第5話:その声は、名を呼んだ 後編
その夜。
俺は遺跡近くの村の宿舎の裏手で、王都へ向けて鳥を一羽、送り出した。
足に括りつけた小さな手紙には、短く、状況と無事の報告を。
そして翌朝、同じ鳥が戻ってきた。
くるくると羽ばたきながら、俺の肩へと着地する。
巻かれていた手紙は、王都の香りがした。
封を開けると、見慣れた整った筆跡で、こう綴られていた。
「ご無事とのこと、何よりでございます。
わたくしは王城におりますが、あなたの帰還を信じ、
日々、祈りを捧げております。
どうか、ご自身の信じる道を歩んでくださいませ。
あなたの帰りを、わたくしは、いつまでも待っておりますから。
――リアノ=ルヴィア」
読み終えた紙を、そっと胸元に仕舞う。
やわらかな文字の余韻が、冷えた心を温めてくれた。
……大丈夫。
帰る場所は、ちゃんとある。
朝日が、森の上から斜めに差し込んでいた。
小鳥の声と、葉の擦れる音。
風に揺れる草木の先、遺跡の脇にぽっかりと広がる空間――
そこは自然にできた、円形の小さな広場だった。
その中心に、彼女はいた。
カルテシア=セラフィム。
聖女。神の代行者。
蛇腹剣を手に、無音のまま舞うように剣を振るっていた。
刃は分離し、空気を切り裂き、また収束する。
一歩ごとに、朝の霧が光を孕んで揺らぎ、まるで“結界”のようだった。
その姿は、神秘的で――そして、どこか遠かった。
まるで、初めて出会ったあの宗教都市の礼拝堂。
冷たく、凛としていて、誰にも近づけない“聖域”のような雰囲気があった。
……いや。
実際に、近づいてもいいのか、わからなかった。
それでも、俺が歩き出したとき。
カルテシアは、すっとこちらへ向けて歩み寄ってきた。
すれ違いざまに、言葉を落とす。
「――ご安心ください。私も、“覚悟”を決めていますから」
それは――あの日。
馬車の中で、彼女が初めて“人として”覚悟を語った、あの言葉。
だが、今のそれは違っていた。
声に揺らぎはなかった。
目線は一切こちらを見ず、姿勢も緊張のまま。
――まるで、自分の感情に“鍵”をかけているかのようだった。
俺は、ただ立ち尽くした。
強いのはわかってる。信じてる。
でも、そこに感情がない彼女は――どこか、“ひとり”に見えた。
……寂しいと思った。
それは、たぶん。
旅の中で、少しずつ彼女の“人間らしさ”に触れてきたからだ。
今のカルテシアは、たしかに“聖女”だった。
でも、あのときのカルテシアでは――なかった。
それからほどなくして、カルテシアは奇妙な行動を起こし始めた。
地面に描かれた魔法陣は、俺には見慣れない構造だった。
円環と、幾何学的な呪文式。
それが地面に淡く浮かび上がり、カルテシアの魔力によって少しずつ完成に向かっている。
彼女はずっと黙っていた。
まるで何かに祈るように――ただ、機械のように繰り返し刻印を描き続けている。
俺は声をかけた。
「……それ、何の魔法陣なんですか?」
カルテシアは答える。
「上位存在を駆逐するための、必要な手順です」
淡々としていた。
声に揺らぎはない。振り向きもしない。
だから、もう一歩踏み込んで訊いた。
「……何を代償にして、発動するんですか」
ペンが止まった。
しかし、カルテシアは振り返らなかった。
ただ少し、空気が冷たくなったような気がした。
「それは重要ではありません。
戦いに勝ち、生き延びることが最優先です。
最適解に必要なものは、すでに私の中で計算済みです」
それきり、会話は終わった。
俺の声が、届いていないわけじゃない。
でも、応えようとはしてくれなかった。
以前の彼女なら、どこかで“冗談めいた顔文字”でも添えてくれたかもしれない。
あるいは、無表情の中にも戸惑いや迷いが見えていたかもしれない。
けれど今のカルテシアには、何もなかった。
完璧な、聖女の顔だった。
誰にも触れさせない“使命”だけをまとった――、人形みたいな表情だった。
――シクスと出会って、一週間が経った。
俺とシクスは、時空石の制御に少しずつ慣れ始めていた。
過去の断片を再生したり、記録の追跡も少しずつ精度が上がってきている。
だけど、もう一人――カルテシアは、まるで別の時間を生きているようだった。
完成した魔法陣の中央。
彼女はそこから、一歩たりとも動かなくなっていた。
朝になっても、夜になっても。
風が吹いても、虫の音が変わっても。
彼女は同じ姿勢で、ただ目を閉じ、両手を組み、魔法陣の中心に立ち続けている。
俺は、何度か声をかけた。
「カルテシア、少し休んだ方が……」
「必要ありません」
それだけだった。
抑揚もなく、余韻も残さず、まるで機械が発声したような返事だった。
それ以上、俺は何も言えなかった。
ご飯を持っていっても、口をつけない。
眠る様子もない。
目だけが、時折、魔法陣の文様をなぞるように動いている。
……まるで、彼女の生命そのものが、魔法陣に縫い付けられているようだった。
完璧に整った構造体と、微動だにしない聖女の姿。
その“完全な不変”は、どこか神聖で――だが、同時に不気味だった。
カルテシアは、今日も魔法陣の中心にいた。
風に髪が揺れても、目を閉じたまま動かない。
静止したその姿はまるで――祭壇に据えられた、捧げ物のようだった。
……もう、黙っていられなかった。
俺は、剣を帯びたままその場に踏み込んだ。
魔法陣の輪を越え、彼女の前へと立つ。
「カルテシア。もうやめろ」
反応は、なかった。
俺は強引にその腕を掴む。
「話せよ。食べてないんだろ、寝てもいないんだろ? こんなやり方、おかしいって――!」
カルテシアは、目を開けた。
「やめてください。これは私が選んだ“覚悟”です」
その声には、怒りも苛立ちもなかった。
ただ淡々と、拒絶の意志だけが込められていた。
「これが最も確実で、最も損失が少なく、最も早い解決手段です。
私は、“正しく”あるために動いています。
この身体と、存在を捧げることは、勇者であるアナタを守るための……当然の帰結です」
……違う。
そんな“当然”を、俺は望んでいない。
このままだと、カルテシアという人間が消えてしまう――
俺は、理屈じゃなく、心でそれを感じた。
だから、腕を離した。
力では、もう彼女には届かない。
俺は、一歩下がって――そして、真正面から言葉をぶつけた。
「カルテシア。俺は、お前の力が欲しいんじゃない」
彼女の眉が、わずかに動いた。
「俺は――“お前が”いてほしいんだ」
静寂が落ちる。
風が止み、草のざわめきも遠のいたように感じた。
「お前が誰かのために命を捧げるのを見たいんじゃない。
戦って、悩んで、怒って、笑って……そういうお前と一緒に生きたいんだ」
カルテシアは、黙って俺を見ていた。
その双眸は深く、沈黙の底に何かが揺れていた。
「覚悟は、お前一人が背負うものじゃない。
俺も背負う。シクスだって、頼りないけど背負おうとしてる。
だから――戻ってきてくれ、“カルテシア”」
俺の声が届いたかどうか――すぐにはわからなかった。
カルテシアは視線を逸らすでもなく、こちらを睨むでもなく、
ただ、足元の魔法陣をじっと見つめていた。
長い沈黙が落ちる。
風が吹き、彼女のローブの裾がわずかに揺れる。
やがて。
カルテシアは――ほんのわずかに目線を落とした。
指先が、微かに震えていた。
それは魔力の高ぶりではなく、疲労。
否――“生きた人間”としての、限界の兆候だった。
そして、ぽつりと呟く。
「……少し、疲れが溜まっていたみたいですね」
声に、かすかな体温が戻っていた。
それだけで、胸の奥に何かが込み上げてくる。
「……こんな、魔法陣で……」
カルテシアの目が、ゆっくりと魔法陣の中心から外れる。
そして、自嘲するように苦笑した。
「――こんなもので、上位存在を……倒せるわけが、ない」
崩れるように、彼女の膝が落ちた。
魔力の制御が解け、魔法陣の光が一気にしぼむ。
そのまま、彼女はゆっくりと前のめりに――
「っ、カルテシア!」
駆け寄って、俺はその身体を受け止めた。
近くで見ると、顔色は蒼白で、冷たい汗が額を伝っていた。
ずっと、ずっと限界を超えていたのだ。
何も食べず、眠らず、笑いもせず、叫びもせず。
ただ、最適解のために命を削り続けた結果――
「ごめんな……気づいてやれなくて」
彼女は何も言わなかった。
けれど、閉じたまぶたの奥に、微かな涙の跡が光っていた。
薄明かりの差し込む室内。
カルテシアが、ゆっくりと瞼を開けた。
まだ少し熱の残る額に手を当て、姿勢を起こそうとしていた。
俺はそっとカルテシアの背中を支える。
「……勇者様」
カルテシアは、少しだけ息を吐くと、顔を伏せるようにして呟いた。
「……神託は、私個人で対処できるなら、最初から“ロボットに頼れ”とは言わないはずです。
それでも私が、あのような魔法陣を描いてしまったのは――」
一拍の間。
「……私の未熟さによるものです。申し訳ありませんでした」
消え入りそうな声だった。
いつもの、冷静で整然とした口調とは違っていた。
俺は、首を横に振る。
「俺の方こそ、すまない。気づけなかった」
「……?」
カルテシアが目を瞬く。
「俺がもっと“勇者らしく”いられたなら、
お前が一人で抱え込むこともなかった。
お前を、追い詰めることなんて――なかったんだ」
言葉の意味を、彼女はじっと考えていた。
その瞳には、微かな戸惑いと、感情の揺らぎがあった。
そのとき――
「つまり……両方未熟って……コトッ!?これもう詰みじゃん!」
部屋の隅から、テンションだけは高い悲鳴が響いた。
シクスだった。
誰も呼んでいないのに、ちゃっかり居座っていたらしい。
空気を読まず、思ったままを叫ぶポンコツロボ。
けれどそのとき――
「……ふふっ」
微かに、けれど確かに。
カルテシアの口元に、笑みが浮かんだ。
作られたものではない。
礼儀でも、気品でもない。
――“人”としての、自然な笑みだった。
「詰みではありません。
未熟だからこそ、共に進む意味があるのでしょう」
そう言って、彼女はこちらをまっすぐに見た。
「私も……これからは、少しずつ学びます。
独りで戦うのではなく、“共に”歩む道を」
まっすぐに伝えられたその言葉に、俺は頷いた。
「一緒に頑張ろう。俺たち三人でな」
それを聞いて、シクスが大きく手を挙げた。
「オレ、ポンコツだけどがんばるぅぅぅう!!」
シクスを見つめるカルテシアの表情は、やわらかかった。
夕刻の空の下、シクスは遺跡裏の広場で特訓中だった。
「でりゃあああ! オレ、時空石の守護者だから! すごいから!! でもポンコツだから期待はすんなよぉおおお!!」
全身の機構をばたばたと動かし、空間に力を込めようとするが、結果は小さな時間ゆがみが出るだけで終わった。
だが、カルテシアはその様子を少し離れた場所から静かに観察していた。
表情は穏やかで、先日の氷のような表情はもう見られない。
しばらく見守ったのち、ふと口を開いた。
「――シクス。少し、よろしいですか」
「んん? な、なになになに!? オレ、またなんかやらかした!?」
「いいえ。そうではありません」
カルテシアは、静かに歩み寄り、真正面からシクスを見つめる。
「あなたは、なぜ我々に協力して下さるのですか?」
その声音は落ち着いていたが、問いの内容は――本質だった。
「時空石を扱えるあなたにとって、この戦いは無関係なもの。
上位存在との戦いなど、普通に考えて――“自殺行為”です」
「……」
しばしの沈黙。
その後、シクスは肩を震わせ――
「そ、そ、そ、そうだよねっ!? 正論だよねっ!? やっぱ逃げるうううううぅぅぅう!!」
ぴゅーっとその場からダッシュ。
空間を歪めてワープしようとまでしていたその瞬間――
「逃げは……許しませんよ?」
黒い笑みを浮かべたカルテシアが、蛇腹剣を音もなく伸ばす。
ガチャン、と鈍い音が鳴り――
次の瞬間には、シクスの腰がきっちりと剣に巻かれて宙づりになっていた。
「ちょ、ちょっと!? 聖女のお姉さんこわいぃぃぃ!!」
「アナタの素直な感想は、よく理解できました。
ですが、任務放棄と逃走は……神託にも、私にも、許されません」
笑顔はそのままだが、目は笑っていない。
ぶら下がったシクスを見て、俺は思わず吹き出しそうになった。
けれど、カルテシアは最後にほんの少しだけトーンをやわらげる。
「……ですが、恐れることは当然の反応です。
それでもここに留まり、戦おうとしてくれている。それは、誇るべき価値ですよ」
その一言に、シクスはしばらくぽかんと口を開けて――
「……オレ、ポンコツだけど、がんばるううう……ううう……」
その泣き声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
夜の遺跡は、昼の気配が嘘のように静かだった。
虫の声もほとんど聞こえず、ただ風が崩れた石壁を撫でていく。
俺は、簡単な見回りのつもりで外に出たのだが――
既にその先に、ひとつの背中があった。
「……カルテシア?」
薄明かりの月光の中で、彼女は一人、崩れかけた柱の上に腰掛けていた。
ローブを羽織ったまま、視線は空に向いている。
「こんばんは。勇者様」
こちらに視線を向けず、彼女は穏やかに声を返す。
「こんなところで、何をしてるんだ?」
「眠れなくて」
短く、それだけだった。
だがその声音は――どこか、俺の知っているカルテシアではなかった。
俺も隣に座る。崩れかけた石柱は冷たく、乾いていた。
しばらく、二人で空を見上げたまま、沈黙が続く。
やがて、俺は口を開く。
「お前って、ずっと“誰かのため”に動いてきたんだよな」
カルテシアは、ふと目線を伏せた。
「それが、聖女という存在です。
私個人の意思など、神意の前には些細なものでしかありません」
「……でも、本当はどう思ってた?」
質問は、唐突だったかもしれない。
けれど、それでも聞きたかった。
カルテシアは――少しだけ考えるように目を細めた。
「……正直に申し上げれば、怖かったです。
命を捧げるという選択が“正しい”と理解していても、それが“怖い”と思う自分が許せなかった」
「怖くていいんだよ」
「ええ。今は、そう思えるようになりました」
そう言って、彼女はようやく、こちらを向いた。
「勇者様が、そう言ってくれたから」
俺は何も言えなかった。
ただ、カルテシアの瞳に浮かんだ微かな水光を見て――胸が締めつけられた。
ああ、たぶんこの人は――
ずっと、“正しくあろう”として、自分を削ってきたんだ。
誰にも頼れず、感情を見せることすら許されず。
それでも、間違えずに進まなくてはならないと、そう信じていた。
「ありがとう、勇者様。
私……もう少し、頑張れそうです」
夜風がそっと吹いた。
カルテシアの金の髪が揺れ、月光がその横顔を照らす。
それはまるで、初めて見る彼女の“素顔”だった。
朝焼けが差し込む遺跡の広場。
俺はすぐに気づいた。
――空気が、違う。
鳥の声が聞こえない。風も止んでいた。
まるで時間そのものが、静止しているような圧迫感。
この一週間、時空石の特訓をしていたせいか、
“時の歪み”に敏感になっているのがはっきりとわかる。
「……来ますね」
背後から、カルテシアの声。
振り返ると、彼女もすでに装束を整え、蛇腹剣を手にしていた。
息を呑む隙間もなく、彼女がこちらに歩み寄り、背中を預けるように立つ。
無言のまま、自然と俺も光の剣を抜いた。
互いの視界が重ならないよう、四方に目を向けて立つ二人――背中合わせ。
微かな震動。
時間にして、数秒だったはずだ。
けれどその“存在感”は、まるで空間そのものが拒絶反応を起こしているかのようだった。
空が裂ける。
地が震える。
そして――現れた。
蛾だ。だが、ただの蛾ではない。
その全身は闇に染まり、羽には過去の記憶のような像が瞬き続ける。
頭部は人間に似た構造をしていたが、目はない。かわりに蠢く無数の紋様が、視線を狂わせる。
長い、異常に長い尻尾が大地にまで垂れ下がり、時折震えるたびに、空間が“悲鳴”を上げた。
「……名前はありません。“上位存在”という分類だけがある」
カルテシアの声は、震えていなかった。
けれど、その目には、明らかな覚悟と緊張が宿っていた。
俺も――息を整える。
これはただの敵じゃない。
この世界の常識では、語れない存在だ。
だが、恐怖に呑まれるわけにはいかない。
「カルテシア」
「はい」
「今度は、三人で勝つぞ」
すぐ横で、シクスが拳を震わせていた。
「オレ、ポンコツだけどやるぅぅぅぅぅ!!」
「……一発で仕留めます。援護を」
静かに、戦闘が始まろうとしていた。
「援護します!」
シクスが飛び出す。
その小さな体から発せられた時空石の波動が、空間の流れを一瞬だけ止めた。
時間が、凍る。
上位存在の動きが止まる。ほんの、1秒。
その隙を縫って、カルテシアが放つ。
「――神の一撃・儀式増幅式」
足元に組み上げた巨大な魔法陣が煌めき、蛇腹剣が蒼く輝く。
彼女の全魔力を注ぎ込んだ一撃が、空を裂き、上位存在へと直進する――!
そして。
それと同時に、俺も全力で駆けた。
光の剣が閃く。
二つの必殺が、同時に上位存在に叩きつけられた――はずだった。
しかし。
蛾の羽がゆっくりと動いただけで、空間がひしゃげる。
時が、反転した。
「なっ――!?」
カルテシアの剣が消える。
シクスの時空制御が破れる。
俺の斬撃も、相手に届く前に空間ごと呑まれた。
そして――
「……!」
上位存在の尾が、一閃。
カルテシアの身体が宙を舞った。
数メートルを転がり、石の地面を打つ音がした。
血が、静かににじむ。
「カルテシア!!」
咄嗟に俺は飛び出した。
蛾が、こちらにその視線のない顔を向ける。
圧力が、空間を潰していく。
それでも俺は――光の剣を構えた。
地に倒れたカルテシアの前に立ち、
その剣と、上位存在の攻撃が激突する。
光と闇が、火花を上げてぶつかる。
歯を食いしばり、剣を押し返す。
腕は痺れ、膝が砕けそうだった。
でも――
「……絶対に……守るって、決めたんだよッッ!!!」
その瞬間、光の剣が共鳴音を上げた。
理性ではない。技術でもない。
――これは、俺の感情だ。
守りたいという衝動が、光となる。
閃光が空を裂いた。
剣から走った一閃が、上位存在の胸部を貫いた。
音もなく――蛾の身体が蒸発するように崩壊していく。
羽が砕け、尾が消え、そこにいた“何か”が空間ごと引き裂かれて姿を消した。
「……終わった、のか……?」
力が抜けて、膝をつく。
だがその直後――
「勇者様、伏せてくださいッ!!」
カルテシアの叫び。
俺の背中越しに、空間が――また、“ひずんだ”。
空気が圧縮され、重力がねじれたような圧が生まれる。
「……早すぎる……!」
カルテシアが顔をしかめ、地面に片膝をつきながら状況を読み取る。
その目には、すでに冷静な計算が走っていた。
「さきほどの個体は、おそらく“投影体”です。
本体とは異なる、疑似存在。ですが――」
彼女の目が、ほんのわずかに見開かれる。
「……復元速度が、異常です。
あと一分もしないうちに、また――来ます」
「……は?」
息を飲む俺に、カルテシアは言った。
「今の攻撃で“倒せた”と感じたのは、投影が物理的に壊れただけ。
ですが、魂本体が未来に存在するならば、
同じ構造を何度でもこの場に投影できるという理屈になります」
冷静な言葉だった。
でも、その中にあるのは、明らかな――危機の確信だった。
カルテシアの言葉が終わるのとほぼ同時に、空間がまた裂け始める。
「嘘だろ……!」
たった一分。たったそれだけで。
さっき、あれだけの全力を出して、ようやく倒した相手が――また来る。
空が悲鳴を上げる。
裂け目の中、また同じ“それ”が姿を見せようとしていた。
空間が裂け、再び現れる“それ”。
風が渦を巻き、重力が狂い始める中――
「シクス!!」
叫んだのは、カルテシアだった。
そのまま転がるようにして、シクスの元へ滑り込む。
「オレたちもうムリムリムリィィィィ!!」
シクスは両腕で頭を抱えて、床にぺったり座り込んでいた。
時空石も、うずくまる彼の掌で震えているだけ。
「出力操作、手動切り替え! ぜんぶ私がやります!あなたは連動入力だけで――!」
「無理だって!この敵、なんかもう“理不尽”とか“超越”とかそういうレベルで来てるもんんんん!!」
「あきらめないでください! このままじゃ“ポンコツロボット”のままですよ!?!?!?」
カルテシアの声が、明らかに震えていた。
けれど、それは怒りでも、焦りでもない。
――期待だった。
信じてるからこそ、怒鳴った。
「あなたは、守護者でしょう!?
オレなんかよりすごい奴いっぱいいた、って……
なら、今ここにいる“あなた”が、立ち上がらなくてどうするんですか!?」
カルテシアの頬が紅潮し、蛇腹剣を壁に突き刺して支えにする。
「あなたしかいないの! お願い! 私たちを助けて!」
「うるさいよぉおおお!!でも……オレ……」
シクスの手が震えながら、時空石を強く握る。
「……やってやるぅぅぅぅぅぅぅ!!」
シクスが立ち上がる。
その目に、一瞬だけ“かつての記憶”が宿ったような気がした。
⸻
未来と現在の狭間――
上位存在の本体が座標上に露出した瞬間。
カルテシアは全ての理性を超えた覚悟で、叫んだ。
「――■■■■!」
その声は、勇者としての“あなた”ではなく、
“あなたという人間そのもの”を――ただ一人を呼ぶ、魂の名だった。
声は震え、言葉の端が涙で滲んでいた。
神の代行者としてではなく。
合理を重んじる聖女としてでもなく。
一人の少女として――彼女は、俺を呼んだ。
その瞬間、全身に電流が走ったようだった。
力が、魂の奥から湧き上がってくる。
この呼び声に、応えなければ――と本能が叫んでいる。
「――ああ。俺に任せろ、カルテシア!」
体が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
けれど、それでも、迷いはなかった。
踏み込み、振り抜く。
光が、世界を裂いた。
ただの斬撃ではなかった。
それは因果律を破壊する、概念の“拒絶”。
千年先の未来にいる存在――空間すら超えて逃れようとした“本体”へと、
光が時の層を貫き、一直線に届いた。
その瞬間。
――何もかもが、静かになった。
時空が焼け落ちたように、
その存在がいた座標が**“なかったこと”になった**。
視界の全てが反転し、焼き尽くされた空間に風が戻る。
その中央に、俺は立っていた。
剣を地に突き、息を切らしながら。
「……終わった……のか?」
カルテシアが、ゆっくりと俺の横に立つ。
その顔に、はじめて安堵の色が見えた。
シクスもふらふらと歩いてきて、両手を上げる。
「オレたち……勝ったんだよね!?」
もう、何の気配もしなかった。
風が、静かに吹いた。
あの恐るべき上位存在は、
千年の時を越えて――完全に、消えた。
静寂のなか、風が抜ける。
戦いが終わったという実感は、遅れてやってきた。
肩から力が抜け、俺はその場にへたりこんだ。
「……終わったんだよな」
誰にでもなく、呟く。
隣に立っていたカルテシアも、同じように膝をついた。
それでも背筋を伸ばしたまま、目を閉じる。
「はい……ようやく、ですね」
短く、呼吸を整え、彼女はふっと表情を緩めた。
その頬に浮かぶ微笑は、聖女としての威厳も仮面も脱ぎ捨てた――ただの、一人の少女の顔だった。
俺もつられて、思わず笑ってしまう。
なんだろう、この感覚。
まるで、子供のころ、全力で遊びきったあとみたいに、体の奥から笑いがこみ上げてきて――
「ははっ……」
「ふふっ……」
「ふふふふふふふふっっ!!」
最後に、シクスが大声で笑いながら走ってきた。
転びそうになって、ドテッと尻もちをついて、さらに笑う。
「オレ、やった!!やったよね!?オレ、守護者として超活躍したぁぁあ!!」
「……してましたね。少しだけ」
「ちょっとだけぇぇえ!?」
俺とカルテシアも、それを見てつい吹き出した。
もう、全部が馬鹿みたいに思えるほど、
心が――軽かった。
生きている。
守れた。
それだけで、今は十分だった。
陽が沈み、夜の帳が静かに遺跡を包んでいた。
星がひとつ、またひとつと空に浮かび、風が遠くを通り過ぎていく。
俺は、遺跡の屋根の上に腰掛けていた。
崩れた柱に背を預けながら、手のひらに残るあの光の余韻を感じている。
あの瞬間――カルテシアが俺の名前を叫んだとき。
理由も言葉も、すべてを超えて、俺の心に届いた。
何かが変わった気がする。
誰かを守るってことの意味も。
勇者って役割の重さも。
でも、それがどうしようもなく――
悪くないって、思えたんだ。
「……はあ。聖女のお姉さん、ちょっと怖かったなぁ……でも、すっごかったなぁ……」
隣ではシクスが空を見上げて呟いている。
珍しく静かだった。ただ、星を見ていた。
「なあ、シクス」
「……うん?」
「また頼むことがあるかもしれない。そのときは、俺たちに力を貸してくれ」
「……わかったよ。オレ、守護者だし!……たぶん……でも、がんばるよ」
言葉は弱いのに、不思議とその顔は晴れやかだった。
そして、カルテシア。
聖女は今日も静かだった。
だが、あの時の彼女の表情を、俺は忘れない。
理性でも、使命でもない。
名前を呼んだ、あの瞬間に宿った想いを。
馬車の車輪が音を立てて動き出す。
新たな報告のために、俺たちは王都へと戻る。
――待っていてくれる人がいる。
それだけで、きっと、次の戦いにも立ち向かえる。
星明りの下で、少しだけ、俺は笑った。