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勇者になった俺  作者: 狐御前
第2章
22/39

第9話:セレナ、第一歩を踏み出す

 午下の陽光が、王都の石畳に柔らかな影を落としていた。

 ゆるやかに風が吹き抜け、白い鳩が塔の上を旋回する。

 その横を、小柄な少女が俺の歩幅に合わせて一歩ずつ並んで歩いていた。


 セレナは、物珍しげに視線を上げる。

 その蒼の瞳に映るのは、壮麗な尖塔、礼拝堂の大窓、街を囲う防壁の向こうにそびえる王城の影――


「勇者さま。あの、あの建物……上に丸い窓がたくさん並んでいて……大きな音が、してます」


 その問いに、俺は足を止めた。


「あれは鐘楼付きの公会堂だよ。王都の議会や、時には舞踏会なんかもそこで開かれる。丸い窓は音を反響させる造りで……今鳴ってるのは、三刻の鐘だな」


 セレナは「なるほど……」と頷いた後、小さく笑った。

 まるで一つ一つの景色に、祈るように感動している。


「それから、左に見えるのが中央図書院。塔の形をしてるだろ? 魔法書や王国の記録を保管するため、火に強い魔術石が使われてる。あの一帯は、魔導士や学者たちの仕事場だ」


 セレナは、そっと袖を握りながら言った。


「人の知恵って……建物の形にまで、表れるんですね。どれも、ひとつずつ……意味がある」


 俺は、その言葉に少し驚いた。


 セレナの言葉は、どこか“水の底から拾い上げた宝石”みたいな響きを持っている。

 静かで、ゆっくりで、だけど決して軽くはない。


 彼女の目に、俺が見慣れたはずの風景が、違う色に映っている。

 ――そう思ったら、不思議と胸が温かくなった。


 そして、ふと思ったのだ。


 もしこの街を、もう一度誰かに紹介する機会があるなら。

 俺は、セレナに語った時と同じように、“その人の瞳に映る色”を想像しながら話したい。


「勇者さまは……本当に、お詳しいのですね」


 セレナがそう呟いたのは、街の広場を抜けた先、噴水のそばだった。

 白い水しぶきが陽を浴びて七色に輝き、そのかたわらで彼女は小さく手を合わせていた。

 まるで、この街のひとつひとつが、祈りの対象であるかのように。


 俺は、少しだけ肩をすくめた。


「いや、そんな大層なもんじゃないよ。ただ……王都に来たばかりの頃、姫様にいろいろ教わったんだ。建物のこと、制度のこと、人の流れ……あの人は、“街の形”からでも国の思想が見えるって言ってた」


 そのときのことを、ふと思い出す。


 夜遅く、政務の合間に姫様が俺に図書を見せてくれた。

 真剣なまなざしで王都の地図を広げ、「この配置は市民の動線を意識した設計ですの」と微笑みながら話してくれたこと。

 不器用な俺が、頷くたびに何度も優しく言い直してくれたこと。


 あの時間が、たしかに今の俺を作っている。


 セレナが向けてくれる笑顔は、俺の言葉に対するものだけど――

 その根っこには、姫様の教えがある。

 その事実が、どこか誇らしく、嬉しかった。


「俺がちゃんと覚えててよかったよ。誰かの役に立てるって、こういうことなんだな……って」


 その言葉に、セレナは目を瞬かせると、少しだけ微笑んで――


「はい。とっても、あたたかいです」


 まるで“心が撫でられるような”返事だった。


 石畳の路地を抜けた先、ひときわ大きな歓声が、風に乗って耳を打った。

 群衆の熱気に混じって、金属がぶつかる鋭い音が遠くから響いてくる。


「……あれは?」


 セレナが立ち止まり、顔を上げた。

 その瞳の奥に揺れる五芒星が、ほんのわずかに光を宿す。


「あの円形の建物は、闘技場だよ。

 腕自慢の戦士たちが集まって、力を競い合う場だ。王都では昔から人気があってな。

 “最強”という言葉に魅せられた者たちが、今日も中で剣を交えてる」


 俺の説明に、セレナはしばし無言で耳を傾けていた。

 そして、少しだけ首を傾げて、ぽつりと呟く。


「最強……って、誰かを倒すこと、なんですね」


 その声には、否定も肯定もなかった。

 ただ、知らない価値観を見つめるような、静かな興味があった。


「中、見てみるかい?」


 問いかけると、セレナは迷いなく頷いた。


 観客席の端へと足を踏み入れると、蒸気のように立ち昇る熱気。観衆のざわめきと鉄の匂いが肌を包む。


 闘技場の中央では、二人の戦士が激しくぶつかり合っていた。

 どちらも筋骨隆々で、彫像のような戦士の姿。


 一人は盾を構え、寸分の隙もなく剣を振るう。

 もう一人は両手に斧を持ち、獣じみた咆哮とともに突進する。


 火花が散り、石床を蹴る音が響くたび、観客がどっと湧いた。

 命のやり取りというより、技と力のぶつかり合い。その場の空気は、もはや祝祭に近かった。


 隣を見ると、セレナは無言でそれを見つめていた。

 瞳の奥に、静かに揺れる何かを宿しながら。


「……勇者さま」


「ん?」


「たくさんの人が、あの戦いを見て、声を上げてます。

 わたしにはまだ、ちょっと、わからないことが……いっぱいあります」


 それは拒絶ではなく、ただの観察だった。

 俺は「そうだね」とだけ返し、視線を再び闘技場へと向けた。


「……あれが、“強い”ってことなんですね」


 俺は、ゆっくりと息を吐いて言う。


「うん。でも……ああいうのは、騎士団の戦いとはちょっと違うんだ」


「違う?」


「騎士団の戦いは、“隊”の力が基本になる。

 一人の強さじゃなくて、仲間と陣形を組んで、守るべきものを守る。それが前提だ。

 だから、動きも統制されてて、無駄がない。命を落とさないよう、徹底して訓練されてる」


 視線の先、闘技場では互いに全力で武器をぶつけ合い、汗を飛ばし、傷を誇る戦士たち。

 その姿に、俺はどこか懐かしい感覚を覚えながらも、どこか異質なものを見る気持ちでもあった。


「あそこにいるのは“個”の戦士たちだ。

 誇りと技だけで、ただ真正面から“どっちが上か”を決める」


「……どちらが、正しいのですか?」


 セレナの問いに、俺は少しだけ微笑んだ。


「どっちが正しいかじゃなくて、どっちが“必要か”だよ。

 守る戦いと、誇る戦い。

 王都には、両方あっていいんだ。たぶん、そういう国なんだよな、ここは」


 セレナは、ゆっくりと頷いた。

 理解しきれたわけではないだろう。ただ、その言葉を丁寧に受け取るように。


「勇者さまは……どちらで戦うのですか?」


 その問いに、少しだけ言葉を詰まらせた。

 けれど、自然と浮かんだのは、騎士団の訓練場で、背中を預け合って戦った仲間の顔だった。


「俺は、守る方だな。仲間がいて、支え合って、誰かを守れる戦いのほうが……性に合ってる」


「……ふふっ。そう思ってました」


 セレナはそっと、俺の隣に立ち直る。

 その手は小さいのに、なぜかとても頼もしく感じられた。




 突然、闘技場の空気が変わった。


 歓声が静まり、ひときわ鋭い視線が俺に突き刺さる。

 対角の円形砂地に立つのは、鋼のごとき肉体を持つ戦士。

 血のような赤い布をまとい、陽光の下で汗が鈍く輝いていた。


「――そこの者。もしや“勇者”か」


 観客の間にざわめきが走る。

 俺は、視線を返した。その男は俺を指している。疑いようもなく。


「そ、そうだけど……俺になにか用ですか?」

「勝負を望む。手加減はしない」


 セレナが目を見開いた。


「勇者さま……っ、これは……!」


 俺もすぐに断ろうとした。

 戦いたいわけじゃない。こんな見世物のために剣を振るう理由なんて、どこにもない。


 ――けれど、背後で誰かが囁いた。


「王国の勇者が……挑まれて逃げるとはな」


 俺は言葉を止める。

 ここで断ることは――“王家の恥”となる。

 それはつまり、姫様の顔に泥を塗ること。俺にとって、それだけは許されなかった。


 俺は剣を手に取った。


「……わかった。受けるよ」


 静かに。けれどはっきりと。


 セレナが、俺の袖をきゅっと握った。

 その指先は震えていたが、表情には信頼があった。


「……気をつけてください。勇者さま」


 俺は一度だけ頷くと、円形闘技場の中央へと歩み出た。

 観客席から歓声が再びあがる。だが、心は静かだった。


 ――ただの勝ち負けじゃない。

 これは、“王国の威信”を背負った戦いだ。


 鋼の戦士が槍を構えた。

 俺も剣を構える。


「来い、“勇者”」


 俺は、小さく息を吐いた。

 そして――前へ踏み出す。


 開始の鐘が、乾いた音を響かせた。

 その瞬間、鉄槌のような一撃が、砂塵を巻き上げて襲いかかる。


 戦士の斧は重く、速かった。

 筋肉に任せた突進ではない。鍛え抜かれた動きだった。


 ――だが。


 俺の剣は、一歩も引かなかった。


 音が、止まったかのように感じた。

 ほんのわずかな刃の角度。そのわずかな“面”に斧が乗った瞬間、

 俺は剣を反らせ、斧の勢いをそのまま受け流した。


 ガン、と音がして、地面に火花が散る。

 次の瞬間には、俺の足が動いていた。


 一歩、踏み込み。剣を下げ、腰を回す。


 ――力任せではない。

 研ぎ澄まされた技術と、冷静な判断。

 まるで踊るように、俺の剣は相手の間合いを崩し、呼吸を奪った。


「くっ……!」


 戦士は叫んだが、もはや遅かった。

 斧は振れず、踏み出した膝が、砂に沈んでいた。


 沈黙が、闘技場を包む。


 戦士は、肩で息をしながら、しばし俺を見上げ――やがて、静かに膝をついた。


「……敗けだ」


 観客の一部から、驚きと賞賛のざわめきが上がる。

 けれど俺は、それに応えず、剣を収めて踵を返した。


 観客席で、セレナが目を見開いていた。

 その瞳の奥の五芒星が、淡く震えている。


「……勇者さま、すごい……かっこよかったです」


 胸元に手を当てた彼女の顔には、尊敬と憧れがにじんでいた。



 闘技場の喧騒は遠ざかり、街路には穏やかな風が吹いていた。

 セレナは俺の隣を歩きながら、ふと足を止め、小さく首を傾げた。


「……あんなに大きな人と戦って、怖くはないのですか?」


 その問いに、俺は一拍置いて、肩を竦めた。

 思わず、苦笑がこぼれる。


「……もちろん、怖いよ。今でもずっと、怖いままさ」


 セレナの蒼い瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。

 俺はその視線から目を逸らさず、少しだけ空を仰いだ。


「だけど――」


 言葉を選ぶように、静かに続ける。


「光の剣に選ばれたとか、そういうのは、正直ピンとこなかった。

 “勇者”って言われても、ただの村人だったし、強くもなかったしさ」


 手のひらを見つめる。

 剣を握り、誰かを守ってきたこの手は、それでも、どこか頼りない。


「でも……姫様が、俺を選んでくれたときだけは、不思議と怖くなかった」


 剣より、ずっとあたたかかった。


「怖いものを、見ないようにしてるんじゃない。

 ただ、“このまま逃げたら、あの人に顔向けできない”って思うと、自然と前に進めるんだ」


 セレナはしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑み、俺の隣にそっと並び直した。


「……やっぱり、勇者さまは、すごいです」


「そんなことないって」


「それでも、わたしはそう思いました」


 その笑顔に、俺は言葉を返せなかった。

 ただ、心のどこかが、少しだけ温かくなるのを感じていた。


 俺の顔を見上げるその瞳は、澄んだ空のようにまっすぐだった。


「……わ、わたしも」


 言葉に詰まりながらも、彼女は続けた。


「わたしも……勇者さまのようになりたいです」


 意外だった。彼女が自分からそんな願いを口にするのは、きっと初めてだった。


「ここで……穏やかに過ごすのも、とても嬉しいです。でも……それだけじゃ、駄目な気がするんです」


 胸の前で、小さな拳を握る。


「勇者さまが、リアノさまにとっての“支え”であるように。

 わたしも、いつか――誰かにとって、そんな存在になれたらって、思いました」


 その言葉には、焦りも、背伸びもなかった。

 ただ静かな願いと、芯のある決意だけがこもっていた。


 俺はゆっくりと頷いた。


「……セレナなら、なれると思うよ」


「えへへ……」


 照れくさそうに笑ったあと、セレナはそっと視線を落とした。

 けれど、その耳は、ほんのり赤く染まっていた。


 ラルフに顔向けできるから――ではない。

 これは、セレナ自身の、意志だ。


 そう思えたことが、なんだか嬉しかった。




 その日の夜。

 王城の東翼、静謐な書見室にて、俺は姫様に日中の出来事を報告していた。


 セレナの言葉、戦士との戦い、そして、彼女の目に宿っていたあの強い光。


 ひととおり話し終えると、姫様は手元の文書に目を落としたまま、ふっと穏やかに微笑んだ。


「……そうですか。セレナが、自ら望んだのですね」


 金糸のような髪が揺れる。静かだが、確かな肯定。


「そのような変化は、誰かに強いられてできるものではありません。

 ――立派な成長でございます」


 それは、あくまで事実を述べる口調だった。だが、そこには優しい温度があった。


 しばらく沈黙が流れたのち、姫様は机に手を置き、静かに俺のほうを見つめた。


「勇者様。ひとつ提案がございます」


「……なんでしょうか」


「セレナに、“助手”という役割を与えてみては如何でしょう」


 その言葉に、思わず眉を上げる。


「戦場で剣を振るうようなことではなく、あくまで補佐として――あなたの行動の近くに置いてみるのです。

 今までのように守るだけではなく、共に動くことで、見える景色も変わってくるでしょう」


 姫様の瞳は、揺るがない静けさを湛えていた。


「もちろん、最終的なご判断はお任せいたします。

 けれど、もしセレナが誰かの“支え”になりたいと願っているのなら、最も自然な相手は、今のところあなた以外にいないでしょう」


 静かに、けれど確かに背中を押すような、姫様らしい配慮。


 俺はゆっくりと頷いた。


「……わかりました。様子を見ながら、やってみます」


「どうか、よろしくお願いいたします」


 姫様はふわりと微笑んだ。


 その笑みには、信頼と、どこかくすぐったいような含みと――

 少しだけ、寂しさのようなものが混じっていたように、思えた。


「ですが、姫様は――よろしいのでしょうか?」


 報告の余韻が残る静かな室内で、俺は思わず問いを漏らした。


 姫様は視線を上げ、落ち着いた声で問い返す。


「と、言いますと?」


「……一応、俺たちは婚約関係です。

 そんな俺のそばに、年頃の女の子を“正式な立場”で置くのは、世間からどう思われるか――」


 そこまで言いかけて、俺は言葉を切った。

 どこか、自分が情けなくなった気がした。


 けれど姫様は、微かに目を細めて、やわらかに首を振った。


「勇者様。世間体より――目の前の少女を見なさい。

 彼女は今、自ら歩き出そうとしております。

 それを“婚約者がどうこう”で止めるのは、不誠実ですわ」


 一拍置いて、姫様は静かに微笑んだ。


「私は、嫉妬するほど狭量な婚約者ではございません」


 さらりと告げられた言葉に、胸の奥が熱を帯びた。


 俺は、何を気にしていたんだろう。

 この人はいつだって、俺を信じてくれているのに。


 自分の小ささが、恥ずかしくなった。

 そして――


(この人に、選ばれて良かった)


 心の底から、そう思った。


 しばしの沈黙が落ちた。


 俺は視線を伏せたまま、そっと口を開いた。


「……ありがとう、ございます」


 それ以上の言葉は、出てこなかった。

 この人の寛容さと、信頼に応えたいという思いだけが、胸の奥で静かに燃えていた。


 姫様は、椅子から立ち上がると、歩み寄り――俺の前で、ふわりと膝をついた。

 その気高い瞳が、まっすぐに俺を見つめる。


「勇者様」


 名前ではなく、あえてそう呼ばれたことに、気づく。


「あなたは、わたくしの誇りですわ」


 その言葉は、剣よりも重く、

 それでいて――どんな鎧よりも、俺を強くしてくれた。


 俺はただ、黙って頷いた。

 この人に誓った未来を、必ず守るために。




 朝の光が、淡く石畳を照らしていた。


 俺が支度を整えていると、控えめなノック音が響いた。


「……どうぞ」


 扉がそっと開き、小さな影が覗き込む。


「おはようございます、勇者さまっ!」


 セレナは眩しいくらいに明るい笑顔を浮かべながら、

 ぱっと小さな拳を握り、ぐっと胸の前に突き出した。


「助手として――がんばります、ですっ!」


 その声音には、気負いも、遠慮もなかった。

 ただ真っ直ぐな意志だけが宿っていて、俺は思わず目を細める。


「……うん。よろしく頼むな、セレナ」


 そう返すと、セレナはふわっと頷いて、ちょこんと俺の隣に立った。

 肩先がほんのわずかに触れる距離――

 けれど、それはとても自然な並び方だった。


 騎士団本部の門をくぐると、そこはいつもの朝よりも少し、ざわめいていた。


「おはよう、セレナちゃん」

「今日から“助手さん”なんだって?」


 すれ違う騎士たちが、自然な笑顔で声をかけてくる。

 彼らにとって、セレナはすでに“ただの来客”ではなかった。


 ――お弁当を届けに来たり、手紙を持ってきたり。

 日々の細やかなやりとりのなかで、彼女はもう、ここにとけ込んでいたのだ。


「はいっ、本日より……勇者さまの、おそばで……がんばります、ですっ!」


 そう答えるセレナの声は、どこか緊張していて、それでいて嬉しさが滲んでいた。


 彼女の言葉に、若い騎士たちが拍手を送る。


「よっ、正式採用おめでとう!」

「勇者殿の補佐なんて、大役だぞ~!」


 そこへ――。


「おうおう、お祭りか?」


 飄々とした声が響いたかと思うと、人垣の向こうからひときわ大柄な男が現れた。


「部隊長……!」


 第3部隊を率いる男、ランツェ=ガルヴァニア。

 灰色の髪に年季の入った鎧。日焼けした皮膚に、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。


「……いやー、セレナちゃん。今日から助手って聞いてさ。おじさん、もう涙が出そうだよね」


 セレナは、いつものようにぺこりと頭を下げた。


「ランツェさん。おはようございます」


「ああおはよう。いやぁほんと……なんというかさ、

 困ってる子を放っておけないってのが、おじさんの悪い癖でねぇ」


 と、どこか照れ隠しのように笑って、ランツェは軽く頭をかいた。


「でもまぁ、正式にこっちの仲間ってわけだ。今後ともよろしくな、セレナ助手殿」


「はいっ! こちらこそ、よろしくお願いしますっ!」


 いつもの騎士団の空気。

 でも――今日はほんの少しだけ、誇らしい気持ちが混じっていた。


 俺は隣でセレナが小さく拳を握るのを見ながら、

 この場所が、彼女にとっての“居場所”になりつつあるのを、確かに感じていた。


「よしよし、セレナちゃん。肩の力、ちょいと抜いてこ?」


 俺と話していたセレナの背に、ぽん、と大きな手が置かれる。

 ランツェ部隊長は、まるで娘に語るような調子で、ゆっくりと言葉を継いだ。


「最初はな、勇者どのの助手として動く、それでおっけーだよ。無理すんな、無理はよくない。

 いきなり全部やろうなんて、そりゃあ“おじさん”でも無理ってもんよ」


 セレナが小さくうなずくと、ランツェは笑った。


「慣れてきたら、ちょっとずつ他の手伝いもやってごらん。

 雑用でも見回りでも、自立ってのはそういう積み重ねだからさ」


 その語り口には、どこか“親戚のしっかりしたおじさん”感がにじんでいた。


「でな、せっかくだから――うちの嫁さん。アザレアって言うんだけどもね?

 ギルド本部の長で、ちょーっと怖いけど優しいよ。おじさん保証する。

 あいつに声かけて、ギルドの仕事もちょっと体験してみな? いろんな立場で見るの、大事だよ。多角的視野ってやつな」


「多角的、ですか……?」


 セレナが首を傾げると、ランツェはにこっと笑い――どこか遠くを見る目になった。


「うん、そう。騎士団、ギルド、市井の人々……そういうの、全部見て触れてみるとさ、

 “本当に守りたいもの”ってのが、ぼやーっとじゃなくて、ちゃんと見えてくるんだよ。

 おじさんも、昔は……いや、まぁ、長くなるからやめとこっか。うんうん」


 ひとしきり語り終えると、ランツェはセレナの肩を軽く叩いた。


「だから、焦らなくていいけど――しっかりな、セレナちゃん。

 ボクのかわいい部下たちが、アンタのこと、ちゃんと仲間として迎えたいって思ってるからさ」


「……はいっ」


 セレナはまっすぐに頭を下げた。

 その小さな背中に宿る光を、俺は黙って見守った。



 それから、一週間の時が流れた。


 セレナはよく働いた。

 失敗もあった。魔導具の取扱いを誤ったり、報告用紙を風で吹き飛ばしてしまったこともあった。

 けれど、王都騎士団は誰一人として彼女を責めなかった。

 むしろ、そのひたむきさを支えようと、多くの騎士たちが自然と手を差し伸べた。

 彼女の成長は、個人の努力だけでなく、この場に根付く“善き空気”に育まれたものだった。


 そして、何より目を見張るのは――訓練場に立つ彼女の姿である。


 徒手空拳の構えをとる細い両腕。

 その手足に、淡い青の風が巻きついている。

 魔力を失ったはずの少女が、今は風と一つになり、舞うように戦っている。


 その技に、派手な威力はない。

 力の比では、見習い騎士たちと互角か、あるいはやや劣る程度だ。

 それでも――見惚れた。


 風を纏い、表情に宿る確かな自信。

 あれはもう、かつて水底に沈んでいた“ただ守られるだけの存在”ではない。

 人の世に立ち、誰かを守る側へと歩みを進める者の目をしていた。


 俺はそれを、静かに、誇らしく見守っていた。


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