第6話:揺るがぬ心
沈黙が崩れた。
グランギデオンの片腕がわずかに持ち上がった、その瞬間――
神殿全体を揺るがす重低音とともに闇が“爆ぜた”。
空気が震える。
地面が唸る。
天から降るはずの光が黒に飲まれて消えた。
次の刹那、半透明の波動が地を這うように奔った。
黒煙に似た奔流が神殿の中央から環状に拡がり――
風のように、だが確実な暴力として、俺たちを襲った。
「っ……!」
反射的に剣の柄に手をかけるが間に合わない。
魔力の奔流は、俺以外の仲間たちを容赦なく神殿の端へと吹き飛ばしていった。
カルテシアの聖衣が翻り、ラルフの詠唱が途切れ、セレナが壁に叩きつけられる。
だが、誰一人として倒れたわけではなかった。
それは破壊の風ではなく、“分断”の力だった。
――そして、中央。
俺とすぐ背後に控えるリアノ姫だけが吹き飛ばされなかった。
まるで、ここだけが選ばれた“聖域”であるかのように。
あるいは、“闇の劇場”として特別に残された決闘の檻であるかのように。
轟音と共に、黒い光柱が天へと伸びる。
直径およそ十メートル。神殿の床を中心とし、天蓋へとつながる完全な柱状の“結界”が形成された。
半透明の膜が周囲を覆い、霧のように微かに脈動している。
誰にも触れることができず、誰の声も届かない――
完全なる隔絶。
誰も助けに入れない。
誰も干渉できない。
「さあ、勇者よ」
グランギデオンの声が結界の内にだけ響いた。
静かな嘲笑の調子が神殿の床に冷たく落ちる。
「幕は開いた。我と貴様の終幕の劇だ。背後の姫君も共にいるようだが、構うまい」
結界の内側は静かだった。
外のざわめきも光も風もない。
音は遠く、呼吸だけが自分のものだと確かめられる空間。
肩越しに後ろを振り返る。
いつものように毅然としてはいたが――
その瞳の奥には確かにわずかな震えがあった。
当然だった。
王女としての気高さがあろうとここは死と隣り合わせの場所。
しかも彼女には剣も魔法もなく、ただ立つことしか許されていない。
だから、彼女を安心させるために、俺は微笑んだ。
「ご安心下さい、姫様」
その声は、小さく、けれど確かに届いた。
姫様の瞳が、わずかに揺れてこちらを見つめ返す。
「絶対に勝ちます」
リアノ姫は一度だけまばたきをした。
それから、ごくわずかに頬を緩めた。
「……ええ。信じております、わたくしの――勇者様」
その声は震えていなかった。
風のない場所に風が吹いたような感覚。
恐れが払われ、代わりに立ち上がる意志がその微笑に宿っていた。
次の瞬間だった。
――音もなく、白光が生まれた。
俺の右手が自然と前に伸びる。
まるでそこに何かが“帰ってくる”のを待つように。
空気が震え、光が一点に集束していく。
そして、
――閃光が走った。
現れたのは、馴染みのある金色の剣。
長く、美しく、そして温かな光を湛えた刃――《光の剣》。
まるで、俺の想いに応えるかのように音もなくその柄が掌に収まる。
熱はないのに確かなぬくもりがあった。
それは“力”ではなく、“想い”から来るものだった。
剣の奥に響くのは明確な意志。
俺が誰のために立ち、誰を守ろうとしているのか。
そのすべてが、この剣に伝わったのだ。
「……また俺を信じてくれるのかい?」
返事はなかった。
しかし、光の剣はより濃く光り輝いた。
強く、剣を握り直す。
背後には、もう不安ではなく、“信頼”の気配があった。
俺は一歩前へと踏み出した。
今、この空間に必要なのは――剣と静かな覚悟だけだった。
光の剣が現れても、グランギデオンの表情は微塵も揺れなかった。
「ふん……戻ったか。だが、それは勝利を約束する光ではないぞ」
低く、乾いた声が神殿の結界内に響いた。
「我は知っている。“その剣の力”の限界も真の“弱点”も」
そして、彼は腕を広げる。
「さあ見せてみよ勇者よ。我が闇に抗うだけの覚悟があるのならば!」
地を穿つような唸りと共に結界の床が脈動する。
次の瞬間、黒き煙の柱が円を描くようにいくつも立ち上がり、そこから異形の戦士たちが現れた。
鎧の中は空洞。
紅の光を灯す眼窩を持ち、腐食した剣を握る――無数の《ガイコツ剣士》。
数は十を超え、各々が俺と姫様の間を断つように配置されていく。
「心を乱すがよい、光の担い手よ……!」
グランギデオンの声は地鳴りのようだった。
「お前の背後には“守るべき姫”がいる。そいつが踏み潰されるかもしれぬと恐れろ!」
俺を囲む骸の群れが一斉に剣を振り上げる。
「恐れよ!怒れ!焦れ! 護れぬかもしれぬと、心を千々に裂かれるがよい!」
まるで呪詛のように怒涛の感情が圧し掛かってくる。
けれど――
「……俺は迷わない!」
俺はそう叫んだ。
次の瞬間。
剣を握り、踏み込む。
疾風のように、一息で間合いを詰め――
回転。
その動きは舞のようで、そして雷のようだった。
放たれたのは、螺旋を描く回転斬撃。
広く、鋭く、力強く。
「――はっ!!」
刹那、閃光が迸る。
白銀の剣閃が半円を描き、骸骨たちをまとめて巻き込んだ。
無数のガイコツ剣士が断末魔もなく霧と化す。
音もなく、影もなく、ただの“闇の残滓”として霧散していく。
しかし、俺は止まらない。
回転の終点と同時に足を踏みしめる。
再びの踏み込み。
無駄のない軌道でグランギデオンの膝元へ肉薄する。
「なっ……!?」
声が出るより早く、斬撃は放たれていた。
袈裟の一閃。
右肩から左腹へ、鋭い軌跡が走る。
刃が貫いた瞬間、空気が裂けるような音が響き――
グランギデオンの肩口から黒紅の血が噴き出した。
グランギデオンは咆哮を上げた。
「貴様ァ……小癪な……ッ!!」
その腕が振るわれる。
瘴気を纏った魔導の刃が炎の弧を描いて俺へと襲いかかってくる。
剣を返す。
光と闇が衝突し、激しい火花が空中に咲いた。
追撃が来る。
空を裂く雷撃、膨れ上がる重圧、足元を穿つ呪詛の杭――
そのすべてを俺は確実に受け止めた。
握りしめた剣は揺らがない。足取りはまっすぐに敵を捉え続けていた。
目の前にいるのは闇の王たる存在。
それでも、今の俺は――怯えてなどいない。
「なぜ……貴様は乱れぬ……!」
グランギデオンが低く唸る。
「恐れろ……王女を失う恐怖を力尽きる未来を……!“愛”を語るなら、もっと縛られるはずだ!」
その言葉に俺は――ただ、静かに答えた。
「……“護りたい”とか、“愛してる”とか……」
言葉を選ぶように剣を構えたまま口を開く。
「――それも間違ってない。でも、それだけだと……きっと俺は不安になる」
戦いの合間に想いは澄んでゆく。
「護るって、どこか“自分の力を信じてない”感情だ。
愛してるって感情は、……俺にはまだ、うまく定義できない」
小さく笑う。
それは自嘲ではない。
俺の未熟さゆえの確信と肯定だ。
「でも、“リアノが好き”って気持ちは――ずっと、はっきりしてるんだ」
目の奥が鮮やかになる。
闇の刃が迫る。
それでも、俺の心は微塵も揺るがない。
再び剣を振るう。
そして、再び前へ出る。
強い光が刃に宿る。
俺の剣は、もう“迷い”を帯びていない。
ただ、真っ直ぐ。
“好き”という気持ちを――この一振りに乗せて。
激突の余波が、大地を震わせた。
光の剣と魔人の黒刃が交錯するたび、空気が裂け、地面に深い亀裂が走る。
闇の魔力が空間を塗り潰そうとする中で俺は剣を振るう。
――だが、その時、空間にふと微かな歪みが走った。
「……結界を解除しました」
静かな声が戦場に届く。
カルテシアだった。
聖衣の裾が風に揺れ、魔力の気流を鎮めながら、彼女は蛇腹剣を構えている。
空間を閉ざしていた魔人の結界は、すでに無効化されている。
その刹那――グランギデオンの頭上に炎の奔流が迸った。
見上げれば、ラルフの詠唱が終わったところだった。
彼の掌から放たれた火球が高空から弧を描いて落下し、グランギデオンの動きを一瞬鈍らせる。
それぞれの支援が戦況をさらに有利なものに変える。
「リアノ……!」
魔人の眼が今度は俺達ではなく姫の方を見据える。
魔力が渦を巻く。
死の黒光が、王女を貫かんと閃く。
しかし、その直前で魔力は虚空へと逸れた。
そこに立っていたのはセレナだった。
姫の前に静かに立ち、翼も振るわず、ただその場に存在する。
魔力障壁も剣も持たない。ただその身をもって、姫を護る“意志”がそこにあった。
「……姫様には、指一本触れさせません」
彼女はそう呟くでもなく、ただ信念を込めてその場を守っていた。
そして、姫は一歩も引かなかった。
動揺も、叫びも、そこにはなかった。
静かに手を組み、俺を見つめていた。
背中にその信頼を感じる。
剣を握る手に再び力がこもった。
――この刃は、ただ勝つためのものではない。
ただ守るためのものでもない。
「好きだ」と言える、その未来を守るために。
それを、この刃に込める。
グランギデオンの動きが遅れる。
刹那の隙を俺は見逃さなかった。
その刃は、迷いなく、魔人の胸元を貫いた。
魔人の体から異様な熱が噴き上がった。
肉が焼け、骨が軋み、内から膨張するように異形の力が溢れ出す。
「……貴様如きが……このわしを……!」
呻きにも似た怒声とともにグランギデオンの身体が崩壊していく。
血肉は黒煙に変わり、裂けた皮膚の下から、より禍々しい輪郭が現れる。
骨が再編され、翼が生え、蹄が爪へと変わり、牙が空を裂く。
瞬く間に、あたりを覆う天蓋が崩れた。
それは、闇を纏った《黒き竜》――
人の理を超えた古の災厄そのものだった。
「逃ガスナ……全テ、喰ラッテヤル……!」
その咆哮とともに周囲の空間が炸裂する。
瓦解する神殿の天蓋。崩落する柱。砕け散る聖石の壁面。
もはや神殿は光の加護を失っていた。
そして――
「……ッ!」
咄嗟に構えた俺の体が竜の顎に捉えられた。
咬撃ではない。
口内から放たれた純粋な破壊の風が、俺を遥か高空へと放り上げていた。
視界が回る。
上空から真下を見ると、神殿の残骸がすでに点にすら見えない。
息ができない。
落ちていく感覚。
意識が千切れそうになる。
――そのとき。
「……大丈夫です」
優しい声が空をすべった。
月光のような銀鱗が雲間から現れる。
巨大な翼が音もなく羽ばたき、空を割るように滑空する影――
それは、竜の姿を取ったセレナだった。
竜でありながら気配は柔らかく、瞳には確かな理性と温もりが宿っている。
彼女は俺の体を空中で受け止め、しっかりと爪で支えた。
「勇者様……行きましょう。わたしがお運びします」
その声には迷いがなかった。
次の瞬間、風が砕けた。
黒き竜が、怒りの咆哮とともに闇の竜巻を幾重にも放ってくる。
数え切れないほどの漆黒の渦が空を埋める。
だが。
俺は迷わない。
セレナの呼びかけに後押しされる形で俺はセレナの背から飛び出し、
宙に浮かぶ無数の竜巻を見据える。
右手にあるのは、光の剣。
その刃は、俺の想いに応えるように、かつてない光を宿していた。
俺は思いきり剣を振りぬいた。
ひとつめの竜巻が裂けた。
一閃。
二閃。
斬撃のたびに空が光で走った。
闇は裂かれ、混沌は静かに浄化されていく。
まるで竜巻そのものが、俺の意思に抗えず消えていくかのようだった。
最後の一閃で、すべての闇が祓われた。
セレナが旋回し、俺の背へと静かに近づく。
「行ってください。彼の心臓は――額の奥にあります」
俺は一言も返さず、頷いた。
黒き竜が吼える。
俺は風を裂き、空を駆ける。
空間が収束し、竜の額へと俺を吸い寄せた。
そして。
「これが――俺の答えだ」
光の剣を振りかぶる。
風が、瞬時に張り詰めた。
宙を駆ける俺の姿を、空さえも凝視しているかのようだった。
対峙する竜の双眸が、大きく見開かれる。
深い闇を湛えたその目が、確かに恐怖を宿していた。
その瞬間――
刃が一直線に振り下ろされ、額の中心を貫いた。
鋭い振動が空間を揺るがす。
閃光が視界を焼き、次いで咆哮が天地を裂いた。
そして――静寂が訪れた。
黒き竜の巨体が内側から白く砕けていく。
肉も骨も魂も、まるで光に浄化されるように崩れはじめた。
まず背から大きくひびが走る。
肩が、翼が、尾が、ゆっくりと瓦解していく。
皮膚の下から透けるように現れた光が、やがて全身へと広がり、器そのものを内部から壊していく。
光が昇る。
白銀にも似た淡い輝きが粉塵のように空へと舞い上がっていく。
空は静かだった。
黒き竜が残した影は、もうどこにもなかった。
その代わりに広がったのは、夜明け前の空のような澄んだ蒼。
大気を染めていた魔の気配は、完全に払われていた。
竜の残滓は星屑となり、上空からゆっくりと降り注ぐ。
幾千もの光の粒が、舞うように大地へと舞い降り、崩れた神殿の柱に、砕けた床に、そして地上を目指す俺の体にも降りかかった。
その光は温かかった。
燃やすでもなく、照らすでもなく、ただ静かに包み込んでいた。
俺は落ちていた。
風を裂きながら、剣を手に、まっすぐに。
向かう先は、たったひとつ。
――地上の一点。
そこに彼女がいた。
白き装束に身を包み、レースの袖が風に揺れている。
小さな体を、真っすぐに。
微動だにせず、ただ俺を――見つめていた。
リアノ=ルヴィア。
俺がこの旅で――いや、この生で、心のすべてを懸けたいと願った人。
その視線に導かれるように、俺の身体は地へと降りた。
土煙は立たず、風も巻かなかった。
まるで祝福に包まれるように、静かに、そっと。
セレナが遠くで翼をたたみ、カルテシアが剣を収め、ラルフが詠唱を解いた。
だが誰も声を出さない。
ただ、その瞬間を――見届けていた。
俺は一歩進み、彼女の前に立つ。
剣を、立てた。
柄を両手で包み、その切っ先を大地へと押し込む。
そして膝を折る。
騎士としての礼節にかなった、誓いの姿勢。
「リアノ様。俺は……あなたを愛しています」
声は、震えていなかった。
戦いによる疲労も、胸を満たす熱も、ただ一言にすべてを注いだ。
「この命も、この心も、この剣も――すべて、あなたのために在ります」
リアノはわずかに目を伏せ、穏やかに微笑んだ。
「……立ちなさい、勇者様。もはや膝を折る必要など、ございませんわ」
俺は、静かに立ち上がった。
すると彼女は、ほんの少しだけ手を差し出した。
ためらうように見えて、それは確かな意志を宿していた。
そっと、手を取る。
触れた瞬間、確かな温もりがあった。
指を絡める。
それはまるで、初めて知る感触でありながら、ずっと探していた答えのようでもあった。
「あなたが……わたくしを好きでいてくださったのなら」
リアノはそっと言葉を継ぎ、わずかに頬を染めた。
「……わたくしもまた、あなたを“好きでいてよい”のですわね?」
その声は、ほとんど囁きに近かった。
けれど確かに、胸の奥にまで届いていた。
長い睫毛がわずかに震え、碧の瞳がまっすぐ俺を見つめている。
風にそよぐレースの袖が、陽だまりのような光に揺れていた。
頬はわずかに朱を差し、けれど気品を失わぬその姿は、まるで神話の中の姫君のようだった。
答える必要はなかった。
言葉では追いつけないほど、想いはそこにあった。
俺は、ただ頷く。
強く、深く、何もかもを預けるように。
それは同時に、誓いでもあった。
彼女の手を包む指先に、わずかに力がこもる。
その手はかすかに震えながらも、確かに、俺の存在を受け入れていた。
触れているだけなのに、心が満たされていく。
言葉よりも先に、俺の中に“確信”が芽生えていた。
もう、この手を、離さない。
この想いを、疑わない。
たとえこの先にどれほどの闇が待っていようとも。
――空には、まだ淡く、竜が残した光が降っていた。
まばらに舞う粒子が、ゆっくりと旋回しながら落ちてくる。
ひとつひとつが温かな光をたたえて、草の上、石の上、そしてふたりの肩にも、音もなく降り注ぐ。
風はすでに凪いでいた。
空の高みに散った闇の名残も、いまは光に溶けていた。
世界が呼吸を取り戻す中で、ただ静かに――
俺たちは、ひとつの答えを見つけていた。




