第2話:風の孤島と試練 前編
旅が始まって、三日が経過した。
天候に恵まれたおかげで道中は順調で、今のところ大きな問題は起きていない。
少しずつ足並みも揃い始め、いつの間にか旅の中での“役割”も自然と定まっていた。
ラルフは主に料理担当。火起こしから味付けまで淡々とこなし、意外にも器用な手際を見せている。
カルテシアは結界の維持。夜の休息地では静かに術式を張り、万が一の襲撃に備えてくれる。
そして俺とセレナは、炊事や洗濯などの雑務全般。特にセレナは洗濯を「水が気持ちいいです」と嬉しそうに手伝ってくれるのが印象的だった。
小さな焚き火を囲む、ささやかな昼食時。
風の音と、煮立つスープの香りに包まれながら、セレナがふと口を開いた。
「カルテシアさま。……あの、勇者さまから聞いたのですが」
「ん?」
カルテシアは振り向かず、静かにスープの表面を見つめたまま応じた。
「カルテシアさまも、お料理ができるのですか?」
「……はい」
即答だった。相変わらず感情の色は薄いが、否定の気配はない。
その答えを聞いたラルフが、珍しく素直な感想を口にした。
「へぇ、それはちょっと……食べてみたいかも」
湯気越しに彼の目が細められる。飾り気のない声音だったが、どこか興味深げな響きがあった。
カルテシアは一瞬だけラルフの方を見た。
そして──わずかに沈黙。
数秒ほどの間を置いてから、小さくうなずいた。
「……機会があれば、作ります」
それだけを静かに告げると、彼女はまた火元へ視線を戻した。
あまりにも当たり前のように言ったその一言。
けれど、そこにはほんの少し──**“応じた”**という柔らかい意思が感じられた。
旅は、ゆっくりと、しかし確かに前に進んでいた。
風の民が暮らす土地が、徐々に近づいてきた。
地形はなだらかな丘陵から切り立つ岩山へと変わり、風が強くなる。草の香りに混じって、動物の気配も濃くなっていた。
「……ん?」
茂みの向こう、岩陰に見えた黒い塊に、俺は足を止めた。
ラルフもすぐに立ち止まり、気配を読むように目を細める。
そのとき──
「ゴリラさんですっ!!」
セレナが、なぜかとても嬉しそうな声を上げた。
ぱたぱたと小走りで岩陰のほうへ近づいていく。
「お、おいセレナ、あんまり近づくなって──!」
あわてて声をかけると、セレナはぴたりと立ち止まり、少し照れたように振り向いた。
「だって、わたしゴリラさんすきなんです。ふわふわしてて、つよそうで……優しそう」
ふわふわはたぶん違うと思いつつ、俺はため息をひとつ。
どうしてだろう、ゴリラってやたら子供に人気ある気がする。
ふと横を見ると、カルテシアが無言で足を止めていた。
相変わらずの無表情ではあったが──俺は、なんとなく訊いてみた。
「なあ……カルテシア。ゴリラって、なんで子供に人気あるんだと思う?」
彼女は数秒だけ沈黙し、それからまるで教科書を読むような口調で答えた。
「ゴリラは賢者です。性格は温厚で、力強く、仲間想い。
それでいて、近づきすぎると威嚇のためにうんこを投げてきます。
……ツッコミどころが多いため、子供に好かれるのだと推察します」
俺は軽く苦笑しながら、ふと口にした。
「じゃあさ、俺も……うんこ投げれば人気者になれるってこと?」
「いいえ。ドン引きされます」
間髪入れずに返された。
あまりに即答すぎて、俺は思わずセレナと目を合わせ──二人で、くすりと笑った。
風の民の領域は、もうすぐそこだというのに。
こんなふうに笑い合える時間が、妙に愛おしく感じられた。
岩陰にいたゴリラは、俺たちに気づくと「ウホッ」と低く鳴き、胸をドン、ドンと叩き始めた。
──いわゆるドラミングだ。
すぐ横で、カルテシアが淡々と口を開く。
「ゴリラがドラミングをするのは、威嚇している証拠です。
縄張りの示威行動であり、敵意の表明でもあります」
その言い方があまりにも平坦だったので、俺はつい聞き返してしまった。
「カルテシア。キミって、ゴリラに詳しいんだね。まるでゴリラ博士だ」
答えはなかった。
その間に、セレナが前へ一歩出た。
ゴリラを正面から見上げ、小さく手を胸に当てて言う。
「ゴリラさん。私たちは敵じゃないですよ……」
その声音は穏やかで、優しさに満ちていた。
もちろん、ゴリラ語が通じるはずもない。
俺はちょっと心配になったが──
……不思議なことに、ゴリラはドラミングをやめて、静かに息を吐いた。
その黒い瞳が、どこか穏やかにさえ見える。
「……セレナ。ゴリラ語、わかるのか?」
俺がぽつりと聞くと、答えたのはカルテシアだった。
「いいえ。
ですが、“伝わった”のは、言葉に感情が乗っていたからです。
言霊──とでも表現すればいいのでしょうか。我々の言語には常に『意味』と『感覚』が伴います。
意図と誠意は、異なる種にすら届くことがあるのです」
隣でラルフが小首を傾げる。
「ねぇ。うんこを投げると好感度が上がる生き物と、そうじゃない生き物って……なにが違うの?」
完全に真顔だった。
カルテシアは一秒の沈黙もなく答える。
「私はうんこ博士ではないので、その違いはわかりません」
その言葉には、ほんの少しの怒りの感情が込められているように感じた。
森を抜けた瞬間、世界が開けた。
木々のざわめきが遠ざかり、かわりに肌を打つのは、潮風の匂いと湿った陽光。
眼前には──海が広がっていた。
太陽の光を受けて、海面は静かに波を揺らしている。
濃い青ではなく、澄み切った薄藍。風が常に吹き抜けているせいか、水面には霧のような気配が漂っていた。
「……海?」
思わず呟いた俺に、カルテシアが一歩前に出て答える。
「はい。ここから先は“風の民”の領域。
海に浮かぶあの島こそが、彼らの聖域──風の孤島です」
指差した先、小舟で小一時間ほどの距離に、ぽつんと浮かぶ小島があった。
島全体が切り立った岩壁に囲まれ、まるで風に護られるかのように雲が渦を巻いている。
そこに、かすかに見える巨大な影──尾の長い、羽ばたく何か。
「……あれって、もしかして……」
「風竜です」
カルテシアは静かに言った。
「この島には、“風竜”が生息しています。
風の民にとっては、神聖な存在。島そのものが、彼らの信仰対象でもあります」
風が俺たちの足元を撫でていく。
セレナは小さく目を細めながら、風竜の姿をじっと見つめていた。
「……わたし、あの島、すきです」
そう呟いた声は、どこか懐かしさを帯びていた。
波の音が、ひときわ静かに感じられた。
「さあ、行こうか──」
そう俺が声をかけようとした、その瞬間だった。
ゴォォォォォオオオオ──ッ!!
島の中心部、巨岩の割れ目から、天に向かって緑色の風の柱が噴き上がった。
風ではない。炎でもない。だがそれらが混じり合ったような、神性そのものが形をとったエネルギーが、空へと突き抜ける。
柱の中から、風竜が姿を現した。
巨大な双翼を広げたその存在は、全身を緑風の炎に包まれ、神聖で、圧倒的だった。
まるで天を統べる意志そのもののように、竜は空に浮かび上がる。
その威容に、俺は言葉を失った。
風が荒れ、地面が震えるほどの覇気が、海を隔てたこの浜辺にまでも伝わってくる。
「……すごく、綺麗ですね」
隣で、セレナが小さく呟いた。
その目は、恐れではなく、純粋な感動で満たされていた。
彼女にとって、竜とは畏れであると同時に、どこか懐かしい存在なのかもしれない。
だが次の瞬間、竜がその視線を空に向けてうなりを上げた。
その先には──
「グランギデオン……!」
漆黒の鎧に包まれた巨体。
あの魔王軍幹部が、空中で風竜と一騎打ちを繰り広げていた。
竜が口を開いた。そこから放たれたのは──純然たる光線だった。
緑白色のビームが、大気を裂いて一直線に放たれる。
それは、空を貫き、地平線の彼方まで届くほどのスケールだった。
あまりにも異質な存在たちの戦いに、俺たちはただ見上げるしかなかった。
やがて──
グランギデオンは、竜の攻撃を受け流すようにして大きく距離を取る。
そして、ゆっくりと俺たちの方へと顔を向けた。
「……フン。見ての通りだ」
その声は、浜辺の風に乗ってこちらまで届いた。
相変わらずの不遜な口調。そして、傷ひとつ見せないその態度。
「わしでも、奴を倒すことはできなかった。
ならばお前たちでは、尚のこと叶うまい」
そう言い残し、グランギデオンは空の裂け目に身を沈めていく。
まるで風そのものに飲まれるように、彼の姿は空に消えていった。
風だけが、あとに残った。
その場にいた全員が、何も言えなかった。
海の向こう。
風の孤島の上空で、神のような竜が、未だに静かに旋回していた。
グランギデオンが去っていった風の渦は、やがて空に溶けるようにして消えた。
残されたのは、今なお空を悠然と舞う風竜の威容と、波の音ばかりだった。
「ふふっ……なんだか、ちょっとすっきりしました」
セレナがそう言って、少し得意げに笑った。
その笑顔は無邪気で、あまりに自然だったからこそ、俺は思わず横目でラルフを見てしまった。
「セレナ」
ラルフは声を荒げるでもなく、ただ静かに名を呼んだ。
優しさの中に、わずかな叱責の色をにじませていた。
「誰かが傷ついて退いたのを喜ぶのは、少し違うと思うよ。
キミが優しいのは知ってる。だからこそ、ね」
「……ごめんなさい」
セレナは肩をすぼめるようにして俯いた。
ラルフの言葉は鋭くはなかった。でも、その柔らかさが逆に胸に響いたのかもしれない。
俺は空を見上げた。
あのグランギデオンを追い払った風竜──その圧倒的な存在を、今もまだ視界が捉えている。
けれど、どこか複雑だった。
あの魔人は、俺たちが束になっても勝てなかった相手だ。
それが、まるで手も足も出せずに退いていった。
“良かった”と素直に思えないのは、
きっと――それが、何かの終わりではなく、始まりの合図のように思えたからだ。
「今が最善の機会です」
カルテシアの声が、そっと空気を切り取るように響いた。
「奴が退いたという事実は、私たちに一つの猶予を与えました。
風竜がクリスタルの守護者であるならば、対話か試練か……
いずれにせよ、今ならグランギデオンの介入なく、それに臨めます」
彼女の目は既に前を見据えていた。
冷静で、どこまでも理性的なその視線が、俺たちの覚悟を静かに測っている。
海風が頬を撫でていた。
あの孤島は、水平線のすぐ向こうにある。小舟で渡れば小一時間もかからない距離だろう。
だが――
「ところで、どうやってあの孤島に近づくんですか?」
セレナが、何気なく口にした言葉だった。
疑問というより、軽く確認するような声音だったのに――その一言で、場の空気が止まった。
全員が無言になる。
……そうだ。俺たちは、島の存在ばかりに目を奪われて、そこに“どうやって行くか”を考えてすらいなかった。
周囲を見回す。
海岸には小舟一つ見当たらない。
この浜辺には漁村どころか、人の気配さえない。
当然、協力者もいない。
船もない。手段もない。
それより何より──
あの島には、風の竜がいる。
俺たちが束になっても一太刀も浴びせられなかった魔人を、あっさりと追い払うほどの存在が、だ。
そこに、何の準備もなく近づくなんて……正気の沙汰じゃない。
カルテシアでさえ、黙して考え込んでいるようだった。
ラルフは腕を組んだまま、じっと風を受けていた。
この状況は、どう考えても詰んでいる。
──たしかに、あの島にクリスタルがあるのかもしれない。
だが、それを手に入れるどころか、近づく手段すらない。
まるで、運命そのものに“お前たちは来るな”と突き返されたような気がした。
緑風の炎をまとった巨大な身体が弧を描きながら孤島の中心部へと戻っていくと、やがてその姿は風の柱と共に霞み、やがて空に溶けるように消えた。
しばらく誰も声を出さなかった。
その神聖さと桁違いの存在感に、言葉の意味すら追いついていなかったのだ。
だが――去っていった、という事実に俺たちはようやく安堵の息をつく。
「とりあえず、ごはんを食べながらみんなで考えましょうっ!」
セレナの明るい声が、張り詰めた空気をやわらかくほぐしていく。
いつの間にか彼女は、白地に水色のリボンがついた小さなエプロンを身につけていた。
海辺の風がさらりと髪を揺らし、その姿はまるで遠い理想郷から訪れた小さな花嫁のようだった。
薪を割り、鍋に水を張り、食材を手際よく並べる。
セレナの動きは決して慣れているわけではない。だが、その一つひとつがどこか丁寧で、健気で、ただそこに居るだけで誰かの心を癒す、不思議な力を持っていた。
「うんっ、いい香り……あとは、煮込むだけですっ」
満足そうに鍋の蓋を閉じて、セレナは小さく拳を握った。
彼女の蒼い瞳には、不安や焦燥ではなく――誰かのために何かをしているという、確かな幸福の光が宿っていた。
焚き火の音が、潮騒と重なるようにして静かに響いていた。
鍋からは食欲をそそる香りが立ちのぼり、空には星が浮かび始めている。
その穏やかな一時のなかで、ふと俺は浜辺の向こう――海の上に視線を移した。
「……あの海、ずっと複数の竜巻が渦巻いてるけどさ。
あれって……もしかして、近づくと襲ってくるタイプの竜巻だったりする?」
俺の問いかけに、セレナは木の匙で鍋をかき混ぜながら、首を傾げた。
そして目を細め、海風の流れを感じ取るように顔を上げる。
「風の流れを読み取る限りでは……うん、たぶん、ゴリラさんのドラミングと同じです」
「……ゴリラと、風の竜を同列に扱うのは、さすがに失礼じゃないか?」
我ながら変なことを言っている気もしたが、思わずツッコミを入れてしまう。
セレナは匙を止め、きょとんとした表情でこちらを見つめ返した。
「どうしてですか?」
「いやだって……あの風の竜、グランギデオンを追い払ったほどの存在だよ?
言ってみれば、神話に出てくる守護者みたいなもんじゃん」
「……でも、ゴリラさんも家族を守るためなら、グランギデオンを追い払えると思います」
セレナは、すっと迷いのない声で言った。
その瞳には、一点の疑いもなく、ただ真っ直ぐな信頼だけがあった。
言葉を失い、思わず目を見返す。
彼女にとって、ゴリラも、竜も、人も、**「大切なものを守る存在」**という一点において、同じなのかもしれない。
俺は何も言い返さずに、ただ小さく笑った。
「ラルフは……何か、手立てが思いつかないか?」
焚き火の明かり越しに声をかけると、ラルフは少しだけ間を置いて、静かに首を横に振った。
「ないよ。あの風は、ボクの術でも越えられない」
いつもの柔らかな声だったが、そこには確かな断絶があった。
ラルフが“無理だ”と言う時は、本当に無理なときだ。
沈黙が落ちかけたそのとき、カルテシアが口を開いた。
「……一つだけ、方法があります」
ゆっくりと火を見つめながら、まるで最初から計算に入れていたかのような口調だった。
「セレナさんは天竜の末裔。記憶の奥底に、“竜としての本来の姿”が眠っているはずです。
その姿で空を翔ければ、竜巻の風流を読み、突破することは可能でしょう」
俺は思わずセレナを見る。
彼女は、少しだけ目を見開いていたが、すぐに小さく頷いた。
「……はい。わたし、やってみます」
カルテシアの言うことは理にかなっていた。
風の竜に見つかるリスクはある。だが、その程度で怯えるのなら、最初からこの旅は成り立たない。
姫様を助ける。そのためには、恐れよりも前に進まなければならない。
セレナは立ち上がり、夜風にそっと髪を揺らした。
次の瞬間、彼女の足元から五芒星の紋章が淡く浮かび上がり、やわらかな光が地面を這った。
その光は夜の帳を裂くように空へと昇り、風をまとった光の羽衣がセレナの身体を優しく包み込む。
人の輪郭が、少しずつ、ほどけていく。
翡翠色の鱗が、薄桃色の肌を覆い、しなやかに曲線を描く尾が地面をなぞった。
彼女の瞳が一瞬だけ開き――その奥に、悠久の星々が揺れていた。
誰も、声を出せなかった。
神話に語られる天の竜――それが、いま目の前に、確かに息づいている。
「……セレナ」
俺はそう呟いて、差し伸べられた背へと手を伸ばした。
背中にはやわらかな風の流れがあった。恐ろしさはなかった。あるのはただ、温もりと気高さだけだ。
カルテシアが無言で飛び乗り、ラルフがその後に続く。
俺も、息を整えて、その背に身を預けた。
セレナの羽ばたきと同時に、世界が音を失った。
次の瞬間、地面が一瞬で遠ざかり、俺たちは天へと跳ね上がった。
星々のあいだを縫うように、神速の滑空。
海の上に点在する恒久的な竜巻を、まるで遊ぶようにかわしながら、彼女は風そのものとなって空を翔けていく。
そして、見えた。
断崖に囲まれた、翠緑の孤島。
その中央には黒くうねる大地が隆起し、煙を吐く火山の影が夜空に浮かんでいた。
神殿は、この島のどこかにある――そう直感できた。
だが、その時だった。
島の森の中から、白銀の翼を広げた影が空へと飛び出してきた。
その姿は――人のようであり、獣のようでもあり、何より“竜”の血を色濃く宿していた。
「ここから先には入らせない!」
そう叫んだのは、俺とそう年の変わらない、少年の声だった。
風を纏い、二つの翼で空を裂きながら、まっすぐに俺たちの竜に向かって飛んでくる。
その顔には、強い決意と――どこか人懐こい、幼さがあった。
翼を広げた少年は、風を巻き起こしながら、俺たちの目前で空中に静止した。
風圧が竜セレナの鱗に反響するが、彼女は揺るがず、そのまま静かに浮かんでいる。
「……あなたは、風の民ですね?」
カルテシアが、肩越しに落ち着いた声で尋ねる。
少年の眉がぴくりと動く。
「そうだ。オレはこの島の守人、風の民だ。余所者がここに立ち入ることは――許されていない」
その語調には怒気も敵意もない。
だが、毅然としていた。島を守る者としての誇りが、まっすぐに言葉に乗っている。
カルテシアは無言でうなずき、すっと背筋を伸ばす。
まるで風の重さを計るように、わずかに言葉を間を置いてから、淡々と訊いた。
「どうしたら――中に入れてくれますか?」
一拍。
いや、ふた拍。
風の少年がまばたきすら忘れたように、言葉の意味を飲み込もうとした。
「……入れないって言っただろ。決まりなんだ。そういう風に決まってるんだ」
その声は、どこか焦りを帯びていた。
(この人、本当に言ったな……)と俺は内心で呆れながらも、感心していた。
“入れない”と明言した相手に、即座に例外対応を求める胆力。
言葉に余計な感情はなかった。ただ、合理と必要のみを口にする。それがカルテシアだった。
「……この島の風の奥に、我々が探しているものがある。
どうしても、それを手に入れなければならないのです。
あなたにとっても、このままでは島が――世界が、危うくなるかもしれません」
静かに、けれど確かに――言葉が少年の胸を打つ。
少年はぎゅっと口を結び、俺たちの顔を一人ひとり確認するように見つめた。
ラルフは無言で目を細め、セレナは、どこか祈るような目で少年を見つめていた。
そして俺は、言葉は出せなかったが、誠意だけは伝えようと頷いた。
風の中で、少年の決断が、揺れていた。
風の少年は、しばらく沈黙したのち、少しだけ視線を外すようにして言った。
「……皇后さまがお前達を気に入れば、特別に孤島への立ち入りを許可してくれるだろう。ついてこい」
そう言うと、彼は翼をひるがえし、風の孤島の奥へと飛び去っていく。
「え、それってもう中に入ってるってことでは……?」
俺は思わずつぶやきかけたが、声には出さなかった。
せっかく道が開けたのだ。あまり水を差すのはやめよう。気にしない。うん、気にしない。
セレナの背に乗ったまま、俺たちは島の断崖の縁を越え、密林を抜けるようにして地上へと降り立った。
柔らかな着地と同時に、セレナの体がふわりと光を帯びていく。
まるで風の流れが彼女の姿をなぞるように、翡翠色の鱗がほどけ、人の姿がそこに戻っていった。
白いワンピースが空気を含んで揺れ、青緑の髪が風に遊ばれる。
元の姿に戻ったセレナが微笑むと、少年の顔色が変わった。
「なっ……!?お前、もしかして……竜人族なのか!?」
目をまん丸にして指を差す少年に、セレナはきょとんとしたまま、首をかしげた。
「竜人族って……?」
代わりに答えたのは、カルテシアだった。
「竜人族とは、竜の姿と人の姿の両方を持つ、竜族の中でもとくに高位の存在のことです。
竜族の中には、二足歩行の形を取れない者も多い。あなたのように人型と竜型を使い分けられる存在は、尊敬を集めます」
「へぇ……そうだったんですね」とセレナが小さく頷く。
すると少年が少しだけ困ったように眉を寄せて言った。
「オレは……竜族じゃない。鳥人族だ。風の加護を受けて生きてるけど、立場的には竜族の眷属みたいなもんさ」
その言葉に、セレナは「鳥さん!」と無邪気な感想を漏らし、
少年は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
神殿の奥、風の流れが渦巻く広間。俺たちは、鳥の翼を持つ女王――風の皇后と対面していた。
彼女の体は人の姿を保っていたが、その両腕は大きな銀灰色の翼に覆われ、羽ばたくたびに空気が震えた。
皇后は玉座のような石の座に腰を下ろしていた。高い背もたれには風の紋章が刻まれ、そこに立つ彼女の姿はまさしく「支配者」と呼ぶに相応しかった。
「……グランギデオンとかいう愚か者が、先ほど『クリスタルをよこせ』と喚いておった」
低く、だが澄んだ声。皇后の瞳が俺たちを鋭く射抜く。
「貴様らも、あの下劣な魔人と同じ口か?力ずくで我が民の聖宝を奪いに来たというのなら――この場で風に還すがよい」
言葉だけで風がざわめいた。背後のセレナが、わずかに肩を震わせたのがわかった。
だがその直後、皇后はふっと目を細め、鼻で笑った。
「無論……あの方にかかれば、グランギデオンなど児戯に等しい。夫は気まぐれな竜だが、外敵の排除にかけては実に頼もしいからな」
その言葉に、空気が一瞬和らいだ。だが、皇后の目は笑っていない。
「さて……改めて問うぞ。お前たちの目的は何だ。何のために、ここまで来た?」
皇后の声は、冷たくはなかったが、一切の甘えもなかった。
俺は、一歩前に出て、はっきりと答えた。
「俺たちは、風のクリスタルを求めてこの地を訪れました。理由があります。仲間を救うためです。奪うつもりはありません。どうか、お話を聞いていただけませんか」
その言葉に、皇后の長いまつ毛がわずかに揺れた。
「……ふむ。言葉の風は澄んでいるな。人の王族とはまた違う匂いを感じる。だが――」
皇后は片翼をゆっくりと上げた。その羽先が、俺たちに向かってかすかに揺れる。
「“風の民の掟”は古くから変わらぬ。聖宝は“誠の力”を持つ者にしか託さぬ。それが誰であろうとも、試練なくしては通せぬ道だ」
皇后の語る声には、夫である風竜への信頼と、この地を守る者としての厳しさがあった。