第1話:魔人グランギデオン 後編
魔王軍幹部・グランギデオンによる襲撃から、一日が経過した。
王都の空は、どこか晴れきらぬ鈍色をたたえている。報告の場に立った俺の胸中にも、それと似た重苦しさがあった。
リアノ姫の行方は、いまだ知れず。
光の剣は、光の彼方に消えた。
勇者として挑んだ戦いでは、敵の圧倒的な力の前に成す術もなく敗れた。
──英雄とは到底呼べぬ、無惨な結末だった。
「……申し訳ありませんでした」
膝をつき、俺は頭を深く垂れる。王の前で隠し事はしなかった。姫が消えたことも、自分の非力さも、すべてありのままを口にした。
報告を受けた王は、しばし沈黙を保っていた。
その顔には、父としての憂いも、君主としての焦燥もあったはずだ。だが──彼は激しく怒ることも、声を荒げることもなかった。
「……よく、戻ったな。生きて帰っただけでも、今は十分だ」
低く、重く、けれど温かみを帯びた言葉だった。
王冠の影に沈む双眸は、悲しみに濡れてなお、賢者の光を失っていなかった。
俺は震える唇で、もう一度頭を下げる。
「必ず……リアノ姫を見つけ出してみせます。この命に代えても」
その誓いに、王は頷きだけで応じた。
だが――謁見の場に集まった重臣たちの中には、冷ややかな視線を向ける者もいた。
「光の剣を失ったとなれば、予言の勇者としては……」
「資格そのものが疑わしくはないか?」
そう口にしたのは、王家に近い立場の重臣だった。俺は反論せず、ただ拳を握り締める。誰よりも、己の未熟を痛感しているのは、自分自身なのだから。
だがそのとき、玉座の王が静かに口を開いた。
「……リアノが、あの子を選んだのだ」
重々しい声。反論の余地を与えぬ威厳が、その場を静寂で包み込んだ。
「ならば、私は信じよう。
娘が信じた男を──エルデンティアの勇者として」
その言葉は、重臣たちの疑念を断ち切る刃となった。
俺はその場で、深く礼を取るしかなかった。
守れなかった悔しさと、再び託された信頼の重さが、背にのしかかる。
だが、それでも。
──リアノ姫は、生きている。
あのまま終わるような人ではない。
ならば俺は、もう一度立ち上がる。何があろうと、彼女を連れ戻すために。
光の剣が手に戻らなくても構わない。
俺の両手は、誓いを貫くためにある。
それが、勇者と呼ばれた意味だと信じている。
謁見の間を辞した俺は、そのまま城の外郭にある騎士団詰所へと足を運んだ。陽は高く昇り、王都の石畳を照らしているというのに、胸の奥にはいまだ雲がかかったままだった。
迎えてくれたのは、重装をまとった騎士団の長、ランツェ隊長だった。無口で威圧感のある男だが、どこか人間味のある眼差しは、初めてここを訪れた日と変わらない。
「……旅に出るつもりです。姫様を、俺が必ず見つけます」
俺がそう言うと、ランツェはわずかに目を細めた。返事はなかった。ただ静かに、部屋の隅に立てかけていた一本の剣を取り出し、俺の前に差し出した。
「これを持って行け」
それは、銀に近い鉄色をした実直な造りの剣だった。装飾も細工もない。ただの、騎士の剣。
「……これって」
思わず手に取った瞬間、掌に伝わってくる感触が、記憶を呼び起こす。
まだ“勇者”の肩書に戸惑っていたあの初日、素振りもままならなかった俺に、ランツェが手渡してくれた剣だった。
『重いです……!』
情けなく呻いた声が、耳の奥に甦る。だが今、その剣は──
羽根のように軽かった。
筋力が増したというより、迷いが消えたのだと気づく。今の俺には、この重さが必要だった。
そして、柄に込められた隊長の想いが、胸にずしりと響く。
「ありがとうございます。……大事にします」
小さく礼を告げると、ランツェはほんのわずかに、口元を上げたように見えた。
彼なりの、無言の激励だったのだろう。
剣を受け取って間もなく、石造りの廊下に複数の足音が響き始めた。
振り向けば、騎士団の面々がぞろぞろと詰所へ押し寄せてくる。緊張感のない笑い声と、俺に向けられた好意的な視線。気づけば、肩の力が少し抜けていた。
「ちょっと寂しくなるなぁ、団長!」
「まだ団長じゃないだろ、それは……!」
口々にからかう声と、それに笑い合う仲間たち。あの日、素振りもできなかった俺を馬鹿にせず、教えてくれた人たち。いつのまにか、俺はこの場所に受け入れられていたのだと思った。
その中にあって、副団長のマリオンはひときわ落ち着いた足取りで近づいてきた。赤茶の髪を揺らしながら、快活な笑みを浮かべる。
「かならず姫様を連れて帰ってくるんだよ。……それが、勇者の仕事でしょ?」
その言葉に、俺は胸が熱くなるのを感じながら、言葉を飲み込んだ。ただ、力強く頷いてみせた。
旅立ちは静かだった。
王都の門を抜け、石畳が土道へと変わっていく。背後に賑わいはなく、ただ風と鳥の声だけが耳に残る。
一人きりで歩くのは、初めてではない。けれど、今日の道のりはどこか特別だった。
小一時間が過ぎ、王都の輪郭が森の影に隠れた頃。
背後に、ふと気配を感じた。
足音ではない。呼吸の音でもない。だが、はっきりと“誰かがいる”とわかった。
振り返ると──そこにいた。
柔らかな光を帯びた水色の髪。静かな湖面のような気配をまとった少女。
その隣には、夜の気配をまとうような黒髪の青年が立っていた。
「セレナ、ラルフ……?」
問いかけるよりも早く、セレナが一歩前に出た。胸の前で手を合わせ、小さく微笑む。
「セレナも一緒に行きます」
続けるように、ラルフがふわりと視線を上げる。相変わらずの静かな声で言った。
「ボクも、ついていくよ」
その声に、思わず苦笑がこぼれる。
勇者の称号も、光の剣も今はない。
だが、優しい仲間がいる。
その重みこそが、何よりも俺を支えてくれる。
──ならば行こう。
リアノ姫を見つけ出すために。
彼女が選んだ“勇者”であることを、証明するために。
──もし、グランギデオンの言葉が正しければ。
リアノ姫は、**「光の神殿」**と呼ばれる場所に囚われているという。
けれど、その神殿がどこにあるのか。
どうすれば辿り着けるのか。
その手がかりは、今の俺たちには何ひとつとしてなかった。
「三つのクリスタルが必要だ」──
あの魔王軍幹部が残した不気味な言葉だけが、唯一の道標。
だが、その“クリスタル”がいったい何を指しているのかさえ、不明のままだ。
だからこそ、俺たちは向かった。
聖女カルテシアがいる、宗教都市。
セレナとラルフは、特に迷いなく同行してくれた。
この旅が姫様を救う道ならば──その意味に、誰よりも重みを感じていたのはきっと俺だけじゃなかった。
リムニエルの大聖堂は、百年を超えて光を祀り続ける場所だという。
石造りの回廊を進み、幾重にも響く祈りの声を抜けた先。
聖域と呼ばれる奥の間で、カルテシアは俺たちを待っていた。
……まるで、すべてを予知していたかのように。
純白の光に満たされた空間で、彼女は静かに椅子に腰掛けていた。
その姿は以前と変わらず、過不足のない気品と威厳をまとっている。
「……来ると思っていました」
静謐な声が、やわらかく空気を裂いた。
カルテシアは、驚くこともなく、迎え入れるでもなく。ただ“そこにいるべき者”として、微動だにせずに俺たちを見つめていた。
「光の神殿に向かうのでしょう。……ならば、知るべきことが二つあります」
その言葉とともに、旅の歯車が再び静かに回り始めた。
カルテシアの声は、祈りの空間に染み込むように響いた。
「一つは──私を連れていく必要があります」
静かで確かな口調だった。
「三つのクリスタルは、ただ手に入れるだけでは意味がありません。それらは《神聖文字》によって封じられており、正しく解除し、力を顕現させるには、私の知識と資格が必要です」
そう言って、カルテシアは立ち上がった。
凛とした佇まいのまま、次の言葉を継ぐ。
「二つ目は──それぞれのクリスタルが、エルデンティア王国の辺境に位置する神殿に安置されていること」
言葉にあわせて、彼女は祭壇の側面から取り出した地図を広げ、三箇所の印に指を添える。
「ただし、各地の神殿は、人間とは異なる種族の支配下にあります。彼らは聖地を外界から守る者たち。力だけでなく、信頼を得なければ、神殿に足を踏み入れることはできないでしょう」
言葉の重さに、自然と息を呑む。
「大丈夫です。勇者さまならきっと信頼を勝ち取ることができると思います!」
セレナは元気よくそう言った。
彼女の言葉には、どこか胸の奥から漏れたようなあたたかさがあった。
その夜、宗教都市リムニエルは静まり返っていた。
昼間の巡礼者たちの賑わいが嘘のように、石造りの回廊には月光だけが差し込んでいる。
俺は、聖堂裏の広場にひとり立っていた。
カルテシアに「少し、お時間を」と呼ばれ、言われるままに足を運んだのだが──
彼女はすでに、中央の噴水の傍で待っていた。
背を向けたまま、静かに水音を聞いていたその姿は、祈る者にも、裁く者にも見えた。
「……話って、何ですか?」
遠慮がちに尋ねた声に、カルテシアは振り向いた。
銀の髪が夜風に揺れ、その目が俺を真っ直ぐに射抜く。
「ラルフのことです」
それだけを、最初に告げた。
少しだけ、胸の奥にざわりとしたものが走る。
「彼は……魔王軍のスパイです」
その言葉が、夜の静寂を切り裂いた。
「……え?」
何かの冗談かと思った。だが、カルテシアの声に冗談めいた色はまったくなかった。
「事故──あるいは、意図的な干渉によって、いまは記憶を失っています。
けれど、その記憶が完全に失われたわけではありません。
……いずれ、“自分が何者であるか”を思い出す日が来るでしょう」
思わず、言葉を失う。
ラルフが、スパイ──?
あの穏やかで、静かで、いつも誰かを助けてくれるラルフが?
……信じられない。けれど、カルテシアの目は、嘘をついている人間のそれではなかった。
俺は、唇を噛んだ。
「……それを知っていて、どうして……どうして、ラルフを旅の仲間に入れたんですか」
当然の疑問だった。だが、カルテシアは少しも動じなかった。
むしろ、その問いを予期していたかのように、あっさりと答えた。
「記憶を失っているうちは──彼は役に立つからです」
淡々と。あまりにも冷静に。
まるで、天秤にかけられた命と価値を測るような声だった。
「病魔としての特性、観察力、気配察知、戦闘支援能力。いずれも旅には有用です。
そのうえ、現時点で彼が“魔王軍の意志”で動いている兆候は見られません。
ならば、“使う”のが最も合理的です」
……それが、聖女カルテシアの判断だった。
彼女にとって、旅の成功こそが第一義であり、感情や関係性は二の次なのだ。
だけど──
「……ラルフが、自分の正体を思い出したとき、どうするつもりなんですか」
俺の問いに、カルテシアは答えなかった。
ただ、星のない空を一度だけ見上げて、口を閉じたまま立ち尽くしていた。
その背中には、冷たさと、静かな覚悟が同居していた。
……まるで、そのときが来ることを、すでに覚悟しているかのように。
カルテシアの言葉は、夜の広場にひときわ冷たく響いた。
「……まず間違いなく、クリスタルはグランギデオンとの争奪戦となります。
旅先での苦戦は許されません。それは、あなたもご存じのはずです」
その声は、怒りでも警告でもなかった。ただ、事実を淡々と告げるのみ。
俺は、言葉を返せなかった。
グランギデオン──あの黒き魔鎧に身を包み、圧倒的な力で俺たちを叩き潰した魔王軍の幹部。
あの強さを、俺は知っている。
いまの自分では、まだ到底太刀打ちできない“現実”を思い知ったばかりだ。
だから、カルテシアの言うことは正しい。
合理的で、戦術的で、確かな“選択”。
……けれど、心がそれを受け入れなかった。
ラルフは、俺の命を救ってくれた。
グランギデオンの殺意が迫る中、何の見返りもなく手を伸ばしてくれた男だ。
セレナにとっては、幼い頃からずっと共に生きてきた、家族のような存在。
そんな人を、記憶を失ってる間だけ“使う”なんて──
まるで、道具みたいじゃないか。
思考が渦巻く中、ふと胸の奥に残っていた記憶が揺れた。
──リアノ姫の笑顔。
あのとき。
崖が崩れ、光の剣を手放し、姫様が俺を突き飛ばして自ら崩落の中に消えていったとき。
最後に見せた、あの笑顔は──
**「俺を安心させるための、作り笑顔」**だった。
どれだけ怖かっただろう。どれだけ悔しかっただろう。
それでも、俺を守るために、俺のことだけを考えて、笑った。
……その顔を、二度と失いたくないと思った。
姫様を助ける。
ラルフにも、裏切らせない。
両方やらなきゃいけないのが、勇者の辛いところだ。
だけど、辛いからといって──選ばないなんて、できない。
俺は、カルテシアに向き直った。
「……わかってます。グランギデオンは強い。合理性が必要なのも、わかるつもりです」
言葉を選びながら、息を整え、まっすぐに彼女を見つめる。
「でも、それでも──俺は、ラルフを信じたい。
彼を“使う”んじゃなくて、“一緒に戦う”仲間として」
カルテシアは黙っていた。
否定も肯定もせず、ただその場に静かに佇んでいる。
月が高く、風が静かな夜だった。
石造りの聖堂の回廊。
その陰から、少女はこっそりと耳を傾けていた。
広場の向こう、噴水のそばで交わされていたのは、カルテシアと俺くんの会話。
彼女は知ってしまった。
──ラルフは、魔王軍のスパイである可能性があること。
──聖女は、ラルフを“道具”として見ていること。
心がざわめいた。
理解しなければと思った。でも、どうしても……胸が、苦しかった。
足音を忍ばせて、セレナは宿舎へと戻った。
扉を開けると、そこには──
「……あ、ラルフさん」
ラルフはベッドの縁に腰かけ、古びた魔導書をのんびりと読みふけっていた。
明かりの落ちた寝室で、ただひとつ、ランプの光がページを照らしている。
静かな時間。落ち着いた空気。
数刻前に「スパイかもしれない」と言われていた人物が、いま目の前で魔導書を読んでいる。
──この人は、本当にすごいと思う。
緊張感も焦りもなく、まるでいつも通り。
この“自然体”こそが、彼の本質なのだと、セレナは改めて感じた。
けれど、言葉が、こぼれていた。
「……ラルフさんは、自分が“道具”だとわかったら、どうしますか?」
ページをめくる指が、ぴたりと止まった。
ラルフは顔を上げ、セレナをじっと見つめる。
「……聖女様が、そう言ったの?」
その声に、責めるような色はなかった。ただ、確認するような響き。
「あ、あのっ……た、たとえ話ですっ。たとえ話ですけど……!」
言い訳のように言葉を重ねて、セレナは唇を噛む。
「でも……たとえ、どんな理由があっても……
わたしは、ラルフさんが道具みたいに扱われるのは……嫌ですっ!」
感情が、思ったよりも強く出てしまっていた。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
ラルフは、そんなセレナの頭にそっと手を伸ばした。
優しい、静かな手だった。
夜の風よりもやわらかく、月光のようにそっと撫でる。
「ボクは、自分が何者かわからないから……“道具”って言われても、いまいちピンとこないんだ。
でも、セレナは、それが嫌なんだね。……うん。セレナは本当に、優しい子だね」
その言葉に、セレナは瞳を潤ませながら首を横に振った。
「わたしなんかのことより……いまは、ラルフさんの身の安全が……」
そのとき。ラルフは、ふっと笑った。
そして、穏やかに問いかける。
「セレナは……それでいいの?」
その問いは、やさしさに包まれていた。
でも同時に、まっすぐだった。
ラルフの手は、まだセレナの髪に触れていた。
けれどその声音は、次の瞬間、少しだけ強く、はっきりとしたものへと変わる。
「……姫様を助けたいんじゃないの?
ボクのことよりも、そっちを大切にしないとダメだよ」
セレナは、目を見開いた。
否定の言葉が喉まで上がってくる。でも、すぐには出せなかった。
「でも……」
絞り出すようにそう呟いたとき、ラルフはゆっくりと手を下ろした。
その表情は、いつものように穏やかだった。
けれど、そこには静かな決意の光が宿っていた。
「姫様は──いま、たった一人で、どこかで助けを待ってるんだ。
だから、迷ってる時間なんてない。……みんなで、迎えに行こうよ」
それは強制でも命令でもなかった。
ただ“心からそう思っている”人間の、まっすぐな言葉だった。
セレナは、しばらく俯いたまま、何も言えなかった。
けれど、心の中でずっと絡まっていた糸が、すこしずつほどけていくのを感じていた。
──ラルフは、何も知らない。
自分が“スパイ”と呼ばれていることも、仲間として信じきれないと思われていることも。
それでも、彼は誰よりも真っ直ぐに、姫様のことを思っていた。
セレナは、小さく息を吸い込んで、顔を上げた。
「……はい。行きましょう、ラルフさん。みんなで、姫様を迎えに」
その瞳には、さっきまでの迷いはなかった。
あたたかい光が、彼女の胸の奥で小さく灯っていた。
──きっと、ラルフの中にも、確かに“善”がある。
たとえ過去に何があったとしても。
今の彼が誰かを思ってくれるのなら──それを信じたいと、セレナは心から思った。