第4話:舞の記憶と割れた仮面 前編
王都の中央にそびえる城――エルデンティア王城。
その名を持つ城に入るたび、俺はまだ少しだけ緊張する。
石造りの回廊を歩く足音が、磨き抜かれた大理石の床に反響している。
扉の一枚ごとに紋章が刻まれ、警備の兵士たちは誰一人として視線を揺らさない。
まるで、すべての物音が格式を崩さぬように整えられているかのようだった。
正門から中庭を抜け、東棟の螺旋階段へ向かう途中。
手入れの行き届いた草花が咲き誇り、噴水の音がわずかに耳に届く。
この城はただ広いだけではない。
気高く、静かで、守られていて……そしてどこか、孤独だった。
中庭を囲む居住棟の一角。三階、東向きの窓。
そこがリアノ姫の私室だと教えられてから、自然と目が行くようになった。
あの人がいる部屋だ。
朝日が射し込むその窓辺に、きっと今日も変わらぬ姿勢で彼女はいるのだろう。
階段を登るたびに、ほんのわずかずつ、呼吸が浅くなる。
緊張ではなく、期待でもなく、ただ……真っ直ぐな気持ちで会いたいと思った。
この城の壁のひとつひとつが、彼女を守るために積み上げられてきたのだとすれば、
今の俺にできるのは、少しでもその“重さ”に応えることだけだった。
ノックの音が廊下に溶けて、静かに扉が開く――。
リアノ姫と向き合って座るこの時間が、いつしか当たり前のものになっていた。
けれど、それは決して“慣れ”ではない。むしろ逆で、心のどこかが今でも背筋を伸ばす。
彼女は、いつも通りだった。
気品があり、誠実で、誰に対しても丁寧で――それでいて、俺にだけは少しだけ柔らかい空気を見せてくれる。
「勇者様、今朝のご様子、とてもお元気そうでしたわ」
そんな何気ない一言が、どうしてこんなにも心に沁みるのか。
一緒にいるだけで癒される。言葉にしなくても、そう思ってしまうほどだった。
……けれど、イザベラとの戦いを経ても、何かが劇的に変わったわけではない。
婚約関係という立場はそのまま。
心の距離は少しずつ近づいている気がするのに、それ以上は――踏み込めずにいた。
国王陛下はというと、事あるごとに「早く式を挙げねばな」と笑顔で言ってくる。
だが、王族の結婚にはさまざまな手続きや儀礼があるらしく、正式な式を行えるのは半年ほど先になるそうだ。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんわね」
そんなことを姫様は時折申し訳なさそうに言うけれど、俺は別に急いでいるわけじゃない。
この人と、ちゃんと向き合っていけるなら、それだけで充分だ――そう思っていた。
それでも、たまにふと手が触れそうになる瞬間があって、
そのたびに、互いに目をそらして笑い合ってしまうような。
そんな、妙に居心地の良い距離だった。
白と黒の駒が交差する盤面は、王都の応接室の一角にある静かな空間だった。
重厚な木製のチェス盤、手入れの行き届いた駒、そして何より、それに向かい合うリアノ姫の姿が、この部屋の品格を高めていた。
俺は慎重に騎士を前に出したつもりだった。だが次の瞬間には、彼女の冷静な手によってその駒は滑らかに取られ、盤の隅へと移された。
「見事な読み合いですわね、勇者様。でも少し、直線的すぎました」
小さな微笑。けれどその奥に、少しだけ遠慮が見えた。
俺はつい視線を逸らす。悔しいわけではない。むしろ、彼女の読みの深さに素直に感嘆していた。
しかし気になったのは、その駒の行き先だった。
倒された駒は、盤のすぐ傍にある小さな台の上に一つずつ丁寧に並べられている。
それはまるで、何かの供養台のようで。
「……この台、何のためにあるんですか?」
俺がそう尋ねると、姫様はわずかに瞬きをして、目を細めた。
「これは“救護室”ですわ」
静かに、けれどはっきりとした口調だった。
「駒は……盤の上で命を懸けて動いています。だから、わたくし……倒れた駒をそのままにするのは、どうにも苦手で」
視線が、並べられた兵や騎士へと移る。
「負けて、消える……そんなふうに思いたくないのです。皆、きっと、どこかで生きていてほしい――そう思ってしまいますわ」
そう言った姫様の声は、どこまでも穏やかだった。
だがその穏やかさが、王族としての責務と、積み重ねた別れを想起させた。
この人は、戦いを机上の遊戯に置き換えてもなお、
命の重みを手放すことができないでいる。
そのことに気づいたとき、俺は彼女の駒を取る手を、ほんの少しだけ躊躇うようになった。
訓練場に響くのは、木剣がぶつかり合う乾いた音と、踏み込む足の土を蹴る音。それは王都の朝の風景の一部として、すでに日常に溶け込んでいた。
だが、かつての俺にとってはこの場に立つことすら恐れ多かった。
騎士団の訓練場。王国の精鋭たちが日々鍛錬を重ねる場に、今や俺は正式に招かれ、並び立っている。
「――そこ、もう一手深く踏み込んでくると思った」
打ち合いの最中、相手の動きを読み切って木剣を止める。対戦相手の騎士が驚き、汗を拭いながら小さく笑った。
「……いやはや、勇者殿。お強くなった」
「ありがとうございます」
控えめに頭を下げるが、その視線の向こうに、旅の記憶がよぎる。
カルテシアの一撃。イザベラの咆哮。そして、光の剣に宿った思い。
「強さの秘訣か、ですか?」
何人かの若い騎士に囲まれながら、そう尋ねられる。俺は少し考えてから、答えた。
「……強い人と戦うこと。あと――守りたい人ができること、でしょうか」
言ってから、ちょっとだけ照れくさくなる。そんなつもりじゃなかったのに。
案の定、若い騎士たちの間からにやりとした笑いが漏れた。
「おやおや、守りたい人、ですってよ。勇者殿のその“お方”って……どなたなんでしょうね?」
「言ってしまっていいのかな? 第一王女殿下だったりして」
「こら、軽口が過ぎるぞ」
騎士団長の鋭い一声が飛び、冗談めいた笑いが瞬時に凍った。
団長は鋼のような視線を若い騎士たちに向け、静かに言い添えた。
「勇者殿は、この国を背負う存在。口の利き方には気をつけろ」
「……申し訳ありません!」
全員が頭を下げ、空気が一転して引き締まる。
俺は、それを見て少しだけ苦笑した。
冗談を否定する必要もない。ただ、俺が本気で守りたいと思う人の名は、
胸の奥に、大切にしまっておけばいい。
城の回廊を歩くたびに、石壁に反響する靴音が整った律動を刻む。
先ほどまで騎士団と汗を流していたとは思えないほど、王都の空気は静かだった。
王女――リアノ姫の導きによって、俺は謁見の間へと向かっていた。
扉が開かれると、見慣れた王の姿がそこにあった。
エルデンティア王国国王、ルヴィア陛下。
豊かな銀髪と、人懐こい笑みをたたえたその顔立ちは、威厳よりも温厚さを先に印象づける。
「よく来てくれたね、勇者殿。調子はどうかね?」
開口一番、そう問いかけられた俺は、深く一礼してから答えた。
「はい、訓練も旅も順調です。皆様の支えのおかげです」
「うむ、それは何より」
満足そうにうなずく国王は、次の瞬間、まるで世間話のように――いや、あまりにも唐突に問いかけてきた。
「……ところで、香辛料は好きか?」
少しだけ間が空いた。
謁見の間の空気が一瞬止まり、俺は困惑しながらも考えを巡らせる。
「……料理には必要なものだと思っています。味を引き立てる大切な要素ですから」
我ながら素朴な答えだと思った。
だが、国王は満足げに目を細め、深くうなずいた。
「ふふ……よろしい。その視点は、実に重要だよ」
まるで深謀遠慮を語るかのような口調で、香辛料を褒める国王。
近くにいた廷臣たちが、少しだけ苦笑する。どうやら、これがこの国王の日常のようだった。
「香辛料はな……少量で料理を変える。だが、その入れすぎは全てを破壊する。つまり、物事のさじ加減こそが、王としての資質を問われるのだ」
そう語る姿は、どこか抜けていながらも、奇妙な説得力を帯びていた。
――本当にこの人が王様なのか、と思わなくもない。
だが、周囲の誰もがそれを否定しないということは……この人は、これで“本物”なのだろう。
「……ありがたいお言葉、心に留めておきます」
俺は、少しだけ苦笑しながら頭を下げた。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
香辛料の話題がひと段落すると、国王は少しだけ表情を引き締めた。
「最近な、王都へ香辛料を運ぶ商団が、意図的に襲撃されている。
盗賊の仕業とも、魔物ともつかぬ形跡があってな……調査に出てくれぬか」
「俺でよろしいのですか?」
「うむ。こういう実地の経験は、教養を深めるにはうってつけだ。
地理に強くなるのもよいし、商人たちの思考に触れておくのも悪くない。
ああ――もちろん、リアノも同行するぞ」
唐突に名前が出て、思わず姫様の方を見る。
姫様は、いつもと変わらぬ微笑を浮かべてこちらを見つめていた。
すでに心積もりはあるらしい。
「ふふ……娘がついてくるなら、俄然やる気も出よう?」
国王が軽口のように笑うと、すぐ隣からひときわ凛とした声が飛ぶ。
「陛下、はしたのうございますよ」
王妃殿下。白銀の髪を結い上げ、深紅の衣装に身を包んだその姿は、まさに“王国の母”と呼ぶにふさわしい威厳と気品を備えている。
「娘を“餌”のように言うのはおやめなさいませ」
「……す、すまぬ……」
陛下は少し肩をすぼめて、目を逸らした。
王であっても、家庭内では敵わぬ存在があるのだろう。
そんな一幕に、思わず小さく笑いそうになるのを堪えた。
「では、支度が整い次第、出発いたします。調査の要点は?」
「香辛料を積んだ商団の動きと、最近襲撃を受けた街道周辺の状況の確認。
現地の商人たちと話を通すのも忘れぬように」
「承知しました」
軽く一礼すると、リアノ姫が隣に並んで言った。
「王国の物流は民の命です。わたくしたちで必ず原因を突き止めましょう」
勇者として。王女として。
次の旅の目的は、確かにここに示された。
王都を発って三日。街道を南に下りながら幾つかの集落を経由し、ようやく港町ブリューナに辿り着いた。
眼前に広がるのは、灰色の石造りの街並みと、陽を受けてきらめく水面。
高波防止の堤防を越えると、潮風とともに魚の匂いが鼻をくすぐる。港町特有の喧騒が肌に心地よく、どこか浮き立つような空気を感じた。
「――やはり、いい街ですわね。港町は」
隣を歩くのは、変装中の姫様――リアノ=ルヴィア殿下。
王家の衣を脱ぎ、商人風のローブと簡素な頭巾を被っているものの、その端整な顔立ちと所作に貴族らしさは隠しきれない。
「……それ、誰が見ても姫様ですよね?」
「ですが、不思議と誰も気づきませんのよ。不思議ですわね」
悪びれずに微笑む様子は、まるで何かの加護でも受けているかのような自然さだった。
実際、過去の旅でも一度もばれたことはない。何か“人々の注意を逸らす”ような特殊な気配でもあるのだろうか――。
波止場の先、巨大な帆船が一隻、静かに停泊していた。
荷降ろしを終えたばかりらしく、甲板には麻袋や木箱が積まれ、港の商人たちがせわしなく動き回っている。
その中の一人、旅装の我々に気づいた初老の商人が声をかけてきた。
「王都の方かね? 陛下から話は通ってる。香辛料の件、詳しくは船内で話そう」
軽い挨拶を交わし、我々は商人に案内されて船に乗り込んだ。
軋む木板の感触。わずかに揺れる甲板の上で、俺は改めて姫様を横目で見る。
「では、調査の第一歩ですわね」
「……ええ、行きましょう」
姫様のローブが風に揺れる。
港の空は高く晴れており、潮の匂いの奥に、かすかな緊張の気配があった。
船が南東へと進路をとってしばらく経った頃、異変が起きた。
「前方、黒煙です!」
見張りの声に甲板の空気が緊張する。海の水平線上に、灰色の煙がゆらゆらと上がっているのが見えた。
それを合図にするように、右舷後方にもう一隻の帆影――海賊船だ。
「……ゴブリン、ですね。全員、構えなさい!」
姫様が冷静に命じると、商人や乗組員たちが慌ただしく武器を手に取り始める。
やがて、海賊船が横付けされ、粗末な板が船からこちらへと渡された。
「グギャアアアアッ!!」
甲高い叫び声とともに、複数のゴブリンたちが次々と乗り込んでくる。
刃物を手にしている者もいれば、鉄の棍棒を構えている者もいた。体は小さいが、動きは素早い。
俺は一歩前に出て、鞘から光の剣を抜いた。
――スパン、と風を裂く音。
最初に飛びかかってきた一体を、カウンター気味に斬り払う。
抵抗のない手応え。ゴブリンは悲鳴もあげずに、そのまま甲板から海へと落ちていった。
「二体目……三体目……!」
剣筋は流れるように続き、次々と迫る敵を弾き返す。
打ちかかる棍棒を下から払って腹に突きを入れ、別の個体の足元を刈って甲板の縁から蹴り飛ばす。
「きゃつら……勇者だ、勇者が乗ってやがるぅッ!!」
悲鳴とともに、残ったゴブリンたちも次々と海へと落下していった。
甲板に再び静けさが戻る――かと思った、次の瞬間だった。
ギィ……と甲高い板のきしみ音。
渡された板の上に、ひときわ大きな影が現れた。
「グガハハハ! 小僧、お楽しみはこれからだぜぇ……!」
異様な存在感。身の丈は人間と変わらないほどあり、全身に粗末な軍服のような布をまとっている。
手には錆びつきながらも鋭さを失っていない湾曲したサーベル――海賊の象徴を握っていた。
「船長……!」
「そう、俺様は“黒牙のザルガ”船長様だァ!!」
叫びとともに、船長ゴブリンは悠然と甲板に降り立った。
視線が俺を捉える。ザルガの口がニタリと歪んだ。
「てめぇが勇者だな? お楽しみはここからだ……!」
金属がぶつかり合う鋭い音が、波音の中に響く。
ザルガの一撃一撃は、ゴブリンとは思えないほど鋭く、重かった。
しかも、甲板のゆるやかな揺れ、滑る床、視界の反射。
初めての船上戦に、俺は思った以上に翻弄されていた。
「どうしたァ、さっきのキレはどこいったァ!」
剣を受け止めるたびに、腕に伝わる衝撃が痺れのように残る。
足元を滑らせれば即、転落――その緊張が体を硬くしていた。
ザルガは容赦なく、俺を船首の端まで追い詰めていく。
剣の間合いが縮まる。視界に映るのは、もう甲板ではなく、空と海。
「……!」
だが、ふと目に映ったのは、船板に残る微かな擦れ痕。
以前――あの氷の聖女・カルテシアが、戦闘中にほとんど動かずに生み出していた“足跡”。
――思い出せ。
彼女の剣は、起点を見極め、最小の動きで最大の結果を生み出していた。
俺は一歩、横へと滑るように動いた。
その瞬間、ザルガのサーベルが鋭く振り下ろされる――が、その刃はわずかに空を裂いた。
「なっ……」
その懐へ、俺は剣を返す。
「……っ!」
光の剣が、ザルガのサーベルに直角から打ち込まれた。
金属音とともに弾かれた刃が、彼の手を大きく外へ押しやる。
動きが止まった。そこを逃さず、踏み込む。
一閃――
ザルガの胸元を浅く裂き、そのまま勢いのまま身体ごと押し込むように、船首から――
「ぐわああぁぁああああッ!!」
彼の身体が、空中へと浮かぶようにして放り出される。
――ドボォン。
海面に大きな水柱が立ち、波音がすべてを飲み込んだ。
船上は、しばしの静寂に包まれる。
やがて、甲板にいた者たちがどっと息を吐いた。
「勇者様……!」
振り返ると、リアノ姫がこちらへ歩み寄ってきた。
その表情には、滲む安堵の色が見て取れる。
「ご無事で……本当に、よかったですわ」
その言葉に、俺は剣を静かに収める。
「……なんとか、ですね」
海賊船はすでに退いていた。
ザルガの生死はわからないが、少なくともこの場の脅威は去った。
波の音の中で、船は静かに進路を再び取り戻していた。
海が静けさを取り戻したのは、正午をすぎた頃だった。
潮の香りに混じって、港町の喧騒が風に乗って届く。
港に着くと、そこにはすでに商団の代表らしき人物が出迎えに来ていた。
気品ある身なりに、鋭い目をした初老の男。だが、俺を見るなり柔らかい笑みを浮かべた。
「あなたが、例の“勇者様”ですか。おかげさまで、取引相手の信頼も回復しました」
そう言って、深々と頭を下げられる。
後ろに控えていた商人たちも、次々と感謝の言葉を口にした。
――こうして顔を向けられるのは、少し照れくさい。
けれど、誰かの役に立てたことは素直に嬉しかった。
「……危険は去りました。あとは安全に交易が進むことを願っています」
商人たちは大きく頷き、王族に随行する姫様に対しても丁重な礼を示した。
「本日は、この町にて一泊いたしましょう」
リアノ姫の声が、海風を切るように通る。
静かに、しかし凛としたその指示に、町の案内役がすぐに行動を起こした。
――案内された先は、港町の外れにある小高い丘の上。
そこには、石造りの高壁に囲まれた、大きな門構えの邸宅がそびえていた。
門をくぐった瞬間、その規模に思わず息を呑む。
玄関は広場のように開け、周囲には噴水、緑の整備された庭園、そして王家の紋章が随所にあしらわれていた。
地方の“仮住まい”とは思えない。
この一邸だけで、村ひとつ分の資産価値があるのではと思わせるほどだった。
――王家って、すごい。
感嘆というより、呆然とするような気持ちで、俺はその屋敷を見上げていた。
王家の所有する港町の邸宅は、俺の想像をはるかに超えていた。
石造りの外壁は白く光り、陽射しを反射して空の色を微かに映している。重厚な木の扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気とともに、異国の香りがふわりと鼻をかすめた。
内装は、王都とはまったく趣が違う。
天井から吊るされた真鍮のランプは、繊細な透かし模様を描いており、灯りが床に淡い影を落としている。壁には遠い海を描いた絵が並び、絨毯には異国の文字や紋様が織り込まれていた。
床は磨き上げられた大理石で、歩くたびに微かな反響音が返ってくる。柱の一本一本にまで異国の装飾が施されており、まるで異世界に迷い込んだような錯覚すら覚えた。
「……すごいな」
気づけば、そう口にしていた。
俺の声に、隣を歩いていた姫様がふと振り向く。
微笑みながら、ほんの少しだけ胸を張るように言った。
「この邸宅は、かつて東方との交流が盛んだった頃に築かれたものですの。文化の交差点として、王家でも大切にしている場所ですわ」
誇らしげに語るその横顔は、王女としての威厳と、旅を共にした仲間としての親しみの両方が感じられた。
俺は改めて、すごい人と一緒に旅をしているのだと実感し、胸の内に静かな尊敬の念を抱いた。
港町の邸宅を巡っているうちに、ふと頭に浮かんだ。
――そういえば、王都の城にはこうした異国風の装飾はまったくなかった。
純白の石造りに整然とした彫刻、幾何学的な構造美と直線的な廊下。
重厚ではあるが、装飾というよりは“思想”を感じさせる造りだった。
その疑問を、俺は素直に口にしてみた。
「王都のお城には、こういう異国の雰囲気は全然なかったんですね」
すると、姫様は立ち止まり、少し目を伏せてから、やわらかく答えてくれた。
「王都の城は“理念の城”ですわ。あれは“統一と正義の象徴”として築かれましたの」
「理念……?」
「ええ。私たちエルデンティア王国は、大陸に点在していた多様な小国を統一して築かれた歴史があります。その統一を保つために、王都の城はあえてどこの文化にも偏らず、すべてを包含しない“無彩の美”を貫いているのです」
それは、王の言葉で言うところの「どの民にも属さず、どの民をも拒まず」という建国理念の体現だった。
装飾を排し、威厳と対等を両立させるその設計は、武力ではなく理によって治めようとする王の矜持のあらわれだという。
――異国の要素が排除されていたのではなく、“誰の色にも染まらないこと”があの城の美しさだったのだ。
「……なるほど、だから王都は整っていて静かだったんですね」
俺の感想に、姫様はうなずく。
「はい。港町のような交差点も素敵ですが、王都は“国の原点”を示す場所。人が集うからこそ、中心は静謐でなければならないのですわ。
王都は静けさの中に威厳を、港町は開かれた空の下に交流の華やかさを。それぞれが、この国のあり方を異なる形で映しているのです」
語る声は穏やかで、けれど芯がある。
決してどちらを否定するでも、優劣を語るでもないその姿勢が――本当に美しいと思った。
「どちらも美しく、どちらも誇らしく思いますの」
姫様はゆっくりと視線を邸宅の柱や絨毯に滑らせ、続ける。
「王都の城は、国の“理”を表します。強さと秩序、そして普遍性。誰にも属さず、誰の足も拒まぬ器として。
一方でこの港町は、国の“情”を象徴します。交わり、受け入れ、育まれてきた民の暮らしと笑顔……どちらが欠けても、王国は成り立ちません」
そこに一片の迷いもなく、自らの国を語る姫様の姿に、俺は小さくうなずいた。
「……なんか、姫様がこうして話すと、すごく納得できます」
その言葉に、姫様は少しだけ目を細め、口元に優しい笑みを浮かべた。
「お褒めにあずかり光栄ですわ。勇者様」
邸宅での晩餐は、王都とは趣を異にした豪奢な雰囲気に包まれていた。
色とりどりの食器が長いテーブルに整然と並べられ、窓の外から聞こえる波の音が、どこか異国の空気を添えていた。
料理の一つひとつが美しく盛られ、香りもまた、どこか王都のものとは異なる。
特に前菜のスープには、口にした瞬間に感じる――どこか刺激的な香りがあった。俺は慎重に一口ずつ味わいながら、違和感の正体を考える。
「……香辛料が、違うんですね」
メインディッシュが運ばれ、俺が小さく呟いたその瞬間、隣に座るリアノ姫がゆるく目を細めた。
「流石でございます、勇者様」
それは決して誇張ではない、けれど少しも嫌味のない、静かな肯定だった。
姫様は姿勢を崩さぬまま、柔らかな声で続ける。
「王城の料理に日々触れておられるからこそ、自然と味覚的な教養が育まれていったのでございましょう。
それは、訓練と同じように――知らぬ間に、力となって身についているものです」
どこか誇らしげなその言葉に、俺は返す言葉を探しながら、うまく目を合わせることができなかった。
姫様の微笑は、気品とやさしさに満ちていて――気づけば、俺はその場で小さく赤面していた。
それに気づいた姫様が、少しだけ表情を和らげる。
それは、日々を共に過ごすからこそ見える、ごくささやかな変化だった。
翌朝、まだ港の空に朝靄が残る頃――
邸宅の玄関に、商人たちが丁寧な身なりで現れた。先日の海賊騒動で助けられた恩義もあってか、彼らは深々と頭を下げる。
「このたびの一件、まさしく命の恩人にございます。
ささやかではございますが、今宵、我ら商団主催の祝宴を開かせていただきたく……」
最初に口を開いたのは、年配の団長格らしき人物だった。
言葉遣いは丁寧だが、その合間から――王家との関係を築きたいという思惑が透けて見える。
俺が様子を伺っていると、隣に立つリアノ姫が一歩進み、穏やかに頷いた。
「わたくしどもは旅の身ではございますが、皆さまのお気遣いに深く感謝いたします。
王都の名のもと、招待をありがたくお受けいたしますわ」
その口調に、気高さと柔らかさが見事に同居していた。
商人たちは息を呑んだように沈黙し、しばし見とれるように姫を見つめていた。
やがて、先ほどの団長格が、ひときわ丁重な礼を返した。
「……やはり、ただならぬお方にございますな。
品格と理知を兼ね備えたご姫君。王家の名がますます尊く思われます」
それは、単なる社交辞令ではなかった。
姫様の態度ひとつで、場の空気が変わる――そんな“格”が、確かにそこにあった。
俺は少しだけ誇らしい気持ちになりながら、姫様の横顔を見つめた。
その眼差しは静かで、どこか遠くを見ているようでもあり――やはり、俺にはまだ届かない高みにあるように思えた。
商人たちが深々と頭を下げて去った後、邸宅の前にはふたたび静寂が戻った。
少し遅れて、俺は「すごいな」と小さく呟いたつもりだったが、姫様はその言葉を聞き逃さなかったようだ。
「勇者様の隣に立つ者として――当然のことをしたまでですわ」
リアノ姫は少しだけ顔をこちらに向け、やわらかく微笑んだ。
その表情には気取りがなく、謙虚で、けれどどこか温かな光が宿っていた。
俺が何か言い返そうとして視線を落としたとき、姫様はふいに続けた。
「……けれど、先日の海賊との戦い――勇者様がいなければ、わたくしも、この町も守られることはなかったでしょう。
あのとき、勇者様は命をかけて皆を守られた。それが、どれほど心強く、美しかったことか」
その言葉に、俺は息をのんだ。
評価でもなく、義務でもなく――彼女の言葉は、まっすぐに、俺という存在を“肯定”していた。
「……ありがとう、ございます」
言葉にすれば、それはあまりにも平凡だったが、胸の奥で何かが静かに灯った気がした。
存在を必要とされるということが、これほどまでに力になるのかと、今さらのように気づいた。
姫様はもうそれ以上語らず、静かに邸宅の扉へと向かった。
その背を見送りながら、俺は心の中で――もう一度、あの剣を握りしめる理由を確かめていた。
パーティ会場へと足を踏み入れると、すぐに責任者らしき人物が姿を現し、深々と頭を下げて出迎えた。
年配の商人でありながら、立ち居振る舞いには一国の貴族に通ずる礼節があり、俺たちが王家の関係者であることを十分に理解した上での応対だった。
「遠路よりお越しくださり、光栄の至りにございます。今宵の宴が、王国と我ら商団との架け橋とならんことを――」
そう言って手を差し出すと、姫様は優雅に頷き、軽く会釈を返した。
その所作は一切の隙がなく、それでいてどこか温かみがあった。
会場内を見渡すと、そこには色とりどりの衣服を纏った異国の客人たちが集っていた。
王都の儀礼服とは明らかに異なる布の質感、刺繍、帽子、香り――まるで世界の断片が一堂に会したようだった。
客人の中心となっているのは、それぞれの国を代表するような中年の男性たちであり、いずれも誇り高い風格を備えていた。
そして、その傍らには“象徴”のように、美貌を湛えた女性たちが寄り添っていた。
中でも目を引いたのは三人だった。
ひとりは、白銀の毛皮と深い藍色のコートを纏い、頭には耳当て付きのウシャンカ帽を被ったお姉さん。氷のような瞳と淡い微笑みが対照的で、寒国らしい厳しさと優しさを同時に宿しているようだった。
※注釈:ウシャンカ帽……ロシア風の白い帽子を指す。
もうひとりは、深紅のドレスに身を包み、腰に巻いた太帯がよく映える拳法少女。
見かけによらず動きは静かで、すべての動作が呼吸のように整っている。すでに戦場にいるような緊張感を漂わせていた。
そして最後に目に留まったのは――純白の能衣に身を包み、白い鬼の面をかぶった少女。
仮面の下の表情は読み取れず、誰とも会話を交わすことなく、ひとり静かに佇んでいた。
しかし、その背筋には奇妙なまでの静謐さがあり、目を離すことができなかった。
俺はその三人を胸の内で“異国の印象”として刻み込んだ。
それが、この夜の物語の幕開けであることなど知らぬままに。
場の空気が静まり、遠方より威厳ある足音が近づいてくる。
毛皮のついた厚手の衣をまとい、見慣れぬ金属装飾が胸元を飾っている中年の男が、重々しく礼を取った。
「これはご丁寧に……エルデンティアの姫君殿下。そして、御名高き勇者殿でございますな」
姫様が軽く一礼し、上品に微笑まれる。
その視線を受け、俺も不器用ながら頭を下げた。
「海の上でのご活躍、すでに我が国にも届いております。まさに勇敢なお方……おかげで我が商団も無事に港へ着くことが叶いました」
「い、いえ。俺は、当然のことを……」
言葉に詰まる俺に、姫様が小さく頷いた。
その様子が、妙に誇らしげで、くすぐったい。
「つきましては……ささやかではございますが、我が国よりの友情の証として、一つ踊りを披露させていただきたく――よろしいでしょうか?」
姫様は優雅に頷かれた。
「それは喜ばしいことですわ。ぜひ、私どもにご披露くださいませ」
男は深く頭を下げ、合図を送ると、一人の女性が静かに進み出てきた。
長身で、白銀のコートに身を包み、帽子にはふさふさとした毛皮が縁取られている。
凛とした顔立ちと、まっすぐな視線。
どこか、氷の国の騎士のような風格すら感じさせた。
卓の上に置かれた細いグラスを手に取ると、彼女はそれを何の躊躇いもなく一息に飲み干した。
「姫様、あれは……」
「ウォッカですわ。彼の国でよく飲まれている、非常に強いお酒です。
少量であっても、身体の芯まで熱くなるのだとか」
「酒……だったんですか……」
見た目は水と変わらない。だが彼女は飲んだ直後、表情一つ変えずに脚を開き、ぐんと腰を落とすと――
「わっ!?」
ドンッ! ドドドンッ!
左右の脚が跳ね上がり、まるで踊っているというより戦っているかのような迫力だ。
テンポの速さと正確な動きに、俺は完全に言葉を失った。
「姫様、これ……は?」
「コサックダンスですわ。寒冷地の戦士たちが、力強さを示す舞として古来から踊ってきたそうです。
今では国を代表する伝統舞踊として、大切にされておりますのよ」
「戦士の……踊り……」
あまりに激しいステップに、周囲の空気まで震えている気がする。
そして彼女の表情はまったく揺るがない――真剣そのものだった。
「異国の文化、というのは……すごいですね……」
「はい。驚くことも多いでしょうけれど――理解しようとする心を忘れなければ、きっと通じ合えますわ」
姫様のその言葉に、俺は静かに頷いた。
踊りが終わると、会場には拍手が満ちていた。
俺も少し遅れて手を叩く。
それが正しい反応なのかはわからないが――確かに、何かを見せられたのだ。
異国の客人がまた一組、俺たちのもとに近づいてきた。
ひときわ格式を感じさせる衣服を纏った中年の男と、その傍らに立つ、鬼の能面をつけた小柄な人物。
仮面が表情を覆い隠しているものの、すらりと伸びた手足と引き締まった輪郭から、それが若年の少女であることは容易に察せられた。
「このたびは、貴国の宴にお招き賜り、誠に光栄にございます」
男は深く頭を下げると、柔らかくも芯の通った声音で名乗った。
「我が名はカンアミ。この者は我が息子、ゼアミンでございます」
「……息子、ですの?」
姫様の問いに、俺も思わず目を向けた。
「ええ。体は女性。しかし我が国の能楽においては、舞台に立つ者は“男”であるべきとされております。ゆえにこの子は、己を男として育て、技を極めてまいりました」
静かに告げるその姿に、一切の揺らぎはない。
文化の違いに、俺は言葉を飲み込むしかなかった。
「とはいえ、舞は見ていただくのが一番。僭越ながら、ここでひとつ披露させていただけますか」
姫様が優雅にうなずくと、ゼアミンは何も言わず一歩前へ出た。
場に静寂が落ちる。
やがて、雅楽の音が鳴り始めると、ゼアミンの体がすっと動いた。
その動きは極めて滑らかで、一糸の乱れもない。
ゆるやかに、そして確実に空気を制していくその舞には、観る者すべての意識を引き込む力があった。
「……すごいな」
思わずこぼれた声は、俺の内なる敬意の表れだった。
けれども――どこか、足りない。
あまりにも完成されていて、そこに“揺らぎ”がなかった。
それが欠けているのか、それともあえて排しているのか。答えはわからない。
舞が終わると、姫様が優雅に拍手を送った。
その姿に倣い、俺も胸から湧いた感情のままに手を叩く。
「ご覧の通り、我が子は私よりもはるかに優れた演者にございます」
カンアミが口にしたその言葉には、父としての誇らしさと、どこかに滲む哀しさがあった。
「先ほどは無礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」
俺が頭を下げると、男もまた、同じように礼を返す。
「異なる国において、礼を欠いたのは我が方です。謝意とともに、貴国の寛容に深く感謝いたします」
淡々と、しかし互いに敬意をもってかわされた言葉によって、空気が柔らかくなる。
その間、ゼアミンは一言も発することなく、ただ仮面の奥に佇んでいた。