第4話:霊憶の淵叢 前編
残るクリスタルは、ひとつ――水のクリスタル。
風と炎の試練を越えた俺たちは、いま、旅の終盤へと足を踏み入れようとしていた。
次なる目的地の名は、《霊憶の淵叢》。
それは、霧深い入り江と青い樹海が交わる、地図にも明記されぬ秘境の名だった。
「……この地に眠る水のクリスタルは、他のそれと性質が異なります」
カルテシアがそう告げたのは、まだ王都を発って間もない頃だった。
焚き火の焔に照らされながら、彼女の瞳は炎ではなく、もっと遠く――深淵の記憶を見つめていた。
「水の神殿は、海中の奥深く。陽光の届かぬ、はるか下に築かれた《沈界神域》です」
そこは、人の身では踏み入れぬ場所。
息が続かぬだけではない。水圧と霊流が複合する神域の性質上、生身のままでは魂さえ砕かれてしまう。
「入るには――人魚たちの力を借りる必要があるのです」
カルテシアは静かに言った。
この《霊憶の淵叢》は、古より“記憶を食むものたち”が住まう土地とされてきた。
時折、海霧のなかから現れては、人々の夢や過去に干渉し、失われた記憶を歌にして還す存在――それが人魚の一族である。
「彼女たちは、ただの魔物ではありません。歌に魂を乗せ、記憶を癒す、海の巫女たち……」
神聖なまなざしでそう語るカルテシアの横顔を、俺は黙って見つめていた。
水の神殿。
魂ごと沈むその場所で、俺たちはいったい何を試されるのか。
ラルフはいつものように寡黙だったが、その灰色の瞳は、どこか遠い潮の香りを感じているように見えた。
セレナは、「海中かあ……ふふっ、泳ぎは得意です」と小さく笑っていたが、その手はいつになく、俺の袖をそっとつまんでいた。
深く、静かな沈黙の底で――
俺たちはまた、新たな“記憶の扉”を叩こうとしていた。
樹海を抜けた先――そこは、不意に空が開けたような場所だった。
密生する枝葉の天蓋をくぐり抜けた瞬間、俺たちの視界に広がったのは、一面の湖。
……いや、それを「湖」と呼ぶのは、誤解を生む。
水ではなかった。
透明でも、澄んでもいない。
ただ――底の知れぬ、嘔吐物のような液体が、静かに波打っていた。
黄土色、乳白色、そして赤褐色。
三種の色が濁り合い、絶えず混ざり、揺れながら、蠢く。
液面に浮かぶ光景は、太陽すら拒むかのようだった。
生理的な拒絶感が、何の前触れもなく胸を押しつぶす。
――臭いは、しない。
しかし、視覚だけで本能が警鐘を鳴らす。
この湖は、どこかが“おかしい”。
「……あれは……水では、ない」
カルテシアの声が、すぐ横で低く響いた。
水面では、泡のような小さな粒がぷかぷかと浮き、沈んでは、また浮いている。
気泡のように見えるが、その実体は……直感で悟るには、十分だった。
濁りの底から沸き上がる、粒状の何か。
ただの浮遊物ではない。形のある、意志のようなものが……這い上がってくる。
それでも、この地の奥に――水の神殿は眠っている。
そう、カルテシアが言った。
この場所を通らなければならないのだと。
だが、そのとき、俺はまだ知らなかった。
この「湖」そのものが、すでに一つの存在であることを。
それが、魔王軍幹部ベルゼバブの創造物であることを――
そして、この水に沈む者は、夢と現実の境界を越えて、己の精神を“食われる”ということを。
湖のほとりに立ったまま、俺たちはしばし言葉を失っていた。
濁りきった液面は風もなく、それでいて不自然な揺らぎを絶え間なく繰り返している。
まるで、湖そのものが呼吸をしているようだった。
人魚の姿は――ない。
どこを見渡しても、水の巫女たちと呼ばれる存在の気配すら感じられない。
ただ、濁流の下からときおり浮上しては弾ける泡が、ぬめいた音を立てて空気を汚していた。
「……本当に、この中に……入るのですか?」
セレナが小さな声で尋ねた。
その声音には、いつもの無垢な調子がなかった。
目の前の“水”に対して、本能的に感じる恐れ――それが、ありのままに滲んでいた。
俺も、正直、足を踏み入れる気にはなれなかった。
水ではない。その液体は、生理的な嫌悪を超えて、何か魂の奥をざわつかせる。
そのとき、ラルフが一歩、前に出た。
視線は液面に向けたまま。
その灰色の瞳には、いつもと変わらぬ静けさが宿っていた。
感情は――読み取れない。
拒絶も、躊躇もない。ただ、そこに立っている。
「……」
カルテシアは言葉を発しなかったが、その横顔にはわずかな緊張があった。
聖女である彼女でさえ、この湖には明らかな“違和”を感じている。
無表情の奥に、確かに存在する拒絶の色――それは、焔では決して見せなかったものだった。
「……気配が、隠されています」
カルテシアが低く告げる。
「人魚たちは、こちらの存在に気づいているはず。けれど……この湖の性質が、それを覆い隠している」
目の前に広がるのは、水ではない。
それは、“意思”を持った液体。
存在するだけで、こちらの意志を試すような、沈黙の檻。
「……その言い方、ですけど」
沈黙を破ったのは、セレナだった。
彼女はおそるおそる湖の方へ一歩進み、ぬかるんだ岸辺に立ち止まる。
水面を見つめながら、僅かに眉を寄せた。
「人魚たちは……この中にいるのですか?」
その声は、いつもよりも静かで、かすかに揺れていた。
カルテシアは目を伏せ、湖面へと視線を移す。
「……人魚は、地上では生きられぬ種族です。基本的に、海中、あるいはこのような濃密な水域にのみ存在します」
彼女の言葉には、断定ではなく、慎重な観察が滲んでいた。
完全に読み切れていない――だが、その違和感ごと肯定しようとする聖女の理性が、そこにあった。
カルテシアは、ゆっくりとしゃがみ込むと、水面に手を差し出す。
白く、細く、冷静に整った指先が、濁った液体にそっと触れる。
ぬるりとした感触が、彼女の掌を包み込んだ。
ゆっくりと手を引き上げる。
掌の上には、粘液に濡れた無数の小さな粒が、まるで凝固した泡のように乗っていた。
その異様な光景を、ラルフが静かに見下ろす。
「その粒状のものは……何だい?」
その問いは、感情のこもらぬ、ただの確認だった。
まるで“正解を問う”かのような、淡々とした口ぶりで。
カルテシアは、視線を落としたまま、わずかに首をかしげた。
「……おそらく、蟲の卵でしょう」
その瞬間。
焚き火の音が、止んだように感じられた。
風も、草の揺れも、誰の呼吸さえも――消えたかのように、場が凍りついた。
セレナが、はっと息を呑む。
俺は喉の奥に何か硬いものが詰まったような感覚を覚えた。
ラルフさえも、その灰色の瞳にわずかな光の揺らぎを見せていた。
だが、カルテシアは……表情ひとつ動かさなかった。
「触れても、今のところ生体反応はありません。孵化の兆しも――まだ」
まだ、という言葉に、誰もが言葉を失った。
この湖は、ただの障壁ではない。
その液体は、生命を内包し、異物を宿している。
つまり――ここは、巣だ。
蟲の胎動が、沈黙の下で蠢いている。
俺たちは、今、その“外縁”に立たされていた。
誰もが、しばし言葉を失っていた。
粘性のある水面が、不規則に泡を弾きながら、わずかに揺れる。
その濁流の底に、何が潜んでいるのか。
俺たちの誰も、まだ見えていなかった。
「……カルテシアは、この中に入りたい?」
俺がそう尋ねたのは、直感だった。
彼女が何を考えているのか――その目に宿る覚悟のようなものを、確かめたかった。
カルテシアはすぐに顔を上げた。
「必要ならば、入ります」
迷いはなかった。
答えは、重くもなく、軽くもなく。ただ、事実としてそこにあった。
まるで、自己の意志や感情とは別の場所にある“使命”に従うように――
彼女は、拒絶も恐れも押し殺した眼差しで、湖を見据えていた。
「……わ、わたしも……!」
その横で、セレナが声を上げた。
小さな肩が震えていた。
だが、視線はしっかりと前を向いていた。
「姫様を助けるためなら……入りますっ!」
その声音には、確かに“怖さ”がにじんでいた。
けれど、同時に――俺にはわかった。
それは、誰かのために行動しようとする、小さな決意の声だった。
……二人とも、行くつもりだ。
俺が何も言わなければ、きっと、迷わずこの異形の水に飛び込むだろう。
だが、そのとき。
「ボクは入らないよ」
ラルフの声が、いつものように静かに響いた。
彼は、液面に背を向けるでもなく、まっすぐに俺たちを見ていた。
「理由は……言わなくても、わかるよね」
その言葉に、反論する者はいなかった。
どこか諦めにも似た静けさが、彼の立ち姿を包んでいた。
ラルフが何を知っているのかは、俺にはまだわからない。
だが――彼が拒む以上、この水に何か決定的な“終わり”が潜んでいるのだろう。
「……待ってくれ」
俺は、一歩踏み出し、カルテシアとセレナの前に立った。
「すぐに結論は出さない。まずは……しばらく考えよう」
水はそこにある。
人魚の姿は見えない。
それでも、何か――見落としている気がした。
そして、まだ戻れる。まだ、考える余地がある。
俺は、誰も無理に進ませたくなかった。
この湖に、誰一人として、無防備に沈ませるわけにはいかなかった。
気づけば、俺はラルフの隣に立っていた。
彼は特に何をするでもなく、湖を背にして、揺れる木々のほうを見ていた。
その横顔は、いつも通りだった。
余計な言葉もなく、感情もない――けれど、俺はその「沈黙」に救われていた。
「……ありがとう」
その一言を、俺は小さく告げた。
視線を合わせることはなかった。
ただ、気配だけをそっと送り合うように。
もし、あのときラルフが“拒絶”してくれていなければ――
カルテシアも、セレナも、俺も。
この場に踏みとどまる理由を失っていたかもしれない。
その重みを、彼は理解しているのかいないのか。
「ボクは、自分の感情をそのまま伝えただけだよ」
ラルフは、静かにそう言った。
「キミたちのためじゃない。……誤解されると、面倒だからね」
淡々とした口調。
けれど、その語尾にほんの僅か――ひとつまみの柔らかさが混じっていたような気がした。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
不思議と、それだけでよかった。
ひとまず、この場から距離を取るべきだ。
カルテシアとセレナを振り返り、軽く頷いた。
「……今日はもう、無理はしない。少し離れた場所で野営の準備をしよう」
二人とも、ほっとしたように息を吐いた。
俺たちは濁流の湖からゆっくりと背を向け、わずかに高い丘の方へと移動を始めた。
陽はすでに傾き、樹々の影が長く伸びている。
翌朝、俺たちは重たい空気を引きずったまま、丘の上で目を覚ました。
鳥の鳴き声はなかった。
風も、なぜか葉を揺らさなかった。
朝焼けだけが、不釣り合いに清らかだった。
そんな中、カルテシアは一人、すでに行動を始めていた。
湖から持ち帰った粘性の液体――
それを、銀の小瓶から慎重に注ぎ出し、石の上に広げていた。
その手つきはまるで、何かの実験でも始めるようだった。
白い手が胸元に触れ、祈りの印を結ぶ。
「《聖浄の加護》」
彼女が静かに唱えると、淡い光がその液体を包んだ。
ほんの数秒。
清らかなはずの聖光が、ゆら、と歪んだ。
次の瞬間――
ぼこっ、ぼこっ、と音を立てて、液体の内部が泡立ち始めた。
乳白色の粒が、一斉に蠢き、弾けるように孵化していく。
……蛆だった。
透明に近い半透明の小さな蛆が、這うように湧き出てくる。
それらは形こそ未熟だが、確かに生きていた。
聖光を浴びたことで刺激を受けたのか、表面を這いながら、無音で蠢いている。
「……ッ……!」
小さな足音が、俺の背後を駆け抜けた。
セレナだった。
彼女は何も言わず、ただ一直線に、近くの樹の根元まで走り去る。
そのまま、しばらく木に背を預け、深く俯いた。
吐く音は、しなかった。
けれど、それ以上に雄弁な“沈黙”が、彼女の震えた背中に宿っていた。
俺は、すぐには追わなかった。
その間にも、カルテシアは動かないまま、蛆の這う液体を見つめていた。
光はすでに消え、加護は役目を終えている。
だが、そこに残ったのは、聖性ではなかった。
――生命の、異質な起点だった。
数秒、彼女は目を閉じていた。
呼吸を止め、心の動きまでも封じるように、沈黙の中で思考を凝らす。
そして、瞼を開いた。
「……浄化は、難しそうですね」
結論は、まるで天候の報告のように淡々としていた。
けれど、彼女の指先はほんの僅かに震えていた。
……笑い声が、聞こえた。
誰も声を発していないはずなのに、
その嘲るような笑いだけが、静寂を切り裂くように響いた。
振り返った俺たちの視線の先に、
樹々の影から、ひとりの男が現れる。
黒衣に身を包み、背を反らせるように尊大に腕を組む姿。
その胸には、魔王軍の紋章。
顔には、愉悦にも似た嗜虐の微笑。
――魔人、グランギデオン。
「くくく……無様だな。勇者も、聖女も、そして小娘も……」
彼は俺たちを順に眺め、軽く顎をしゃくる。
「この程度の“汚泥”すら超えられぬとは……本当に、リアノ姫を助けたいと思っておるのか?」
その声には、怒気も熱もない。
あるのはただ、底冷えするほどの“確信に満ちた蔑視”だった。
カルテシアが微かに身構え、セレナが俺の袖をそっとつまむ。
「わしはな――」
そう言いながら、グランギデオンは湖へと歩を進める。
嘔吐物のような濁流のほとりまで至ると、振り返ることなく呟いた。
「魔王様を復活させるためならば、たとえこのような汚水であろうと、構わんのじゃ」
そして――
ドボォンッ――!
濁った湖面が、派手に跳ね上がる。
赤褐色と乳白色の波が弧を描き、無数の泡が弾けた。
グランギデオンの姿は、一瞬でその液体の中へと消えていた。
……誰も、動けなかった。
俺も、カルテシアも、セレナも。
そしてラルフでさえ、微動だにせず、その光景を見つめていた。
あの男は――
魔王のためなら、己を、魂を、すべてを捧げる覚悟を持っている。
それを、たった今、俺たちは“見せつけられた”。
汚水の中へ、迷いなく飛び込んだその背中が、
理屈を超えた“覚悟”の形として、焼きついて離れなかった。
「……俺が行く」
その言葉は、思ったよりも静かに、自分の口からこぼれた。
嫌いだ――あの男、グランギデオンのことは。
傲慢で、冷酷で、姫を道具としか見ていないような奴だ。
だが、それでも。
あの男の魔王への忠誠は、紛れもなく“本物”だった。
命さえ惜しまぬ狂気のような献身。
それを見せつけられたとき、俺は――
自分が、リアノ姫に対してどこまで覚悟を決めていたのかを、試されている気がした。
「私も、勇者さまについていきます!」
俺の言葉にすぐ続いたのは、セレナの声だった。
その声は震えていたが、はっきりと、意志を宿していた。
だが――
「……セレナ」
カルテシアの声は、冷たくもなく、けれど容赦もなかった。
「あなたがついて来ても、足手まといです」
一切の感情を交えぬ口調。
言葉ではなく、断罪そのものだった。
「っ……!」
セレナの瞳が、大きく揺れた。
「わたしだって……! リアノ姫を助けたい……っ! 本当に、助けたいのに……!」
声が、涙に滲んでいく。
けれどその拳は、小さく震えていた。
水中――あの不浄の領域が、彼女にとってどれほどの恐怖か。
誰よりも純粋で、誰よりも繊細な少女が、それでも必死に抗おうとしている。
カルテシアは目を伏せたまま、一歩も動かずにいた。
セレナの叫びに、情を見せることはなかった。
むしろ――感情を殺すことで、その叫びに応えようとしているようにも見えた。
その一方で、ラルフはずっと、何も言わなかった。
グランギデオンが飛び込んだ水面――
その波紋を、ただ静かに、灰色の瞳で見つめ続けていた。
言葉は、なかった。
だが、彼の沈黙は、叫びよりも強く、場を支配していた。
――そのときだった。
セレナが、にじんだ涙を拭うことなく、カルテシアの前に立った。
青緑の髪が風に揺れ、裸足が土を踏む。
「……邪魔って言うなら、乗り越えてみせます」
その声は、静かだった。
だが――そこには、確かに“戦う者”の気配があった。
カルテシアは目を細める。
言葉は、なかった。
二人のあいだに流れる空気が、変わる。
決して敵意ではない。
けれど、それは明確な――対立だった。
聖女カルテシアと、元・竜滅の巫女セレナ。
それぞれの信念が、ここにぶつかろうとしていた。
水の神殿へと至るために。
リアノ姫を、救うために。
誰の決断も、もう後には引けなかった。
勝負は、一瞬だった。
セレナが叫ぶこともなく、ただまっすぐに――竜滅の拳を振るった。
小さな体から放たれたその一撃は、誰よりも重く、純粋だった。
だが――
カルテシアは動かない。
いや、正確には……ギリギリまで動かなかった。
引きつけた。
拳がほぼ届く、その寸前まで。
そして。
ひらりと、袂が風を裂くように身をかわし――
反撃の一撃が、正確にセレナの首筋へと放たれた。
軽い、乾いた音が響いた。
セレナの身体が、ふわりと浮いて、地面に倒れる。
そのまま、仰向けのまま、動かない。
目を閉じて、眠るように。
「…………」
カルテシアは、静かにその小さな体を見下ろしていた。
感情は、なかった。
いや、あえて消していた。
押し殺したまなざしが、ほんの一瞬だけ、揺れる。
けれど、それもすぐに平坦に戻る。
「……ラルフ」
彼女は、そちらを振り向かずに呼びかけた。
「彼女が目を覚ましたとしても――水中には、近づけさせないでください」
ラルフが返事をするよりも先に、
カルテシアはすでに背を向けていた。
一方的な依頼。
命令ではない。けれど、託すというより、切り離すような声だった。
そのまま、彼女は歩き出す。
水面へと――
あの、汚泥の湖へと。
その背は、迷いなくまっすぐだった。
誰が言葉をかけても、きっと止まらないとわかるほどの、強い意志。
だがそれは、どこか――
自分を罰する者のような歩みにも見えた。
カルテシアは、湖に足を踏み出す。
ぬるり、と。
粘性のある液体が足首を包む。
泡が弾け、粒がまとわりつく。
それでも彼女は、進む。
一歩、また一歩と。
肩まで沈むその直前――
気がつけば、俺は手を伸ばしていた。
そして――カルテシアの肩に、触れていた。
彼女の足が、止まる。
振り返る。
蒼白い横顔。
冷静を装ったその瞳が、わずかに揺れていた。
その揺れは、風ではない。
威厳でもない。
――恐怖だった。
声は、出なかった。
けれどその目が、語っていた。
「助けて」とも、「行かせて」とも言わぬまま――
それでも彼女の中にある“何か”が、
いま、静かに軋んでいた。




