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勇者になった俺  作者: 狐御前
第2章
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第10話:南海の戦姫と白き太陽 中編

 ……なんだ、あの程度の男が“勇者”か。


 夜の潮風が肌を撫でる。

 浜辺に残る足跡はすでに波にさらわれ、後には己の吐息と、腹部にじわじわと広がる熱だけが残っていた。


 少女は仮面の奥で、わずかに眉をひそめた。

 じっと腹に触れる――そこは皮膚こそ破れていないが、内側に鈍く灼けるような感覚がある。


(斬られていた……?)


 はじめは気付かなかった。

 ただの気のせいかと思っていた。

 だが確かに――そこには“打ち込まれた”感触がある。


 振り返ってみる。

 こちらは完封。構えを見せ、誘導し、崩し、叩き伏せた。


 それがすべてだったはずだ。


 だが、何時の間に――あの男は、あの“勇者”は、刃を返していた?


(……無意識か)


 内心で舌打ちする。

 実戦に染まった者が時折見せる“無意識の反応”――磨かれすぎた剣技が、意志を通さずに形となる瞬間。


 だとしても、それは“奇跡”に過ぎない。


 私は勝った。

 圧倒的に、何もさせず、完膚なきまでに打ち伏せた。


 それが事実だ。

 だが――それでも、


(納得できない)


 仮面の奥で、琥珀の瞳が静かに細くなった。

 その背筋には、『南方諸島連邦〈エルマルナ王家〉の第一王女』としての矜持が張り詰めていた。


 だが、腹に残る微かな熱は、なお消えない。


(次は、斬らせる暇すら与えぬ。

 足の指一つ動かせぬほど叩き伏せて、心の芯から敗北を刻みつける)


(私と、国家の“格の違い”を――あの愚かな王国に思い知らせてやる)


 夜風が吹く。

 そのなかに、金の飾りが微かに鳴った。


 静かに去っていく少女の背に、

 その音は、断罪の鈴のように、ひとつだけ転がった。




 頭の奥に、まだ波の残響が残っていた。

 まぶたを開けば、見慣れた天幕の天井。顔に貼りついた冷たい布。喉には潮の気配がこびりついていた。


 ――昨夜の出来事は、夢ではなかった。


 あの少女の構え。風のような動き。そして、何もできずに倒れた自分。


 それは、ただの敗北ではなかった。

 もっと深い、根源的な実感。自分が「知らなかった」という事実に、否応なく晒された感覚。


 この地に立って、何を見ていたのか。

 “勇者”と呼ばれるようになってから、何を手にしたつもりでいたのか。


 俺は、井の中の蛙だった。

 狭い世界で、満足しかけていた。

 知らない文化、知らない技、知らない強さが、確かにここに存在する――

 その一撃が、目を覚まさせた。


 だから、動いた。


 翌朝、まだ浜辺に人の影がまばらなうちに、俺は剣を手に立っていた。

 風が砂を巻き上げ、日が昇る前の空に淡い紅が差していく。


 一振り。

 構えを整え、呼吸を定めて――もう一振り。


 見よう見まねでは、追いつけない。

 だが、見ていなければ、何も始まらない。

 ただ、振る。基本に戻り、ひとつずつ、正しく。


 時間が経つにつれ、他の騎士たちが浜辺に現れ始めた。

 しかし、誰もがのんびりと貝を拾い、昼寝の場を探し、焚き火を囲んで笑っている。

 それが悪いわけではない。だが、俺には、立ち止まっていられる理由がなかった。


 やがて、誰かが近づいてくる気配があった。


「朝から……熱心だねぇ。なに、心境の変化?」


 マリオン=アールレイン副団長だった。

 旅装のまま、肩に水筒をぶらさげ、気だるげに歩み寄ってくる。


「……少し、学ばされたことがありまして」


 俺がそう答えると、彼女はわずかに眉を上げ、そして足を止めた。


 しばらく、俺の動きをじっと見つめていたかと思うと、唐突に口を開く。


「肩が高い。抜く時に力が逃げてる。――もっと、“点”で斬ってごらん。いまのは“線”に頼ってる」


 指摘は短く、的確だった。

 俺は頷き、もう一度構える。剣の角度、足の運び、視線の先。

 ひと振り。砂がわずかに跳ねる。


 マリオンはふっと笑った。


「なにがあったのかは、知らない。けど――今のあんた、ちょっとかっけーよ」


 その声に、俺は少しだけ力が抜けた。

 浜辺の空気が、少しやわらかくなったように感じた。


 だが、手は止めない。

 振り続ける。自分の中に、新しい何かが芽生えるまで。



「きゃああああっ!巨大モンスターよっ!!」


 浜辺を揺るがす叫び声が、沖合から響いた。


 次いで、断ち切られた波音。重々しい水柱が空へと噴き上がる。


 海面を割って姿を現したのは――異形だった。


 巨大な頭部と、八本以上に分かれた触腕。

 表皮は紫がかった黒色で、ぬめりを帯びた質感が陽を弾き返す。

 全体の輪郭は不定形に近く、視認した者の目に“絶えず変形している”という錯覚を与える。


 それは、タコに似ていた。だが、それ以上だった。


 触腕は次々に陸地へと伸び、浜辺にいた者たちを巻き取っていく。

 騎士、従者、原住民――反応の遅れた者から順に、悲鳴と共に宙へと引き上げられた。


 そして――そのうちの一本が、砂場に立っていた小さな影へと向かっていった。


「……えっ?」


 セレナが、気づくより早く。

 襲い来る触手の先端が、鋭い音を立てて空を切る。


 だが、その時だった。


 鋼の弾性を帯びた音が、浜辺に鳴り響いた。


 カルテシアだった。


 マントの下から閃いたモリが、襲いかかる触手を“弾く”。

 海獣の皮膚に食い込みかけた刃が、粘性に阻まれ、甲高い音を立てて跳ね返された。


「下がって、セレナ」


 静かな声。だが確かに、命じるように強かった。


 彼女は構え直す。モリを持つ手が沈み、膝を屈める。

 風を読み、狙いを定め――投擲。


 銀の軌跡が、触手の根元に突き立つ。

 しかし、それだけだった。


 巨体はわずかに身じろぎしたのみ。モリは根本まで食い込まず、次いで、ゆっくりと吐き出されるように抜け落ちた。


 カルテシアは、無防備のまま立っていた。

 既にモリは手元にない。新たな武器もない。

 にもかかわらず、彼女は一歩も退かぬまま、触手を見据えていた。


 そして。


 それが、彼女に気づいた。


 一本の触腕が、うねる。

 空気を裂き、砂を舞い上げながら、聖女の身体へと迫る。


 ――次の瞬間。

 彼女の両腕が、絡め取られた。


 ぬめりを帯びた筋肉が、白磁のような腕を這い、肩口まで巻き上げる。

 滑らかな動きで、もう一本が脚へと伸び、くるぶしから太腿までをぐるりと包み込んでいく。


 拘束は乱暴ではなかった。むしろ、“正確”で、“執拗”だった。


 肘が、肩が、腰が固定されるたびに、彼女の呼吸がわずかに浅くなる。

 白い布の上を這う粘膜が、聖女の肢体を順に侵蝕していくかのようだった。


 カルテシアの唇が、かすかに動いた。


「……祈りは……まだ、終わっていません……」


 だが、その声は、触手の圧に飲み込まれる。

 次いで、彼女の身体ごと引き上げられ、宙に舞う。


 空に描かれたその輪郭は、もはや聖女ではなく――**神を否定されたひとつの“人”**の姿だった。



 ――触手が、伸びていた。


 浜辺にて無力となった聖女の身体を吊り上げたその勢いのまま、異形の魔物はなおも獲物を求め、次なる腕を振るった。


 一本は、少女セレナへ。

 もう一本は、王女リアノ=ルヴィアへと。


「……ぬ、ぬるぬるしてますっ……ちょっとだけ、無理です……!」


 セレナは軽く目を潤ませながら、抵抗らしい抵抗もなく絡め取られていた。

 滑るように巻きつく触手に、細い四肢が封じられていく。

 子供のように無垢な水着の上から、蠢く粘液が滴り落ちるたびに、彼女はぷるぷると首を振っていた。


 一方で、リアノ姫はその一切を乱さなかった。


 両腕を後方に縛られ、背を反らされながらも、彼女は姿勢を保ったまま、空中に掲げられていた。

 髪は宙で揺れ、衣の裾が風に翻る中、金の瞳は怯えることなく怪物を見据えていた。


 気品があった。

 たとえ身を拘束されようと、王族の威厳は損なわれなかった。


 カルテシア、リアノ姫、セレナ。

 三者が異なる形で拘束され、浜の上に吊り上げられる――


 その時。


 風が、断ち切られた。


 光が、一閃した。


 俺だった。


 浜辺に立つ俺の右手には、光の剣。

 鍔に集った魔力が弾け、その斬撃は、空に描かれた一本の軌跡と共に、タコの触腕を断ち落とした。


「……っ」


 リアノ姫の身体が落下する。俺はすかさず駆け寄り、その腕を受け止める。


「ご無事ですか、姫様」


「……ええ。ありがとう、勇者様」


 その瞬間――


 剣が、光った。


 抜き放たれた刃が、空の太陽と呼応するように輝く。

 俺はその力を全身に巡らせ、剣を、振るった。


 空を裂いた光が、海魔の頭上を貫いた。


 呻きもなかった。

 ただ、一閃ののちに、巨体が崩れ、無音のまま海へと沈んでいった。


 触手が解ける。

 セレナが、砂に座り込みながら息を整える。

 カルテシアは無言のまま静かに立ち上がり、宙に投げられたモリを片手で受け取った。


 すべてが終わっていた。


 その場にいた誰もが、言葉を失っていた。

 原住民も、騎士団員たちも、潮風の中でただその光を見つめていた。


 そして、誰かが――


「……勇者万歳!」


 叫んだ。

 次いで、拍手。

 次いで、歓声。


 俺の剣が下ろされると同時に、浜辺全体に歓喜の波が広がっていた。


 拍手が、止まなかった。




 陽が沈み、焚き火の残り香が砂に染みるころ。

 その日一日の騒動と喝采が過ぎ去ったあとで、俺は、ひとり海辺を歩いていた。


 波は静かだった。月は高く、風は涼しかった。


 そのときだった。


「……ありがとう」


 背後から聞こえたのは、涼やかな声だった。

 振り返らずとも、誰かは分かっていた。


 カルテシア=セラフィム。

 月光の縁に立つようにして、彼女はそこにいた。


 濡れた衣はすでに乾き、マントの端が砂に触れることもなく揺れている。

 だが、その目だけが、いつになく静かに俺を見ていた。


「……貴方がいなければ、大惨事になるところでした」


 言葉はそれだけだった。

 けれどその声に、感謝という感情が、確かに宿っていた。


 彼女が立ち去ると入れ替わるように、後ろから元気な足音が駆け寄ってくる。


「勇者さまーっ!ありがとうでしたっ!」


 セレナだった。

 跳ねるように駆けてきて、勢いのまま砂に膝をつき、小さな手をこちらに差し出す。


「あなたが来た瞬間、“大丈夫だー!”って感じですごく安心しました!」


 彼女は心からの笑顔を浮かべていた。

 それだけで、胸の奥が温かくなる。


 月が高い。波は静かに砂を舐めていた。

 夜の海はあまりにも静謐で、剣を振るう音がやけに遠くまで届いていた。


 セレナと共に、砂の感触を確かめるように足を運び、剣を抜いて素振りをしていたとき――


 風が変わった。


 波の音とは異なる、もう一つのリズム。

 足音。それも、余計な気配を消しきった訓練された者の歩み。


 振り返れば、そこにいた。


 先夜と同じ。

 白い仮面。金属の装飾。褐色の肌を包む腰布と、肩を飾る金の鎖。

 右手の甲を額に、左手を口元に添える、あの“祈り”のような構え。


 挑戦の意思。それ以上の言葉は必要なかった。


 俺は、光の剣を抜いた。


 少女は動いた。

 だが、あの夜のような“初見殺し”の踏み込みではない。

 動きは明確に読める――それでも速い。強い。重心が流れず、常に刃の間合いに潜り込んでくる。


 数合交え、すでに手応えはあった。

 前回よりも“戦えている”。


 だが、それでも――押されていた。

 一手遅れる。攻めが単調になる。技が見切られる。

 実力差は、剣を交わすたびに浮き彫りになっていく。


 少女は変わらず無言だった。

 その刃の舞は、まるで美しさを誇るように研ぎ澄まされていた。


 その時だった。


「……やはり、ここにおいででしたのね」


 気品ある声が、夜の帳を裂いた。

 視線の先、砂丘の上に――リアノ=ルヴィアが立っていた。


 風に揺れる金の髪、月下に映える青の礼装。

 王族の威厳をそのまま形にしたようなその姿に、仮面の少女の動きが――わずかに、揺れた。


 刹那、機を逃さなかった。


 俺は踏み込み、光の剣を振るった。


 刃はわずかにそれ、肩を掠めるに留まった。

 少女は咄嗟に身を引いた。間に合った。


 ――だが、


 仮面の縁が、斬られていた。


 薄い白の面が、ぱきりと音を立てて砕け落ちる。

 風が吹いた。月が照らした。


 その下に現れたのは、年若くも凛とした顔立ち。

 深い琥珀の瞳。高く束ねられた黒髪が夜風を受けて揺れる。


 だが少女は、取り乱さなかった。

 顔を隠そうともせず、静かに、俺の剣先を見据えていた。


 やがて、ほんのわずかだけ微笑んだ――それは気品と矜持を宿した者の表情。


「……今回は、私の負けだと認めましょう」


 そう言って、少女は構えを解いて、静かに背を向ける。


 波の音が戻る。


 彼女の足取りは一度も乱れなかった。

 仮面の欠片だけが、砂の上にぽつりと残されていた。


 風が過ぎる。

 その音に乗るように、リアノ姫の声が静かに届いた。


「おめでとうございます。……勇者さま」


 言葉は穏やかでありながら、どこか“確かめる”ような温度があった。

 褒め言葉であると同時に、今の戦いを正当に評価しようとする誠実さ。

 その凛とした微笑みには、勝敗よりも“在り方”を見つめる姫の品格が宿っていた。


 対して――


「えっと、あのっ」


 セレナがそわそわと手を上げるようにして言葉を続けた。


「よそ見してたから、偶然勝てた……って、ことですよね?」


 あまりにも素直で、率直な一言だった。


 俺は内心、ズドンと打ち砕かれる音を感じた。

 さっきまでの達成感が、急速に風船のようにしぼんでいく。


 しょんぼりと肩を落とす俺に、リアノ姫がそっと目を細める。

 そして、言った。


「ならば、次に勝てばよいのです。――ね?」


 彼女はゆっくりと俺の隣に歩み寄り、潮風に揺れる帽子のつばを軽く押さえながら言葉を続けた。


「一勝一敗。勝負は拮抗しております。次は、あちらからやってくるでしょう」


 それは未来を見据える言葉であり、

 俺という存在に、“続き”を許すような柔らかな肯定だった。


 落ちた肩が、少しだけ戻る。

 水平線の向こうには、まだ次の波が待っている――そんな予感を抱きながら。


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