第10話:南海の戦姫と白き太陽 後編
翌朝の陽光は、南国の海辺を黄金に染め上げていた。
砂浜のベースキャンプに、緩やかな風が吹く。白い天幕がたゆたい、潮の匂いと草の香が混じり合う中、騎士団の一角に一行の影が近づいてきた。
先頭に立つのは、絢爛たる刺繍が施された衣装を纏った少女。
一昨日、昨日と戦った謎の女の子。
今度は正体を隠すことなく、俺たちの真正面に堂々と立っている。
南方諸島連邦〈エルマルナ王家〉第一王女。
ミナ=アルマディナ。
日輪を模した金の飾りが額にかかり、艶やかな黒髪が背に流れていた。鮮やかな南国の民族装束は、その細身の体に風とともに翻り、彼女の一歩一歩を威厳あるものにしている。
姫の左右には、槍を携えた随行の護衛が二名。
そしてその背後には、口髭を整えた壮年の文官が控えていた。
「……お招きもないまま、陣営を訪れてしまった非礼をお許しください」
ミナ姫が口を開く。
声は澄み、だが芯に熱を帯びていた。
「本日は、エルデンティア王国の第一王女――リアノ=ルヴィア殿下に、エルマルナ王家の代表として申し上げたいことがあって参りました」
リアノ姫は、すでに天幕の前に出ており、麦わら帽のつばを押さえつつ、静かに頷く。
「聞きましょう。エルマルナ王家の代表としての、お言葉を」
ミナ姫の目が真っ直ぐにリアノを捉えた。
砂浜の熱と違う、別の熱がその場に差し込んだ。
「――二百年。わたくしたちは、御国に忠誠を誓い、旗を掲げてまいりました。ですが、時代は移り変わり、力もまた再び我らのもとに戻りつつあります」
そこまで言ったところで、姫の傍らにいた文官が、ひとつ咳払いをし、代わって口を開いた。
「――ミナ姫は、プンチャック・シラットこそが世界最強の武術であると信じておられます。そして、我が国がそれを完全に体得した今、もはや宗主国に従属するいわれはないと、こう仰せです」
場がわずかに沈黙に包まれた。
リアノ姫は、ふっと目を細める。
否定も肯定もせず、ただ柔らかに笑んでみせた。
「つまり――これは、“昨日の決闘の続きを行いたい”という、王族同士のご提案と見てよろしいのですね?」
ミナ姫は答えなかった。ただ、小さく顎を引き、視線を逸らさずに微動だにしない。
リアノ姫は一歩、前へ出た。風がスカートの裾をさらい上げ、日傘の影が斜めに落ちる。
「よろしいでしょう。であれば、その勝負を最後にいたしましょう。王国の未来も、忠誠の行方も――すべて、その一戦に懸けて」
その声音には威圧も激情もなかった。ただし、その静謐さは、まぎれもなく“国を背負う者”のものだった。
南国の陽が高く昇り、熱を帯びた潮風が、静かに決闘場の空気を撫でた。
島の中央に設えられた円形の闘技場は、現地の職人が削り上げた硬質の木材で組まれ、周囲には簡素ながらも観覧席がしつらえられている。
闘技の神に捧げる場であるかのような厳かな静けさが、そこにはあった。
相対する二人の間に、声はない。
ただ視線が交わされ、その刹那、少女――ミナ姫はゆるやかに構えを取った。
左手を額に、右手を口元に。
かの地に伝わる武術――プンチャック・シラットにおける、“死と対峙する者の礼式”とされる独特の構え。
鋭く踏み込む気配が、周囲の空気を震わせた。
だが――三たび相対する今、俺の眼は、その軌道を捉えつつあった。
踏み込み。撓む腰。裂けるような膝の軌道。
そのすべてが、“未見の速さ”ではもはやない。
俺は、剣を振るった。
刹那の斬撃が、ミナ姫の左腕を捉える――かに思えた。
だが、鋼の音が弾け、薄く白煙が舞う。
「……」
ミナ姫は、表情ひとつ動かさず、ゆるやかに手首を下ろした。
その腕には、細工の施された黒金の手甲が嵌められている。
俺の斬撃は、わずかに斜めに受け流され、燃焼した剣の痕跡を残すのみ。
そして、彼女は――静かに口を開いた。
「――本来なら、あの一戦で運命は決まっていたのです。
プンチャック・シラットは“初見で制す”ための武。
読み解かれることを許せば、その美も鋭さも、半ばを失う。
三度目の手合わせなど、私の武術には……本来、想定されていない。」
彼女は一歩、砂を蹴り上げるように下がると、目を伏せて静かに続けた。
「あなたは……神に感謝すべきです。
この三戦目に、なおも命を持って立つ自分の運と、
そして、武の限界を教えてくれる存在に出会えたことを……」
そう語る少女の瞳には、一切の感情がなかった。
“戦場なら、お前はとっくに屍”――その意を込めた、冷たい真実。
彼女の言葉に、俺は少しだけ困ったように笑った。
神に感謝するべきだ――たしかに、そうかもしれない。
だが、凡人の俺は、そんな大仰な存在よりも、もっと手近なものに感謝していた。
「……俺は、騎士団のみんなや、セレナ、姫様に感謝してますよ。折れずにここで戦えるのは、自分一人だけの力じゃないから」
ミナ姫の瞳が、一瞬だけ見開かれる。
それは嘲笑ではない。意外そうな、けれど興味を惹かれた眼差しだった。
それはまるで、勝者の論理に抗うことすらできない人間が、それでも前に立つときに必要な“勇気”そのものを見たように。
「……だったら、見せてあげましょう。私の“本気”を」
低く、静かな声音。
その言葉を境に、空気が変わった。
ミナ姫の足元から、目に見えぬ圧が広がり始める。
熱気を帯びた風が渦を巻き、少女の輪郭を中心として空間そのものがわずかに“歪む”。
肌が粟立つ。
ただの威圧ではない――それは、鍛え抜かれた肉体が限界を超えようとする前触れ。
精密に制御された体内の熱量が、暴風のように外気を撹乱していた。
次の瞬間。
突きが放たれた。
閃光のような一撃だった。
もはや剣術ではない。拳法でもない。
“速さ”という概念そのものを捻じ曲げた――それは、まさしく人間の限界を超えた突き。
だが、
俺は、止めた。
当然のように、呼吸のごとく。
光の剣が、少女の拳のわずか寸前で停止を命じた。
熱が拮抗し、火花が散るような錯覚すら起こる。
「……ッ」
ミナ姫の瞳が見開かれる。
小さく、だが確かに、動揺が走った。
そこからの動きは、凄絶だった。
足払い。
首筋を狙う指突き。
逆手の肘打ち。
立て続けに放たれる、暗殺すら可能な“殺しの型”。
だが、俺はそれらのすべてに対応する。
光の剣が、すでに“剣”というよりも、“意志”のように振るわれていた。
振り下ろすことなく、ただ“そこにあるだけで防御となる”。
明らかに“読む”力が、彼女の技を上回っていた。
「なぜ……私のプンチャック・シラットに、対応できる……?」
少女が、息を少し荒くしながら、初めて疑問の声を吐いた。
俺は、それに即座に答える。
「努力」
その一語だった。
ミナ姫は、呆れたように、そして――どこか苦々しげに笑った。
「はっ……凡人が好みそうな、都合のいい幻想ですね」
その笑みは、皮肉と自嘲の入り混じったものだった。
「……天才が、努力していないとでも思っているのですか?」
そう、冷たく問う。
けれど、俺は視線を外さずに返す。
「じゃあ、どうしてキミはいま、俺に攻撃を止められてるんだ?」
事実だった。
言葉ではない。結果がすべてを物語っていた。
ミナ姫の笑みが、静かに崩れる。
理解ではなく、焦燥でもなく。
それは――知らなかった世界を、初めて目にした者の顔だった。
「勇者さま! がんばってくださーい!」
どこかで、セレナの声が響いた。
素朴で、まっすぐで、あたたかい――剣戟の嵐の中でも、不思議と胸に届く。
その隣、
カルテシアは変わらぬ静かな面差しのまま、ひとこと。
「どんな苦難に陥っても、最後まで諦めないその姿……」
感情を抑えた声の奥に、かすかな熱が宿っていた。
だが、彼女がそれ以上を語ることはない。
そして――リアノ姫。
何も言わず、ただ俺を見つめていた。
言葉はなくとも、その視線は、はっきりと告げていた。
「あなたを信じています」
まっすぐで、揺るぎのない瞳。
……負けられない。
この手で、今こそ証明するんだ。
俺は、構えを取り直した。
光の剣を、思いきり振るい上げる。
だが――それすらも、読まれていた。
「そこです!」
ミナ姫の声が鋭く空を裂く。
その瞬間、放たれたカウンターの手刀が、光の剣を天高く弾き上げる。
剣が、空へ。
陽を浴びて、白銀の軌跡を描きながら、くるくると宙を舞う。
「――終わりです!」
ミナ姫の瞳が光る。
一直線に放たれる、渾身の一撃――喉元を狙った手刀が、風を裂いて迫る。
だが、
その手を、俺は掴んでいた。
「……っ!?」
ミナ姫の目に、驚愕が走る。
そのまま、俺は体をひねり――
背負い投げ。
重心を崩し、勢いそのままに地面へと叩きつける。
砂埃が高く舞い、肉体が地に沈むような音が響く。
ミナ姫は、抵抗する間もなく、衝撃で気を失った。
静寂。
風が、ようやく熱をはらみながら吹き抜けた。
――剣を落としたあの瞬間、体が自然に動いた。
勝利の余韻に浸る中で、スヴェリカ公国でのリアノの言葉が脳裏をよぎった。
『当然でございます。勇者様は、日々の訓練において、剣を弾かれる場面を幾度も経験しております』
あの時、彼女は、凛とした声で事実を述べていた。
『数にして……おそらく、三千回は下りません。ゆえに、武器を失った後の立ち回り――彼は誰よりも熟知しておいでです』
しかし、彼女は『勇者らしくない俺の姿』を否定しなかった。
『その一振りは――“あなた”だからできたのですわ』
静かに微笑んだその表情は、確かに俺の心に残っている。
夜の帳が降りた南国の浜辺。
遠く潮騒が満ち引きし、風に揺れるヤシの葉の音が静かに響く。
その一角、王族用に設えられた純白の天幕から、柔らかな灯りが漏れていた。
リアノ=ルヴィア王女の幕舎――
その中心に据えられた木彫の卓を挟み、ふたりの姫が対座していた。
ミナ姫の衣装は、昼間の闘技装束から一転して、
南国の格式ある夜礼服――淡い藍色に金刺繍をあしらった、肩を優雅に包む軽衣が月光に映えている。
彼女の表情には、かつての鋭さや誇り高き挑戦者の気配はなかった。
ただ静かに、穏やかに、己と向き合った者の面差しがあった。
やがて、ミナ姫は杯を置き、姿勢を正してゆっくりと口を開いた。
「……どうやら、“井の中の蛙”は、私だったようです」
その声には、悔しさではなく、澄んだ悟りの色が混じっていた。
「天才とうぬぼれていた私を――そのままでは、いつか民も国も誤らせていたかもしれない。
それを、気づかせてくれたあなたに……心から感謝します」
視線は、俺に向けられていた。
真正面から、まっすぐに。
あれほど屈強で誇り高かった少女が、今、心からの敬意と謝意を捧げている。
リアノ姫は口元に扇を寄せたまま、目を細める。
「……素直なお言葉は、美徳ですわ。勇者殿にとっても、光栄なことでしょう」
俺は返す言葉に迷いながらも、静かに一礼した。
この夜の空気は、どこか祝福に満ちているようで――
潮風に乗って揺れる天幕の音が、いつまでも耳に残った。
天幕の灯はなおも柔らかく揺れ、外の浜辺では波の音が静かに重なり続けていた。
杯を傾けていたミナ姫は、ふとその手を止め、リアノ姫に向き直る。
その表情には、少しばかりの躊躇いと、試すような色があった。
「――リアノ殿。ひとつ、問うてもよろしいでしょうか」
リアノ姫は、微笑のままうなずく。
ミナ姫は声を静めて、問いを投げた。
「文字というものを持たぬ、未開と呼ばれる部族は……
どうやって後の世に“言葉”を残すと思いますか?」
その問いに、天幕の空気がわずかに引き締まる。
だがリアノ姫は、ほんの一拍だけ間を置いてから、ゆっくりと唇を開いた。
「――踊り、ですわ」
ミナ姫の目がわずかに見開かれる。
「言葉を刻むことが叶わぬならば、
身体に宿すしかありません。
舞踊の律動に、祖の想いを。
戦いの型に、誇りと祈りを。
あなたの“プンチャック・シラット”には――
恐れ、麗しさ、そして哀しみが宿っていました」
リアノ姫は扇を胸元に添え、凛として言葉を続ける。
「それはきっと、祖先の“強さ”と“痛み”と“誇り”を、
絶え間なく継承し続けてきたからこその舞――
そう、見受けましたわ。
それは風のように受け継がれ、あなたの心に宿っている『魂の言葉』と言えるでしょう」
静寂が落ちる。
ミナ姫は、まるで何かを打たれたかのように一瞬固まり、やがて――
その椅子を離れ、畏敬の礼をもって深々と頭を垂れた。
「……その通りでございます。
それを……口にされたのは、貴女が初めてです、リアノ=ルヴィア殿下」
その声は震えていた。誇りと、感動と、感謝がないまぜになった声音だった。
リアノ姫はただ静かに頷き、
杯の水面を一瞥したのち、ひとことだけ返す。
「誇りを継ぐ者として、当然の礼を尽くしたまでですわ」
旅の終わりは、思いのほか穏やかだった。
白き帆を掲げた王家の船は、南海の蒼を割りながら、ゆるやかに北へと進んでいた。陽は既に傾き始め、水平線には金と橙の境が滲み始めている。
デッキの上。
セレナは甲板に腰を下ろし、膝を抱えながら波の音に耳を傾けていた。
「ふふ……なんだか、夢みたいな日々でした。わたし、ちゃんと泳げるようになりましたしっ」
子供のような笑顔とともに、セレナは砂浜での日々を思い返している。
そのすぐ近くで、カルテシアは船縁にもたれ、静かに海を見つめていた。マントの裾を潮風が揺らす。
「人と共に過ごす時間が、こうも安らぐものとは……ふしぎなものです」
彼女の言葉は静かだが、心の奥底に何かが積み重ねられているのを感じさせた。
そして、俺は――
一人、舳先に立ち、海の彼方に沈む太陽を見つめていた。
胸の内には、どこかぽっかりとした空虚があった。
南国の地で出会った少女、ミナ姫。
強さと誇りに満ちた眼差し、静かな悔悟と、最後に見せた穏やかな微笑――
あの数日が、確かに胸に残っていた。
「……黄昏の空は、人を沈思に誘いますのね」
その声に、ふと我に返る。
振り向けば、リアノ姫がそこに立っていた。
優美な所作で手を組み、金糸の髪が夕陽に照らされて柔らかく揺れている。
「リアノ……姫」
彼女は、ふと視線を下ろし、そっと微笑んだ。
「あなたに……踊っていただきたい踊りがありますの」
「踊り、ですか?」
「ええ。エルデンティア王国に伝わる、古き王家の舞です」
姫はそう言って、俺の前に立つと、片手をゆるやかに差し出す。
波の音が、静かに重なる中で――俺は問うた。
「……どのような意味が、込められているのですか?」
その問いに、リアノ姫は、一瞬だけまっすぐ俺を見つめ、やがて柔らかな微笑みを浮かべる。
「――『あなたを愛しています』という意味が、込められていますわ」
夕陽が最後の輝きを放つ中、リアノ姫はそっと手を重ねた。
踊りの所作は、ゆるやかで優しく――
しかし、確かな意思を伴った、王家の舞だった。