは貴女で間違いないようだ」


「黙れよ、魔族風情がッ!」


 アルフレッドが叫んだ。

 そして一気に距離を詰める。


「この俺様がぶちのめして――」


 ――次の瞬間。


 何が起きたのか、正直言って、俺の目でもよく見えなかった。


 アルフレッドの剣が振り下ろされる、その寸前。

 男がほんの一歩だけ、指先を動かした。


 それだけだった。


 衝撃音と共に、アルフレッドの身体が吹き飛んだ。


 重力ごと反転したかのように、剣ごと壁に叩きつけられる。骨が軋む音。反応の隙すら与えず、一撃で無力化された。


 そして……


「ひ、ひええええええええええっ!?」


 壁に叩きつけられ、倒れ込んでいたアルフレッドが――突如、叫び声と共に立ち上がった。

 その顔は青ざめ、目には涙すら浮かんでいる。 


「む、無理だ!あんなのと戦えるわけねぇ!勇者とか関係ねえっ!」


 背を向けて、走り出す。

 声を上げ、足音を響かせ、大陵墓の闇へと逃げていく。


「……っ」


 誰もが、一瞬、言葉を失った。

 “上級冒険者”と呼ばれていた男が、こんなにも簡単に、心を折られるなんて。


 だが――一人だけ、まったく表情を変えない者がいた。


「……冒険者とは、こういう存在でございますのね」


 リアノ姫だった。


 彼女は静かに息を吸い、毅然とした声音で続けた。


「彼らは民間の保護者であり、個人の意志で剣を握る者。ゆえに忠誠を誓わず、名誉よりも生存を優先する」


 その声は淡々としていたが、明らかに“見極め”としての響きを持っていた。


「臆病と断ずるのは簡単ですが……忠義を礎とする騎士とは、根本が異なるのでしょう。王家にとっては、やはり使い分けが必要となりますわね」


 冷静で、正確な判断。


 俺は――それを背に、剣を構えた。


 呼吸は落ち着いている。

 手の中にある光の剣は、今までよりも軽く感じられた。

 足も、視界も、全てが“整っている”と自覚できる。


「おや?」


 魔王軍幹部の男が、こちらを見て、わずかに眉を上げた。


「今のを見て、逃げ出さぬとは……お前も、命知らずだな」


「逃げませんよ」


 俺は静かに言う。


「俺は、姫様を守るって決めたんです」


 口にして、思った。


 この言葉を、心から、何のためらいもなく言えるようになったのは――きっと、あの夜があったからだ。


 魔王軍幹部が、ふ、と笑った。


「ならば――試してやろう」


 一瞬で距離を詰める。

 殺気と共に、暗黒の衝撃波が空気を裂くように襲いかかる。


 けれど。


 俺の剣は――揺れなかった。


 手首を返し、斜めからの一閃。

 まるで来ると分かっていたかのように、その攻撃を受け流す。


 魔族の男が目を見張る。


「……ほう」


 俺は一歩も引かず、剣先を正面に構え直した。


「さっきの冒険者と、俺は違いますよ。俺は――この剣で、“生き延びる”んじゃない。守るために戦うんです」


 光の剣が、淡く震えた。

 それはまるで、“覚悟”に応えるようだった。


 金属が焼けるような匂いと、剣戟の余韻が、大陵墓の空気に残っていた。


 俺と魔王軍幹部の距離は、あと数歩とない。

 だが――そのわずかな距離を、相手は詰められないでいた。


 黒衣の男は、じっと俺の腕を見つめていた。


「……妙だな」


 小さく、低く、漏れるような声。


「剣筋は粗い。鍛錬に裏打ちされた技術ではない。筋力も、魔力の流量も、凡庸――」


 細い指が空をなぞるように動き、何かを測るように俺の全身をなぞる。


「それなのに、なぜ止められた? 肉体構造の限界を超えた反応……不自然だ。意志の強さは数値化できんとはいえ――これは、整合性に欠ける」


 彼は、あくまで冷静だった。


 分析者。

 観察者。

 そして、戦場の外から“この世界”を見下ろしている者の目。


 俺は、息を整えながら答えた。


「……理由なら、一つだけあります」


 剣を構え直す。

 その刃に、薄く金色の光が灯る。


 その背にある者を――守ると、決めたからだ。


「俺の背後には……リアノがいる」


 短く。

 だが、確かに刻むように。


 剣を握る手が、震えていた。

 けれどそれは、恐れからではない。

 心に宿る炎が、拳を、刃を、突き動かしているだけだった。


「……それ以上の理由は、要りません」


 次の瞬間、地を蹴った。


 光が、爆ぜた。


 剣が閃き――その一撃は、確かに魔族の防壁を貫いた。


「っ……!」


 魔王軍幹部の足が、わずかに下がる。


 その目に、はじめて“驚き”が混じった。


 宙を裂いた剣風が、彼の外套の端を裂き、頬を掠める。


 切り裂かれた傷から、一筋の黒い蒸気が立ち昇った。


「……見事だ」


 わずかに肩を揺らし、魔族の男は息をついた。


「認めよう。お前の剣は、まだ未完成。だが、核にある“意志”は、確かに本物だ」


 その言葉に、気を張っていた俺の肩が、ほんのわずかに緩む。


 だが次の瞬間――男は、ふと視線を上げた。


「我が王、魔王陛下は、いま封印の眠りにある」


 静かに、だが確実に告げるその口調には、焦りも怒りもなかった。


「ならば、今の私は“命令”よりも、“興味”を優先しよう」


 瞳が、真っ直ぐにこちらを捉える。


「王女リアノも確かに鍵の一つ……だが、それ以上に――」


 男の口元がわずかに笑みを刻む。


「“お前の成長”の方が、我々にとって価値がある」


 そして、すっと一歩、後退する。


 黒衣が風に揺れ、魔の気配が霧散していく。


「今回は見逃してやろう。……だが次は、どうなるかな」


 その声は、闇に溶けていくようだった。


「勇者――」


 男の姿は、虚空に飲まれるように掻き消えた。


「せいぜい、その意志を刃に変えることだ。次は、それを試させてもらう」


 残されたのは、魔力の痕跡と、わずかな焦げた匂い。


 やがて、静寂が戻る。


 気配が完全に消えたのを確認してから――俺は、剣を下ろした。


「……ふう」


 深く、長く息を吐く。


 足元に、石の破片が散っていた。

 その一つを、ふと拾って見る。


 戦いは、終わった。

 けれど、その意味は――ここからが始まりなのかもしれない。



 気づけば、拳を握っていた。


 魔王軍幹部が去ったあとの大陵墓には、ただ微かに燻るような魔力の残滓と、静けさだけが残っていた。

 それでも、俺の鼓動はまだ速く――だが、不思議と、恐怖ではなかった。


「……俺は、まだまだ未熟だ」


 呟いた言葉が、広い石壁に吸い込まれていく。


 国を護る者としては、きっと不適格なのだろう。

 敵の狙いが姫様だと知った時、俺の思考は“国王の血統”でも“王家の威信”でもなく――ただ、リアノという一人の命にしか向いていなかった。


 それを“偏った情”と言われれば、きっと否定はできない。


 だが、そのとき――


 胸の奥に、もう一つの声がよみがえった。


 あのとき。

 あの死闘の果て――


 /


 カルテシアは全ての理性を超えた覚悟で、叫んだ。


「――■■■■!」


 その声は、勇者としての“あなた”ではなく、

 “あなたという人間そのもの”を――ただ一人を呼ぶ、魂の名だった。


 /


 その響きは、俺の存在をまっすぐに肯定するものだった。


 自分が誰かのために力を尽くした時。

 誰かの言葉が、それに応えてくれた時――

 俺の剣は、かつてないほど“自分のもの”として振るえるようになった。


 そう思えば、さっきの戦いも同じだった。


 リアノ姫を護るというよりも――

 その瞬間、そこにいた“誰か”を護る。

 危機の中で、自分の存在理由を、ただ一点に集中させる。


 たぶん俺は、そういう戦い方しかできない。


「……小さな成長、かな」


 そう口にすると、不思議と肩の力が抜けた。


 国を護る。その言葉の重さに、まだ自分は釣り合わないかもしれない。

 だが、“今そこにいる誰か”を護ることなら――

 少しずつ、できるようになってきた。


 それは、きっと勇者としての第一歩だ。


 まだ長い旅路の途中だとしても、歩みを止めない限り、いつかたどり着けるはずだと――そう、信じたくなった。



 静まり返った大陵墓の出口で、彼女は俺のそばに立っていた。


 魔王軍幹部の影も、冒険者たちの喧騒も、今は遠い。

 ただ、そこにあるのは――


「おめでとうございます、勇者様」


 振り返る前に、その声が風に乗って届いた。


 リアノ=ルヴィア。

 王国第一王女にして、俺の婚約者。


 彼女は凛とした姿勢を崩さぬまま、静かに微笑んでいた。


「戦いに勝つことは、武を示すことに過ぎません」


 言葉は淡々としていたが、その目はまっすぐに俺を捉えていた。


「ですが、敵に認めさせるというのは……何十倍も、何百倍も難しいことです。

 あなたは、それをやってのけたのですわ」


 その声音に、偽りはなかった。


「あなたは、あなたでいてくださるからこそ、わたくしの“選んだ人”なのです」


 ……ああ。


 何かが、ほどけた。


 胸の奥に絡みついていたものが、ふと解けて、消えていった。


 どうしてだろう。剣を交えたときには流れなかったのに。

 今、この言葉だけで――


 気づけば、頬が濡れていた。


 それが涙だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。


「……すみません」


 袖で拭おうとしたとき、姫がそっと手を差し出した。


「お貸ししますわ、勇者様。――これが、王族の務めですから」


 差し出されたのは、あの柔らかな布だった。


 白地に銀糸の刺繍。王家の紋章が、控えめに施されている。

 それはただの布ではない。

 それは、信頼であり、絆であり――この国に生きる人々を繋ぐ、名もない契約の証だった。


 指先に触れる布地のやさしさに、何かがまた静かに染みていく。


 そして、姫の手が、そっと俺の手を包んだ。


 その小さく華奢な掌には、たしかな意志とあたたかさがあった。


「……帰りましょう、姫様」


「ええ、勇者様。王都へ――わたくしの“選んだ人”と、共に」


 俺はその手をしっかりと握った。

 そして、今度は――俺の足で、この方を導く番だ。


 かつて、王都への道を歩いたとき、俺はただ引かれるだけだった。

 けれど今は違う。

 俺はもう、“選ばれるだけの者”ではない。


 光の剣を背に、俺は王女の手を引いて、歩き出した。


 未来へと続く、この王国の道を。


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