第6話:湖の歌と、膝の温もり
陽が傾きかけた王都の空の下、訓練場に響くのは剣戟の音と、規則正しい号令のみ。
城壁の内にあっても、ここは戦の匂いを忘れぬ場所だった。
俺は、足を止めていた。
刃が交差した次の瞬間、肩口から鈍い衝撃。木剣の直撃が、遅れて痛みとなって走る。
剣を握る手に力が入らない。足も思うように動かず、呼吸が浅い。
「――目が死んでいるぞ、勇者」
低く、張り詰めた声。
団長の一歩が砂を踏み鳴らし、剣を構えたまま俺に視線を落とす。
逃げたいわけじゃない。怠けているつもりも、ない。
だが、全身を覆う倦怠感は、昨日も、今日も、拭いきれずにいた。
「上位存在だか何だか知らんがな。戦ったのは認める、だが……」
団長の眼差しが、一瞬だけ揺れた。それは叱責のそれではなく、兵を思う指揮官のそれだった。
「戦場で疲れていた、では通らんのだ。生き延びたのなら、次は備えろ。それが、お前の役目だろう」
俺は無言で頷き、剣を構え直す。
この街の空は、やけに高かった。
木剣を収め、肩で息をつく俺のもとに、足音が近づいてくる。
軽やかだが、決して急き立てるものではない。
振り返ると、そこにいたのは――王女、リアノ=ルヴィアだった。
「お疲れでございます、勇者様」
淡く微笑んだまま、彼女はそっと一枚の布を差し出す。
白地に銀糸を織り交ぜた、王家の印が控えめに縫い込まれたハンカチだった。
俺は咄嗟に身を引きかけたが、すぐにそれを押しとどめた。
手にした布の感触は柔らかく、手荒れのひどい掌には申し訳ないほどに清らかだった。
「い、いえ……そんな、お手を煩わせるような……」
「煩わせる?」
首をかしげるような口調で、姫は俺の顔を見つめた。
その瞳は、よく晴れた水面のように、揺らぎひとつなく透き通っている。
「わたくしは、あなたの婚約者ですわよ? この程度、当然でございます」
……あ。
頭のどこかで、何かが音を立てて崩れた。
そうだった。俺はこの人と――リアノ姫と、婚約しているんだった。
勇者になってからの出来事が、あまりに色濃く、あまりに非日常で……それすらも、まるで夢のように感じていた。
「……あの、忘れてたわけでは」
「わかっておりますわ」
姫はそう言って、ほんのわずかに目を伏せた。
その仕草は、王女としての威厳ではなく、一人の娘としての、ささやかな照れにも見えた。
「ですから――思い出してくださいな。何度でも。わたくしが、あなたの隣にいる理由を」
言葉の端に、ほんのりと熱が混じる。
それは、癒しというよりも、再び前を向かせるための、優しい呪文のようだった。
「……少し、風に当たりませんか?」
姫のその言葉は、訓練場のざらついた空気を一瞬で拭うような、やわらかな響きを持っていた。
王家が管理する近郊の森――騎士たちの警備が常に行き届き、一般には開放されぬ静謐の空間。
そこに、俺は連れ出された。
陽はすでに西へ傾きつつあり、木々の隙間から差し込む光が、地面にまばらな文様を描いていた。
風が枝葉を揺らし、鳥の声が重なっていく。
「こちらにどうぞ、勇者様」
芝生の上に敷かれた白い布。その上に、丁寧に並べられていたのは、果物や焼き菓子、そして香りのよいお茶の数々。
メイドたちが落ち着いた所作で控え、姫は自らティーポットを手に取り、湯気の立つ紅茶を俺のカップへと注いでくれる。
「お口に合いますでしょうか。旅先であなたが好んでいた蜂蜜を、少し混ぜておりますの」
「……はい。とても、落ち着きます」
素直にそう言葉にしたとき、ようやく気づいた。
胸の奥に、張り詰めていた糸のようなものが、するりとほどけている。
俺は、こういう時間を忘れていたのだ。
剣を抜き、命を賭け、上位の存在とさえ対峙した日々。
その影は心に爪を立てていたのだろう。けれど今は、陽光が頬に触れている。ただそれだけで、心が穏やかになっていく。
姫は、笑っていた。
だがそれは、王国の未来を背負う者の仮面ではない。
一人の少女としての、ささやかな微笑みだった。
「このように静かな時を持てるのも、あなたが無事でいてくださったからです」
「……俺は、まだ何も守れていません」
つい、そう口にしてしまう。だが、姫はゆっくりと首を振った。
「あなたが今ここにいてくださること。それが、何よりの証でございますわ」
茶の湯気が、夕空に溶けていく。
静かな安らぎの中で、俺は初めて、「生き延びた」という事実に、心から向き合えた気がした。
紅茶を飲み終えた頃だった。
遠く、森の向こうから――
風に乗って、かすかな歌声が聞こえてきた。
それは言葉にならない旋律。だが、胸の奥を震わせる不思議な響きを持っていた。
鳥の声とも違う。人のものとも思えぬ、それでいて懐かしい気配。
「……少し、歩いてきます」
俺がそう言うと、姫は微笑んでうなずいた。
「迷われぬよう、お気をつけて」
木々の間を抜けると、やがて風景が開けた。
そこは、森の奥に静かに広がる湖畔だった。
水面は鏡のように静かで、夕陽の名残を映して揺れている。
そしてその中心――岩の上に、ひとりの存在がいた。
濡れた銀糸のような髪。しなやかな体躯。
陽光を反射する鱗が、水面のゆらめきと溶け合う。
彼女は、人の姿をしていた。
だが、その腰から下は――美しく輝く魚の尾。
間違いなく、伝承に語られる“人魚”だった。
彼女は、気づいていたのかいないのか、湖を見つめたまま、ゆるやかに歌い続けていた。
その声は、水に溶ける光のように澄んでいて、どこか哀しみを帯びていた。
俺はただ、立ち尽くしていた。
剣も、戦も、使命も――今は、何ひとつ手の中になかった。
あるのは、ただこの一瞬の、美しい静けさだけだった。
「……あなた、人間の方ね?」
湖のほとりに立つ俺に、澄んだ声が届いた。
水面の中心、白い岩の上に座る少女――
いや、人の姿をした存在が、夕暮れの光をまとって、微笑んでいた。
細くしなやかな上半身に、鱗の尾。
間違いない。目の前にいるのは――人魚だった。
「心配はいらないわ。わたしはこの森の守り人。王家の皆とも、昔から顔なじみなの」
彼女は、まるで古くからの友人に話しかけるように、自然に言葉を継ぐ。
「この湖は、王都に近いけれど、誰でも立ち入れる場所じゃない。だから静かで、わたしたちの居場所になってるの。あなたも王家の方に連れられて、ここへ?」
俺は、静かに頷いた。
「……そうか。じゃあ、きっとあの姫君の客人ね」
人魚が笑った、そのときだった。
「ご名答ですわ」
涼やかな声と共に、足音が近づく。
リアノ姫が、森の木々のあいだから姿を現した。
ローブの裾を払い、芝生を踏んでこちらに歩み寄る。
「お久しゅうございます、湖の歌い手様。変わらず美しい声を響かせておられるようで、安心いたしました」
「あら……まあ、あの頃の小さなお姫様が、もうこんなに立派になって」
人魚は水面をゆらし、嬉しそうに笑った。
「姫様、あの……ご存知だったのですか?」
「ええ。この湖は、王家の保護区域として定められております。そしてこの方は、古くよりわたくしたちと親交のある“湖の守り人”。正式には、神話時代の契約に由来しておりますの」
俺は目を見張った。神話、とまで言われる存在が、こんなにも穏やかな笑顔で、目の前に座っているとは――
「ふふ。そんな堅苦しいものでもないのよ。わたしはただ、この森と水を守っているだけ。たまに人とおしゃべりできるなら、それだけで嬉しいの」
静かな波が岸辺に寄せる音が、風と共に重なる。
王家と、神話と、歌と――すべてが、当たり前のようにそこに在る。
それが、この国の“日常”の中にある、不思議で美しい真実だった。
「どんな歌をご希望かしら?」
湖の中央で、銀色の尾を揺らしながら人魚が問う。
その声は水面を撫でるようにやわらかく、まるで風がこちらの心を読んでいるかのようだった。
俺は戸惑い、言葉に詰まる。
どんな歌――そう問われても、音楽に詳しいわけでも、洒落た趣味があるわけでもない。
だが隣でリアノ姫がふと目を細め、そっと囁いた。
「踊りましょう、勇者様。少しだけ、昔の宮廷風に」
「お、踊る……?」
思わず声が裏返る。
旅の間、剣は振ってきたが、踊りの稽古などしたこともない。
「わたくしがリードいたします。ご安心を」
そう言って、姫は手を差し出した。
手袋越しでも伝わる、確かな温もり。拒む理由は、もうなかった。
「では、宮廷の踊り――優しく揺れる波のように」
人魚が目を閉じ、歌い出す。
それは、どこか古風な旋律だった。西洋の宮廷で鳴らされるリュートやヴィオールのような響きを思わせ、静かに、ゆるやかに、心の底に染み入ってくる。
姫の手に導かれるまま、俺は足を動かす。
最初はぎこちなく、動きも硬かった。何度もつま先を踏みかける。
「ふふ……勇者様、少し力を抜いて」
「す、すみません……!」
笑われても仕方ないと思った。だが、姫の笑みはどこまでも優しく、否定を含まない。
ただ“共に踊る”ことだけを、楽しんでいるようだった。
やがて、音に身を任せるうち、心もほぐれていく。
腕の動きも、旋回も、波のように自然に流れて――
気づけば、俺は笑っていた。
水面に映る、二人の影。
それを囲むように、湖の波が輪を描いて広がっていく。
「よくお似合いですわ、おふたりとも」
人魚の声が重なり、夕暮れの空が、金と藍の境界を揺らしていた。
ぱしゃ、と音を立てて湖の水面が揺れた。
「ねえ、あなたまだ歌ってるの? ずるいじゃない」
「そうよ、わたしたちにも順番をちょうだい!」
――声が、増えた。
いつのまにか、水面のあちらこちらに揺れる人影。
月明かりに照らされ、銀と青の鱗がきらめく。湖の奥深くから、次々と人魚たちが姿を現していた。
「……増えてませんか?」
「だいぶ、賑やかになっておりますわね」
俺と姫は立ち止まり、思わず顔を見合わせる。
水面に浮かぶ彼女たちは、どうやら本気で争っている様子だった。
「わたしの歌の方が踊りやすいわ!」
「なによ、あなたのはリズムが早すぎるって前にも言われたじゃない!」
「うるさい! 姫様が一番気に入ってたのは、わたしの歌だったわよ!」
「それは初耳ですわ」
姫が小さく笑みをこぼしたのが、妙に印象に残った。
それからというもの――
人魚たちは一人が歌い出すたびに割り込み、輪唱し、掛け合いになり、ついには歌合戦のような騒ぎに。
「今度はバラード調で!」
「今夜は早めのテンポがいいと思うの!」
「中間くらいでいいじゃない、もう!」
曲が変われば踊りのリズムも変わる。
ステップも手の取り方も目まぐるしく、俺の足はすぐに混乱を始めた。
「姫様、これは……」
「お覚悟なさいまし、勇者様。夜はまだ長ゅうございますわ」
真顔でそう告げられたとき、俺は悟った。
――これはもう、終わる気配がない。
夜が更け、月が高く昇るころには、すっかり体力を使い果たしていた。
だが、どこか心の芯があたたかい。不思議と、疲れは心地よかった。
それが、湖の舞踏会の夜だった。
水面を渡る歌声が、ひとつ、またひとつと途切れていく。
「今日は……楽しかったわ。また歌わせてね」
「次はもっと上手く合わせるから!」
「踊ってくれてありがとう、勇者さん。王女様も、とっても素敵だったわ」
それぞれに満ち足りた笑顔を残し、人魚たちは静かに湖へと沈んでいった。
月の光に鱗が一瞬、星のようにきらめいて、やがて闇に溶けていく。
余韻だけが、湖面にゆらりと残った。
足元は重く、肩には心地よい疲労が残っていた。
だが、それは戦いの後のそれとはまったく異なる。
どこか遠い夢から戻ってきたような――やわらかな感覚だった。
「……もう、歩けそうにないです」
俺がぽつりと漏らすと、姫はくすりと微笑んだ。
「では、こちらへどうぞ。ひとときだけでも、お休みになって」
焚き火のそば。淡い火の粉が、夜気の中で弾けている。
敷かれた毛布の上に腰を下ろした姫が、すっと膝を差し出した。
膝枕――それが意味するところに、思わず俺は戸惑ったが、
「ご遠慮なく。婚約者なのですから、当然ですわ」
再び、あの一言。
先ほどのダンスの余韻が残っていたせいか、抵抗する力も、どこかに置いてきてしまったらしい。
俺は静かに、姫の膝に頭を預けた。
柔らかな布越しに伝わる体温。
背を撫でる夜風と、微かに聞こえる鼓動。
瞼の裏に、さきほどまでの歌と光が、残像のように揺れている。
「……おやすみなさい、勇者様」
姫の声が、風よりも静かに響いた。
俺は返事をしようとしたが、すでに意識の底は淡く沈み始めていた。
肉体は限界を迎えていたが、心だけは、不思議と穏やかだった。
こうして、長い一日が幕を閉じた。
朝霧の中、訓練所にはすでに剣の音が響いていた。
掛け声、木剣が打ち合う音、土を踏みしめる足音。
それらすべてが、昨日と変わらぬ日常のはずだった――
だが、俺の中には、確かに何かが変わっていた。
剣を握る手が軽い。
足運びに迷いがない。
敵の動きが、ひと呼吸先まで読める。
まるで、霧が晴れたあとの視界のように。
「はっ!」
低く踏み込み、間合いを割って一撃。
木剣の打突が相手の胸元を正確に捉えると、周囲にどよめきが走った。
俺は息を整え、次の構えに入る。
その姿は、かつて“予言で選ばれた”という肩書きだけで受け入れられていた男とは、もう違っていた。
やがて、その場に団長の姿が現れる。
鋭い視線がこちらを射抜き、ふむ、と一つ頷いた。
「昨日とは大違いだな、勇者様。……ちゃんと、命の重さを刻んだ目をしている」
皮肉でも挑発でもない。率直な賞賛だった。
「……何かあったのか?」
「いえ。少し、休んだだけです」
俺はそう返すと、そっと指先で額の汗をぬぐった。
その動きに、昨夜の感触が一瞬だけよみがえる――柔らかな膝、やさしい手のひら、風と火と、遠い歌声。
それは、確かに力になっていた。
夢のような時間が、現実の中で剣となり、支えとなっている。
「よし、いい調子だ。続けろ。今日は徹底的に鍛えるぞ!」
団長の号令に、俺は剣を握り直す。
今なら、受けられる。
この剣に、覚悟と誇りを宿せる気がする。
今日という日も、また確かに前へ進んでいる――そう思えた。