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勇者になった俺  作者: 狐御前
第1章
7/28

第5話:その声は、名を呼んだ 後編

 その夜。

 俺は遺跡近くの村の宿舎の裏手で、王都へ向けて鳥を一羽、送り出した。

 足に括りつけた小さな手紙には、短く、状況と無事の報告を。


 そして翌朝、同じ鳥が戻ってきた。

 くるくると羽ばたきながら、俺の肩へと着地する。


 巻かれていた手紙は、王都の香りがした。

 封を開けると、見慣れた整った筆跡で、こう綴られていた。




「ご無事とのこと、何よりでございます。

 わたくしは王城におりますが、あなたの帰還を信じ、

 日々、祈りを捧げております。


 どうか、ご自身の信じる道を歩んでくださいませ。

 あなたの帰りを、わたくしは、いつまでも待っておりますから。


 ――リアノ=ルヴィア」




 読み終えた紙を、そっと胸元に仕舞う。

 やわらかな文字の余韻が、冷えた心を温めてくれた。


 ……大丈夫。

 帰る場所は、ちゃんとある。




 朝日が、森の上から斜めに差し込んでいた。

 小鳥の声と、葉の擦れる音。

 風に揺れる草木の先、遺跡の脇にぽっかりと広がる空間――


 そこは自然にできた、円形の小さな広場だった。


 その中心に、彼女はいた。


 カルテシア=セラフィム。

 聖女。神の代行者。


 蛇腹剣を手に、無音のまま舞うように剣を振るっていた。

 刃は分離し、空気を切り裂き、また収束する。

 一歩ごとに、朝の霧が光を孕んで揺らぎ、まるで“結界”のようだった。


 その姿は、神秘的で――そして、どこか遠かった。


 まるで、初めて出会ったあの宗教都市の礼拝堂。

 冷たく、凛としていて、誰にも近づけない“聖域”のような雰囲気があった。


 ……いや。

 実際に、近づいてもいいのか、わからなかった。


 それでも、俺が歩き出したとき。

 カルテシアは、すっとこちらへ向けて歩み寄ってきた。


 すれ違いざまに、言葉を落とす。


「――ご安心ください。私も、“覚悟”を決めていますから」


 それは――あの日。

 馬車の中で、彼女が初めて“人として”覚悟を語った、あの言葉。


 だが、今のそれは違っていた。


 声に揺らぎはなかった。

 目線は一切こちらを見ず、姿勢も緊張のまま。


 ――まるで、自分の感情に“鍵”をかけているかのようだった。


 俺は、ただ立ち尽くした。


 強いのはわかってる。信じてる。

 でも、そこに感情がない彼女は――どこか、“ひとり”に見えた。


 ……寂しいと思った。


 それは、たぶん。

 旅の中で、少しずつ彼女の“人間らしさ”に触れてきたからだ。


 今のカルテシアは、たしかに“聖女”だった。

 でも、あのときのカルテシアでは――なかった。



 それからほどなくして、カルテシアは奇妙な行動を起こし始めた。



 地面に描かれた魔法陣は、俺には見慣れない構造だった。


 円環と、幾何学的な呪文式。

 それが地面に淡く浮かび上がり、カルテシアの魔力によって少しずつ完成に向かっている。


 彼女はずっと黙っていた。

 まるで何かに祈るように――ただ、機械のように繰り返し刻印を描き続けている。


 俺は声をかけた。


「……それ、何の魔法陣なんですか?」


 カルテシアは答える。


「上位存在を駆逐するための、必要な手順です」


 淡々としていた。

 声に揺らぎはない。振り向きもしない。


 だから、もう一歩踏み込んで訊いた。


「……何を代償にして、発動するんですか」


 ペンが止まった。


 しかし、カルテシアは振り返らなかった。

 ただ少し、空気が冷たくなったような気がした。


「それは重要ではありません。

 戦いに勝ち、生き延びることが最優先です。

 最適解に必要なものは、すでに私の中で計算済みです」


 それきり、会話は終わった。


 俺の声が、届いていないわけじゃない。

 でも、応えようとはしてくれなかった。


 以前の彼女なら、どこかで“冗談めいた顔文字”でも添えてくれたかもしれない。

 あるいは、無表情の中にも戸惑いや迷いが見えていたかもしれない。


 けれど今のカルテシアには、何もなかった。


 完璧な、聖女の顔だった。

 誰にも触れさせない“使命”だけをまとった――、人形みたいな表情だった。


 ――シクスと出会って、一週間が経った。


 俺とシクスは、時空石の制御に少しずつ慣れ始めていた。

 過去の断片を再生したり、記録の追跡も少しずつ精度が上がってきている。


 だけど、もう一人――カルテシアは、まるで別の時間を生きているようだった。


 完成した魔法陣の中央。

 彼女はそこから、一歩たりとも動かなくなっていた。


 朝になっても、夜になっても。

 風が吹いても、虫の音が変わっても。

 彼女は同じ姿勢で、ただ目を閉じ、両手を組み、魔法陣の中心に立ち続けている。


 俺は、何度か声をかけた。


「カルテシア、少し休んだ方が……」


「必要ありません」


 それだけだった。

 抑揚もなく、余韻も残さず、まるで機械が発声したような返事だった。


 それ以上、俺は何も言えなかった。


 ご飯を持っていっても、口をつけない。

 眠る様子もない。

 目だけが、時折、魔法陣の文様をなぞるように動いている。


 ……まるで、彼女の生命そのものが、魔法陣に縫い付けられているようだった。


 完璧に整った構造体と、微動だにしない聖女の姿。

 その“完全な不変”は、どこか神聖で――だが、同時に不気味だった。



 カルテシアは、今日も魔法陣の中心にいた。


 風に髪が揺れても、目を閉じたまま動かない。

 静止したその姿はまるで――祭壇に据えられた、捧げ物のようだった。


 ……もう、黙っていられなかった。


 俺は、剣を帯びたままその場に踏み込んだ。

 魔法陣の輪を越え、彼女の前へと立つ。


「カルテシア。もうやめろ」


 反応は、なかった。


 俺は強引にその腕を掴む。


「話せよ。食べてないんだろ、寝てもいないんだろ? こんなやり方、おかしいって――!」


 カルテシアは、目を開けた。


「やめてください。これは私が選んだ“覚悟”です」


 その声には、怒りも苛立ちもなかった。

 ただ淡々と、拒絶の意志だけが込められていた。


「これが最も確実で、最も損失が少なく、最も早い解決手段です。

 私は、“正しく”あるために動いています。

 この身体と、存在を捧げることは、勇者であるアナタを守るための……当然の帰結です」


 ……違う。


 そんな“当然”を、俺は望んでいない。


 このままだと、カルテシアという人間が消えてしまう――

 俺は、理屈じゃなく、心でそれを感じた。


 だから、腕を離した。

 力では、もう彼女には届かない。


 俺は、一歩下がって――そして、真正面から言葉をぶつけた。


「カルテシア。俺は、お前の力が欲しいんじゃない」


 彼女の眉が、わずかに動いた。


「俺は――“お前が”いてほしいんだ」


 静寂が落ちる。


 風が止み、草のざわめきも遠のいたように感じた。


「お前が誰かのために命を捧げるのを見たいんじゃない。

 戦って、悩んで、怒って、笑って……そういうお前と一緒に生きたいんだ」


 カルテシアは、黙って俺を見ていた。

 その双眸は深く、沈黙の底に何かが揺れていた。


「覚悟は、お前一人が背負うものじゃない。

 俺も背負う。シクスだって、頼りないけど背負おうとしてる。

 だから――戻ってきてくれ、“カルテシア”」


 俺の声が届いたかどうか――すぐにはわからなかった。


 カルテシアは視線を逸らすでもなく、こちらを睨むでもなく、

 ただ、足元の魔法陣をじっと見つめていた。


 長い沈黙が落ちる。


 風が吹き、彼女のローブの裾がわずかに揺れる。


 やがて。


 カルテシアは――ほんのわずかに目線を落とした。


 指先が、微かに震えていた。

 それは魔力の高ぶりではなく、疲労。

 否――“生きた人間”としての、限界の兆候だった。


 そして、ぽつりと呟く。


「……少し、疲れが溜まっていたみたいですね」


 声に、かすかな体温が戻っていた。

 それだけで、胸の奥に何かが込み上げてくる。


「……こんな、魔法陣で……」


 カルテシアの目が、ゆっくりと魔法陣の中心から外れる。

 そして、自嘲するように苦笑した。


「――こんなもので、上位存在を……倒せるわけが、ない」


 崩れるように、彼女の膝が落ちた。


 魔力の制御が解け、魔法陣の光が一気にしぼむ。

 そのまま、彼女はゆっくりと前のめりに――


「っ、カルテシア!」


 駆け寄って、俺はその身体を受け止めた。


 近くで見ると、顔色は蒼白で、冷たい汗が額を伝っていた。

 ずっと、ずっと限界を超えていたのだ。


 何も食べず、眠らず、笑いもせず、叫びもせず。

 ただ、最適解のために命を削り続けた結果――


「ごめんな……気づいてやれなくて」


 彼女は何も言わなかった。

 けれど、閉じたまぶたの奥に、微かな涙の跡が光っていた。



 薄明かりの差し込む室内。


 カルテシアが、ゆっくりと瞼を開けた。


 まだ少し熱の残る額に手を当て、姿勢を起こそうとしていた。

 俺はそっとカルテシアの背中を支える。


「……勇者様」


 カルテシアは、少しだけ息を吐くと、顔を伏せるようにして呟いた。


「……神託は、私個人で対処できるなら、最初から“ロボットに頼れ”とは言わないはずです。

 それでも私が、あのような魔法陣を描いてしまったのは――」


 一拍の間。


「……私の未熟さによるものです。申し訳ありませんでした」


 消え入りそうな声だった。


 いつもの、冷静で整然とした口調とは違っていた。


 俺は、首を横に振る。


「俺の方こそ、すまない。気づけなかった」


「……?」


 カルテシアが目を瞬く。


「俺がもっと“勇者らしく”いられたなら、

 お前が一人で抱え込むこともなかった。

 お前を、追い詰めることなんて――なかったんだ」


 言葉の意味を、彼女はじっと考えていた。

 その瞳には、微かな戸惑いと、感情の揺らぎがあった。


 そのとき――


「つまり……両方未熟って……コトッ!?これもう詰みじゃん!」


 部屋の隅から、テンションだけは高い悲鳴が響いた。


 シクスだった。

 誰も呼んでいないのに、ちゃっかり居座っていたらしい。


 空気を読まず、思ったままを叫ぶポンコツロボ。


 けれどそのとき――


「……ふふっ」


 微かに、けれど確かに。


 カルテシアの口元に、笑みが浮かんだ。


 作られたものではない。

 礼儀でも、気品でもない。


 ――“人”としての、自然な笑みだった。


「詰みではありません。

 未熟だからこそ、共に進む意味があるのでしょう」


 そう言って、彼女はこちらをまっすぐに見た。


「私も……これからは、少しずつ学びます。

 独りで戦うのではなく、“共に”歩む道を」


 まっすぐに伝えられたその言葉に、俺は頷いた。


「一緒に頑張ろう。俺たち三人でな」


 それを聞いて、シクスが大きく手を挙げた。


「オレ、ポンコツだけどがんばるぅぅぅう!!」


 シクスを見つめるカルテシアの表情は、やわらかかった。





 夕刻の空の下、シクスは遺跡裏の広場で特訓中だった。


「でりゃあああ! オレ、時空石の守護者だから! すごいから!! でもポンコツだから期待はすんなよぉおおお!!」


 全身の機構をばたばたと動かし、空間に力を込めようとするが、結果は小さな時間ゆがみが出るだけで終わった。


 だが、カルテシアはその様子を少し離れた場所から静かに観察していた。

 表情は穏やかで、先日の氷のような表情はもう見られない。


 しばらく見守ったのち、ふと口を開いた。


「――シクス。少し、よろしいですか」


「んん? な、なになになに!? オレ、またなんかやらかした!?」


「いいえ。そうではありません」


 カルテシアは、静かに歩み寄り、真正面からシクスを見つめる。


「あなたは、なぜ我々に協力して下さるのですか?」


 その声音は落ち着いていたが、問いの内容は――本質だった。


「時空石を扱えるあなたにとって、この戦いは無関係なもの。

 上位存在との戦いなど、普通に考えて――“自殺行為”です」


「……」


 しばしの沈黙。


 その後、シクスは肩を震わせ――


「そ、そ、そ、そうだよねっ!? 正論だよねっ!? やっぱ逃げるうううううぅぅぅう!!」


 ぴゅーっとその場からダッシュ。


 空間を歪めてワープしようとまでしていたその瞬間――


「逃げは……許しませんよ?」


 黒い笑みを浮かべたカルテシアが、蛇腹剣を音もなく伸ばす。


 ガチャン、と鈍い音が鳴り――

 次の瞬間には、シクスの腰がきっちりと剣に巻かれて宙づりになっていた。


「ちょ、ちょっと!? 聖女のお姉さんこわいぃぃぃ!!」


「アナタの素直な感想は、よく理解できました。

 ですが、任務放棄と逃走は……神託にも、私にも、許されません」


 笑顔はそのままだが、目は笑っていない。

 ぶら下がったシクスを見て、俺は思わず吹き出しそうになった。


 けれど、カルテシアは最後にほんの少しだけトーンをやわらげる。


「……ですが、恐れることは当然の反応です。

 それでもここに留まり、戦おうとしてくれている。それは、誇るべき価値ですよ」


 その一言に、シクスはしばらくぽかんと口を開けて――


「……オレ、ポンコツだけど、がんばるううう……ううう……」


 その泣き声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。



 夜の遺跡は、昼の気配が嘘のように静かだった。


 虫の声もほとんど聞こえず、ただ風が崩れた石壁を撫でていく。


 俺は、簡単な見回りのつもりで外に出たのだが――


 既にその先に、ひとつの背中があった。


「……カルテシア?」


 薄明かりの月光の中で、彼女は一人、崩れかけた柱の上に腰掛けていた。

 ローブを羽織ったまま、視線は空に向いている。


「こんばんは。勇者様」


 こちらに視線を向けず、彼女は穏やかに声を返す。


「こんなところで、何をしてるんだ?」


「眠れなくて」


 短く、それだけだった。

 だがその声音は――どこか、俺の知っているカルテシアではなかった。


 俺も隣に座る。崩れかけた石柱は冷たく、乾いていた。


 しばらく、二人で空を見上げたまま、沈黙が続く。


 やがて、俺は口を開く。


「お前って、ずっと“誰かのため”に動いてきたんだよな」


 カルテシアは、ふと目線を伏せた。


「それが、聖女という存在です。

 私個人の意思など、神意の前には些細なものでしかありません」


「……でも、本当はどう思ってた?」


 質問は、唐突だったかもしれない。

 けれど、それでも聞きたかった。


 カルテシアは――少しだけ考えるように目を細めた。


「……正直に申し上げれば、怖かったです。

 命を捧げるという選択が“正しい”と理解していても、それが“怖い”と思う自分が許せなかった」


「怖くていいんだよ」


「ええ。今は、そう思えるようになりました」


 そう言って、彼女はようやく、こちらを向いた。


「勇者様が、そう言ってくれたから」


 俺は何も言えなかった。


 ただ、カルテシアの瞳に浮かんだ微かな水光を見て――胸が締めつけられた。


 ああ、たぶんこの人は――


 ずっと、“正しくあろう”として、自分を削ってきたんだ。


 誰にも頼れず、感情を見せることすら許されず。

 それでも、間違えずに進まなくてはならないと、そう信じていた。


「ありがとう、勇者様。

 私……もう少し、頑張れそうです」


 夜風がそっと吹いた。


 カルテシアの金の髪が揺れ、月光がその横顔を照らす。


 それはまるで、初めて見る彼女の“素顔”だった。






 朝焼けが差し込む遺跡の広場。

 俺はすぐに気づいた。


 ――空気が、違う。


 鳥の声が聞こえない。風も止んでいた。

 まるで時間そのものが、静止しているような圧迫感。


 この一週間、時空石の特訓をしていたせいか、

 “時の歪み”に敏感になっているのがはっきりとわかる。


「……来ますね」


 背後から、カルテシアの声。

 振り返ると、彼女もすでに装束を整え、蛇腹剣を手にしていた。


 息を呑む隙間もなく、彼女がこちらに歩み寄り、背中を預けるように立つ。


 無言のまま、自然と俺も光の剣を抜いた。

 互いの視界が重ならないよう、四方に目を向けて立つ二人――背中合わせ。


 微かな震動。


 時間にして、数秒だったはずだ。


 けれどその“存在感”は、まるで空間そのものが拒絶反応を起こしているかのようだった。


 空が裂ける。


 地が震える。


 そして――現れた。


 蛾だ。だが、ただの蛾ではない。


 その全身は闇に染まり、羽には過去の記憶のような像が瞬き続ける。

 頭部は人間に似た構造をしていたが、目はない。かわりに蠢く無数の紋様が、視線を狂わせる。

 長い、異常に長い尻尾が大地にまで垂れ下がり、時折震えるたびに、空間が“悲鳴”を上げた。


「……名前はありません。“上位存在”という分類だけがある」


 カルテシアの声は、震えていなかった。


 けれど、その目には、明らかな覚悟と緊張が宿っていた。


 俺も――息を整える。


 これはただの敵じゃない。


 この世界の常識では、語れない存在だ。


 だが、恐怖に呑まれるわけにはいかない。


「カルテシア」


「はい」


「今度は、三人で勝つぞ」


 すぐ横で、シクスが拳を震わせていた。


「オレ、ポンコツだけどやるぅぅぅぅぅ!!」


「……一発で仕留めます。援護を」


 静かに、戦闘が始まろうとしていた。


「援護します!」


 シクスが飛び出す。

 その小さな体から発せられた時空石の波動が、空間の流れを一瞬だけ止めた。


 時間が、凍る。


 上位存在の動きが止まる。ほんの、1秒。


 その隙を縫って、カルテシアが放つ。


「――神の一撃・儀式増幅式」


 足元に組み上げた巨大な魔法陣が煌めき、蛇腹剣が蒼く輝く。

 彼女の全魔力を注ぎ込んだ一撃が、空を裂き、上位存在へと直進する――!


 そして。


 それと同時に、俺も全力で駆けた。


 光の剣が閃く。


 二つの必殺が、同時に上位存在に叩きつけられた――はずだった。


 しかし。


 蛾の羽がゆっくりと動いただけで、空間がひしゃげる。


 時が、反転した。


「なっ――!?」


 カルテシアの剣が消える。

 シクスの時空制御が破れる。

 俺の斬撃も、相手に届く前に空間ごと呑まれた。


 そして――


「……!」


 上位存在の尾が、一閃。


 カルテシアの身体が宙を舞った。

 数メートルを転がり、石の地面を打つ音がした。


 血が、静かににじむ。


「カルテシア!!」


 咄嗟に俺は飛び出した。

 蛾が、こちらにその視線のない顔を向ける。


 圧力が、空間を潰していく。


 それでも俺は――光の剣を構えた。


 地に倒れたカルテシアの前に立ち、

 その剣と、上位存在の攻撃が激突する。


 光と闇が、火花を上げてぶつかる。


 歯を食いしばり、剣を押し返す。

 腕は痺れ、膝が砕けそうだった。


 でも――


「……絶対に……守るって、決めたんだよッッ!!!」


 その瞬間、光の剣が共鳴音を上げた。


 理性ではない。技術でもない。

 ――これは、俺の感情だ。


 守りたいという衝動が、光となる。


 閃光が空を裂いた。

 剣から走った一閃が、上位存在の胸部を貫いた。


 音もなく――蛾の身体が蒸発するように崩壊していく。


 羽が砕け、尾が消え、そこにいた“何か”が空間ごと引き裂かれて姿を消した。


「……終わった、のか……?」


 力が抜けて、膝をつく。


 だがその直後――


「勇者様、伏せてくださいッ!!」


 カルテシアの叫び。


 俺の背中越しに、空間が――また、“ひずんだ”。


 空気が圧縮され、重力がねじれたような圧が生まれる。


「……早すぎる……!」


 カルテシアが顔をしかめ、地面に片膝をつきながら状況を読み取る。


 その目には、すでに冷静な計算が走っていた。


「さきほどの個体は、おそらく“投影体”です。

 本体とは異なる、疑似存在。ですが――」


 彼女の目が、ほんのわずかに見開かれる。


「……復元速度が、異常です。

 あと一分もしないうちに、また――来ます」


「……は?」


 息を飲む俺に、カルテシアは言った。


「今の攻撃で“倒せた”と感じたのは、投影が物理的に壊れただけ。

 ですが、魂本体が未来に存在するならば、

 同じ構造を何度でもこの場に投影できるという理屈になります」


 冷静な言葉だった。


 でも、その中にあるのは、明らかな――危機の確信だった。


 カルテシアの言葉が終わるのとほぼ同時に、空間がまた裂け始める。


「嘘だろ……!」


 たった一分。たったそれだけで。


 さっき、あれだけの全力を出して、ようやく倒した相手が――また来る。


 空が悲鳴を上げる。


 裂け目の中、また同じ“それ”が姿を見せようとしていた。


 空間が裂け、再び現れる“それ”。


 風が渦を巻き、重力が狂い始める中――


「シクス!!」


 叫んだのは、カルテシアだった。


 そのまま転がるようにして、シクスの元へ滑り込む。


「オレたちもうムリムリムリィィィィ!!」


 シクスは両腕で頭を抱えて、床にぺったり座り込んでいた。

 時空石も、うずくまる彼の掌で震えているだけ。


「出力操作、手動切り替え! ぜんぶ私がやります!あなたは連動入力だけで――!」


「無理だって!この敵、なんかもう“理不尽”とか“超越”とかそういうレベルで来てるもんんんん!!」


「あきらめないでください! このままじゃ“ポンコツロボット”のままですよ!?!?!?」


 カルテシアの声が、明らかに震えていた。

 けれど、それは怒りでも、焦りでもない。


 ――期待だった。


 信じてるからこそ、怒鳴った。


「あなたは、守護者でしょう!?

 オレなんかよりすごい奴いっぱいいた、って……

 なら、今ここにいる“あなた”が、立ち上がらなくてどうするんですか!?」


 カルテシアの頬が紅潮し、蛇腹剣を壁に突き刺して支えにする。


「あなたしかいないの! お願い! 私たちを助けて!」

「うるさいよぉおおお!!でも……オレ……」


 シクスの手が震えながら、時空石を強く握る。


「……やってやるぅぅぅぅぅぅぅ!!」


 シクスが立ち上がる。


 その目に、一瞬だけ“かつての記憶”が宿ったような気がした。



 ⸻


 未来と現在の狭間――

 上位存在の本体が座標上に露出した瞬間。


 カルテシアは全ての理性を超えた覚悟で、叫んだ。


「――■■■■!」


 その声は、勇者としての“あなた”ではなく、

 “あなたという人間そのもの”を――ただ一人を呼ぶ、魂の名だった。


 声は震え、言葉の端が涙で滲んでいた。


 神の代行者としてではなく。

 合理を重んじる聖女としてでもなく。

 一人の少女として――彼女は、俺を呼んだ。


 その瞬間、全身に電流が走ったようだった。

 力が、魂の奥から湧き上がってくる。

 この呼び声に、応えなければ――と本能が叫んでいる。


「――ああ。俺に任せろ、カルテシア!」


 体が軋む。

 骨が悲鳴を上げる。

 けれど、それでも、迷いはなかった。

 踏み込み、振り抜く。


 光が、世界を裂いた。


 ただの斬撃ではなかった。

 それは因果律を破壊する、概念の“拒絶”。


 千年先の未来にいる存在――空間すら超えて逃れようとした“本体”へと、

 光が時の層を貫き、一直線に届いた。


 その瞬間。


 ――何もかもが、静かになった。


 時空が焼け落ちたように、

 その存在がいた座標が**“なかったこと”になった**。


 視界の全てが反転し、焼き尽くされた空間に風が戻る。


 その中央に、俺は立っていた。

 剣を地に突き、息を切らしながら。


「……終わった……のか?」


 カルテシアが、ゆっくりと俺の横に立つ。

 その顔に、はじめて安堵の色が見えた。


 シクスもふらふらと歩いてきて、両手を上げる。


「オレたち……勝ったんだよね!?」


 もう、何の気配もしなかった。


 風が、静かに吹いた。


 あの恐るべき上位存在は、

 千年の時を越えて――完全に、消えた。



 静寂のなか、風が抜ける。


 戦いが終わったという実感は、遅れてやってきた。

 肩から力が抜け、俺はその場にへたりこんだ。


「……終わったんだよな」


 誰にでもなく、呟く。


 隣に立っていたカルテシアも、同じように膝をついた。

 それでも背筋を伸ばしたまま、目を閉じる。


「はい……ようやく、ですね」


 短く、呼吸を整え、彼女はふっと表情を緩めた。

 その頬に浮かぶ微笑は、聖女としての威厳も仮面も脱ぎ捨てた――ただの、一人の少女の顔だった。


 俺もつられて、思わず笑ってしまう。


 なんだろう、この感覚。

 まるで、子供のころ、全力で遊びきったあとみたいに、体の奥から笑いがこみ上げてきて――


「ははっ……」


「ふふっ……」


「ふふふふふふふふっっ!!」


 最後に、シクスが大声で笑いながら走ってきた。

 転びそうになって、ドテッと尻もちをついて、さらに笑う。


「オレ、やった!!やったよね!?オレ、守護者として超活躍したぁぁあ!!」


「……してましたね。少しだけ」


「ちょっとだけぇぇえ!?」


 俺とカルテシアも、それを見てつい吹き出した。


 もう、全部が馬鹿みたいに思えるほど、

 心が――軽かった。


 生きている。


 守れた。


 それだけで、今は十分だった。



 陽が沈み、夜の帳が静かに遺跡を包んでいた。

 星がひとつ、またひとつと空に浮かび、風が遠くを通り過ぎていく。


 俺は、遺跡の屋根の上に腰掛けていた。

 崩れた柱に背を預けながら、手のひらに残るあの光の余韻を感じている。


 あの瞬間――カルテシアが俺の名前を叫んだとき。

 理由も言葉も、すべてを超えて、俺の心に届いた。


 何かが変わった気がする。

 誰かを守るってことの意味も。

 勇者って役割の重さも。


 でも、それがどうしようもなく――

 悪くないって、思えたんだ。



「……はあ。聖女のお姉さん、ちょっと怖かったなぁ……でも、すっごかったなぁ……」


 隣ではシクスが空を見上げて呟いている。

 珍しく静かだった。ただ、星を見ていた。


「なあ、シクス」


「……うん?」


「また頼むことがあるかもしれない。そのときは、俺たちに力を貸してくれ」


「……わかったよ。オレ、守護者だし!……たぶん……でも、がんばるよ」


 言葉は弱いのに、不思議とその顔は晴れやかだった。



 そして、カルテシア。


 聖女は今日も静かだった。

 だが、あの時の彼女の表情を、俺は忘れない。


 理性でも、使命でもない。

 名前を呼んだ、あの瞬間に宿った想いを。


 馬車の車輪が音を立てて動き出す。


 新たな報告のために、俺たちは王都へと戻る。


 ――待っていてくれる人がいる。

 それだけで、きっと、次の戦いにも立ち向かえる。



 星明りの下で、少しだけ、俺は笑った。


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