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第4話:舞の記憶と割れた仮面 後編

 能楽の一幕が終わり、場の空気が和やかに落ち着いた頃――

 今度は、ひときわ鮮やかな紅の衣装を身に纏った少女が姿を現した。

 彼女の歩調に遅れて、柔らかな笑みをたたえた男がその背後から現れる。

 中背で、目元に年齢の刻みを感じさせながらも、鍛えられた体躯と姿勢には威圧感すらあった。


 少女は拳法着に似た赤いチャイナ服を着ており、両手はしっかりと帯で縛られていた。

 目は鋭くも無垢で、まるで闘犬のようにじっとこちらを見つめていた。


 姫様が先んじて挨拶をしようとすると、その少女はやや唐突に言った。


「勇者様に手合わせ願いたいと思いまして来たアル!」


「……っふ、ふふ……」

 姫様が珍しく表情を崩し、思わず吹き出す。


「申し訳ありません、失礼いたしました」

 軽く胸に手を添えて姿勢を正すと、姫様は問いかけた。


「そのような急なご提案、理由をお聞きしても?」


 すると、隣にいる男が口ひげを撫でながら、堂々と、しかし誤解なく言い放つ。


「当然、この子の強さのためでございます!」

「私、この拳法界で誰にも負けたことないアル。でも、もっと強くなるには、自分より強い奴に会わなきゃダメ。だから来たアル!」


 堂々としたその言い切りに、俺は唖然としつつも、どこか憎めなさを覚えた。


「ちなみにこの娘、我が一門の最高傑作。私が鍛えた結果、素手でドラゴンも倒せるようになりました」


「あの、あなたはアルと語尾につけないんですか?」

「は?」

「あ、いえ、ごめんなさい……」

「勇者様……」


 リアノは少々呆れていた。


 さて、目の前の少女はというと、無言のまま、すっと手を合わせて一礼する。

 敵意はないが、確かな闘志が込められていた。


「……俺でいいなら、少しだけ」


 そう答えると、少女の目がほんのわずかに細まった気がした。

 異国の風と、武の理が、港の邸宅に静かに流れ始めた――。


「マオマオ、手加減は不要ですよ」


 男が静かに合図を出すと、少女――マオマオは拳を握り、ぴたりと動きを止めた。

 次の瞬間、彼女の全身に張り詰めた気が走り、足元の空気がきしむ。


「――虎!」


 雄叫びと共に、鋭く踏み込んでくる。

 掌底の一撃が空を裂くように伸び、俺は寸前で身をかわした。

 まさしく“虎”の一撃。威力と速度が合致した理想的な先制だった。


「――蛇!」


 今度は身体を低く沈め、滑るように間合いを詰めてくる。

 くねるような手の軌道が幻惑を誘う。

 その動きに迷いはなく、まるであらかじめ決められた手順に沿って動いているかのようだった。


(……これは型か。型を切り替えるたびに、“動物の名”を叫ぶことでリズムを取ってる?)


「――馬!」「――猿!」


 まるで獣道を駆け抜けるかのように、マオマオの拳脚が連続で襲いかかる。

 ただ、型の変化とその“叫び”のタイミングには、妙な一貫性があった。

 叫ぶことで、彼女の動きに切り替えの“間”が生まれる。


(なるほど……動物の名前を叫ぶのは、思考ではなく反射に切り替えるため。言語によって型を制御してる……)


 そして、再び。


「――虎!」


 俺はその声を聞いた瞬間、わずかに微笑んだ。


「……さっき、蛇だったんじゃないのか?」


 マオマオの足が止まった。

 その顔に、ごく微細な迷いの影が浮かぶ。

 ごく一瞬――しかしそれは、型に依存して戦う者にとっては致命的な“ノイズ”だった。


(思考が一瞬止まった……今だ!)


 踏み込む。

 俺の剣ではない拳が、マオマオの腹部をとらえた。


「――ぐっ……!」


 倒れることはなかったが、マオマオの身体が大きく後ろに跳ねる。

 彼女の師が、手を挙げて止めを告げた。


「勝負あり。見事な判断力と観察力だった。マオマオ、お前もよくやった」


 マオマオは無言で立ち上がり、再び一礼した。

 今度は、少しだけ頬を赤らめていた。


 マオマオの師は、俺くんに歩み寄り、両手を胸の前で合わせて深く一礼した。


「勇者様、ありがとうございます。あの子が他者に負けて、心から納得したのはこれが初めてだったのです」


「いえ、こちらこそ貴重な機会をいただきました。強かったです」


 俺も丁重に頭を下げた。

 師匠の隣で、マオマオが静かに立ち尽くしている。口を開くことはなかったが、その目はしっかりと俺を見ていた。

 やがて、何かを言いかけるように一歩近づくと、無言のまま――そっと拳を胸に当てて、深い礼を返した。


(ああ、これは――彼女なりの“ありがとう”なんだな)


 思わず頬が緩む。

 異国の仕草だろうか、その礼はまるで舞の一部のように洗練されていた。


「見事でしたわ、勇者様」


 姫様の拍手が、周囲の空気を和らげる。

 他の来賓たちも続いて拍手を贈り、場の緊張はやがて祝福の色を帯びていった。


 どこか重たかった空気に、ようやく微笑みが満ちた気がした。


 そして、姫様は静かに俺の隣に立ち、ささやくように言った。


「こうして、勇者様と共に異国の方々と触れ合えるのは……とても、嬉しいことですわ」


「……俺もです」


 俺の返答に、姫様はわずかに微笑み、視線を会場へ戻す。

 港の異国情緒と、胸に残る熱と、静かな余韻を感じた。




 翌朝。

 早朝の港はもう人の声と波の音で満ちていた。潮風に混ざって焼き魚や香辛料の匂いが漂い、どこか懐かしささえ感じる。


「勇者様、こちらですわ。市場は朝が一番活気がありますの」


 姫様は今日も旅装を整え、布のフードを深くかぶっていた。王家の者だとは誰も気づかない。それでも、その立ち居振る舞いには、自然と人々の目が引き寄せられていた。


「活気があって……いい街ですね」


「ええ、わたくしもこの港は好きですわ。人の声が、心に届いてくるような気がいたします」


 そう言って、姫様は小さな果物を売る店の前で足を止めた。

 異国から届いたという、細長くて皮が青い果実。俺がまじまじと見ていると、姫様はそっとそれを一つ手に取り、値段を尋ね、迷いなく購入した。


「どうぞ、勇者様。少し酸味がありますが、すっきりしていて美味しいですよ」


 手渡された果実をかじると、たしかに酸っぱくて、それでいて不思議な甘さが口に広がった。

 姫様は俺の反応を見て、ふっと楽しげに笑った。


「港の街は、出会いの街ですわ。文化も、人も、味も。王都とは違って、それが混ざり合って育つ……素敵ですわよね」


 人波に紛れながらも、姫様と並んで歩くこの時間が、妙に心地よかった。

 城で過ごしていた頃よりもずっと自然で、あたたかい。

 たまには、こんな旅も悪くない。


 やがて広場に出ると、異国の楽器を奏でる一団が陽気な音楽を響かせていた。姫様はそっと足を止めて、それに耳を傾ける。


「……この街に、また来たくなりますわね」


 俺はうなずいた。

 理由は言葉にしなかったが――

 きっとそれは、港町の空気だけのせいではないと思っていた。


 午後。

 昼食を終えたあと、屋敷の中庭にも、港町らしいゆるやかな陽射しが差し込んでいた。

 姫様は政務のために執務室にこもり、俺は時間を持て余すようにして、庭へと出る。

 潮の香りは薄れ、代わりに静かな空気が辺りを包んでいた。


 屋敷の裏手、日除けのかかった広場に出たときだった。

 風に揺れる布越しに、人影がひとつ、ゆっくりと舞っていた。


 白い装束。

 手先まで無駄のない動き。

 そして――顔には鬼の面。


 あの仮面を、俺は見覚えがあった。


 足音を立ててしまったが、舞の手は止まらなかった。

 少女は、ただ面越しに俺の方をじっと見ていた。


「……昨日、舞っていた子か? ゼアミンちゃん……だよね?」


 返事はなかった。だが、彼女はすっと面を傾けて、小さく頷いた。


 やはり、あのときの少女だった。

 昼下がりの光を浴びながら、ひとりで舞を続けていたその姿は、どこか夢の中の光景のようだった。


「……舞の稽古?」


 問うと、今度は一瞬だけ間を置いて、またこくりと頷いた。

 そして、再び何も言わずに、彼女はゆるやかに歩き出し、俺の前を通りすぎていく。

 その小さな背中は、どこか寂しげで――

 だが、確かな意思を感じた。


 俺はそれを、言葉にはせず、ただ静かに目で追った。

 少女の背に、風が舞う。仮面の奥の瞳を、俺はまだ知らなかった。



 ふと、つい呼びかけてしまった。


「……あのさ」


 彼女は立ち止まる。

 振り返ったその姿は、仮面に覆われていて表情はわからない。けれど、まっすぐに見られている気がした。


「なに?」


 声は思いのほか素朴で、音程も感情も淡い。

 警戒するでもなく、ただ疑問を投げかけている――そんな声音だった。


「……お腹、空いてない?」


 自分で言っておいて、少しだけ恥ずかしくなった。

 なんだそれ。不審者じゃないか。

 だが、彼女はほんの少し考える間を置いてから、


「うん」


 と、こくりと頷いた。


 それだけで、なんとなく空気が和らいだ気がした。


 屋敷を抜けて、市場まで歩く。

 港町の中心にある広場には、香ばしい匂いが立ちこめていた。

 俺は手早く、焼きたての串焼きを二本買って、一本をゼアミンに差し出す。


 少女は仮面を軽く持ち上げて、口元だけを見せて受け取った。

 その所作も、どこか舞の一部のように静かで美しい。


「ありがとう」


 ぽつりと、聞こえるか聞こえないかくらいの声。

 それでも俺は、思わず笑みがこぼれた。


 感情の起伏はあまりなくて、笑うことも泣くことも少ない。

 だけど、こうして静かに傍にいると、どこか妹のような、守ってあげたくなる雰囲気があった。

 素直で、大人しくて、不器用だけど――いい子だ。


「……美味しい?」


「うん」


 それだけを言って、また一口。


 静かな午後の空の下。

 言葉は少ないけれど、妙にあたたかな時間だった。


 串焼きを半分ほど食べたころ、ふと彼女に尋ねてみた。


「どこから来たの?」


 ゼアミンは少しだけ首を傾げてから、ぽつりと答える。


「海を渡った、遠いところ」


 それ以上は多くを語らない。

 風が吹いて、仮面の下の髪が少し揺れた。


「どうしてここに?」


 彼女はしばらく黙っていた。けれど、やがて、迷いのない声で――


「わからない。お父さんは負けちゃったから」


「……負けた?」


「うん。でも……お父さんは、すごい人」


 そう言うと、仮面の向こうで目を伏せるような気配があった。

 その言葉には、尊敬と、そしてどこか遠慮が混じっていた。


「最近、お父さんとは上手くいってない?」


 今度は、ほんの少し間を置いてから、ゼアミンは頷いた。


「お父さんは、私を見てくれない」


 静かで、傷ついたような声だった。

 俺は思わず身を乗り出す。


「……どういう意味?」


 ゼアミンは、目を合わせないまま、まっすぐ前を見ていた。

 その視線の先には、ただ通り過ぎる風と、人々のざわめきしかない。


「私が、女だから」


 はっきりと、静かに、そう言った。


 胸の中に、何かが詰まったように感じた。

 彼女の語る言葉はどれも淡々としていたけれど、そこに込められた重さはあまりにも大きかった。


「でも――」


 彼女はふと、手にした串焼きに目を落とした。


「舞は、好き」


 それは、唯一自分の価値を感じられる場所なのだろう。

 仮面の奥にある目が、何を見ているのかはわからなかった。けれど俺は、静かに頷くしかなかった。


「また、舞を見せてね」


 そう口にしたとき、ゼアミンはわずかに首を傾げた。

 そして仮面の下から、まるで心の奥をのぞき込むような声音で、問い返す。


「……物足りなかったのに?」


 息をのんだ。

 昨夜、自分の中に渦巻いたあの微かな違和感――誰にも言わなかったはずのそれが、まるで読まれていたかのようだった。


「……あれがキミの“舞”じゃないような気がしたんだ」


 言葉にして初めて、自分でもその感覚の正体を掴めた気がした。

 あれは技術としては完璧だった。けれど、何かが足りなかった。

 それは“ゼアミン自身”が、そこにいなかったことかもしれない。


 彼女は何も言わず、しばらく俺の顔を見つめ――それから、静かに立ち上がる。


「……いいよ。特別に、見せてあげる」


 そう言うと、そっとその場の空気が変わった。


 舗道の片隅、朝の市場のざわめきから少し離れたその場所で、彼女は両足を揃え、ゆっくりと両腕を広げる。


 始まった舞は、昨夜のものとはまったく異なる趣だった。

 能楽の静謐と、どこか異国の情熱的な律動が交錯するような――

 西方の踊りの“柔らかいゆらぎ”が、彼女の所作に乗って滲み出てくる。


 一挙手一投足が、仮面の無表情に反して、不思議と感情を喚起させる。


 それは確かに、あの夜の“完成された美”ではなかった。

 けれど、もっと心に残るものだった。


 ――と、思った矢先。


「ここまで」


 ゼアミンは唐突に動きを止めた。

 そして、息一つ乱さぬまま言う。


「構想段階だから、終わり」


「……でも、それをパパに見せたら――きっと見てくれるよ」


 そう言った俺の言葉に、彼女の背がわずかに揺れた。


「ううん」


 短く否定する。


「もっと、嫌われちゃう」


 それだけを言い残すと、ゼアミンは串焼きの棒を手に、踵を返した。


 歩き去っていくその背は、どこか逃げるようで――でも、泣いているようには見えなかった。


 仮面が、すべてを隠しているだけなのかもしれない。



 邸宅の扉をくぐると、涼やかな風が廊下を抜けた。

 午後の光がガラス窓を透かして差し込み、白い壁をほんのりと黄金に染めていた。


 姫様は書き物机の前に座っていた。政務を終えたらしく、湯気の立つ茶器がそばにある。


 俺の姿を見ると、椅子に手をかけたまま、静かに問いかけてきた。


「お帰りなさいませ、勇者様。……どうでしたか? ゼアミン殿とは、お話ができましたか?」


 俺は、今日のやり取りをそのまま話した。

 彼女の舞――そこに感じた“ゆらぎ”。

 父親に向けた屈折した想い。

 そして、最後に見せた小さな背中の寂しさ。


 姫様は一通り聞き終えると、軽く目を伏せて、こう言った。


「なるほど……。親子のすれ違い、というには少し深く根を張った問題のようですわね」


 真剣な面差し。その瞳には、他人の事情を斟酌するだけの理性と、放っておけないという僅かな情が重なっていた。


 そして、次に返ってきたのは、核心を突く言葉だった。


「ところで……勇者様は、どうなさりたいのですか?」


 その問いに、俺はしばし黙った。


 助ける理由はない。国の命令でもなければ、自分の利益にもならない。

 それでも――あの後ろ姿が、頭から離れなかった。


「余計なお世話かもしれない。でも……助けたいと思ってしまいました」


 それを聞いた姫様は、ふっと目を細め、気品に満ちた笑みを浮かべた。


「そのように仰ると思っておりました。……それでは、段取りをいたしましょう」


 そう言って立ち上がる姿に、王家の威厳と、人としての優しさが同居していた。


「貴族の方々との協議の折に、ゼアミン殿の父上を邸へお招きする手配が可能です。その場にて、静かな話し合いの場を設けましょう。あなたが“仲立ち”をなさるのも、一つの誠意でございます」


 俺は頭を下げた。


「……ありがとうございます。姫様のご助力に、心より感謝します」


「ふふ……感謝の言葉は、結果を得てからなさってくださいませ」


 その笑みはどこまでも上品で、そして、どこまでも温かかった。



 翌日、陽が高く昇った頃――

 王家の港邸に、客人が到着したとの報せがあった。


 案内の声に導かれ、俺は応接の間に向かう。

 広い間にはすでに姫様が控えており、気品ある佇まいで客人を迎え入れる準備を整えていた。


 まもなくして、扉が静かに開いた。


 現れたのは、能楽の装束を身にまとった中年の男と、その隣に寄り添う小柄な少女――ゼアミン。


 少女は変わらず、白く禍々しささえ感じる鬼の能面をつけていた。

 だが、その背筋にはわずかな硬直が見えた。

 仮面の奥――視線は見えぬはずなのに、どこかこちらをうかがっている気配があった。


 その沈黙のまま、少女はぴたりと立ち止まり、誰の声も遮らずに深く一礼する。


「……本日は、貴きお招きに、感謝申し上げます」


 仮面越しに発せられた声は、抑揚の少ない、けれど澄んだ音色だった。

 ほんの僅かに震えていたのは、気のせいではないだろう。


 続いて父親が一歩前へ出る。

 舞台の主としての誇りを感じさせる声音で口を開いた。


「ゼアミンの父でございます。本日は、娘の未熟な舞に対し、あらためてご挨拶とお詫びを申し上げに参りました」


 姫様は静かに微笑み、丁寧に首を振った。


「どうかお気になさらず。昨日の舞は見事でございました。……本日は、皆様にとって穏やかで有意義なひとときとなりますように」


 その言葉に、中年の男は表情を少しだけ和らげた。


 しかしゼアミンの身体はどこか硬いままだ。

 仮面がその感情を覆っていても、手の先、指の緊張、足の配置……それらが、言葉よりも雄弁に“張りつめた心”を伝えていた。


 俺は心の中でひとつ息をつく。


 ――この空気を、どう打ち解けさせるか。

 姫様の計らいによって得た場だからこそ、言葉を間違えてはならない。


 そして、視線を仮面の少女へと向けた。


「昨日の舞、とても綺麗だったよ。……ありがとう、見せてくれて」


 ゼアミンは少しだけ動いた。

 仮面の奥で、何かがゆらいだ気がした。


 場は応接室から、庭に面した静かな間へと移された。

 障子越しの光が柔らかく射し込む空間で、四人は卓を囲む。

 姫様は控えめに席を外し、俺とゼアミン、そしてその父――二人の時間が静かに始まった。


「……お父さんには、話してないの?」


 俺が訊ねると、ゼアミンは小さく首を横に振った。

 仮面越しの沈黙が重く、けれど確かに、意志のある否定だった。


「……でも、いいんだ。いま伝えよう」


 俺が背中を押すように言うと、ゼアミンは一度うつむき、そしてゆっくりと、父の方へ向き直った。


「……昨日、勇者様に見せたの。……構想中の舞を、ほんの少しだけ」


「……構想?」


 父の声は低く、少し硬かった。


「うん。西方の舞踏と、わたしの中にある能のかたちを、混ぜて……崩して……でも、まだ完成はしていないの」


「……なぜ、それを……私にではなく、勇者殿に?」


 ゼアミンの指先が、膝の上でほんの少しだけ震えた。


「だって……お父さんには、見せたらきっと、もっと嫌われると思ったから」


 その言葉に、室内の空気がぴたりと止まった。

 父は、ただ黙ってゼアミンを見ている。

 目の前の娘が、仮面で隠してきた心をいま、初めて真正面から差し出したのだ。


「お父さんの舞は、すごい。……でも、わたしは、それとちがう形で、舞いたいと思った。

 そうしたら、お父さんは、きっと……」


 ゼアミンの言葉はそこまでだった。



 ゼアミンの言葉がそこまで届いたとき、父が静かに遮った。


「……私に、遠慮する必要はない」


 その声音はいつもの威厳ではなく、柔らかさと疲れが混じっていた。


「お前が異国の土を踏むことになったのは……私の決断だ。

 自国では、女であるというだけで、舞の世界から追い出される。

 私は――お前の才能が、そんな理不尽に潰されるのを見たくなかった」


 父はゆっくりと湯飲みを置き、ゼアミンに視線を向けた。


「……正直に言えば、私にはその風潮に抗えるほどの力もなかった。

 だから、せめて自由な場所をと願った。……足枷のない国でなら、お前はきっと、自分の舞を育てられると」


 その瞳に、わずかに悔いが滲む。


「……だが、知らず知らずのうちに、私自身が異国でもお前を縛っていたようだ。

 先日の発言――『演者である限り男でなければ』――あれは、お前の心を……型の檻に閉じ込める言葉だった。

 ……すまなかった。本当に、すまなかった」


 しばしの沈黙。

 ゼアミンはうつむいたまま、小さく、けれど確かに、頭を下げた父の姿を見ていた。


 彼女の唇は何も語らない。

 だが、膝の上に置かれた両手が、ゆるやかに握られ、ほどける。


 ――それが、ゼアミンなりの「理解の証」であることを、俺は感じた。


 仮面の奥に隠された目が、いま何を見ているのかまでは、分からない。

 けれどこの場には、たしかに“言葉の橋”が架かっていた。


 そして俺は、その橋の端に、そっと立っていた。



 仮面が――外れた。


 父の膝元に立つゼアミンの手が、小さく震えながら、鬼の能面にそっと触れる。

 留め具が静かに外れ、乾いた音とともに、それは床へと落ちた。


 露わになったのは、まだあどけなさの残る、無垢な少女の顔だった。


 真っ直ぐに伏せられた睫毛。噛みしめる唇。

 そして、その頬に――涙が、音もなく流れていた。


 ゼアミンは、言葉もなく、ただ一歩、父へと歩み寄る。

 そして次の瞬間、ぐしゃりと父の胸元に顔を埋めた。


「……っ……う、う……っ……!」


 子どものように、声を殺して泣いていた。

 何年分もの感情が、抑えていた時間のすべてが、その小さな身体からあふれていた。


 父は動かない。ただ、少女をしっかりと受け止めていた。

 どれだけの年月、触れることも許されなかったこの抱擁を――。


 俺は、何も言えなかった。ただ、目を逸らすこともなく、目の前の光景を見ていた。

 仮面を脱いだその顔は、ようやく――親に「子」として見られた顔だった。


 傍らで姫様が、そっと目を細めていた。

 その微笑は静かで、しかしどこか、まるで祝福のような温かさを帯びていた。


 邸宅の応接間。

 ゼアミンの小さな背が、まだ父の胸元に抱きついたまま、震えていた。

 鬼の仮面は床に落ち、拾い上げた姫様の指先には、仮面の内側に残るわずかな涙の跡が光っていた。


「よろしければ……王家として正式な舞台をご用意いたしましょう」


 ゼアミンはわずかに身じろぎし、まだ父の胸元にいたまま、姫様に目を向けた。

 その眼差しに宿る光は、舞台に立つ演者のものであった。


「王家の?」


 ゼアミンの父がわずかに目を見開く。


「はい。――貴殿の娘殿が、いえ、演者ゼアミンが舞うに相応しき場を。客席には多くの文化人も招きましょう」


 ゼアミンは驚いたように父を見た。

 父は一瞬だけ躊躇ったが、やがてうなずく。


「……それが、この子のためになるのなら。私からも、お願い申し上げます」


「それでは、数日後の祝祭――舞台の一幕として組み込みましょう」

 姫様は静かに立ち上がり、ゼアミンへと視線を落とす。「今度こそ、“あなたの舞”を、誰もが見届ける舞台になりますように」


 ゼアミンはゆっくりと、父の腕の中から立ち上がり、軽く一礼した。

 仮面を抱えるように胸に当てながら、まだ涙の名残を残した顔で、確かに――微笑んだように見えた。




 舞台の中央には、白い能装束に身を包んだ少女――ゼアミンが立っていた。

 仮面はない。すでにあの夜、心の封印は解かれている。

 観客席には貴族、商人、そして各国からの使節団の姿が並ぶ。その最前列に、俺とリアノ姫が並んでいた。


「……まもなく、開演ですわ」


 姫様が小さく告げる。


 静寂の舞台に、篝火の光が揺らめく。

 石造りの円形劇場の中央に、白装束の少女が立っていた。

 ゼアミン。鬼の面を戴いた能楽の舞姫。


 最初の一歩。

 それは、千年を超える伝統が染み込んだ重みをもって響いた。

 右足、左足。手の振り、首の傾け。

 一切の乱れなく、流れるように続く舞――

 まるで一枚の絵画の中で、命だけが静かに躍っているかのようだった。


 観衆は息を呑み、ただその完成された美を見つめていた。


 だが、舞がひとつの頂に達したその時――

 突如として、空気が裂けるような爆音。


「ヒャッハー!」「今夜は宴だァ!」


 観客席の上段から、乱雑な足音とともに、ゴブリンの一団が舞台へとなだれ込んだ。

 皮鎧に鈍い刃物、酒瓶を振りかざし、勝手気ままに暴れる一群。

 楽師たちが驚愕して太鼓を止めたその瞬間、場の緊張は一気に崩壊――


 ……した、かに思えた。


 だが。

 ゼアミンは、止まらなかった。


 白の装束を纏ったまま、ただ舞い続ける。

 まるで乱入者など存在しないかのように。

 あるいは――その乱入すら、舞の一部であるかのように。


 突如、観客席からゴブリンの斧が投げ込まれる。

 観衆が悲鳴を上げる中、それはゼアミンの仮面をかすめ――

「ピシィッ」――音を立てて、ひびが走った。


 仮面は完全には砕けない。だが、舞うたびにその亀裂が広がっていく。

 それでも彼女は止まらない。

 ――それが“覚悟”だと、誰もが息を呑んだ。


 そして終盤。

 裂けた仮面の右半分が――静かに、舞い落ちた。


 左右に裂けた鬼面。

 その右半分が落ち、顔の一部が現れる。

 そこにあったのは、驚くほど無垢で――美しい少女の横顔だった。


 その瞬間。

 舞が、変わった。


 手の動きが流れに逆らうように微かに乱れ――

 そして、再び整う。

 能の厳粛な型を保ちつつ、明らかに異なるリズムが流れ込み始めた。


 右足が弾み、左腕が揺れる。

 それは西方の舞。

 足裏から音を伝え、腰から手先へと流れる命の律動。

 完成された静の美に、動の“ゆらぎ”が融合していく。



 割れた仮面は左右に残ったまま。

 右にいる者には鬼の表情が、左にいる者には少女の輪郭が見える。

 どちらも、彼女であって――どちらでもない。


 誰もが息を呑んだ。


「ふつくしい……」


 いつしか、海賊団の一人が呟いた。


 それを皮切りに、ゴブリンたちは次々と手を止め、目を見開き、立ち尽くした。

 剣を持つ手も、叫ぶ喉も、奪う欲望さえも――すべてが、舞の前に沈黙した。


 彼らは、ひれ伏したのではない。

 ただ、言葉を奪われたのだ。

 あまりに幻想的な舞の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。


 少女の腕が風を裂くように振り抜かれ、反対の足がゆらりと遅れて滑る。

 不均衡の中にある均衡。

 それは“未完成の完成”だった。


 そして――

 舞い終えたゼアミンは、割れた仮面を静かに拾い上げ、

 一礼した。


 静寂。

 それは、何より深い喝采であった。




 陽の差し込む謁見の間。

 緋色の絨毯に足音が静かに吸われる中、俺はリアノ姫と共に、玉座の間へと向かっていた。


 近衛たちが控える中、姫様は柔らかな調子で報告を続けている。

 そして話題は、あの異国の能楽少女――ゼアミンへと移った。


「ゼアミンさまは、今は父君と共に、王国各地で舞台に立っているそうですわ」

「……仲直り、できたんですね」

「ええ。いまは“彼女自身”の舞を届けているとのことです」


 俺は頷きつつ、机の上に置かれていた公演のチラシに視線を落とした。



「割れた仮面のまま舞う少女――その姿が、今や新しい芸術の象徴となっている」



 そこには、左右に裂けた仮面を装着し、白地の衣装に身を包んだゼアミンが、ほんの少しだけ口角を上げた姿で描かれていた。

 あの無表情の少女が――確かに、微笑んでいる。


「……でも……これ、弟子紹介って欄に……」


 そこに並んでいたのは、あのゴブリン海賊団の名前だった。


「“元”海賊団ですわ。今では楽器を覚え、舞の囃子方として舞台に立っているそうです」


 姫様がこともなげに答える。


「……あのお父さん、複雑じゃないんですかね……?」


 俺が思わずそう呟くと、リアノ姫はふと目を細めた。


「才を見抜く目があったからこそ、娘の輝きも見出せたのでしょう。たとえその才が、異形の者にも宿っていたとしても」


 俺は再びチラシを見つめた。

 そこに並ぶゴブリン囃子団の練習風景。どこか――本当に楽しそうに見える。


 父娘の物語も、かつて海を荒らした者たちの末路も――

 今では、ひとつの舞台の中に、美しく溶け込んでいるのかもしれない。


「……ま、笑ってるし……いっか」


 そう呟くと、姫様がわずかに微笑んだ。

 静かに、春の陽光が窓辺を撫でた。


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