第10話:南海の戦姫と白き太陽 前編
王国騎士団には、年に一度、特例として実施される“遠征訓練”がある。
異なる文化、異なる気候、異なる地形のもとで、統率力と応用戦術を学ぶ機会――建前としては、そう記されている。
今年、その舞台に選ばれたのは、王国南方に浮かぶ群島のひとつ。
降り注ぐ陽光と紺碧の海、白くなめらかな砂浜が延々と続く南国の地である。
かつて、この島で“戦術的洞窟戦”や“高温環境下の継続行軍”が実施されたという記録もあるが、今なお実用的な訓練が行われているかどうか――それは定かでない。
ともあれ、第三部隊は今日も朝から砂浜を走り、海で荷運びを行い、日が昇りきるころにはすでに数名が浜辺に突っ伏していた。
だが、その中にあって――
波打ち際近くの岩陰に、日除け用の天蓋が設置されていた。
繊細な刺繍の入った天布のもと、二つの椅子が並んでいる。
ひとつには、王女リアノ=ルヴィアが腰掛けていた。
白地に淡い薄藍を帯びたワンピースに、王家の紋章入りの麦わら帽。
貴族的気品を損なうことなく、南国風に装いを整えたその姿は、どこかリゾートの肖像画のようですらあった。
もう一人。
隣の椅子には、聖女カルテシア=セラフィムの姿があった。
肩までの黒いマントを纏い、その下には、布地の少ない――しかし不思議と俗気を感じさせぬ、水着姿が隠れている。
片手には、魚突き用の銛。浜辺の誰ひとりとして、それに言及しようとはしなかった。
彼女たちが今回の遠征に同行した理由については、王都でも諸説ある。
曰く、「属国における新体制の軍制再編が王国への反発を招く可能性があり、抑止のために高位権威を帯同させた」とか、
曰く、「外征訓練と称した秘密会談が裏で計画されている」とか――
だが、実際にこの南国に降り立って以降、
リアノ姫が外交文書を広げた形跡も、カルテシアが宗教的儀式を執り行った様子も、一切確認されていない。
むしろ彼女たちは毎朝同じ時間に浜辺へと現れ、用意された椅子に静かに座り、波を眺め、風を受けている。
おそらく、現地で見かけた者の印象はこうだろう――
「政治の顔をした、完璧な休暇者たちである」と。
そして、その手前では。
赤いバケツを抱えた少女――セレナが、子供らしい水着姿で波と戯れていた。
帽子は飛ばされ、足は砂に埋まり、貝殻を拾うたびに目を輝かせている。
「勇者さま、見てくださいっ! ちいさいヤドカリですっ!」
満面の笑顔でバケツを掲げる彼女に、
砂まみれで訓練を終えた俺は、小さく息を吐きながら、しかし微笑み返すしかなかった。
陽は既に高く、潮の香りと焼けた砂の熱が肌を刺す。
白い浜辺には、整列する騎士たちの影が列をなし、隊長の号令と共に、訓練が始まった。
――とはいえ、それも形式的なものにすぎなかった。
年に一度の遠征訓練。その名目がどうであれ、実際に行われる内容はごく限られている。
特に初日の午前においては、身体を動かしたという“実績”を記録に残すことが重視される傾向が強い。
この日もまた、例に漏れなかった。
訓練項目は、いわゆる“丸太担ぎ”。
複数名で一本の巨大な丸太を肩に乗せ、掛け声と共に浜を駆ける――主に軍事国家が採用する原始的な体力強化法であり、精神統一や呼吸制御の訓練としての一面も持つ。
だが、指導に立つ教官の声にはどこか張りがなく、
騎士たちの足並みも、砂に足を取られている以上に気乗りのなさがにじんでいた。
丸太が砂にめり込み、掛け声が崩れ、次第にペースが鈍る。
それでも誰も叱責する者はいなかった。
なにせ、日記録に「訓練実施済」の文言さえ添えられれば、それで良いのだから。
やがて、一時間が経過した。
訓練終了の号令がかかるや否や、隊員たちは一斉に腰を下ろし、水筒を開け、腕を伸ばした。
ここからは、自由時間――という建前のもと、組織的な行動はほとんど解かれる。
隊長のランツェは、陽射しの強い場所を避けるでもなく、
地元民と見られる女性に笑顔で話しかけていた。
言葉の壁があるはずだが、身振りと目線と、多少の色気があれば通じるのだろう。
傍らに水を手渡しただけで、相手の笑みが倍増する様子は、もはや軽業の域である。
副団長のマリオンは、木陰の下で腰を下ろし、
ギルド長アザレアとの世間話に興じていた。
そもそもギルド組織の長たる者が、なぜ王国騎士団の遠征に同行しているのか――その疑問に、明確な答えはない。
だが、マリオンとアザレアが“旧知の間柄”であり、かつアザレアがランツェ隊長の妻であるという事情を踏まえれば、少なくとも不自然ではない。
アザレアは脚を崩して笑っていた。
その表情には、王都で見せる鋭利さはない。
まるで、誰よりもこの場を“余暇”と理解している者の顔だった。
――この旅が「実地訓練」であるという記録は、きっと残る。
だが、その実態は明らかに“南国旅行”と呼ぶほかにない。
それも、王族・聖職者・軍上層部・ギルド首脳まで揃っての、大規模な休暇である。
浜辺では、セレナがバケツを片手に波打ち際を走り回っていた。
カルテシアは、日陰の岩に腰掛けたまま、モリを手にじっと水面を見つめている。
リアノ姫は、貝殻を見て「これは南方属国で“通貨代用”にされていたことがありますの」と誰にともなく語りかけていた。
――訓練は、終わった。
午後は、何も始まらぬまま、ただ静かに陽が傾いていくのだろう。
ベースキャンプは、海辺の小高い砂丘を背に設営された。
幾つもの簡易天幕が整然と並び、中央には物資置き場、東の端には調理用の炊事設備。そして、北側――わずかに海風を遮る岩陰の奥に、ふたつの大型テントが立っていた。
王族用と、聖職用。それぞれが王国の最高等級の裁縫と素材を用いて張られたものであり、簡易とは名ばかりの快適さを備えている。
俺はその夜、両方のテントに招かれていた。
最初に足を運んだのは、リアノ姫の天幕である。
内部は整然と整えられていた。絹布を張った内壁、折りたたみ式の文机、銀縁の水差し。野営地とは思えぬ空気が、そこにはあった。
姫は、帽子を外し、旅装のまま椅子に腰を下ろしていた。卓上には数枚の資料と、編み込まれた紐の束。
「勇者様。このような環境で恐縮ですが、少しだけお時間をいただけますか?」
「もちろん。……何か、ご研究ですか?」
問いかけると、姫は紐の束を指先で持ち上げた。
「南方の先住民族の記録手法について、王都の学者たちが興味深い報告を残しております。彼らは言語体系を持たず、しかし“歴史”を伝えたとされる。その手段とは、何か」
俺は束ねられた紐を見やる。複数の色、長さ、そして結び目。
「……結び目による情報の符号化、でしょうか。たとえば数や時系列を……」
「ええ。“キープ”と呼ばれる技法に近い。ですが、仮にこれが言語でないとするなら――“意味”とは、どの時点で生まれるのでしょう。形そのものか、解読者の心か。それとも、受け継ぎの意志そのものに、意味があるのか」
言葉は穏やかだったが、問いは鋭い。
俺は手元の紐を撫でながら、少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……それを“記録”と呼べるのなら、たぶん、それは“残そうとした気持ち”に、意味があるのだと思います」
姫はわずかに頷き、視線を落とす。その目に、微かな満足の色が浮かんだように見えた。
次に訪れたのは、聖女カルテシアの天幕である。
こちらは装飾も少なく、ほとんど質実の一語に尽きた。
白布を基調とした内部には、僅かな祈具と、床に敷かれた寝具、そして火の消えた灯台のように静かな聖女がひとり――
「……お入りなさい。風が強いです」
彼女は膝を折ったまま、俺に背を向けていた。
近づくと、祈具の横に並べられた冊子が目に入る。内容は、倫理学。しかも相当高度な。
「聖女様……何か、問題でも?」
問うた俺に、カルテシアはふと振り返った。
その瞳には夜の湖のような深さが宿っていた。
「善と悪が、人の行動に与える影響について考えていました」
「……善と、悪が?」
「“正義”という名で人を殺す時、それは残虐か、崇高か。
“救い”という名で他者の意志を奪う時、それは愛か、暴力か」
静かな声で、淡々と、彼女は続けた。
「……人は、何を基準に線を引くのか。外的な法か。内面の信か。それとも……誰かに見られている、という恐れか」
俺は、しばし言葉を失った。
そして心の中で、そっと息を吐いた。
――なぜ、俺はこの旅の最中に、
浜辺で焼けた背中のまま、政治学と倫理哲学の個人授業を受けているのだろうか。
誰かに聞かれても、答えようがなかった。
夜の帳が砂浜を覆っていた。
昼の熱気はすでに引き、代わりに潮風が静かに肌を撫でていく。
波の音が、月の光に溶けるように絶え間なく続いていた。
俺は、ひとりで歩いていた。
眠るにはまだ早く、焚き火の近くでは酒を囲む声が上がっていたが、気持ちを静めたくて足を遠ざけた。
しばらく歩くうちに、砂の向こうに小さな影がひとつ、動いているのが見えた。
灯りもなく、声も出さず、それでも明らかに“動いて”いる――
セレナだった。
月明かりに照らされた砂浜で、ひとり、小さく跳ね、拳を構え、蹴りを放っている。
身につけているのは昼と同じ、可愛らしい水着。だがその表情には、笑顔もふざけもなかった。
たどたどしい構え。揺れるバランス。
それでも、何度も、何度でも――彼女は黙々と動き続けていた。
「……がんばります……ですっ……」
誰に向けるでもない、ささやかな声が波に流れていく。
それは、たった一言で、胸の奥に残る声だった。
飾り気のない素直さ。届かなくても伸ばす掌。
ただその姿を見るだけで、どこか、安心できた。
俺は声をかけず、少しだけ離れた位置に腰を下ろした。
彼女の訓練が終わるまで、静かに月を眺めることにした。
ふと、今日の昼の出来事を思い出す。
姫様の天幕で交わされたあの話題――
“キープ”。言語なき民が、結び目と紐によって記録を遺すという手法。
セレナなら、どう答えるのだろう――
そう思って、彼女が息を整えるのを待ってから、さりげなく声をかけた。
「セレナ。もし、“言葉がない人たち”が、紐で何かを残そうとしたら……どう思う?」
セレナは、きょとんとした顔でこちらを振り向いた。
「……んー……ごめんなさい、たぶん……そこまで考えてないと思いますよ、原住民さん」
悪気のない笑顔だった。
全力で考えた末の、まっすぐな答え。
「でも……その人たちは、“残したかった”んじゃないかな。うまく言えなくても、こう、伝えたいものが……あったから、むすんだのかもですっ」
そして彼女は、また波打ち際に向き直り、拳を握り直した。
――たしかに、言葉ではなかったかもしれない。
だが、伝わる気持ちというのは、案外そういうものなのかもしれない。
俺は、波と拳のリズムを聞きながら、静かに瞼を閉じた。
星の光が、静かに海面を撫でていた。
波は遠くでさざめき、潮の香りが砂浜を薄く包む。
焚き火の赤は小さく、俺とセレナの影を長く引いていた。
ふと、風の音にまぎれて、異なる気配が忍び寄る。
足音――
砂を踏みしめる、極めて軽い、だが確かに研ぎ澄まされた足音だった。
それはまるで舞の始まりのように、一定の間隔と呼吸を伴っていた。
俺が立ち上がったときには、すでにその者は、火の外縁に立っていた。
少女だった。
歳は十代前半――だが、子供とは言えぬ何かが、その輪郭にはあった。
仮面をつけている。白く、表情を持たないもの。額と頬に金の装飾が彫られている。
その身体は陽に焼けた肌を纏い、腰布と金の飾りが月光に揺れていた。
右手の甲を額に、左手を口元に。
静かに、まるで祈るような姿勢で構えを取る。
音も言葉もなく――
ただ、“挑む”という意思だけが、焚き火の赤を越えて届いた。
「……戦いたい、みたいです」
セレナが囁いた。
視線を仮面の少女に向けたまま、確信の籠もった声で続ける。
「さっきの剣さばきを見て、試したいと思ったんでしょう。……あれは、挑戦の構えです」
何か言葉を返す間もなく、少女の身体が地を滑る。
疾風。
そう表現するしかない。
踏み込みの音さえ聞こえなかった。
ただ、仮面の下の瞳が、月のような光を宿してこちらへ迫る。
――ッ!
身体が動くより前に、視界が傾いた。
右脇腹に、柔らかくも鋭い衝撃。
力ではない。だが、重心が狂わされた。
立ち直ろうとする前に、左手の甲が頬を掠める。
滑らかで、無駄がなく、隙がなかった。
呼吸の隙間に差し込まれる一連の動き――それは「型」として完成していた。
「……ッ!」
足がもつれる。視界が揺れる。
立て直せる。そう思った。
だが――次の瞬間、月の影が頭上にあった。
彼女の身体が回転し、金属の護手を嵌めた拳が、真上から振り下ろされる。
仮面の下で、言葉はなかった。
だがその沈黙が、何より多くを物語っていた。
視界が弾け、意識が、ふ、と宙に浮いた。
波の音が遠くなり、世界が静寂に包まれる。
暗闇のなかで、最後に聞こえたのは、腰飾りの鈴が一度だけ鳴った音だった。
――彼女の名を、俺は知らない。
だが、仮面の奥で揺れた琥珀の瞳だけが、
燃えた記憶のように、しばらく瞼の裏に残っていた。
目を覚ましたとき、そこには焚き火のぬくもりと、柔らかな手のひらがあった。
背中に敷かれた布は、セレナの上着だろう。
微かに潮の香りと、月草の匂いが混じっている。
すぐ傍に、小さな影が膝を折っていた。
火の明かりに照らされて、長い青緑の髪が揺れている。
「……おはようございます、勇者さま」
セレナは声を落としながら、俺の額にそっと手を置いた。
冷やした布をはずし、新しいものに取り替える。
「頭、少し打ってましたけど……大丈夫。目も、しっかりしてます」
その声音には、不思議な安心感があった。
千年を越える眠りを経たはずの少女が、まるでずっと隣にいたように自然だった。
俺は、喉の奥で少しだけ呻いた。
「……あの子は……?」
問いかけに、セレナは小さく首を振った。
焚き火の向こうを一瞥し、ぽつりと呟く。
「……もう、いません。すごく静かに、帰っていきました。……波に混ざって、消えるみたいに」
潮騒だけが残る。
空には、夜の星がまだ滲んでいた。
「名前も……聞けなかった」
「はい。……でも、わたし、すこしだけ分かった気がします」
セレナは、遠くを見つめたまま、指先を絡めるように組んだ。
「動きの癖と、重心の置き方。風の中での呼吸の合わせ方……
あれは、きっと――“舞いながら戦う人”です」
「……舞う?」
「戦いと踊りが、同じ意味を持つ民族……。昔、聖典に書いてありました。
“祈りと刃を一つにする南方の民”――って」
焚き火がぱちりと弾けた。
セレナの声は小さいままだったが、その瞳はどこか懐かしさを帯びていた。
「……あの人、誰かを守るためにあんなに強いんだと思います。
仮面をつけて、言葉を隠して、でも……目だけはすごくまっすぐで。
……勇者さまのこと、“試してる”みたいでした」
仮面の奥の瞳――
あの琥珀の光が、再び思い出される。
鋭さでも、敵意でもなかった。
ただ、まっすぐに“見る者”の眼差しだった。
「……次に来たら、勝ってくださいね」
セレナはそう言って、笑った。
ほんの少し、いたずらっぽく。
でもその笑みは、夜の海に浮かぶ月のように、穏やかで温かかった。