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第3話:封印の地、覚醒の剣

 王都を出てから、すでに半月が経過していた。

 道中は穏やかだったが、歩を進めるごとに空気の質が変わっていくのを感じる。陽光はやや霞み、風の音がどこか湿っている。

 目的地は、王都の外縁部にある封印遺跡――

 いま俺たちは、その入口に立っていた。


 「……ここが、かつて封じられた場所ですのね」


 リアノ姫が、静かに視線を上げる。

 崩れかけた柱と、つたの絡まる石壁。その先に、ぽっかりと口を開けた洞窟のような入り口がある。

 内部はほとんど光を通さない。俺は腰に下げていたカンテラに火を灯した。

 ふっと揺れる橙色の明かりが、遺跡の内壁をほんのわずかだけ照らす。


 「足元にお気をつけください。段差がございますわ」


 そう言って、リアノ姫がひと足先に中へと歩を進める。

 その後ろ姿を追いながら、俺は思う。この人の歩く先には、常に責任と覚悟があるのだと。


 カンテラの灯りが、彼女の横顔を柔らかく照らす。

 静かな瞳に宿る意志は揺るがず、その輪郭はまるで聖像のようだった。

 神聖、という言葉では足りない。

 俺はただ、心の底から思った。この人を護りたい、と。誰に命じられたでもなく、自然にそう感じていた。


 遺跡の奥は意外なほど広かった。

 狭い通路を抜けた先には、まるでかつて神殿であったかのような広間が広がっていた。壁面には摩耗した文様が並び、中央には一際目を引く巨大な石碑が立っている。


 「……これは」


 リアノ姫が小さく息を呑んだ。

 石碑の表面には、古代文字と思しき刻印がびっしりと並んでいる。風化して判別できない箇所もあるが、その存在感は異様だった。


 俺は、何かに導かれるように一歩踏み出し、石碑に手を伸ばす。

 その瞬間――


 「……ッ!」


 身体の内側を、冷たく濁った何かが這い回る感覚。視界が暗転し、膝が崩れた。

 頭の奥に響くような耳鳴り。息がうまく吸えない。全身が、石のように重い。


 「勇者様っ!?」


 リアノ姫の声が響いた。

 いつもならどんなときも冷静な彼女が、明らかに動揺している。


 ――いや、これは……瘴気だ。

 意識が混濁する中で、直感だけが確かに告げていた。


 「おやおや、ずいぶんと愚かな勇者様だこと」


 その声は、笑っていた。

 嘲るでもなく、楽しげでもなく、ただ達観した者だけが持つ残酷さで、こちらを見下ろしていた。


 俺がかろうじて顔を上げると、そこには一人の老婆がいた。

 黒い外套を羽織り、腰は曲がっている。だがその目は鋭く、何かを見透かすようだった。


 「この遺跡が開かれる時、王国は滅びる。そう、わたくしはそう予言いたしました」


 老婆――かつて王都で“不吉な言葉”を語り、追放されたと噂される占い師。

 その姿が、目の前にあった。



 「……もしやアナタは――」


 声を絞り出したのは、リアノ姫だった。

 その瞳はわずかに揺れている。怒りではない。恐れでもない。ただ、信じたくなかったものを目の前にした人間の、それだった。


 老婆の外套がふっと揺れる。次の瞬間、それはまるで幻が晴れるように姿を変える。

 しわだらけだった肌が滑らかになり、曲がった背が真っ直ぐに伸びる。

 長い銀髪と紅の瞳を持つ女――


 「ようこそ、王女リアノ=ルヴィア。予言の勇者様も、ね」


 女はにこやかに笑った。

 その笑顔は、どこまでも丁寧で、どこまでも悪意に満ちていた。


 「名乗りましょう。わたくし、魔王軍幹部にして“闇の司祭”――イザベラと申します」


 「ッ……魔王軍……」


 「はい、その通りですわ。ここにご足労いただいたのは、すべて計画通り。

 遺跡の瘴気は、あなた様を弱らせるため。

 そしてこの封印――王家の血を捧げることで、解かれるように設計されておりますの」


 俺は、カンテラの灯火が揺らぐのを見ていた。

 イザベラの背後で、石碑に刻まれた文様が淡く光っている。


 「要するに――姫様をここに連れてくる必要があったのです。

 あなたは王家の“宝”ですわ、リアノ姫。

 生贄として、これ以上に相応しい素材はないでしょう?」


 「…………!」


 リアノ姫が息を呑んだ。だが、声は返さない。


 「ええ、ええ、もちろん。あなたを生贄にするのは儀式のため……だけではありませんわ。

 単純に、王国を見下ろすわたくしの気分が“爽快になる”から――それだけでも十分な理由ですわよね?」


 イザベラは、軽く口元に手を添えて、上品に笑った。

 それは優雅で、美しく、底知れぬ悪意の象徴だった。


 「……まだ、終わってません」


 地を這うような瘴気の中で、俺はゆっくりと膝に力を込めた。

 喉の奥が焼けつくような痛みに襲われながら、それでも――立ち上がる。

 リアノ姫が、目を見開いていた。


 「あなた、今の瘴気を……?」


 「鍛えてますから」


 苦笑まじりに答えながら、俺は腰の剣に手を伸ばした。

 光の剣――その刀身が、手のひらに触れた瞬間に淡く輝き始める。


 「ふうん。カルテシアと打ち合っただけのことはあるわね」


 イザベラが、細く笑う。だがその目には、明らかな警戒が浮かんでいた。


 「……想定してたよりは、強い」


 高位の闇術が織り成す結界が、イザベラの周囲に張り巡らされる。

 黒紫の光が揺らめき、触れるだけで焼かれそうな空間だ。


 俺は、一歩踏み込み、光の剣を振り抜いた。


 ――光が、闇を裂いた。


 結界が音を立てて崩れ、瘴気が一気に引く。

 イザベラは、苛立たしげに舌打ちした。


 「……ちっ。やれやれ、討ち取られるのは不本意ね。

 でも、王家の宝はいただいていくわ」


 次の瞬間、彼女の身体が――無数の黒い蝙蝠へと砕けた。


 風のように吹き荒れる影の群れ。その中心に、姫様がいた。


 「――リアノ姫!」


 俺が叫んだ時には、蝙蝠たちが彼女を取り囲み、空気を巻き上げて遺跡の天井へと消えていった。


 「倒したければ――我が館まで、おいでなさいな」


 残響のように、その声だけが遺跡に残された。



 「っ……くそッ、リアノ姫を返せっ――!」


 蝙蝠の群れが空へと消えていく。俺はその残像を追って駆け出した。

 だが、崩れかけた遺跡の足場が悲鳴を上げる。


 バキィ――ッ!


 視界が傾いた。

 床が崩れ、身体が重力に引きずられる。


 「――――ッ!」


 声も出ないまま、真っ暗な穴に落ちていった。


  *  *  *


 ……薄明かりが、揺れている。

 焚き火のような光が、目の前でふわりと瞬いた。


 「……目が覚めたんだね。大丈夫、頭とか打ってない?」


 優しくも飄々とした声だった。

 身体を起こすと、そこには見知らぬ青年がいた。


 肩まで届く黒髪、整った顔立ち。

 魔導士風のローブを身にまといながら、どこか抜けた雰囲気を纏っている。


 「……ああ、大丈夫です。ありがとう」


 俺がそう答えると、彼は微笑んだ。


 「よかった。突然上から落ちてくるんだもの、びっくりしたよ。

 僕はラルフ。この辺の地形にはちょっと詳しくてさ、旅の途中なんだ」


 俺はすぐに状況を整理し、簡潔に事情を説明した。

 ――リアノ姫が攫われたこと。

 敵は魔王軍の幹部であり、魔族の館に連れ去られた可能性が高いこと。


 ラルフは一瞬だけ目を細めて、しかしすぐに明るい調子で言った。


 「それは大変だね。じゃあ途中まで案内するよ。

 この辺りの遺構や魔力の流れは、少しなら分かるから」


 「……ありがとう。助かります」


 「ううん、気にしないで。困った人がいたら助けるのが基本だから。

 ……ただ、館の場所までは知らないんだよね。残念だけど」


 肩をすくめる彼の横顔は、どこか人懐こく、それでいて何かを隠しているようにも見えた。


 森の中の細道を歩いていたときだった。

 とぽ、とぽ、と音がして、俺の足元に青白いスライムが跳ねてきた。


 「ッ……!」


 俺は思わず剣の柄に手をかける。


 「大丈夫。こいつは敵じゃないよ」


 ラルフが軽く手を挙げると、スライムは嬉しそうにぷるぷると震えながら、彼の肩によじ登っていった。


 「ね、スラ坊?」


 「……ぷるっ♪」


 「……友達、なんですか?」


 「うん。この辺の魔物とか小動物とか、みんな顔見知りなんだ。僕、あちこちで魔力の調整してたからね」


 その言葉通り、少し進むと、今度は木の枝から妖精がひらりと降りてきて、ラルフの肩にとまった。

 続けざまに、リスのような小動物がぴょんと跳びつき、ラルフの足元で丸くなる。


 「ラルフ先生! 今日は遊びに来たの?」


 「ううん、ちょっと道案内中なんだ。また今度ね」


 「はーいっ!」


 ……ラルフ先生。

 森の住人たちは、みんな親しげに彼のことをそう呼んでいた。


 「……どうして“先生”って?」


 「さあ? 最初に誰かがそう呼び始めたら、自然と定着しちゃって。僕、何も教えてないんだけどなあ」


 ラルフは、どこか照れたように笑った。

 だがその姿には、自然と周囲を惹きつける穏やかで、強い中心のようなものがあった。


 「ちょっと休もうか。君、無理してるでしょ?」


 歩き続けていた俺に、ラルフがそう声をかけた。

 確かに足取りは重くなっていた。でも、止まるわけには――


 「姫様を攫われたんです。急がないと……!」


 「大丈夫。誘拐っていうのは“来い”って言ってるのと同じ。

 急かされてるようで、逆に“待ってる”って意味でもあるよ。わざわざ呼び出すくらいだから、すぐには手を出さないさ」


 論理的で、落ち着いた言葉だった。

 俺は迷いながらも、焚き火のそばに腰を下ろす。


 やがて、ラルフが作ってくれた料理――木の実と野草を用いたスープが手渡された。


 「……すごく、美味しいですね」


 「うん、よかった。僕の味覚が変じゃないか、ちょっと不安だったんだ」


 ラルフは素直に微笑んだ。

 それは、どこか子どもっぽくすらある、屈託のない笑顔だった。


 「……こういうの、街じゃ食べられませんね」


 ふと俺がそう呟くと、ラルフの表情が止まった。


 「まち……?」


 「え?」


 「うん、今、“まち”って言ったよね。……それって何?」


 俺は言葉を失った。


 ラルフは、真剣に首をかしげている。

 冗談ではない。彼の瞳はまるで本当に――その単語を知らないかのようだった。


 「君、街を知らないのか……?」


 「……うん。たぶん。

 この森のことなら詳しいんだけど、それ以外って……なんか、よく思い出せないんだよね」


 彼は何でもないことのようにそう言った。

 だが俺の中で、ひとつの疑問が静かに形を取り始めていた。


 ――もしかして、この人間……本当に、人間なんだろうか?


 (……今のは、ちょっと失礼だったかもしれない)


 焚き火の光の中でスープを啜りながら、俺はそっと視線を伏せた。

 街を知らない。森の外に出た記憶もない。

 ――それが本当だったとして、だからといって彼を疑うのは違う。


 (人間かどうかは関係ない。少なくとも今の俺は、彼に助けられている)


 ふと目を上げると、ラルフが小さなスライムを膝に乗せて撫でていた。

 枝の上には妖精たちが遊び、小動物が彼の足元にまとわりついている。


 彼らは誰ひとりとして、警戒などしていなかった。

 まるで“そこにいるのが当然”だというように、当たり前の顔で彼を囲んでいた。


 ……信じられているのだ。彼は、森全体に。


 * * *


 休憩を終え、ふたりは森を進んだ。


 館の位置は分からないはずだった。けれど――


 「見える範囲の魔力痕跡をずっと追ってたんだ。

 気配が移動してるから、座標計算して近づいてるはずだよ」


 ラルフは枝を払いながら、さらりと言った。


 「それ……かなり、難しい技術じゃ?」


 「うん、たぶん。ボク以外にできてる人、まだいないから」


 悪びれもせずに、事実だけを述べた。


 (……ほんとに、すごい人なんだな)


 驚いているうちに、森の開けた場所に出た。

 そこに、それはあった。


 黒と紅を基調とした荘厳な建物――まさしく、魔族の館。

 異様な存在感を放ちながら、そこに静かに鎮座していた。


 「……あれ、一週間前にはなかった建物だよ。森の地形が変わってたから、変だなって思ってたんだ」


 「……え、じゃあ……一週間で建てたのか……?」


 ぽつりと漏らした俺の言葉に、ラルフが一瞬吹き出しかけた。


 「……いや、それはないと思うけど……ふふっ、面白い発想だね」


 彼は小さく笑った。

 その笑いには、あのスライムや妖精たちと同じ、穏やかで優しい空気があった。



 森を抜けた先、異様な静寂をたたえた館が姿を現した。

 地を這うような瘴気と、周囲から浮かび上がるような輪郭。

 それは、自然の中にあって明らかに異質な存在だった。


 俺が警戒を強める傍らで、ラルフは一歩前へ出ると、静かに魔導具を手に取った。


 「扉を開ける術式は既に展開済み。行くよ」


 言葉と同時に、地をなぞる紅の光が駆け抜ける。


 次の瞬間、館の入口が重い音を立てて破砕した。

 爆ぜるような破壊音とともに、石と魔力の残滓が宙に舞う。


 破壊された開口部の向こうから、無数の気配が現れる。

 鋭い咆哮とともに現れたのは、牙を剥くゴブリンの群れだった。


 俺はすぐさま剣を構え、前へ出る。

 呼吸を整え、一体目を斬る。続けて、二体目。

 右腕の振りと足の運び、脇を狙う短剣の間合い……すべてを見切って斬り伏せていく。


 背後では、ラルフの魔術が正確に援護の炎を放ち、敵の動線を封じていた。


 ほどなくして、群れは沈黙した。


 足音を殺して進む俺たちは、広間を抜け、奥の間へと至る。


 そこには、黒の法衣に身を包んだ女が立っていた。


 「随分と派手に入ってきてくれたものね」


 その声には、怒気が滲んでいた。

 イザベラ――闇の司祭を名乗った魔族の幹部。

 その瞳は冷えた憤りを湛え、口元に刻まれた笑みだけが凍りついていた。


 「私が一週間かけて構築した館を、たった数分で壊してくれるなんて。

 勇者様っていうのは、どうやら礼儀というものを知らないらしいわね」


 イザベラが袖を払うと、背後の水晶柱が淡く輝いた。


 そこにあったのは――リアノ姫の姿だった。


 光を閉ざすような等身大のクリスタル。

 中に封じられた姫君は、目を閉じたまま、静かに両手を胸に重ねている。

 その姿は、聖像のように神々しく、同時にひどく儚かった。


 「彼女は王家の宝。生贄にするには、まさに相応しい器。

 だから私は、丁寧に、確実に……準備してきたのよ。

 それを壊されるのは、流石に我慢ならないわ」


 イザベラの気配が変わった。

 魔力の奔流が広間に満ち、空気がぴりつく。


 俺は、足を踏み出した。

 剣の柄を握る手に、迷いはない。


 守るべきものがある。取り戻すべきものがある。

 そのために、ここまで来たのだから。


 光の剣が、静かに淡く輝き始めた。


 イザベラが両手を掲げると、空気が重く沈んだ。

 闇の魔力が地を這い、天井を覆うほどの黒き波となって広がっていく。


 「……あらわになれ、“本性”」


 低く呟かれたその言葉とともに、彼女の姿が闇に呑まれる。


 次の瞬間、部屋の中央を埋め尽くすような巨大な黒蛇が現れた。

 漆黒の鱗が鈍く光を反射し、何層もの魔法障壁が鎧のようにその身を包む。


 その目が、炎のように赤く輝いた。


 「これが、私の真の姿よ。力の差、見せてあげるわ」


 牙がむき出しになり、咆哮とともに魔力が迸る。

 ラルフが即座に指を走らせ、炎の呪文を放った。

 だが――


 「……無効?」


 焔は蛇の体表に吸い込まれ、熱を残さず霧散した。

 さらに放たれた氷と雷も、まったく効果を示さなかった。


 「属性干渉、完全遮断……魔法、通じないタイプか」


 ラルフは即座に解析を終え、視線をこちらへ向ける。


 「切り替える。君の動きに合わせて、身体強化と感覚補正をかける」


 「助かります」


 俺は頷き、地を蹴る。

 蛇の尾の軌道を読み、ギリギリで滑り込む。

 身体が軽い。視界も鮮明だ――補助魔法の精度は、尋常ではない。


 光の剣を構え、鱗の隙間を狙って踏み込む。


 だが――


 「煩わしい……ッ!」


 蛇の尾が、怒りのように大地を打った。


 凄まじい風圧が吹き荒れ、広間の床が砕ける。

 ラルフは咄嗟に魔力の膜を張ったが、それでも体ごと弾き飛ばされた。


 石壁に叩きつけられた彼は、声も上げずに崩れ落ちる。


 「ラルフ!」


 俺が呼ぶのと同時に、イザベラの声が響く。


 「滑稽なものね。あんな“病魔”を従えておいて……。

 知らずに連れてきたのかしら?」


 その言葉に、俺は反射的に剣を握り直す。


 病魔――それは魔族の一種。

 人の身に病を宿し、力を弱らせる異能の魔。


 視線を壁際へ送る。

 血を流しながらも、ラルフはゆっくりと起き上がった。

 その表情には怒りも羞恥もなく、ただ淡々とした静けさだけがあった。


 「……そうだよ。

 ボクは病魔の系譜に連なる存在。

 でも、それが何か?」


 淡く微笑みながら、ラルフは再び術式を展開する。


 「君を守ることに変わりはない。

 そのために、ここにいるんだから」


 「ふんっ……偏屈な魔族だね」

 黒蛇の女――イザベラが、冷えた声で嗤う。


 「人間でも魔族でも、私の邪魔をするなら敵。それだけのことよ。死になっ――!


 次の瞬間、尾が大地を裂く勢いで振り下ろされる。


 その軌道に、ラルフの姿があった。


 ……間に合わない。そう思った瞬間、俺の身体は既に動いていた。


 「ッ――!」


 咄嗟に身を投げ出し、ラルフの前へ立つ。

 その背を庇い、両手で光の剣を構えた。


 刹那、尾と剣がぶつかる。


 バァン――!!


 激しい音が広間を満たし、火花が四散する。

 剣の輝きと闇の衝撃が拮抗し、空間が歪む。


 ――なぜ、俺はこの行動を選んだのか。


 思考の奥で、自分に問いかける。


 ラルフは魔族だ。しかも、“病魔”と呼ばれる、かつて災厄とされた種。

 それを庇うことは、理屈としては破綻している。


 だが、それでも。


 (助けたいと思った。それだけだった)


 魔族だから、異質だから、過去がどうだったから――

 そんなものは、この瞬間には関係ない。


 目の前の仲間が傷つこうとしている。

 それを、止めたいと願った。ただ、それだけだった。


 (理由なんて、いらない)


 全身に走る衝撃を、剣で受け止めながら、俺は踏みとどまる。


 光の剣が強く輝いた。


 それはまるで、俺の中にある曖昧で、だが確かな意志に呼応しているかのように。


 「……っ!」


 尾が打ち下ろされるその瞬間、剣が輝いた。


 光の剣――その刃が、まばゆい閃光を帯びる。


 それは、俺の内に宿る感情の奔流に呼応するかのようだった。


 (守りたい)


 理屈も、損得もない。

 ただ、そこに在る存在を、大切に思った。


 ラルフのために、とっさに踏み込んだその一歩。

 その感情の純粋さが、剣を覚醒させた。


 振り下ろされた黒蛇の尾は、光の衝撃に弾かれ、広間の床を削って砕け散る。


 「貴様ァア……ッ!」


 イザベラの叫びが、歪んだ空気の中で響く。

 その瞳が、ついに怒気の奥に焦りを見せた。


 「下等な人間が……魔族に、触れるなぁッ!!」


 巨躯をたわめ、咆哮とともに口を大きく開く。

 全身をしならせて、俺を一気に呑み込もうと突進してくる。


 殺意と魔力が、槍のように一直線に迫った。


 だが――俺の心は静かだった。


 (心を……揃えよ)


 あのとき、カルテシアが言った言葉が蘇る。


 光の剣と、自分の意志を一致させる。

 揺らぎなく、迷いなく。

 ただひとつの願いに、すべてを込める。


 (――姫様を、絶対に守る)


 踏み出した。

 振るった。

 込めたのは、魂の一撃。


 光が閃き、空間が切り裂かれる。


 ――ザン。


 剣の軌道に、白い亀裂が走った。

 それは黒蛇の頭部から尻尾に至るまで、一直線に貫いていた。


 イザベラの動きが止まる。


 「まさか……この、私が……ッ」


 ひび割れた魔鱗が崩れ落ち、

 闇の魔力が音もなく霧散していく。


 その巨躯は、光に包まれたかと思えば、断末魔とともに砕け――消えた。


 * * *


 次の瞬間、部屋に満ちていた緊張が解けた。


 閉じ込められていた水晶柱が、静かに粒子となって舞い上がる。

 その中心に、姫様の身体が浮かんでいた。


 「姫様!」


 俺は走った。


 崩れかけた石柱を越え、瓦礫を蹴り、姫様の落下地点へと先回りする。


 重力に引かれて、彼女の身体が落ちてくる。


 両腕を広げて受け止めると、温かな重みと、かすかな吐息が胸元に触れた。


 目を閉じたままのその姿には、変わらぬ気品と、静かな安らぎがあった。


 (間に合った――)


 心の奥底から、ひとつの想いが満ちてくる。


 誰かを守りたいという想いが、剣を導き、戦いを終わらせたのだ。


 崩れかけた館を背に、俺たちは森の小径を歩いた。

 落ち着いた風が吹き抜ける頃、姫様がゆっくりと瞼を開けた。


 「……ここは……」


 意識を取り戻した姫様の目に、まず映ったのは俺の姿だった。

 その青き瞳に、微かな驚きと安堵の色が宿る。


 「勇者様……ご無事で、よかったですわ」


 姫様は、ゆっくりと身体を起こす。

 そして視線を横へ移すと、そこには木陰にもたれて立つラルフの姿があった。


 「……あなたが、助けてくださったのですね」


 ラルフは少しだけ首を傾げて、柔らかな笑みを返す。


 「まぁ、少しだけ。主に戦ってたのは彼だし」


 姫様は歩み寄り、衣の裾を少しだけ摘まんで頭を下げた。


 「エルデンティア王国第一王女として、深く感謝いたします。

 それと……もしよろしければ、王都までご同行いただけませんか?

 貴方の知見と力を、我が国は必要とするでしょう」


 その申し出に、ラルフはほんのわずか困ったような表情を浮かべた。


 「うーん……嬉しいけど、ボクにはちょっと都会は騒がしすぎるかな。

 森の方が性に合ってる。動物たちも待ってるしね」


 その答えに、姫様は意外そうに目を見開き――しかしすぐに静かに微笑んだ。


 「……そうですか。ならば、強くは申しません。

 けれど、どこにいても――わたくしたちは、あなたの恩を忘れません」


 その言葉に、ラルフは無言で頷いた。


 * * *


 馬車の車輪が、静かに土を踏んで進んでいく。


 森を抜けた帰路、再び姫様と並んで座る。


 窓の外を見つめながら、姫様がぽつりと呟いた。


 「……あの方は、なぜ勇者様を助けてくれたのでしょうね」


 唐突な問いかけだったが、俺は少し考えて、そして率直に答えた。


 「理由は……ないんだと思います」


 「ない……?」


 「助けるべきだと思ったから、助けた。それだけなんじゃないかと。

 ……俺も、そうだったので」


 そう言ったあと、ふと思い出す。


 「……それに、料理も美味しかったですし」


 それは不意に漏れた感想だったが、姫様はふわりと笑った。


 「――でしたら、わたくしもいただいてから別れを告げればよかったですわね。

 少し……惜しいことをいたしました」


 その横顔には、いつもの気高さの奥に、どこか素朴な愛嬌が滲んでいた。


 俺はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、馬車の揺れと、揺れない心の奥で、確かな余韻を感じていた。


 城門が見えた瞬間、馬車の中に微かな安堵が広がった。


 兵士たちが道を開き、馬車は荘厳な石造のアーチをくぐる。

 見慣れた広場の光景に、俺は小さく息を吐いた。


 降り立つと、風が衣を撫で、淡い陽光が肩に落ちる。


 玉座の間へ通されるまでのあいだ、控えの間で短い待機を告げられた。


 静寂の中、姫様がこちらに向き直る。


 「……勇者様」


 声は静かで、澄んでいた。

 だが、その奥にある熱量は、確かに届いた。


 「今回の件、言葉では語り尽くせぬほど感謝しております。

 わたくしの命を救ってくださったこと、

 そして――あの場で迷わず手を伸ばしてくださったこと」


 姫様は一歩、俺に歩み寄る。


 「わたくしは今、心から勇者様を信頼しております。

 この旅の中で培われたものに、疑いはございません」


 目の奥に浮かぶのは、ただの礼儀ではない。

 王族としての格式を超えた、個人としての想い――そう感じた。


 俺は何も言わなかった。ただ、その視線を真っ直ぐに受け止めた。


 やがて、扉の向こうから足音が近づいてくる。


 近衛たちが直立し、扉が両開きに開かれた。


 「陛下の御到着でございます」


 玉座の間へと続く大扉が開かれ、国王の姿が現れた。


 堂々たる威厳を湛えたその歩みを見つめながら、

 姫様がわずかに俺の肩に手を添え、小さく囁いた。


 「さあ、胸を張ってくださいませ。――あなたは、わたくしの誇りですわ」


 その言葉に、俺は静かに頷く。


 そして、振り返る姫様の視線に導かれるように、

 わずかに口元を綻ばせ――王国の主を出迎えた。


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