第3話:封印の地、覚醒の剣
王都を出てから、すでに半月が経過していた。
道中は穏やかだったが、歩を進めるごとに空気の質が変わっていくのを感じる。陽光はやや霞み、風の音がどこか湿っている。
目的地は、王都の外縁部にある封印遺跡――
いま俺たちは、その入口に立っていた。
「……ここが、かつて封じられた場所ですのね」
リアノ姫が、静かに視線を上げる。
崩れかけた柱と、つたの絡まる石壁。その先に、ぽっかりと口を開けた洞窟のような入り口がある。
内部はほとんど光を通さない。俺は腰に下げていたカンテラに火を灯した。
ふっと揺れる橙色の明かりが、遺跡の内壁をほんのわずかだけ照らす。
「足元にお気をつけください。段差がございますわ」
そう言って、リアノ姫がひと足先に中へと歩を進める。
その後ろ姿を追いながら、俺は思う。この人の歩く先には、常に責任と覚悟があるのだと。
カンテラの灯りが、彼女の横顔を柔らかく照らす。
静かな瞳に宿る意志は揺るがず、その輪郭はまるで聖像のようだった。
神聖、という言葉では足りない。
俺はただ、心の底から思った。この人を護りたい、と。誰に命じられたでもなく、自然にそう感じていた。
遺跡の奥は意外なほど広かった。
狭い通路を抜けた先には、まるでかつて神殿であったかのような広間が広がっていた。壁面には摩耗した文様が並び、中央には一際目を引く巨大な石碑が立っている。
「……これは」
リアノ姫が小さく息を呑んだ。
石碑の表面には、古代文字と思しき刻印がびっしりと並んでいる。風化して判別できない箇所もあるが、その存在感は異様だった。
俺は、何かに導かれるように一歩踏み出し、石碑に手を伸ばす。
その瞬間――
「……ッ!」
身体の内側を、冷たく濁った何かが這い回る感覚。視界が暗転し、膝が崩れた。
頭の奥に響くような耳鳴り。息がうまく吸えない。全身が、石のように重い。
「勇者様っ!?」
リアノ姫の声が響いた。
いつもならどんなときも冷静な彼女が、明らかに動揺している。
――いや、これは……瘴気だ。
意識が混濁する中で、直感だけが確かに告げていた。
「おやおや、ずいぶんと愚かな勇者様だこと」
その声は、笑っていた。
嘲るでもなく、楽しげでもなく、ただ達観した者だけが持つ残酷さで、こちらを見下ろしていた。
俺がかろうじて顔を上げると、そこには一人の老婆がいた。
黒い外套を羽織り、腰は曲がっている。だがその目は鋭く、何かを見透かすようだった。
「この遺跡が開かれる時、王国は滅びる。そう、わたくしはそう予言いたしました」
老婆――かつて王都で“不吉な言葉”を語り、追放されたと噂される占い師。
その姿が、目の前にあった。
「……もしやアナタは――」
声を絞り出したのは、リアノ姫だった。
その瞳はわずかに揺れている。怒りではない。恐れでもない。ただ、信じたくなかったものを目の前にした人間の、それだった。
老婆の外套がふっと揺れる。次の瞬間、それはまるで幻が晴れるように姿を変える。
しわだらけだった肌が滑らかになり、曲がった背が真っ直ぐに伸びる。
長い銀髪と紅の瞳を持つ女――
「ようこそ、王女リアノ=ルヴィア。予言の勇者様も、ね」
女はにこやかに笑った。
その笑顔は、どこまでも丁寧で、どこまでも悪意に満ちていた。
「名乗りましょう。わたくし、魔王軍幹部にして“闇の司祭”――イザベラと申します」
「ッ……魔王軍……」
「はい、その通りですわ。ここにご足労いただいたのは、すべて計画通り。
遺跡の瘴気は、あなた様を弱らせるため。
そしてこの封印――王家の血を捧げることで、解かれるように設計されておりますの」
俺は、カンテラの灯火が揺らぐのを見ていた。
イザベラの背後で、石碑に刻まれた文様が淡く光っている。
「要するに――姫様をここに連れてくる必要があったのです。
あなたは王家の“宝”ですわ、リアノ姫。
生贄として、これ以上に相応しい素材はないでしょう?」
「…………!」
リアノ姫が息を呑んだ。だが、声は返さない。
「ええ、ええ、もちろん。あなたを生贄にするのは儀式のため……だけではありませんわ。
単純に、王国を見下ろすわたくしの気分が“爽快になる”から――それだけでも十分な理由ですわよね?」
イザベラは、軽く口元に手を添えて、上品に笑った。
それは優雅で、美しく、底知れぬ悪意の象徴だった。
「……まだ、終わってません」
地を這うような瘴気の中で、俺はゆっくりと膝に力を込めた。
喉の奥が焼けつくような痛みに襲われながら、それでも――立ち上がる。
リアノ姫が、目を見開いていた。
「あなた、今の瘴気を……?」
「鍛えてますから」
苦笑まじりに答えながら、俺は腰の剣に手を伸ばした。
光の剣――その刀身が、手のひらに触れた瞬間に淡く輝き始める。
「ふうん。カルテシアと打ち合っただけのことはあるわね」
イザベラが、細く笑う。だがその目には、明らかな警戒が浮かんでいた。
「……想定してたよりは、強い」
高位の闇術が織り成す結界が、イザベラの周囲に張り巡らされる。
黒紫の光が揺らめき、触れるだけで焼かれそうな空間だ。
俺は、一歩踏み込み、光の剣を振り抜いた。
――光が、闇を裂いた。
結界が音を立てて崩れ、瘴気が一気に引く。
イザベラは、苛立たしげに舌打ちした。
「……ちっ。やれやれ、討ち取られるのは不本意ね。
でも、王家の宝はいただいていくわ」
次の瞬間、彼女の身体が――無数の黒い蝙蝠へと砕けた。
風のように吹き荒れる影の群れ。その中心に、姫様がいた。
「――リアノ姫!」
俺が叫んだ時には、蝙蝠たちが彼女を取り囲み、空気を巻き上げて遺跡の天井へと消えていった。
「倒したければ――我が館まで、おいでなさいな」
残響のように、その声だけが遺跡に残された。
「っ……くそッ、リアノ姫を返せっ――!」
蝙蝠の群れが空へと消えていく。俺はその残像を追って駆け出した。
だが、崩れかけた遺跡の足場が悲鳴を上げる。
バキィ――ッ!
視界が傾いた。
床が崩れ、身体が重力に引きずられる。
「――――ッ!」
声も出ないまま、真っ暗な穴に落ちていった。
* * *
……薄明かりが、揺れている。
焚き火のような光が、目の前でふわりと瞬いた。
「……目が覚めたんだね。大丈夫、頭とか打ってない?」
優しくも飄々とした声だった。
身体を起こすと、そこには見知らぬ青年がいた。
肩まで届く黒髪、整った顔立ち。
魔導士風のローブを身にまといながら、どこか抜けた雰囲気を纏っている。
「……ああ、大丈夫です。ありがとう」
俺がそう答えると、彼は微笑んだ。
「よかった。突然上から落ちてくるんだもの、びっくりしたよ。
僕はラルフ。この辺の地形にはちょっと詳しくてさ、旅の途中なんだ」
俺はすぐに状況を整理し、簡潔に事情を説明した。
――リアノ姫が攫われたこと。
敵は魔王軍の幹部であり、魔族の館に連れ去られた可能性が高いこと。
ラルフは一瞬だけ目を細めて、しかしすぐに明るい調子で言った。
「それは大変だね。じゃあ途中まで案内するよ。
この辺りの遺構や魔力の流れは、少しなら分かるから」
「……ありがとう。助かります」
「ううん、気にしないで。困った人がいたら助けるのが基本だから。
……ただ、館の場所までは知らないんだよね。残念だけど」
肩をすくめる彼の横顔は、どこか人懐こく、それでいて何かを隠しているようにも見えた。
森の中の細道を歩いていたときだった。
とぽ、とぽ、と音がして、俺の足元に青白いスライムが跳ねてきた。
「ッ……!」
俺は思わず剣の柄に手をかける。
「大丈夫。こいつは敵じゃないよ」
ラルフが軽く手を挙げると、スライムは嬉しそうにぷるぷると震えながら、彼の肩によじ登っていった。
「ね、スラ坊?」
「……ぷるっ♪」
「……友達、なんですか?」
「うん。この辺の魔物とか小動物とか、みんな顔見知りなんだ。僕、あちこちで魔力の調整してたからね」
その言葉通り、少し進むと、今度は木の枝から妖精がひらりと降りてきて、ラルフの肩にとまった。
続けざまに、リスのような小動物がぴょんと跳びつき、ラルフの足元で丸くなる。
「ラルフ先生! 今日は遊びに来たの?」
「ううん、ちょっと道案内中なんだ。また今度ね」
「はーいっ!」
……ラルフ先生。
森の住人たちは、みんな親しげに彼のことをそう呼んでいた。
「……どうして“先生”って?」
「さあ? 最初に誰かがそう呼び始めたら、自然と定着しちゃって。僕、何も教えてないんだけどなあ」
ラルフは、どこか照れたように笑った。
だがその姿には、自然と周囲を惹きつける穏やかで、強い中心のようなものがあった。
「ちょっと休もうか。君、無理してるでしょ?」
歩き続けていた俺に、ラルフがそう声をかけた。
確かに足取りは重くなっていた。でも、止まるわけには――
「姫様を攫われたんです。急がないと……!」
「大丈夫。誘拐っていうのは“来い”って言ってるのと同じ。
急かされてるようで、逆に“待ってる”って意味でもあるよ。わざわざ呼び出すくらいだから、すぐには手を出さないさ」
論理的で、落ち着いた言葉だった。
俺は迷いながらも、焚き火のそばに腰を下ろす。
やがて、ラルフが作ってくれた料理――木の実と野草を用いたスープが手渡された。
「……すごく、美味しいですね」
「うん、よかった。僕の味覚が変じゃないか、ちょっと不安だったんだ」
ラルフは素直に微笑んだ。
それは、どこか子どもっぽくすらある、屈託のない笑顔だった。
「……こういうの、街じゃ食べられませんね」
ふと俺がそう呟くと、ラルフの表情が止まった。
「まち……?」
「え?」
「うん、今、“まち”って言ったよね。……それって何?」
俺は言葉を失った。
ラルフは、真剣に首をかしげている。
冗談ではない。彼の瞳はまるで本当に――その単語を知らないかのようだった。
「君、街を知らないのか……?」
「……うん。たぶん。
この森のことなら詳しいんだけど、それ以外って……なんか、よく思い出せないんだよね」
彼は何でもないことのようにそう言った。
だが俺の中で、ひとつの疑問が静かに形を取り始めていた。
――もしかして、この人間……本当に、人間なんだろうか?
(……今のは、ちょっと失礼だったかもしれない)
焚き火の光の中でスープを啜りながら、俺はそっと視線を伏せた。
街を知らない。森の外に出た記憶もない。
――それが本当だったとして、だからといって彼を疑うのは違う。
(人間かどうかは関係ない。少なくとも今の俺は、彼に助けられている)
ふと目を上げると、ラルフが小さなスライムを膝に乗せて撫でていた。
枝の上には妖精たちが遊び、小動物が彼の足元にまとわりついている。
彼らは誰ひとりとして、警戒などしていなかった。
まるで“そこにいるのが当然”だというように、当たり前の顔で彼を囲んでいた。
……信じられているのだ。彼は、森全体に。
* * *
休憩を終え、ふたりは森を進んだ。
館の位置は分からないはずだった。けれど――
「見える範囲の魔力痕跡をずっと追ってたんだ。
気配が移動してるから、座標計算して近づいてるはずだよ」
ラルフは枝を払いながら、さらりと言った。
「それ……かなり、難しい技術じゃ?」
「うん、たぶん。ボク以外にできてる人、まだいないから」
悪びれもせずに、事実だけを述べた。
(……ほんとに、すごい人なんだな)
驚いているうちに、森の開けた場所に出た。
そこに、それはあった。
黒と紅を基調とした荘厳な建物――まさしく、魔族の館。
異様な存在感を放ちながら、そこに静かに鎮座していた。
「……あれ、一週間前にはなかった建物だよ。森の地形が変わってたから、変だなって思ってたんだ」
「……え、じゃあ……一週間で建てたのか……?」
ぽつりと漏らした俺の言葉に、ラルフが一瞬吹き出しかけた。
「……いや、それはないと思うけど……ふふっ、面白い発想だね」
彼は小さく笑った。
その笑いには、あのスライムや妖精たちと同じ、穏やかで優しい空気があった。
森を抜けた先、異様な静寂をたたえた館が姿を現した。
地を這うような瘴気と、周囲から浮かび上がるような輪郭。
それは、自然の中にあって明らかに異質な存在だった。
俺が警戒を強める傍らで、ラルフは一歩前へ出ると、静かに魔導具を手に取った。
「扉を開ける術式は既に展開済み。行くよ」
言葉と同時に、地をなぞる紅の光が駆け抜ける。
次の瞬間、館の入口が重い音を立てて破砕した。
爆ぜるような破壊音とともに、石と魔力の残滓が宙に舞う。
破壊された開口部の向こうから、無数の気配が現れる。
鋭い咆哮とともに現れたのは、牙を剥くゴブリンの群れだった。
俺はすぐさま剣を構え、前へ出る。
呼吸を整え、一体目を斬る。続けて、二体目。
右腕の振りと足の運び、脇を狙う短剣の間合い……すべてを見切って斬り伏せていく。
背後では、ラルフの魔術が正確に援護の炎を放ち、敵の動線を封じていた。
ほどなくして、群れは沈黙した。
足音を殺して進む俺たちは、広間を抜け、奥の間へと至る。
そこには、黒の法衣に身を包んだ女が立っていた。
「随分と派手に入ってきてくれたものね」
その声には、怒気が滲んでいた。
イザベラ――闇の司祭を名乗った魔族の幹部。
その瞳は冷えた憤りを湛え、口元に刻まれた笑みだけが凍りついていた。
「私が一週間かけて構築した館を、たった数分で壊してくれるなんて。
勇者様っていうのは、どうやら礼儀というものを知らないらしいわね」
イザベラが袖を払うと、背後の水晶柱が淡く輝いた。
そこにあったのは――リアノ姫の姿だった。
光を閉ざすような等身大のクリスタル。
中に封じられた姫君は、目を閉じたまま、静かに両手を胸に重ねている。
その姿は、聖像のように神々しく、同時にひどく儚かった。
「彼女は王家の宝。生贄にするには、まさに相応しい器。
だから私は、丁寧に、確実に……準備してきたのよ。
それを壊されるのは、流石に我慢ならないわ」
イザベラの気配が変わった。
魔力の奔流が広間に満ち、空気がぴりつく。
俺は、足を踏み出した。
剣の柄を握る手に、迷いはない。
守るべきものがある。取り戻すべきものがある。
そのために、ここまで来たのだから。
光の剣が、静かに淡く輝き始めた。
イザベラが両手を掲げると、空気が重く沈んだ。
闇の魔力が地を這い、天井を覆うほどの黒き波となって広がっていく。
「……あらわになれ、“本性”」
低く呟かれたその言葉とともに、彼女の姿が闇に呑まれる。
次の瞬間、部屋の中央を埋め尽くすような巨大な黒蛇が現れた。
漆黒の鱗が鈍く光を反射し、何層もの魔法障壁が鎧のようにその身を包む。
その目が、炎のように赤く輝いた。
「これが、私の真の姿よ。力の差、見せてあげるわ」
牙がむき出しになり、咆哮とともに魔力が迸る。
ラルフが即座に指を走らせ、炎の呪文を放った。
だが――
「……無効?」
焔は蛇の体表に吸い込まれ、熱を残さず霧散した。
さらに放たれた氷と雷も、まったく効果を示さなかった。
「属性干渉、完全遮断……魔法、通じないタイプか」
ラルフは即座に解析を終え、視線をこちらへ向ける。
「切り替える。君の動きに合わせて、身体強化と感覚補正をかける」
「助かります」
俺は頷き、地を蹴る。
蛇の尾の軌道を読み、ギリギリで滑り込む。
身体が軽い。視界も鮮明だ――補助魔法の精度は、尋常ではない。
光の剣を構え、鱗の隙間を狙って踏み込む。
だが――
「煩わしい……ッ!」
蛇の尾が、怒りのように大地を打った。
凄まじい風圧が吹き荒れ、広間の床が砕ける。
ラルフは咄嗟に魔力の膜を張ったが、それでも体ごと弾き飛ばされた。
石壁に叩きつけられた彼は、声も上げずに崩れ落ちる。
「ラルフ!」
俺が呼ぶのと同時に、イザベラの声が響く。
「滑稽なものね。あんな“病魔”を従えておいて……。
知らずに連れてきたのかしら?」
その言葉に、俺は反射的に剣を握り直す。
病魔――それは魔族の一種。
人の身に病を宿し、力を弱らせる異能の魔。
視線を壁際へ送る。
血を流しながらも、ラルフはゆっくりと起き上がった。
その表情には怒りも羞恥もなく、ただ淡々とした静けさだけがあった。
「……そうだよ。
ボクは病魔の系譜に連なる存在。
でも、それが何か?」
淡く微笑みながら、ラルフは再び術式を展開する。
「君を守ることに変わりはない。
そのために、ここにいるんだから」
「ふんっ……偏屈な魔族だね」
黒蛇の女――イザベラが、冷えた声で嗤う。
「人間でも魔族でも、私の邪魔をするなら敵。それだけのことよ。死になっ――!
次の瞬間、尾が大地を裂く勢いで振り下ろされる。
その軌道に、ラルフの姿があった。
……間に合わない。そう思った瞬間、俺の身体は既に動いていた。
「ッ――!」
咄嗟に身を投げ出し、ラルフの前へ立つ。
その背を庇い、両手で光の剣を構えた。
刹那、尾と剣がぶつかる。
バァン――!!
激しい音が広間を満たし、火花が四散する。
剣の輝きと闇の衝撃が拮抗し、空間が歪む。
――なぜ、俺はこの行動を選んだのか。
思考の奥で、自分に問いかける。
ラルフは魔族だ。しかも、“病魔”と呼ばれる、かつて災厄とされた種。
それを庇うことは、理屈としては破綻している。
だが、それでも。
(助けたいと思った。それだけだった)
魔族だから、異質だから、過去がどうだったから――
そんなものは、この瞬間には関係ない。
目の前の仲間が傷つこうとしている。
それを、止めたいと願った。ただ、それだけだった。
(理由なんて、いらない)
全身に走る衝撃を、剣で受け止めながら、俺は踏みとどまる。
光の剣が強く輝いた。
それはまるで、俺の中にある曖昧で、だが確かな意志に呼応しているかのように。
「……っ!」
尾が打ち下ろされるその瞬間、剣が輝いた。
光の剣――その刃が、まばゆい閃光を帯びる。
それは、俺の内に宿る感情の奔流に呼応するかのようだった。
(守りたい)
理屈も、損得もない。
ただ、そこに在る存在を、大切に思った。
ラルフのために、とっさに踏み込んだその一歩。
その感情の純粋さが、剣を覚醒させた。
振り下ろされた黒蛇の尾は、光の衝撃に弾かれ、広間の床を削って砕け散る。
「貴様ァア……ッ!」
イザベラの叫びが、歪んだ空気の中で響く。
その瞳が、ついに怒気の奥に焦りを見せた。
「下等な人間が……魔族に、触れるなぁッ!!」
巨躯をたわめ、咆哮とともに口を大きく開く。
全身をしならせて、俺を一気に呑み込もうと突進してくる。
殺意と魔力が、槍のように一直線に迫った。
だが――俺の心は静かだった。
(心を……揃えよ)
あのとき、カルテシアが言った言葉が蘇る。
光の剣と、自分の意志を一致させる。
揺らぎなく、迷いなく。
ただひとつの願いに、すべてを込める。
(――姫様を、絶対に守る)
踏み出した。
振るった。
込めたのは、魂の一撃。
光が閃き、空間が切り裂かれる。
――ザン。
剣の軌道に、白い亀裂が走った。
それは黒蛇の頭部から尻尾に至るまで、一直線に貫いていた。
イザベラの動きが止まる。
「まさか……この、私が……ッ」
ひび割れた魔鱗が崩れ落ち、
闇の魔力が音もなく霧散していく。
その巨躯は、光に包まれたかと思えば、断末魔とともに砕け――消えた。
* * *
次の瞬間、部屋に満ちていた緊張が解けた。
閉じ込められていた水晶柱が、静かに粒子となって舞い上がる。
その中心に、姫様の身体が浮かんでいた。
「姫様!」
俺は走った。
崩れかけた石柱を越え、瓦礫を蹴り、姫様の落下地点へと先回りする。
重力に引かれて、彼女の身体が落ちてくる。
両腕を広げて受け止めると、温かな重みと、かすかな吐息が胸元に触れた。
目を閉じたままのその姿には、変わらぬ気品と、静かな安らぎがあった。
(間に合った――)
心の奥底から、ひとつの想いが満ちてくる。
誰かを守りたいという想いが、剣を導き、戦いを終わらせたのだ。
崩れかけた館を背に、俺たちは森の小径を歩いた。
落ち着いた風が吹き抜ける頃、姫様がゆっくりと瞼を開けた。
「……ここは……」
意識を取り戻した姫様の目に、まず映ったのは俺の姿だった。
その青き瞳に、微かな驚きと安堵の色が宿る。
「勇者様……ご無事で、よかったですわ」
姫様は、ゆっくりと身体を起こす。
そして視線を横へ移すと、そこには木陰にもたれて立つラルフの姿があった。
「……あなたが、助けてくださったのですね」
ラルフは少しだけ首を傾げて、柔らかな笑みを返す。
「まぁ、少しだけ。主に戦ってたのは彼だし」
姫様は歩み寄り、衣の裾を少しだけ摘まんで頭を下げた。
「エルデンティア王国第一王女として、深く感謝いたします。
それと……もしよろしければ、王都までご同行いただけませんか?
貴方の知見と力を、我が国は必要とするでしょう」
その申し出に、ラルフはほんのわずか困ったような表情を浮かべた。
「うーん……嬉しいけど、ボクにはちょっと都会は騒がしすぎるかな。
森の方が性に合ってる。動物たちも待ってるしね」
その答えに、姫様は意外そうに目を見開き――しかしすぐに静かに微笑んだ。
「……そうですか。ならば、強くは申しません。
けれど、どこにいても――わたくしたちは、あなたの恩を忘れません」
その言葉に、ラルフは無言で頷いた。
* * *
馬車の車輪が、静かに土を踏んで進んでいく。
森を抜けた帰路、再び姫様と並んで座る。
窓の外を見つめながら、姫様がぽつりと呟いた。
「……あの方は、なぜ勇者様を助けてくれたのでしょうね」
唐突な問いかけだったが、俺は少し考えて、そして率直に答えた。
「理由は……ないんだと思います」
「ない……?」
「助けるべきだと思ったから、助けた。それだけなんじゃないかと。
……俺も、そうだったので」
そう言ったあと、ふと思い出す。
「……それに、料理も美味しかったですし」
それは不意に漏れた感想だったが、姫様はふわりと笑った。
「――でしたら、わたくしもいただいてから別れを告げればよかったですわね。
少し……惜しいことをいたしました」
その横顔には、いつもの気高さの奥に、どこか素朴な愛嬌が滲んでいた。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、馬車の揺れと、揺れない心の奥で、確かな余韻を感じていた。
城門が見えた瞬間、馬車の中に微かな安堵が広がった。
兵士たちが道を開き、馬車は荘厳な石造のアーチをくぐる。
見慣れた広場の光景に、俺は小さく息を吐いた。
降り立つと、風が衣を撫で、淡い陽光が肩に落ちる。
玉座の間へ通されるまでのあいだ、控えの間で短い待機を告げられた。
静寂の中、姫様がこちらに向き直る。
「……勇者様」
声は静かで、澄んでいた。
だが、その奥にある熱量は、確かに届いた。
「今回の件、言葉では語り尽くせぬほど感謝しております。
わたくしの命を救ってくださったこと、
そして――あの場で迷わず手を伸ばしてくださったこと」
姫様は一歩、俺に歩み寄る。
「わたくしは今、心から勇者様を信頼しております。
この旅の中で培われたものに、疑いはございません」
目の奥に浮かぶのは、ただの礼儀ではない。
王族としての格式を超えた、個人としての想い――そう感じた。
俺は何も言わなかった。ただ、その視線を真っ直ぐに受け止めた。
やがて、扉の向こうから足音が近づいてくる。
近衛たちが直立し、扉が両開きに開かれた。
「陛下の御到着でございます」
玉座の間へと続く大扉が開かれ、国王の姿が現れた。
堂々たる威厳を湛えたその歩みを見つめながら、
姫様がわずかに俺の肩に手を添え、小さく囁いた。
「さあ、胸を張ってくださいませ。――あなたは、わたくしの誇りですわ」
その言葉に、俺は静かに頷く。
そして、振り返る姫様の視線に導かれるように、
わずかに口元を綻ばせ――王国の主を出迎えた。