表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/38

第2話:神の代行者、聖女カルテシア

 街に入った瞬間、空気が変わった気がした。

 王都では見かけなかった装飾や祈りの風景。建物の壁には聖句や天使の像が刻まれ、白い尖塔が空へと並んで立ち上がっていた。まるで、街全体が祈るための器であるかのようだった。


「……同じ国とは思えませんね」

 俺がそう呟くと、隣のリアノ姫が小さく頷いた。


「ここは、神政庁が直接管理する聖域ですわ。法も文化も、王都とは別の理に従っていますの」

 言葉は冷静だったが、声の奥に慎重さが混じっていた。


 都市の中央へと続く大通りでは、人々が足を止め、手を組み、頭を垂れていた。誰に強制されたわけでもなく、それがこの街の日常として染み込んでいる。俺たちは旅の者として、静かにそれを受け入れ、門をくぐった。


 目的はひとつ――聖女カルテシアに会うことだ。


 ⸻



 都市の中心に建てられた大聖堂は、言葉では言い表しにくい空間だった。

 外壁は白石で統一され、内部は静かに冷えていた。天井が高く、柱が遠く、音が吸い込まれていくような感覚。床にはモノクロのモザイク模様が続き、光と影の中に身を置いているようだった。


 やがて、奥の扉が開く。


 誰の足音かも分からないほど静かに、ひとりの少女が現れた。


 真っ白な礼服。身を飾るものはなく、ただ胸元にひとつ、金糸の紋章が刺繍されている。それが、女神の加護を示す印なのだとすぐに分かった。


「……あなたが、予言の勇者様ですね」

 透き通った声が、堂内に静かに響く。


 彼女の名は、カルテシア。

 この地で女神の代行者と呼ばれ、人々の信仰の象徴として立つ存在だという。


「ようこそ、セラフィエルへ。わたくしは、あなたを待っておりました」


 その眼差しは優しく、けれど一切の迷いがなかった。

 まるで、使命そのものが人の形を取ったような――そんな印象を与える少女だった。



 聖女カルテシアは、まっすぐに俺を見ていた。

 その眼差しには、温度がなかった。だが、決して冷たいわけでもない。感情というものが、どこか遠いところに置き去りにされているだけのような、澄んだ無垢さがあった。


 身にまとうのは、式服としての礼装。

 白を基調とした布地は軽く、肩と胸元、腹部にかけては布の面積が少ない。露出度は確かに高めだ。それでも不思議と不浄な印象はなかった。

 本人はそれをまるで意識していない。

 むしろ、それが“見られるもの”であることすら理解していないようにすら思える。


 ――この人は、本当に“神の代行者”として育ったのだ。


 隣で、リアノ姫が口を開く。


「聖女様。わたくしたちは、辺境の遺跡に向かう前に、教義的な観点から助言を仰ぎたく、参りました」

 王族としての格式を保った言い回しだった。旅の理由を告げるときも、常に外交の意図を忘れない。

 しかし――


「構いません」

 カルテシアの返答は短く、淡々としていた。

 その目は、リアノ姫には向かず、ずっと俺のほうを見ている。


「ですが、わたくしにはひとつの疑問があります」

 言葉を選ぶ様子もなく、彼女は静かに言った。


「――あなたが、予言の勇者であるという話に、疑いを持っています」


 その場の空気が、少しだけ張り詰めた。

 リアノ姫はわずかに目を伏せたが、俺は目を逸らさなかった。

 疑われるのは慣れている。俺自身ですら、まだ実感が薄いのだから。


「どうすれば、勇者だと認めていただけますか?」


 問い返した俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。

 威圧でも反発でもなく、ただ、正面から問う。それが俺のやり方だ。


「試練を受けてください」

 即答だった。そこに感情も躊躇もなかった。


「この地に伝わる祈りの儀式を、定められた方法で成し遂げたとき。わたくしはあなたを、勇者として認めましょう」


 その言葉には、強制の色はなかった。

 名目上は“任意”の扱い。試練を拒否しても、誰かに責められることはないのだろう。


 けれど俺は、答えを知っていた。


 この人に「そうだ」と言ってもらえなければ、きっと俺は、どこまで行っても“仮の存在”のままだ。

 予言の勇者――それが、本物であると。


「……分かりました。受けます」

 言い終えた瞬間、カルテシアの瞳が、ほんのわずかだけ細められた。

 それが安堵だったのか、評価だったのかは、分からなかった。


「三日以内に、わたくしを倒してください」

 大理石の演壇に立ったまま、カルテシアは静かに告げた。

「挑戦権は一日一度限り。あなた自身の手で、わたくしに剣を届かせてください」


 頭が追いつく前に、口が動いていた。


「――聖女様って、戦えるんですか……?」


 思わず問い返すと、カルテシアは瞬きもせずにこちらを見た。

 驚きも、怒りも、微笑みすらも浮かべない。

 ただ、そこに“真実として”存在しているだけだった。


「わたくしは、女神の代行者です。

 神託に疑問を抱く者と対話するには、相応の手段が必要です」


 それは祈りではなく、宣告だった。


 ⸻


 円形の石舞台。その中心に、カルテシアはただ立っていた。

 何の構えも取らず、祈りのように両手を胸の前で組んでいる。

 まるでこの空間全体が聖域であり、彼女の延長であるかのように錯覚させられる。


 ゆっくりと、彼女が歩み出す。

 その手に現れたのは、一見すると細身の長剣だった。だが、次の瞬間――


 刀身が、裂けた。


 いや、分解した。

 鎖のように節で繋がれた金属が、蛇のように滑らかにうねり、空中で螺旋を描いて伸びていく。

 ――蛇腹剣。柔軟でありながら、刃を持つ、制御困難な異形の武器。


 それをカルテシアは、一分の隙もなく制御していた。


 ⸻


 剣を抜いた時点で、俺は守勢だった。

 王都で習った構え、間合い、足運び――すべてが通じなかった。

 彼女の攻撃には“動き”がなかった。必要最小限の所作と、刃の自由な軌道だけで、あらゆる反撃が封じられる。


 一歩前に出れば、伸びた刃が足元を薙ぎ、

 回り込めば、巻きつくように胴を狙ってくる。

 こちらが仕掛ければ、その瞬間に“射程”が変わっている。


 あれは武器ではない。

 ――あれは、意思を持った“教義”だ。


 ⸻


「……ッく……!」

 最後の一閃を避けきれず、剣が手から弾かれた。

 舞台の縁に倒れ込み、仰いだ天井が白く霞んで見えた。


 カルテシアは、剣を収めると同時にこちらへ歩いてきた。

 その足取りは、慈悲にも冷酷にも寄らない、ただの“儀式の歩み”。


「あなたには、動きの芯があります」

 そこで、彼女はようやく微かに表情を動かした。ほんの少し、目を細めたように見えた。


「芯があるなら、あとは鍛えれば届くはずです」

 それは慰めではない。明確な評価だった。


「明日も、同じ時刻にお待ちしています。――どうか、来てください」


 それだけを告げると、カルテシアは踵を返して舞台を去った。

 その背に、俺は何も返せなかった。ただ、胸の内に、静かに火が灯っていた。



 敗北の痛みが、遅れてじわじわと染みてきた。

 肉体の傷ではない。あれは明らかに“格の違い”だったという事実が、胸の奥に静かに沈んでいく。

 だが、不思議と打ちひしがれる感覚はなかった。


 リアノ姫が、俺の肩に布を掛けてくれたとき――その穏やかな表情を見て、何かが救われた気がしたのだ。


「今日のこと、私はむしろ良かったと思いますの」

 そう言って、姫は微笑んだ。

「あなたは、恐れずに立ち向かった。それだけで、わたくしは誇らしいと思いますわ」


 ……悔しさがないわけではない。

 けれど、それ以上に“応えたい”という思いが強かった。

 姫様が信じてくれるなら、俺自身も信じよう。自分の歩みを。


 ⸻


 夜、誰もいなくなった石舞台に、俺は一人で戻った。

 装束のまま、剣を握り直す。明日の挑戦に向けて、何かひとつでも掴みたい。


 自分の動きを思い出しながら、踏み込んで、振る。

 音が、鈍い。

 重心が甘いのか、それとも間合いを測り損ねているのか――何度も繰り返しながら、ふと、足元に目を落とした。


 ……足跡?


 舞台は白石でできている。通常なら、足跡など残らない。

 だがそこには、微かに黒ずんだ跡が点在していた。

 先程の戦いの名残だとすぐに分かった。


 カルテシアのものだ。


 ⸻


 不意に、全身が緊張する。

 彼女は、ほとんど動かなかったはずだ。少なくとも、視界の中では。

 けれど、舞台には明確な踏み込みの跡があった。

 一歩ごとに、まるで刻むように大地に触れていたのだ。


 ――制御している。

 蛇腹状の剣、それを正確に扱うには、支点となる地面が必要だ。

 軽やかに見えた動きは、実際には深く、確かな“踏み”によって支えられていた。


 よく見ると、足跡の位置と角度に法則がある。

 わずかに開いた爪先、重心のかかる向き……それは、俺も王都で一度だけ見たことがある。


 高等歩法アクティブ・スタンス

 上級剣術の中でも、一部の騎士しか習得しないとされる、姿勢と踏破の術式融合技術。

 足の運びそのものが戦術の一部となる、精密な技。


 あの人は――“止まっていた”のではなく、“止まっているように見えるほど、完璧に制御されていた”のだ。


 息を呑む。

 明日、自分はそれを見切れるだろうか。

 だが、見切らなければ、あの剣に届くことはない。


 静かな夜の舞台で、俺はもう一度構えを取った。

 足元を見つめ、地面を感じながら、初めて踏み込む感覚を確かめていく。


 明日、俺はまたここに立つ。





 試練・二日目


 姿を見た瞬間、息を呑んだ。

 昨日と何も変わらない――はずなのに、その佇まいは、より美しく見えた。


 光を受けて浮かぶ輪郭。重みを感じさせない白い装束。

 地に着いた足元、背筋、そして微動だにしない視線。そのどれもが、まるで完璧に彫られた彫像のようだった。


 だが、それは“美人だから”ではない。

 昨日、俺は敗れた。圧倒的な力の前に、為す術もなく打ち伏せられた。

 その事実が、彼女の姿に意味を与えたのだ。力を知ってなお、美しい。

 それは“信仰”にも似た感情だった。


 ⸻


 戦闘が始まると、カルテシアは一切の迷いなく蛇腹剣を構えた。

 その動きは、昨日とまったく同じだった。

 一歩目の足の角度、刃の跳ね上がり、薙ぎ払いから巻き込みへの連携――


 俺は、その一つ一つを予測し、対処することができた。

 わずかに攻撃を外し、間合いに踏み込み、軌道をずらす。昨日のように一方的に追い詰められることはない。


 (……同じだ。動きが、昨日と寸分も変わっていない)


 当然のように思えて、実際には恐るべきことだった。

 人は無意識のうちに動きを変える。だが彼女は、すでに完成された型としてそれを繰り返している。

 もし変わっていたら、今の俺では通用しなかった。

 同じであってくれて――正直、助かった。


 ⸻


 機を見た。

 回避、崩し、踏み込み。

 光の剣を構えて、刃の届く間合いに身を投げ出す。


 (届く――!)


 刃が煌めいた。だが、ほんのわずかに軌道が外れた。


 否――届かなかった。


 直前で、まるで剣そのものが空気に押し返されたような感覚。

 動作としては正確だった。重心も読みも間違っていない。

 けれど、肝心の“剣の力”が、届いていなかったのだ。


 その一瞬の躊躇に、刃が割り込む。

 弾かれるように、剣が跳ね上げられた。

 光の軌跡が空に散り、俺はそのまま舞台に膝をついた。


 ⸻


 カルテシアは、足音も立てずにこちらへ歩いてきた。

 その表情は、やはり微動だにしない。けれど、言葉には確かな温度があった。


「昨日より、はるかに良い動きでした。技術的には、完成の域です」

 まっすぐにそう言い切る。無遠慮で、真っ直ぐで、けれど不快ではなかった。


「ただ――」


 一瞬だけ視線を落とし、それから言葉を継いだ。


「光の剣の出力が、足りていません。

 その剣の本質が発揮されなければ、わたくしには届かないでしょう」


 それは断定ではなく、事実の提示だった。

 情を挟まぬその言葉が、逆に救いでもあった。


「明日、あなたが来てくださるのを、またお待ちしております」

 カルテシアはそう告げ、再び舞台を後にした。


 敗北の痛みはあった。だが、それ以上に胸を占めていたのは、

 “力を出し切れていない”という悔しさだった。



 訓練を終えた夜、俺は剣を抱えたまま、姫様のもとを訪ねた。

 部屋の灯はすでに落ちていたが、彼女は窓辺に座り、静かに夜の空を見ていた。

 その背に声をかけると、姫様はそっとこちらを振り向いた。


「勇者様、どうなさいましたの?」


 言葉を選ぶ必要があるかとも思ったが、今の俺にできるのは、率直に訊ねることだけだった。


「――姫様。光の剣の“真価”って、何なんでしょうか」


 しばらく沈黙があった。

 けれど、それは戸惑いではなかった。

 まるで“この質問を待っていた”かのように、姫様は微笑んだ。


「その言葉を、あなたの口から聞けて……少し、安心いたしましたわ」


 振り返った彼女は、夜の風に金の髪を揺らしながら、ゆっくりと語り始めた。


 ⸻


「光の剣は、理や技術では動かせない剣です。

 それは、使い手の“感情”によって真の力を解放する、古い時代の遺物――いえ、希望の象徴ですわ」


 俺は黙って頷いた。

 確かに、王都で教わったどの戦技も、剣術理論も、この剣には通じていなかった。


「では、その“感情”とは……?」


 俺が重ねて問うと、姫様はわずかに視線を上げた。


「それは、勇者様によって異なります。

 怒りで剣を燃やした者もいれば、悲しみで刃を伸ばした者もいると聞きます。

 けれど、何よりも――“誰かを想う心”が、この剣を最も強くするのだそうです」


 “誰かを想う心”。


 その言葉が胸に落ちたとき、自分の中にあった何かが、静かに揺れた。


 ⸻


 部屋に戻り、俺はしばらく床に座ったまま、剣を膝に置いて考えていた。


 ――俺にとっての、感情の“媒体”とは何だろう。


 怒りではない。

 悲しみでもない。

 ただ、あの戦いの中で、何かが足りないと感じた。届かない剣、揺れない感情。そこに鍵があるはずだった。


 何も浮かばないまま、黙って時間が過ぎていく。


 ……そのときだった。


「勇者様」


 声のほうを振り向くと、姫様が扉の陰からこちらを見ていた。

 優しい声だった。けれど、心にまっすぐ届いてきた。


「そんなに一生懸命、考えてくださるなんて。……とても素敵ですわ」


 笑っていた。

 あの、王族としての品を保ちつつ、時折だけ見せてくれる、ほんの少し無防備な、あたたかい笑顔だった。


 その瞬間――気づいた。


 (俺が、ずっと守ろうとしていたものは)


 ――この人だ。


 冷たい石の床に座り込んだまま、胸が熱くなっていた。

 感情は、確かにそこにあった。

 俺の剣を動かす感情。それは、誰かを守りたいという、まっすぐな想いだった。


 その夜、俺は初めて、“光の剣が少しだけ重くなった”気がした。




 試練・三日目


 三日目の朝、光の剣は、最初からわずかに光を帯びていた。

 刃の輪郭が、空気の揺らぎのように淡く脈打っている。

 触れた瞬間、確かにわかった――今日は、何かが違う。


 舞台の中心に立つカルテシアも、昨日と変わらぬ姿でそこにいた。

 けれど、俺が剣を抜いた瞬間、彼女の眼差しがほんのわずかに細められたのを、俺は見逃さなかった。


 ⸻


 踏み込み、斬る。

 感情を込める。**「姫様を守りたい」**という、その想いを。

 ――刃と想いが重なる瞬間、カルテシアの蛇腹剣が弾かれた。


 空を滑る金属音。

 防がれることを当然としていた動作が、初めて崩された。


「……」

 カルテシアは、一瞬だけ沈黙し――そして、構えを変えた。


 これまで一貫していた無構え。祈りの姿勢を崩さなかった彼女が、初めて剣を両手に構え、わずかに重心を落とす。

 流れるような所作の中で、その唇が言葉を紡いだ。


「――では、ここからは本気で。アナタを“倒しましょう”、勇者様」


 その言い方には、皮肉でも敵意でもなかった。

 明らかに、認める者にだけ向けられる“試しの言葉”だった。


 ⸻


 次の瞬間、彼女は言った。


「心を揃えよ」


 問いかけのようでいて、導くような響きだった。

 それが意味するものは、戦いの中でしか理解できない。


 そして、刹那――彼女の剣が、光に包まれた。


 蛇腹状の刃が解放され、空を裂く。

 それはもはや武器というより、信仰そのものの形だった。

 放たれた一閃は、祈りと罰とを兼ね備えた、まさしく“神の一撃”。


 ⸻


 俺は押された。

 足元の石が軋む。光の剣が震える。

 重さが違う。速さが違う。

 けれど、それでも――剣を握る手は、離れなかった。


 守りたいものがある。


 それだけが、俺の中心にあった。

 姫様を守るために、この剣を握った。

 そして――


「……頼む。光の剣」

 剣に語りかける。想いを、心を、揃える。


 刹那、光が弾けた。


 剣と俺の心が、ひとつになった。

 高鳴る感情が、剣に脈打つ。

 ――これが、俺の“真価”。


 振るう。まっすぐに。真正面から、彼女の一撃に、全身で応える。


 ⸻


 金属音が天に届く。

 衝突の衝撃で、空気が爆ぜる。

 だが、俺の剣は砕けず――進んでいた。

 わずかに軌道が変わる。カルテシアの剣が揺れる。

 そして、俺の一撃が、彼女の胸元のローブを裂いた。


 止まった。

 カルテシアの剣が、力を失い、地に落ちた。


 その瞳が、はじめて感情を宿す。

 驚きではない。納得に近い、静かな認識だった。


「……素晴らしい」

 そう呟き、彼女はゆっくりと膝をついた。


「わたくしは、あなたを勇者として認めましょう。光と、心を、揃えた方として」


 ⸻


 戦いは、終わった。

 静けさの中、剣だけがなお微かに光を放っていた。

 それはもう、ただの刃ではなかった。

 **想いを帯びた“本当の剣”**だった。



 特別な儀式があったわけではない。

 何か称号を与えられたわけでもない。

 それでも、俺が試練を越えたことは、この都市にとって確かな“出来事”だった。


 神殿を出るとき、神官たちは今までと変わらぬ丁寧な礼をもって俺たちを見送った。

 言葉も作法も、格式に従ったそれに過ぎない。

 けれど――そこに込められた眼差しが、明らかに違っていた。


 深く、静かな敬意。

 予言の勇者としての“役目”ではなく、一人の人間としての“行為”を見た者の目だった。


 ⸻


 出立の朝、カルテシアは一人で門前に現れた。

 いつもと変わらぬ白の礼装。けれどその表情には、これまでにない穏やかさがあった。


「旅のご加護を」

 短くそう告げたあと、彼女はほんの一瞬だけ、目を細めて――微笑んだ。


 その微笑には、恋情といった色はなかった。

 けれど、間違いなく“人間の表情”だった。

 信仰と義務に縛られた聖女が、その枠を一歩だけ越えて見せた、確かな美しさだった。


 ⸻


 俺が言葉に詰まっていると、隣でリアノ姫が一歩前に出た。


「試練に際し、誠実な導きをありがとうございました。勇者様の歩みは、きっと女神の光に届くことでしょう」

 静かで気品ある礼の言葉。けれどそこには、見せかけではない尊敬が滲んでいた。


 姫様は、微笑むカルテシアを見て、何も言わなかった。

 嫉妬の色も、揺れも見せない。ただ、素直に彼女の力を認めていた。


 ――その姿を見て、改めて思った。

 この人は本当に、心から“強い”人だと。


 ⸻


 宗教都市セラフィエルを背に、馬車は静かに動き出す。

 振り返れば、高く聳える聖塔がまだ見えていた。

 だが俺は、それ以上は見なかった。ただ、前だけを見ていた。


 光の剣は静かに鞘に収まっている。

 けれど、あのとき感じた光は、まだ胸の奥で脈打っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ