第9話:セレナ、第一歩を踏み出す
午下の陽光が、王都の石畳に柔らかな影を落としていた。
ゆるやかに風が吹き抜け、白い鳩が塔の上を旋回する。
その横を、小柄な少女が俺の歩幅に合わせて一歩ずつ並んで歩いていた。
セレナは、物珍しげに視線を上げる。
その蒼の瞳に映るのは、壮麗な尖塔、礼拝堂の大窓、街を囲う防壁の向こうにそびえる王城の影――
「勇者さま。あの、あの建物……上に丸い窓がたくさん並んでいて……大きな音が、してます」
その問いに、俺は足を止めた。
「あれは鐘楼付きの公会堂だよ。王都の議会や、時には舞踏会なんかもそこで開かれる。丸い窓は音を反響させる造りで……今鳴ってるのは、三刻の鐘だな」
セレナは「なるほど……」と頷いた後、小さく笑った。
まるで一つ一つの景色に、祈るように感動している。
「それから、左に見えるのが中央図書院。塔の形をしてるだろ? 魔法書や王国の記録を保管するため、火に強い魔術石が使われてる。あの一帯は、魔導士や学者たちの仕事場だ」
セレナは、そっと袖を握りながら言った。
「人の知恵って……建物の形にまで、表れるんですね。どれも、ひとつずつ……意味がある」
俺は、その言葉に少し驚いた。
セレナの言葉は、どこか“水の底から拾い上げた宝石”みたいな響きを持っている。
静かで、ゆっくりで、だけど決して軽くはない。
彼女の目に、俺が見慣れたはずの風景が、違う色に映っている。
――そう思ったら、不思議と胸が温かくなった。
そして、ふと思ったのだ。
もしこの街を、もう一度誰かに紹介する機会があるなら。
俺は、セレナに語った時と同じように、“その人の瞳に映る色”を想像しながら話したい。
「勇者さまは……本当に、お詳しいのですね」
セレナがそう呟いたのは、街の広場を抜けた先、噴水のそばだった。
白い水しぶきが陽を浴びて七色に輝き、そのかたわらで彼女は小さく手を合わせていた。
まるで、この街のひとつひとつが、祈りの対象であるかのように。
俺は、少しだけ肩をすくめた。
「いや、そんな大層なもんじゃないよ。ただ……王都に来たばかりの頃、姫様にいろいろ教わったんだ。建物のこと、制度のこと、人の流れ……あの人は、“街の形”からでも国の思想が見えるって言ってた」
そのときのことを、ふと思い出す。
夜遅く、政務の合間に姫様が俺に図書を見せてくれた。
真剣なまなざしで王都の地図を広げ、「この配置は市民の動線を意識した設計ですの」と微笑みながら話してくれたこと。
不器用な俺が、頷くたびに何度も優しく言い直してくれたこと。
あの時間が、たしかに今の俺を作っている。
セレナが向けてくれる笑顔は、俺の言葉に対するものだけど――
その根っこには、姫様の教えがある。
その事実が、どこか誇らしく、嬉しかった。
「俺がちゃんと覚えててよかったよ。誰かの役に立てるって、こういうことなんだな……って」
その言葉に、セレナは目を瞬かせると、少しだけ微笑んで――
「はい。とっても、あたたかいです」
まるで“心が撫でられるような”返事だった。
石畳の路地を抜けた先、ひときわ大きな歓声が、風に乗って耳を打った。
群衆の熱気に混じって、金属がぶつかる鋭い音が遠くから響いてくる。
「……あれは?」
セレナが立ち止まり、顔を上げた。
その瞳の奥に揺れる五芒星が、ほんのわずかに光を宿す。
「あの円形の建物は、闘技場だよ。
腕自慢の戦士たちが集まって、力を競い合う場だ。王都では昔から人気があってな。
“最強”という言葉に魅せられた者たちが、今日も中で剣を交えてる」
俺の説明に、セレナはしばし無言で耳を傾けていた。
そして、少しだけ首を傾げて、ぽつりと呟く。
「最強……って、誰かを倒すこと、なんですね」
その声には、否定も肯定もなかった。
ただ、知らない価値観を見つめるような、静かな興味があった。
「中、見てみるかい?」
問いかけると、セレナは迷いなく頷いた。
観客席の端へと足を踏み入れると、蒸気のように立ち昇る熱気。観衆のざわめきと鉄の匂いが肌を包む。
闘技場の中央では、二人の戦士が激しくぶつかり合っていた。
どちらも筋骨隆々で、彫像のような戦士の姿。
一人は盾を構え、寸分の隙もなく剣を振るう。
もう一人は両手に斧を持ち、獣じみた咆哮とともに突進する。
火花が散り、石床を蹴る音が響くたび、観客がどっと湧いた。
命のやり取りというより、技と力のぶつかり合い。その場の空気は、もはや祝祭に近かった。
隣を見ると、セレナは無言でそれを見つめていた。
瞳の奥に、静かに揺れる何かを宿しながら。
「……勇者さま」
「ん?」
「たくさんの人が、あの戦いを見て、声を上げてます。
わたしにはまだ、ちょっと、わからないことが……いっぱいあります」
それは拒絶ではなく、ただの観察だった。
俺は「そうだね」とだけ返し、視線を再び闘技場へと向けた。
「……あれが、“強い”ってことなんですね」
俺は、ゆっくりと息を吐いて言う。
「うん。でも……ああいうのは、騎士団の戦いとはちょっと違うんだ」
「違う?」
「騎士団の戦いは、“隊”の力が基本になる。
一人の強さじゃなくて、仲間と陣形を組んで、守るべきものを守る。それが前提だ。
だから、動きも統制されてて、無駄がない。命を落とさないよう、徹底して訓練されてる」
視線の先、闘技場では互いに全力で武器をぶつけ合い、汗を飛ばし、傷を誇る戦士たち。
その姿に、俺はどこか懐かしい感覚を覚えながらも、どこか異質なものを見る気持ちでもあった。
「あそこにいるのは“個”の戦士たちだ。
誇りと技だけで、ただ真正面から“どっちが上か”を決める」
「……どちらが、正しいのですか?」
セレナの問いに、俺は少しだけ微笑んだ。
「どっちが正しいかじゃなくて、どっちが“必要か”だよ。
守る戦いと、誇る戦い。
王都には、両方あっていいんだ。たぶん、そういう国なんだよな、ここは」
セレナは、ゆっくりと頷いた。
理解しきれたわけではないだろう。ただ、その言葉を丁寧に受け取るように。
「勇者さまは……どちらで戦うのですか?」
その問いに、少しだけ言葉を詰まらせた。
けれど、自然と浮かんだのは、騎士団の訓練場で、背中を預け合って戦った仲間の顔だった。
「俺は、守る方だな。仲間がいて、支え合って、誰かを守れる戦いのほうが……性に合ってる」
「……ふふっ。そう思ってました」
セレナはそっと、俺の隣に立ち直る。
その手は小さいのに、なぜかとても頼もしく感じられた。
突然、闘技場の空気が変わった。
歓声が静まり、ひときわ鋭い視線が俺に突き刺さる。
対角の円形砂地に立つのは、鋼のごとき肉体を持つ戦士。
血のような赤い布をまとい、陽光の下で汗が鈍く輝いていた。
「――そこの者。もしや“勇者”か」
観客の間にざわめきが走る。
俺は、視線を返した。その男は俺を指している。疑いようもなく。
「そ、そうだけど……俺になにか用ですか?」
「勝負を望む。手加減はしない」
セレナが目を見開いた。
「勇者さま……っ、これは……!」
俺もすぐに断ろうとした。
戦いたいわけじゃない。こんな見世物のために剣を振るう理由なんて、どこにもない。
――けれど、背後で誰かが囁いた。
「王国の勇者が……挑まれて逃げるとはな」
俺は言葉を止める。
ここで断ることは――“王家の恥”となる。
それはつまり、姫様の顔に泥を塗ること。俺にとって、それだけは許されなかった。
俺は剣を手に取った。
「……わかった。受けるよ」
静かに。けれどはっきりと。
セレナが、俺の袖をきゅっと握った。
その指先は震えていたが、表情には信頼があった。
「……気をつけてください。勇者さま」
俺は一度だけ頷くと、円形闘技場の中央へと歩み出た。
観客席から歓声が再びあがる。だが、心は静かだった。
――ただの勝ち負けじゃない。
これは、“王国の威信”を背負った戦いだ。
鋼の戦士が槍を構えた。
俺も剣を構える。
「来い、“勇者”」
俺は、小さく息を吐いた。
そして――前へ踏み出す。
開始の鐘が、乾いた音を響かせた。
その瞬間、鉄槌のような一撃が、砂塵を巻き上げて襲いかかる。
戦士の斧は重く、速かった。
筋肉に任せた突進ではない。鍛え抜かれた動きだった。
――だが。
俺の剣は、一歩も引かなかった。
音が、止まったかのように感じた。
ほんのわずかな刃の角度。そのわずかな“面”に斧が乗った瞬間、
俺は剣を反らせ、斧の勢いをそのまま受け流した。
ガン、と音がして、地面に火花が散る。
次の瞬間には、俺の足が動いていた。
一歩、踏み込み。剣を下げ、腰を回す。
――力任せではない。
研ぎ澄まされた技術と、冷静な判断。
まるで踊るように、俺の剣は相手の間合いを崩し、呼吸を奪った。
「くっ……!」
戦士は叫んだが、もはや遅かった。
斧は振れず、踏み出した膝が、砂に沈んでいた。
沈黙が、闘技場を包む。
戦士は、肩で息をしながら、しばし俺を見上げ――やがて、静かに膝をついた。
「……敗けだ」
観客の一部から、驚きと賞賛のざわめきが上がる。
けれど俺は、それに応えず、剣を収めて踵を返した。
観客席で、セレナが目を見開いていた。
その瞳の奥の五芒星が、淡く震えている。
「……勇者さま、すごい……かっこよかったです」
胸元に手を当てた彼女の顔には、尊敬と憧れがにじんでいた。
闘技場の喧騒は遠ざかり、街路には穏やかな風が吹いていた。
セレナは俺の隣を歩きながら、ふと足を止め、小さく首を傾げた。
「……あんなに大きな人と戦って、怖くはないのですか?」
その問いに、俺は一拍置いて、肩を竦めた。
思わず、苦笑がこぼれる。
「……もちろん、怖いよ。今でもずっと、怖いままさ」
セレナの蒼い瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。
俺はその視線から目を逸らさず、少しだけ空を仰いだ。
「だけど――」
言葉を選ぶように、静かに続ける。
「光の剣に選ばれたとか、そういうのは、正直ピンとこなかった。
“勇者”って言われても、ただの村人だったし、強くもなかったしさ」
手のひらを見つめる。
剣を握り、誰かを守ってきたこの手は、それでも、どこか頼りない。
「でも……姫様が、俺を選んでくれたときだけは、不思議と怖くなかった」
剣より、ずっとあたたかかった。
「怖いものを、見ないようにしてるんじゃない。
ただ、“このまま逃げたら、あの人に顔向けできない”って思うと、自然と前に進めるんだ」
セレナはしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑み、俺の隣にそっと並び直した。
「……やっぱり、勇者さまは、すごいです」
「そんなことないって」
「それでも、わたしはそう思いました」
その笑顔に、俺は言葉を返せなかった。
ただ、心のどこかが、少しだけ温かくなるのを感じていた。
俺の顔を見上げるその瞳は、澄んだ空のようにまっすぐだった。
「……わ、わたしも」
言葉に詰まりながらも、彼女は続けた。
「わたしも……勇者さまのようになりたいです」
意外だった。彼女が自分からそんな願いを口にするのは、きっと初めてだった。
「ここで……穏やかに過ごすのも、とても嬉しいです。でも……それだけじゃ、駄目な気がするんです」
胸の前で、小さな拳を握る。
「勇者さまが、リアノさまにとっての“支え”であるように。
わたしも、いつか――誰かにとって、そんな存在になれたらって、思いました」
その言葉には、焦りも、背伸びもなかった。
ただ静かな願いと、芯のある決意だけがこもっていた。
俺はゆっくりと頷いた。
「……セレナなら、なれると思うよ」
「えへへ……」
照れくさそうに笑ったあと、セレナはそっと視線を落とした。
けれど、その耳は、ほんのり赤く染まっていた。
ラルフに顔向けできるから――ではない。
これは、セレナ自身の、意志だ。
そう思えたことが、なんだか嬉しかった。
その日の夜。
王城の東翼、静謐な書見室にて、俺は姫様に日中の出来事を報告していた。
セレナの言葉、戦士との戦い、そして、彼女の目に宿っていたあの強い光。
ひととおり話し終えると、姫様は手元の文書に目を落としたまま、ふっと穏やかに微笑んだ。
「……そうですか。セレナが、自ら望んだのですね」
金糸のような髪が揺れる。静かだが、確かな肯定。
「そのような変化は、誰かに強いられてできるものではありません。
――立派な成長でございます」
それは、あくまで事実を述べる口調だった。だが、そこには優しい温度があった。
しばらく沈黙が流れたのち、姫様は机に手を置き、静かに俺のほうを見つめた。
「勇者様。ひとつ提案がございます」
「……なんでしょうか」
「セレナに、“助手”という役割を与えてみては如何でしょう」
その言葉に、思わず眉を上げる。
「戦場で剣を振るうようなことではなく、あくまで補佐として――あなたの行動の近くに置いてみるのです。
今までのように守るだけではなく、共に動くことで、見える景色も変わってくるでしょう」
姫様の瞳は、揺るがない静けさを湛えていた。
「もちろん、最終的なご判断はお任せいたします。
けれど、もしセレナが誰かの“支え”になりたいと願っているのなら、最も自然な相手は、今のところあなた以外にいないでしょう」
静かに、けれど確かに背中を押すような、姫様らしい配慮。
俺はゆっくりと頷いた。
「……わかりました。様子を見ながら、やってみます」
「どうか、よろしくお願いいたします」
姫様はふわりと微笑んだ。
その笑みには、信頼と、どこかくすぐったいような含みと――
少しだけ、寂しさのようなものが混じっていたように、思えた。
「ですが、姫様は――よろしいのでしょうか?」
報告の余韻が残る静かな室内で、俺は思わず問いを漏らした。
姫様は視線を上げ、落ち着いた声で問い返す。
「と、言いますと?」
「……一応、俺たちは婚約関係です。
そんな俺のそばに、年頃の女の子を“正式な立場”で置くのは、世間からどう思われるか――」
そこまで言いかけて、俺は言葉を切った。
どこか、自分が情けなくなった気がした。
けれど姫様は、微かに目を細めて、やわらかに首を振った。
「勇者様。世間体より――目の前の少女を見なさい。
彼女は今、自ら歩き出そうとしております。
それを“婚約者がどうこう”で止めるのは、不誠実ですわ」
一拍置いて、姫様は静かに微笑んだ。
「私は、嫉妬するほど狭量な婚約者ではございません」
さらりと告げられた言葉に、胸の奥が熱を帯びた。
俺は、何を気にしていたんだろう。
この人はいつだって、俺を信じてくれているのに。
自分の小ささが、恥ずかしくなった。
そして――
(この人に、選ばれて良かった)
心の底から、そう思った。
しばしの沈黙が落ちた。
俺は視線を伏せたまま、そっと口を開いた。
「……ありがとう、ございます」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
この人の寛容さと、信頼に応えたいという思いだけが、胸の奥で静かに燃えていた。
姫様は、椅子から立ち上がると、歩み寄り――俺の前で、ふわりと膝をついた。
その気高い瞳が、まっすぐに俺を見つめる。
「勇者様」
名前ではなく、あえてそう呼ばれたことに、気づく。
「あなたは、わたくしの誇りですわ」
その言葉は、剣よりも重く、
それでいて――どんな鎧よりも、俺を強くしてくれた。
俺はただ、黙って頷いた。
この人に誓った未来を、必ず守るために。
朝の光が、淡く石畳を照らしていた。
俺が支度を整えていると、控えめなノック音が響いた。
「……どうぞ」
扉がそっと開き、小さな影が覗き込む。
「おはようございます、勇者さまっ!」
セレナは眩しいくらいに明るい笑顔を浮かべながら、
ぱっと小さな拳を握り、ぐっと胸の前に突き出した。
「助手として――がんばります、ですっ!」
その声音には、気負いも、遠慮もなかった。
ただ真っ直ぐな意志だけが宿っていて、俺は思わず目を細める。
「……うん。よろしく頼むな、セレナ」
そう返すと、セレナはふわっと頷いて、ちょこんと俺の隣に立った。
肩先がほんのわずかに触れる距離――
けれど、それはとても自然な並び方だった。
騎士団本部の門をくぐると、そこはいつもの朝よりも少し、ざわめいていた。
「おはよう、セレナちゃん」
「今日から“助手さん”なんだって?」
すれ違う騎士たちが、自然な笑顔で声をかけてくる。
彼らにとって、セレナはすでに“ただの来客”ではなかった。
――お弁当を届けに来たり、手紙を持ってきたり。
日々の細やかなやりとりのなかで、彼女はもう、ここにとけ込んでいたのだ。
「はいっ、本日より……勇者さまの、おそばで……がんばります、ですっ!」
そう答えるセレナの声は、どこか緊張していて、それでいて嬉しさが滲んでいた。
彼女の言葉に、若い騎士たちが拍手を送る。
「よっ、正式採用おめでとう!」
「勇者殿の補佐なんて、大役だぞ~!」
そこへ――。
「おうおう、お祭りか?」
飄々とした声が響いたかと思うと、人垣の向こうからひときわ大柄な男が現れた。
「部隊長……!」
第3部隊を率いる男、ランツェ=ガルヴァニア。
灰色の髪に年季の入った鎧。日焼けした皮膚に、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。
「……いやー、セレナちゃん。今日から助手って聞いてさ。おじさん、もう涙が出そうだよね」
セレナは、いつものようにぺこりと頭を下げた。
「ランツェさん。おはようございます」
「ああおはよう。いやぁほんと……なんというかさ、
困ってる子を放っておけないってのが、おじさんの悪い癖でねぇ」
と、どこか照れ隠しのように笑って、ランツェは軽く頭をかいた。
「でもまぁ、正式にこっちの仲間ってわけだ。今後ともよろしくな、セレナ助手殿」
「はいっ! こちらこそ、よろしくお願いしますっ!」
いつもの騎士団の空気。
でも――今日はほんの少しだけ、誇らしい気持ちが混じっていた。
俺は隣でセレナが小さく拳を握るのを見ながら、
この場所が、彼女にとっての“居場所”になりつつあるのを、確かに感じていた。
「よしよし、セレナちゃん。肩の力、ちょいと抜いてこ?」
俺と話していたセレナの背に、ぽん、と大きな手が置かれる。
ランツェ部隊長は、まるで娘に語るような調子で、ゆっくりと言葉を継いだ。
「最初はな、勇者どのの助手として動く、それでおっけーだよ。無理すんな、無理はよくない。
いきなり全部やろうなんて、そりゃあ“おじさん”でも無理ってもんよ」
セレナが小さくうなずくと、ランツェは笑った。
「慣れてきたら、ちょっとずつ他の手伝いもやってごらん。
雑用でも見回りでも、自立ってのはそういう積み重ねだからさ」
その語り口には、どこか“親戚のしっかりしたおじさん”感がにじんでいた。
「でな、せっかくだから――うちの嫁さん。アザレアって言うんだけどもね?
ギルド本部の長で、ちょーっと怖いけど優しいよ。おじさん保証する。
あいつに声かけて、ギルドの仕事もちょっと体験してみな? いろんな立場で見るの、大事だよ。多角的視野ってやつな」
「多角的、ですか……?」
セレナが首を傾げると、ランツェはにこっと笑い――どこか遠くを見る目になった。
「うん、そう。騎士団、ギルド、市井の人々……そういうの、全部見て触れてみるとさ、
“本当に守りたいもの”ってのが、ぼやーっとじゃなくて、ちゃんと見えてくるんだよ。
おじさんも、昔は……いや、まぁ、長くなるからやめとこっか。うんうん」
ひとしきり語り終えると、ランツェはセレナの肩を軽く叩いた。
「だから、焦らなくていいけど――しっかりな、セレナちゃん。
ボクのかわいい部下たちが、アンタのこと、ちゃんと仲間として迎えたいって思ってるからさ」
「……はいっ」
セレナはまっすぐに頭を下げた。
その小さな背中に宿る光を、俺は黙って見守った。
それから、一週間の時が流れた。
セレナはよく働いた。
失敗もあった。魔導具の取扱いを誤ったり、報告用紙を風で吹き飛ばしてしまったこともあった。
けれど、王都騎士団は誰一人として彼女を責めなかった。
むしろ、そのひたむきさを支えようと、多くの騎士たちが自然と手を差し伸べた。
彼女の成長は、個人の努力だけでなく、この場に根付く“善き空気”に育まれたものだった。
そして、何より目を見張るのは――訓練場に立つ彼女の姿である。
徒手空拳の構えをとる細い両腕。
その手足に、淡い青の風が巻きついている。
魔力を失ったはずの少女が、今は風と一つになり、舞うように戦っている。
その技に、派手な威力はない。
力の比では、見習い騎士たちと互角か、あるいはやや劣る程度だ。
それでも――見惚れた。
風を纏い、表情に宿る確かな自信。
あれはもう、かつて水底に沈んでいた“ただ守られるだけの存在”ではない。
人の世に立ち、誰かを守る側へと歩みを進める者の目をしていた。
俺はそれを、静かに、誇らしく見守っていた。