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第4話:霊憶の淵叢 後編

「キミだけを……一人では行かせたくない」


 俺の言葉は、彼女の背に向けられたものだった。

 カルテシアが、水面へと沈もうとするその瞬間――

 俺は、ただ“同じ覚悟”を示すしかなかった。


 彼女が、ほんの一瞬だけ振り返る。

 その瞳には、もう隠されていなかった。


 確かに、感情があった。


 迷い。恐れ。そして……ぬくもり。


 俺はその手を取った。

 カルテシアは何も言わず、指を絡め返してきた。


 粘液のような液体が、膝を超え、腰を超え、胸まで沈む。

 泡が弾け、粒が皮膚を這う。

 けれど、隣に誰かがいるだけで――その感覚は、少しだけ和らいだ。


 そして、ついに――


 首から上を、沈めようとした、その瞬間。


「……待って」


 静かな声が、後ろから届いた。


 ラルフだった。


 誰よりも感情を表に出さない彼が、そのときだけは、はっきりと声を上げていた。


「……あのおじさん。水中に入ってないよ」


 時が、止まった。


 カルテシアの足がぴたりと止まり、

 俺の頭が、言葉の意味を理解するより先に、勝手に回り始める。


「……え?」


 振り返る。

 湖面の遠く――グランギデオンが飛び込んだはずの場所。


 そこに、何もない。


 泡も、痕跡も、波紋すら――不自然なほどに、消えていた。


 いや、よく見れば。


 水面から数十メートル先――岩陰の上。


 なぜか濡れていないグランギデオンが、腕を組んで座っていた。


 にやり、と。


 口元だけが笑っていた。


「……くくく、ようやく気づいたか」


 愉悦。悪意。そして圧倒的な自己満足。


 全員が、一瞬、何も言えなかった。


 カルテシアの手が、わずかに震えた。

 俺は、思わずその手を握り直した。


 ラルフは、そっと視線を逸らしていた。


 誰よりも冷静な彼が、最後にひとことだけ、ぽつりと呟いた。


「……だから、ボクは入らないって言ったんだけどな」



「……ど、どうして……?」


 俺の声は、濁った水面の中に消えていくようだった。


 確かに、見たはずだった。

 あのとき、グランギデオンは湖へと飛び込んだ。

 派手に、水飛沫を上げて――確かに、沈んだはずだったのに。


「た、たしかに……水中に入ったはずじゃ……」


 カルテシアの言葉にも、明確な動揺が混じっていた。

 彼女ですら、完全に欺かれていた。


 そして、グランギデオンは――

 濡れていない衣服のまま、岩陰から立ち上がる。


「……トリックじゃよ」


 涼しい声で、それだけを告げる。


「しかし、面白くないのう。わしは……入るまで静観するつもりだったのじゃ」


 その口調には、確かな悪意が込められていた。


「なのに、おぬしらは気づいてしまった。わしの手がけた舞台を、途中で止めてしまった」


 まるで、玩具を途中で取り上げられた子供のように、

 悔しそうで、だが嬉しそうで――

 それでいて、どこまでも悪趣味な微笑を浮かべていた。


 そのとき。


 ラルフが、一歩だけ前に出る。


 灰色の瞳が細められ、その先にグランギデオンを捉えた。


「……本当にキミが水中に入っていたなら、ボクは止めなかった」


 穏やかな声だった。だが、確かな怒気がにじんでいた。


「でも――キミは彼らを陥れようとした。それが、間違いだったね」


 その言葉に、場が静まり返る。


 ラルフの睨みは、感情を剥き出しにするものではない。

 ただ“理に適っていないもの”への、純粋な拒絶の視線だった。


 そして俺たちは、ようやく理解したのだ。


 あのときラルフが「入らない」と言ったのは――

 臆病でも、潔癖でもなかった。


 彼だけが、最初から“見抜いていた”のだ。


 この湖も、この舞台も、

 すべてが“グランギデオン”の戯れでしかないことを。


「……まあよい」


 グランギデオンは、くいと顎を上げた。

 その声音には、苛立ちも怒気もなかった。


 だが、確かに――重さがあった。


「わしの計画通りに進まないのは、それだけお主らが修羅場を潜ってきている証でもある」


 その目には、冷たくも、どこか皮肉めいた“尊敬”の色が宿っていた。


「だったら――」


 彼はゆっくりと、手を水面へとかざした。


「お主らに敬意を込めて、わしの力を一つ……見せてやろう」


 次の瞬間。


 水面が、ざわりと音を立てた。


 グランギデオンの掌から、闇色の波動が水中へと放たれる。

 それは魔力ではない――呪術だ。

 濁った液体が、何かを呼び覚ますかのように揺れた。


「ッ……!」


 カルテシアが僅かに身構えた、そのとき。


 水面が、爆ぜる。


 ボコボコと気泡が溢れ、泡立ち、巨大な影が――浮かび上がった。


 それは、異形だった。


 人魚のような輪郭。

 だが、上半身には巨大な蝿の頭部が乗っている。

 眼は複眼、口は裂け、蠢く脚が腹部から伸びていた。


 その大きさは、俺たちを見下ろすほど。

 まさに、怪物という言葉が足りないほどの“造られし災厄”。


「――元・魔王軍幹部、ベルゼバブ」


 グランギデオンは誇らしげに宣言した。


「わしの手がけた実験体の中では一番知能が低いが……おぬしらを沈める程度の働きは、できるであろう」


 怪物ベルゼバブは、ぐらりと首を傾げ、

 水中から這い出すようにして、泡と粘液を引きずりながら立ち上がる。


 その姿は、禍々しいというより、精神に干渉する気持ち悪さに満ちていた。


「くっくっく……」


 グランギデオンの嗤いが、背後から響く。


「――ベルゼバブ。命じるぞ。あやつらを、沈めよ」


 その声と同時に、蝿頭の怪物がぎぎ、と首を回した。


 その複眼が、確かに、俺たちを見た。


「――はーっはっはっはっ!!」


 グランギデオンの高笑いが、空と地を揺らすように響き渡った。


「存分に楽しめ。わしの“作品”は……精巧じゃぞぉ?」


 そう言い残すと、彼の姿は、影のように溶けていった。

 笑い声だけが空気に残り、やがて風に消えた。


 ……俺は、剣を抜いた。


 カルテシアも、いつのまにか蛇腹剣を展開していた。

 その白銀の聖衣には、汚泥と卵の粒がこびりついていたが――

 彼女は一瞥もくれず、そのまま戦闘体勢を取っていた。


 聖女ではなく、戦う者としての顔。


「……行きます」


 彼女の声に、躊躇はなかった。


 ベルゼバブが、ぎぎ、と異形の足を鳴らして俺へと迫る。

 その複眼が蠢き、口からは泡を吐いていた。


 次の瞬間――


「ッ!」


 咄嗟に反応しようとした俺の前に、影が割り込んだ。


 ラルフだった。


 その指先から、闇の光が瞬き、蠅の顎を逸らす。


「勘違いしないでね」


 振り返らずに、彼は言った。


「ボクがキミに味方をするのは――グランギデオンなんかより、キミのほうが信じられるからだ」


 静かで、確かな声音だった。


 敵でも味方でもない。

 それでも、選んだのは“ここ”だった。


 そして――カルテシアとラルフが、同時に動く。


「――神の一撃!」


「――エクスプロージョン!」


 二つの力が、同時に解き放たれる。


 神聖な光が、天から降り注ぐ。

 剣ではなく、裁きの光として。


 同時に、闇の魔力が一点に収束し、爆発的な解放と共にすべてを飲み込む。

 そのエネルギーは、物質すら拒む“虚無”の触手だった。


 ベルゼバブは、咆哮をあげた。

 ケモノのように、悲鳴のように、腹の底から――


「グルゥ……アアアアアアアアアアァァァッ!!」


 複眼が割れ、泡が弾け、体躯が崩れる。

 蠅の頭部が仰け反り、異形の肢体が膨張と収縮を繰り返し――


 ――そして、沈んでいった。


 ゆっくりと、水中へと引きずられるように。

 泡と闇と、断末魔の余韻だけを残して。


 しばしの静寂のあと。


 湖の水面が――揺れた。


 黄土色の濁りが、すうっと引いていく。

 赤褐色の卵の粒が、音もなく崩れていく。

 乳白の泡が、風に溶けるように消えていく。


 そして、そこに広がっていたのは――

 まぎれもなく、清らかな水だった。


 陽が射す。

 湖面が、光を弾く。

 さざなみが生まれ、風が戻る。


 すべては、終わった。


 この一瞬のために。

 俺たちは、それぞれの覚悟を選んだのだ。


 透き通った海底には、幻想的な古代の神殿が映っていた。



 濁流も、泡も、卵も――すべてが嘘のように消えた。

 まるでここが、はじめから聖なる湖だったかのように。


 その静寂のなか、カルテシアが一歩、湖に膝をついた。


 手を差し出し、水をすくう。

 白く繊細な掌に満たされた水は、陽光にきらめいていた。


 俺たちが見守る前で、彼女は迷いなく――それを口に運んだ。


 ごくり、と。


 わずかに喉が鳴る音が聞こえる。


「……問題ありません」


 彼女は静かに立ち上がると、振り返って断言した。


「清浄です」


 その一言には、確かな判断と、何より“重み”があった。


 疑いは――なかった。


 ……けれど、俺は思った。


 いや、実際に飲んで確かめるって……すごいな……。


 問題ないとわかっていても、俺ならためらう。

 ついさっきまで、あの水面の下にベルゼバブがいたと思うと……。


「わたしは、信じます」


 そのとき、セレナが前に出た。


 青緑の髪を揺らし、しゃがみこみ、両手ですくう。


 小さな掌に満ちた水を、ゆっくりと口へ――


 こくり。


 唇を離した彼女は、にっこりと微笑んだ。


「うんっ、すごく美味しいです」


 その声は、風のように軽く、

 それでいて――この湖に、本当に平和が戻ったのだと確信させてくれるものだった。


 誰よりも“水”と縁の深い少女が、そう言うのなら――


 もう、何も疑う必要はなかった。


 すべては、浄化されたのだ。


 信じた者の手で。

 覚悟を持って進んだ者たちの力によって。


 水の加護――

 それは、人魚たちが俺たちに授けてくれた、澄んだ“息”。


 手を触れられた瞬間、胸の奥に水の粒がすうっと染み込んでいくような感覚があった。


「もう、大丈夫。わたしたちの唄が、あなた方を守ります」


 人魚たちの柔らかな声に導かれ、俺たちは湖の底へと潜っていった。


 水は、もはや重くなかった。


 ただ、柔らかく、広がっていた。


 そして――水中に現れた巨大な扉の向こう。


 そこには、光に包まれた広大な空間があった。


 珊瑚と白石で組まれた高い柱。

 無数の魚が、まるで風のように大広間を舞っていた。

 水底には金色の砂、天井からは淡い光が差し込み、揺らめいている。


 それは、水の神殿だった。


 ――ただ、美しかった。


 その中央に、ひときわ目立つ存在が立っていた。


 長く銀の尾を持ち、青い鱗の鎧を纏い、手には槍。

 表情は引き締まり、王者の気配を纏った――人魚姫。


 彼女は槍を胸の前に立てて、俺たちに向き直る。


「あなたが、我々を救ってくださった方々ですね」


 凛とした声が、水の中に心地よく響いた。


「本来ならば、クリスタルを差し上げたいのですが……」


 彼女の眉が、すっと寄る。


「……肝心の“唄”を忘れてしまったのです。あの奥の扉を開けるための、封印解放の唄を」


 俺たちが一瞬、顔を見合わせたそのとき。


「記憶を失ったなら――踊ればいい」


 ラルフが、ごく当たり前のように言った。


「……え?」


 人魚姫の顔が、明らかに止まる。


「踊れば……?」


「体で覚えた動きっていうのは、記憶を失っても残ってるものでしょ」


 ラルフは真顔で言った。

 まるで“なぜ当然のことを訊くの?”というように。


 人魚姫は少し黙ってから、小さくうなずいた。


「……なるほど。理には適っていますね。思い出せるかはわかりませんが――とりあえず踊ります」


 その言葉とともに――


 華やかな舞台が始まった。


 人魚姫が華麗にターンし、銀の尾を弧を描いて振り回す。

 後方の人魚兵たちも、なぜかピタリと振り付けを揃えている。

 全員が完璧にシンクロし、左右交互にうねる波打ちダンス。


 槍を片手に、片鰭を高く上げ、腰を振る。


 人魚たちの瞳は真剣そのもの。


 神殿全体が、まるで一つの巨大なミュージカルの舞台のように、水泡とリズムで震え始めていた。


「……これはこれで、すごいな」


 俺は、呆然としながら呟いた。


 扉の前の封印陣が、ゆっくりと回転し始めていた。

 どうやら――踊りは正解だったらしい。


 扉は、舞い終えた水の波動に導かれるように、ゆっくりと開かれていった。


 中は、静寂だった。

 先ほどまでの踊りと音が嘘のように、空間全体が凪いでいた。


 水の神殿の最奥――そこは、祭壇のような小さな空間だった。


 中心に据えられた石台の上で、一つの結晶が浮かんでいる。


 それは、青く、透き通った光を放つクリスタルだった。


 水の精霊のように――

 氷のように、海のように、夜空の星のように。


 ただそこに在るだけで、心の奥を静かに洗い流してくれるような、優しい輝き。


 俺たちは、誰も言葉を発さなかった。


 それほどに、その光は――美しかった。


 俺は静かに足を踏み出し、両手でそっと、その結晶を受け取る。


 ぴたりと、手の中で脈打つような感触があった。


 冷たくはない。

 むしろ、水のように温かかった。


「……これで、三つ目だ」


 俺はつぶやいた。


 風のクリスタル。

 炎のクリスタル。

 そして、今――水のクリスタル。


 これで、すべてが揃った。


 ――光の神殿へと至るために必要な、三つの鍵。


 旅の始まりには想像もしなかった道のりだった。

 俺たちは、傷つき、迷い、それでも歩き続けてきた。


 そして今、ついに――

 姫の待つ場所へと、手が届くところまで来たのだ。


 この手の中にある、青く揺れる光。

 それは、希望の形をしていた。


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