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第6話:風の居場所

 王都に身を置くようになってから、一週間が過ぎた。

 俺は王城の通信魔鳥を通じて姫様に事情を報せ、ふたりのための簡素な居住地を王都南端の外縁区に設けてもらった。

 形式上は、かつて天竜の血を引いた少女――セレナの保護が目的とされている。だがその真意を知る者は、ごく限られた一部の王城関係者に過ぎない。


 王都の民に対して、ふたりの存在は明かされていない。

 そのため、表向きにはただの旅人として受け入れられていた。長期逗留の申請も、手続き上は俺の名義で処理されている。


 セレナとともに王都へ来た青年――ラルフ=ノクターナスは、都の喧騒に溶け込むことなく、一定の距離を保ち続けている。

 日中、彼は人気の少ない南森に向かい、陽が沈む頃に静かに家へ戻ってくる。それは義務ではなく、習慣のようなものだった。

 森に何を求めているのか、本人は多くを語らない。ただ、夜には必ず戻ってくる。

 ――家族が、そこにいるから。


 俺の目に映る限り、ラルフにとってセレナは“守るべき存在”であり、決して特別な感情を過剰に込めた相手ではない。

 距離を詰めるでもなく、遠ざけるでもない。ただ静かに寄り添い、必要なときだけ確かな言葉と行動で支える。

 それは、家族としての接し方だった。血のつながりではなく、生の軌跡を共にした者だけが持つ、ある種の絆。


 一方で、セレナはというと、王都の空気を不思議そうに、しかし楽しげに吸い込んでいた。

 水路をまたぐ石橋、市場の喧騒、絵画のような街並み。見るものすべてが新鮮で、人の暮らしの輪郭をなぞるように歩いている。

 人間社会に“混ざろう”とする意思が、彼女には確かにあった。


 それでも、装いだけは昔のままだった。

 白と水色の巫女風の衣に、月の意匠を刺繍した腰帯。素足で石畳を歩く姿は、まるで夢の中の存在のようだ。

 なぜ着替えないのか――と問うことはなかったが、俺はうすうす察していた。


 彼女にとってあの衣は、過去とつながる唯一の“しるし”なのだろう。

 失われた名、断ち切られた血脈、使命の終わったいまでも、自分が何者であったかを忘れぬための、静かな誓い。


 ――セレナは、もう戦わない。

 けれど、自分の歩いてきた道を、なかったことにはしない。

 その意志が、たしかな形をともなって、いまの彼女を支えていた。


 その日も、いつものように剣技訓練を終えたところだった。

 汗をぬぐいながら水筒を口に運んでいると、すぐ傍に――見慣れた、けれどいまだに馴染みきれない人物が現れる。


「おう勇者くん、おつかれおつかれ。いやぁ、若いってのはええな、見てて清々しい」


 声をかけてきたのは、俺の直属の上官であり、第三区隊の部隊長――ランツェ隊長その人だ。

 筋骨隆々、黒髭の下には常に快活な笑みを浮かべている……が、その言動はとにかく、なんというか、独特だった。


「でさ、おじさん最近ちょっと気になってるんだけどな……ほら、たまに来てるだろ? あの小さな、髪がふわっとしてて、しゃべり方がぽやっとしてる子」


 ああ、と頷くしかなかった。

 セレナのことだ。最近、王都で暮らしはじめてから、時おり昼食を持って訓練場の近くまで来てくれる。

 どうやらそれが、隊長の目に止まっていたらしい。


「まあな、おじさんも昔はちょっとモテたもんでな。そういうの、見てるとわかるのよ。ああいう子がだな、こう、ぐいっと来るやつは、だいたい芯があるんだよ。うん。かわいいな、と思って」


 ……この人、もしかしてヤバい人なんじゃないか。

 身構えかけた俺に、隊長はひとつ咳払いして言った。


「いやいや、勘違いしないで欲しいんだが、俺は一応、結婚してるぞ」


 ……さらっと言われたが、そこは大事な情報だ。安心、してもいい……のか?


 でも、世の中には“結婚してるのにトラブルを起こす人”っていうのも、一定数いるし……。

 少しだけ、警戒心を残したまま、曖昧に頷いたそのときだった。


「……あ。あの……」


 背後から、やや控えめな声が届く。

 振り返ると、白と水色の衣を揺らしながら、セレナが立っていた。

 両手には布で包まれた小さな包み――昼餉だ。


「勇者さまに……その、王都のお弁当習慣を、学んでみたので……。姫様の許可は、ちゃんと取ってありますっ」


 どこか誇らしげに胸を張る姿に、俺は苦笑した。

 セレナは真面目だ。だから、きっとこれも“人間界に馴染むための努力”のひとつなのだろう。


 ランツェ隊長はというと、目をまんまるに見開き、声をひそめて囁いてきた。


「……いやー、おじさん、ちょっと感動しちゃうな。若いって、ほんっと、ええなあ……」


 ……やっぱり、この人ちょっと危ないんじゃないか。


 俺の膝の上に、そっと置かれた包みは、手のひらより少し大きいくらいだった。

 布をほどくと、中から現れたのは――驚くほど整った、温もりのこもった弁当だった。


 竹の葉を模した仕切りに、色とりどりの小さな料理。

 米はほんのり塩と柚子の香りがして、丸められたおにぎりの形がいくつか並んでいる。

 煮物は優しい味付けの根菜、卵焼きには細かく刻んだ青菜が混ぜ込まれ、どれも素朴で――けれど、ひとつひとつに手間が感じられる。


「……すごいな、セレナ。これ、全部ひとりで作ったのか?」


 俺がそう訊くと、セレナは少し頬を染めて、小さくかぶりを振った。


「いえ……リアノさまが、一緒に教えてくださいました。

 “家庭料理は、心を通わせるための言葉なのですよ”って……」


 その語り口は、どこかくすぐったそうで、けれど誇らしげだった。

 どうやら、姫様との関係も順調らしい。


 ――あのリアノ姫が、厨房に立って、セレナと並んで料理を?

 想像がつかない……というより、ついてはいけないような気がする。だが、俺はただ静かに頷いた。


「……そっか。よかったな、セレナ」


 けれど、彼女はそのまま、小さく視線を落とした。

 ほとんど囁くような声だった。


「……でも、ラルフとは、最近……少しだけ、違う方向に、なってしまって……」


 俺は箸を止めた。


「……違う方向?」


「空島に行った時までは、同じものを見て、同じ歩き方ができていたんです。

 でも、王都は……ラルフにとって、あまり意味のある場所じゃないみたいで……」


 人間に馴染もうとする自分と、どこまでも自然体な彼。

 言葉に出さなくても、それはセレナにとって、初めての“すれ違い”だったのかもしれない。


 何か言わなければと思いながらも、言葉が見つからない。

 俺は、そういう繊細な感情をどう受け止めていいのか、まだわからないままだった。


 ……代わりに、唐突に横から挟まれた声があった。


「でもさ。ちゃんと家に帰ってきてるなら、それでいいんじゃないのか?」


 ランツェ隊長だった。

 手を腰に当てて、どこか誇らしげに頷いている。


「それはつまり、“セレナちゃんのこと、大事に思ってる”ってことだよ。うんうん。おじさんね、そういうのはね、行動で見るんだよ」


 その言葉に、セレナは少しだけ目を見開き――けれど、微笑んだ。

 心から納得したというより、“そういう考え方もあるのですね”とでも言うような、やわらかな笑みだった。


「……ありがとうございます。

 でも、できれば、もう少し……分かりやすい行動にしてほしいですね。ラルフさんには」


 そう言って、ふっと息を漏らした彼女に、隊長はなぜか満足げに頷いた。


「いやぁ……おじさんもさ、最近ちょっといいことあってな。寿司食べたんだ。回ってないやつ」


 セレナは、即答した。


「……死ぬほど興味ないです」


 微笑んだまま。


 俺は吹き出しそうになるのをなんとかこらえた。



 訓練を終えた俺は、空になった弁当箱を手に、城下を抜けて王城へと歩を進めていた。

 セレナも隣を歩いていた。白と水色の衣が風に揺れ、道行く人々の視線を、どこか無意識に集めている。

 それでも本人は気づいていないようで、俺の隣で静かに微笑んでいた。


 そのときだった。


 ふわり、と。

 空に、赤い風船がひとつ、舞い上がっていくのが見えた。


 視線を追うと、通りの向こう側に、泣きじゃくる小さな子どもがいた。

 手を伸ばしても届かない空の果てへ、風船は徐々に遠ざかっていく。


 ――届かない。そう、誰もが思った、その瞬間。


「……少し、待っていてください」


 そう言ったセレナは、立ち止まり、静かに目を閉じた。

 ひとつ、深く息を吸い込む。


 空気が、変わった。


 彼女の足元を撫でるように風が生まれ、裾を揺らし、髪を巻き上げる。

 次の瞬間――その姿は、まるで別の存在になっていた。


 青緑の長髪が、空気とともに舞い上がる。

 絹のような髪は光を散らし、風と共鳴するようにゆらめいていた。


 蒼い瞳。その奥で、淡く浮かんでいた五芒星の紋が――今は、はっきりと光を帯びていた。

 意志のかたちを宿したその星は、燃えるような覚悟と、揺るがぬ優しさを湛えていた。


 装いは、見慣れた白と青のワンピース――けれど、今はより純白に輝き、縁の青が風の軌跡のように翻る。

 その背に、風の翼がゆっくりと広がった。

 羽ばたくのではない。ただ、流れる空気に導かれるように。


 セレナの足は、地面から離れていた。

 素足のまま、風に抱かれるように浮かび上がる。

 その姿はまさしく、“風そのもの”。


 腕にも脚にも、青白い帯のような風の光が宿っている。

 実体はなく、しかし確かにそこに“力”として存在していた。


 ――そして、彼女は空へと伸びていく風船を追った。


 ゆるやかな上昇、されど迷いなき軌跡。

 広場にいた人々が気づきはじめ、口々に驚きの声を漏らしていた。


 けれどセレナは、一度も視線を逸らさず、ただまっすぐに風船を追いかけていた。

 細い指先が、やがてそれに届く。


 風船は、軽やかに彼女の手の中に収まり、ぴたりと動きを止めた。


 そして――彼女はゆっくりと降り立った。


 地上に戻ったその瞬間、風の翼は消え、衣も髪も、穏やかな静けさへと戻っていく。

 けれど、瞳の奥に宿った光だけは、しばらくの間、消えずにそこにあった。


「……どうぞ」


 セレナは、風船を差し出した。

 泣いていた子どもは、呆けたようにそれを受け取り、次第に顔を綻ばせていく。


 俺は――ただ、見惚れていた。


 風とともに現れ、空を翔け、そして人のためにその力を使った少女。

 彼女の姿は、どこまでも神秘的で、けれど確かに“ここに在る”ものだった。


 風船は、子どもの手に戻った。

 セレナは穏やかな微笑を浮かべて一礼し、ゆっくりと俺のもとへ歩いてくる。

 浮遊していたその身体も、今は地に足をつけ、風の装いは次第に静まりつつあった。


 ――そのときだ。


 背筋を撫でるような、冷たいものが走った。


 空気の流れとは無関係な、得体の知れない“違和感”。

 言葉にもならぬ、ざらついた感覚が、肌の上を這った。


 俺は、無意識のうちに振り返っていた。


 広場の端。

 雑踏の中、ひときわ静かに立っているひとりの人物がいた。


 深くフードを被り、全身を暗いローブで覆っている。

 男か女かも、年齢すらも判断できなかった。

 だが、ひとつだけ――否応なしに理解できるものがあった。


 “視線”。


 そのフードの奥から伸びる視線が、一直線にセレナを射貫いていた。

 突き刺すような、焼きつけるような、それでいて何かを確かめるような――

 純粋に、悪意としか呼べない“意思”が、そこにあった。


 俺は、自然とセレナの前に出ていた。


 彼女は気づいていない。無垢なまま、風の余韻に包まれている。

 だからこそ、俺が動かなくてはならなかった。


 ――だが、次の瞬間。

 ローブの人物は、まるで“視線を感じ取らせるだけが目的だった”かのように、すっと背を向けた。


 そのまま、人の波に紛れて消えていく。

 振り返りもしない。逃げる様子すらない。まるで、予定通りだったかのように。


 俺の中で、何かがざわめいていた。


 あれは、ただの通行人ではない。

 この場に“観測”しに来た。あるいは、“確認”しに来た――そう感じさせるだけの、確かな邪悪だった。


「……勇者さま?」


 セレナが、俺の袖をそっとつかんで見上げてくる。

 不安げな表情ではない。ただ、俺の異変に気づいたという、それだけ。


 俺は、微かに首を振った。


「なんでもない。……でも、気をつけて。しばらくは」


 目の前の彼女は無垢で、あまりに脆い。

 だからこそ、守らなければならない。


 ――たとえ、何が来ようとも。






 ただいま、と、言ってみた。けれど、返事はなかった。


 王都南端の石造りの住居。窓辺には鉢植えの小さな花。

 玄関の鍵は開いていたが、室内には誰の気配もなかった。


 ……ラルフさんは、まだ帰ってきていない。


 いつも通りのことなのに、今日は、ほんの少し、胸が苦しかった。

 広場で人の視線を集めてしまったこと。あの、空を見上げていたフードの人物のこと。

 それは、風では流せない不穏さとして、静かに心の奥に残っていた。


 部屋の隅に腰を下ろし、抱えていた弁当箱をそっと机に置く。

 朝にはあんなに頑張って詰めた料理の痕跡も、いまは静かな空箱に変わっている。

 ……自分の居場所を、もう少し確かめたかっただけなのに。


 ふいに、ドアの軋む音がした。


「……ただいま」


 振り返ると、そこにはいつもの人影があった。

 黒髪の青年。灰色の瞳。感情を大きく動かさない、けれど不思議と安心する声。


「……おかえりなさい、ラルフさん」


 返ってきたのは、頷くだけの無口な挨拶。

 でも、それで充分だった。

 その存在が、ここにあるという事実だけで、胸の奥がゆっくりと温かくなっていく。


 ――変なおじさんが言っていた言葉を、ふと思い出す。


「でもさ、ちゃんと家に帰ってきてるなら、それでいいんじゃないのか?」


 ラルフさんは、言葉にしない。何も語らない。

 けれど、ちゃんと帰ってくる。誰に命じられたわけでもなく。

 その足は、いつだって、“この家”に戻ってくる。


 ああ、きっとこれが――ラルフさんなりの、“大切にする”ということなのだ。


 そんな想いが胸に広がっていった、そのときだった。


 壁が、爆ぜた。


 轟音とともに石壁が吹き飛び、砂煙が室内に雪崩れ込む。

 砕けた石片が床を滑り、食器棚が悲鳴のような音を立てて崩れた。


「……!」


 セレナはとっさに身を縮めたが、その目に飛び込んできたのは――

 人の姿を模した、しかし人ではない、異形の影。


 ローブをまとい、顔の下半分は仮面のようなもので覆われている。

 ただ、口元から覗く笑みは――歪んでいた。

 楽しげに、あまりにも楽しげに、壊れた壁の向こうからこちらを覗いている。


「やっと見つけた……セレナちゃん、だっけぇ? いいねぇ、すごくいい。

 その瞳……ふふ、壊しがいがある」


 ぞっとするような声。

 媚びでも怒りでもない、ただ“嗜虐の快楽”のためだけに存在する者の口ぶりだった。


 セレナは、立ち上がろうとした。が、脚が震えていた。


 次の瞬間――ラルフが、音もなく、前に立った。


 彼の動きには、剣戟のような音も、気合いのような気迫もなかった。

 けれど、明確だった。


 ただ一つ、“ボクが引き受ける”という意思だけが、そこにあった。


 風の余韻をまだまとっていたセレナの肩に、ラルフの影が静かに重なる。

 彼の背は決して大きくはない。それでも、彼の存在は、いま――壁よりも、盾よりも、心強かった。



 視界が揺れた。


 目の前で、ラルフが動く。

 声もなく、指先ひとつ、瞬きの間に詠唱も術式も終わらせるような速さで。


 彼の灰色の瞳が、ふっと淡く光を宿した。

 空気が一変する。冷たく、重い。

 足元から、何かが這い上がってくるような不快感が、部屋全体を包み込んだ。


 ――状態干渉。精神遅延。幻視誘導。

 ひとつひとつが、致命的ではない。だが、戦場でそれらを組み合わせることのできる術士は、そう多くはない。


 ラルフは“止める”。それだけに徹して、彼は戦う。


 魔王軍の幹部ですら、その動きを一瞬止め――かけた。

 だが。


「んん~~、そういうの……やだなァ?」


 ローブの魔人は、軽く身体をくねらせ、

 どこか踊るようなステップで、すべての術を“踏み潰した”。


 そして。


 肉が打ち付けられるような音が、部屋に響いた。


「……っラル、フ……さん……?」


 セレナの目の前で、ラルフの身体が壁際へと吹き飛ぶ。


 倒れる音はしなかった。

 彼の身体は、崩れるようにその場に落ちた。

 すぐに動かない。返事もない。


 ――信じられなかった。

 ラルフが、倒れた? あのラルフが?


 魔人は、唇をゆがめたまま、楽しげに言った。


「見た? いまの、見た?

 ボクねぇ、こういうのが大好きなんだ。

 “助けに入るヤツ”が一番に壊れるって展開……ほんと、最高」


 ぞくり、と背筋が凍えた。

 目が、こちらを向いている。完全に。


 その眼差しには、意味がない。欲望しかない。

 理解されたいとも思っていないし、語りかけても届かない。

 ただ“壊したい”という衝動だけが、真っすぐにセレナへと向けられていた。


 手足が震えた。


 声が出ない。

 思考が追いつかない。

 ただ――恐ろしかった。


「風纏いを」……そう発想すればよかったのかもしれない。

 けれど、そんな考えは、どこにもなかった。


 彼女の中には、戦いのための術はあっても、

 人を傷つけるための意志が、ひとつもなかったから。


 “守りたい”は、あった。

 “助けたい”も、あった。

 けれど“倒す”という願いが、彼女にはまだ、一度も芽生えたことがなかった。


 この百年、魔力を蓄え、ただ一度の竜滅パンチを放つその日まで、

 セレナの心には――「傷つけたい誰か」が存在しなかったのだ。


 父を救う。それだけ。

 “滅ぼす”ことも、“報いる”ことも、彼女の祈りにはなかった。


 だが、目の前の存在には、それらの想いは何ひとつ通じない。

 狂気だけで出来上がった笑みが、こちらをじりじりと詰めてくる。


 ……竜滅パンチなんて、意味がなかった。

 この幹部の前では、そんな一撃さえ、無力だった。


 セレナは、ただ立ち尽くす。


 祈りも、声も、何ひとつ、届かない場所。



 ――倒れたはずのラルフが、ゆっくりと身を起こした。


 壁際の瓦礫の中から、血を滲ませながら、それでも両足で立ち上がる。

 その瞳に宿る光は、鈍く、けれど確かに燃えていた。


「……ボクが、引き受けるから」


 その言葉は、風のように淡く。

 けれど、かつてないほど強く、決然としていた。


 次の瞬間、空気が震えた。

 幾本もの光糸が、周囲の空間に奔った。

 目には見えない魔術陣が幾重にも重なり、術式が形成されていく。


 ――拘束。


 対象の神経を切り離し、思考と筋肉の連動を分断する術。

 ラルフの十八番とも言える戦術だ。速度も、精度も、どれも完璧だった。


 魔王軍幹部の身体が、ほんの一瞬、硬直する。


 けれど――


「うわぁ、すごーい。ちゃんと立ち上がって、守るとか言っちゃうんだ? 好きだわ、そういうの」


 口調だけは楽しげだった。


 それは、まるで余興の続きを求めるかのように、軽やかに。


 拘束の結界が、音もなく弾け飛んだ。


「でもさぁ……関係ないよね、そういうの。守りたいとかさ、ボクの“遊び”の邪魔する動機には、なんないからさ」


 次の瞬間。

 ラルフの腹部に、異形の足が突き刺さるように蹴り込まれた。


 ぐっ、と息を詰めた音が漏れる。

 吐血。ぐらりと揺れる身体。

 それでも、ラルフは倒れない。立っている。けれど――確実に、限界は近い。


 殴られ、踏みつけられ、壁に叩きつけられる。

 魔人の動きには、殺意はない。

 あるのは“いたぶる”という純粋な悪意だけだった。


「……やめて……やめてください……っ」


 セレナの声は震えていた。

 声に出せた。それでも、足が動かない。


 “戦う”という発想に、どうしても結びつかない。


 ――ラルフを助けたい。

 けれど、“誰かを傷つけてでも”という思考は、あまりにも遠かった。

 百年の祈りと、価値観の重み。それは、ほんの一秒で崩せるものではなかった。


 彼女の魔力は、世界を変える力を持っていた。

 けれど、彼女の心が、それを“行使する理由”を見出せなかった。


 涙がこぼれる。

 喉が、絞られるように震えた。


「……誰か……助けて……」


 思わず、口から零れた祈り。


 その声が、届いた――その瞬間。


 空気が弾けた。


 ドゴッ、という鈍い衝撃音。

 それは魔人の顔面に直撃した、“拳”の音だった。


 ローブが跳ね、仮面が砕け、魔人の身体が吹き飛ぶ。

 衝撃のあまり、部屋の天井まで裂けたほどだ。


 現れたのは、息を切らせたひとりの青年。

 泥まみれの靴、剣を帯び、訓練帰りのままの姿で――


「……遅れて悪かった」


 ――勇者が、そこにいた。



 怒ってなど、いなかった。


 感情に身を任せて叫ぶには、ここは静かすぎた。

 ラルフは倒れている。セレナは震えている。

 この空間に必要なのは、怒りではない。


 ――守ること。それだけだった。


 俺は一歩も動かず、ただ剣を構えた。

 手の内には、王都広場で抜いた、あの“光の剣”。


 選ばれた、という実感はない。

 けれど、確信はあった。


 この剣が真に輝くときは、誰かを守ると決めた時――

 それが、“光”という名の意味だと、俺は知っていた。


 魔王軍幹部は、面白がっていた。


「いいねぇ、勇者くんまで来ちゃった。これで三点セット、完璧じゃん?

 ねえ、キミも見てたんだろ? あの子が泣きながら叫んだ瞬間。あれ、最高だったよね?」


 ひたすら愉悦に満ちた口調。

 だが、その足取りは、俺の方へ向かっていた。

 挑発でも、探りでもない。ただ純粋に“反応”を引き出したがっている、それだけの動きだった。


「さあて、キミはどんな顔を見せてくれるのかな――」


 その声が終わるよりも先に、剣が動いていた。


 ――否。

 剣が“光”となって、先に空間を裂いた。


 一条の閃光。

 魔人の攻撃動作は、未だ半ばにも至っていない。

 それでもその身体は、空中で動きを止めていた。


 腕が、肩が、首元が。

 斬られた感覚に気づく前に、全身から力が抜けていく。


「……なにこれ」


 幹部の声がかすれる。


 つまらない、という感情があらわになったのは、次の瞬間だった。


「はあ……つまんないなぁ。キミも、そういうタイプ? “決めてる”人?

 ほんと、そういうの、興醒めだよね」


 魔王軍幹部は、にやりと笑った。

 体内に潜ませていた転移呪式が、空間を歪ませていく。


「じゃあさ、せいぜい“守って”あげなよ。次があるなら――その時また、遊ぼうね」


 虚空が開く。

 逃走の兆し。それは、幹部にとって“見切った”という証だった。


 けれど、俺は剣を下ろさなかった。


「――二人の居場所を、護りたい」


 それは誰に向けた言葉でもない。

 ただ、自分自身と、この剣に向けた、願いだった。


「だから――力を貸してくれ」


 その瞬間、剣が鳴いた。

 音なき音。光の芯が震え、時空に刻まれた“軌跡”が、別次元へと流れ込む。


 消えかけた魔人の転移の波紋が――

 四次元的に“斬られた”。


 空間が、断ち切られる。


 次の瞬間。


「――あ?」


 という、間抜けな、けれど確かに死にゆく者の声が遅れて響いた。


 光の剣は、まだ俺の手の中にある。

 けれど、その刃先は、もう届いていた。


 刹那の断末魔とともに、転移の残響が砕けた。


 魔王軍幹部の気配は、もうどこにもなかった。




 ラルフさん――!


 魔王軍幹部が断末魔とともに霧散してから、セレナは真っ先に彼のもとへ駆け寄っていた。

 瓦礫の中に横たわる身体は、意識こそ戻っていたが、血に濡れて冷たく、それでも彼は声ひとつ上げなかった。


「……治癒します。少し、じっとしていてください……!」


 彼の傷口に両手を添え、息を整える。

 術式の詠唱は必要ない。光でも風でもない、微細な回復の魔力が、彼の身体を包んでいく。


 ひとつ、ふたつと傷が癒え、青白い瘢痕が淡く消えていく。

 生命の灯が、ふたたび肌に戻ってくるのを、セレナは涙でにじむ視界の中で見ていた。


「……ごめんなさい……本当に、わたし……っ、なにも、できなかった……!」


 声が、震えた。

 傷を癒しながら、心が崩れていくのを止められなかった。


「怖くて、足が動かなくて……ラルフさんが傷ついてるのに、ずっと……っ、見てることしか……できなくて……!」


 その瞬間、何かが堰を切ったように、嗚咽が溢れ出した。


「また……同じなんです……。

 家族が殺されたときも、わたし……なにもできなかった……。

 ……見てることしか、できなかった……っ……!」


 全身を縮め、肩を震わせながら、セレナは泣いた。

 それは、戦えなかった自分への怒りではなく、“守れなかった”という悔しさ。

 そして、戦えなかった過去の自分と、目の前の現実が重なったときに生まれる、計り知れない苦しみだった。


 俺は、その隣にゆっくりと膝をついた。


「……俺も、最初は動けなかった」


 静かな声だった。


「頭ではわかっていても、体が動かなかった。なにもできなかった……すごく悔しかった」


 セレナは、涙の奥で、俺くんの顔を見上げた。

 そこには、怒りも恥もなかった。ただ、思い出を語る者の、穏やかな目があった。


「でも、それが悪いことだなんて、思わない。

 動けないのは、心がまっすぐだからだ。優しいから、傷つけることを躊躇する。……それは、とても良いことだと、俺は思うよ」


 俺は、手にした“光の剣”を見つめた。

 淡く揺れる剣身は、どこか静かな火のように、柔らかな光を放っていた。


「俺は……戦えない人を守るために、勇者をしているんだ」


 その言葉は、誓いのように、空気に染み渡っていった。


 沈黙が、訪れた。


 そして、しばらくして。

 ラルフが、ゆっくりと起き上がり、俺の背を見つめて、ぽつりと呟いた。


「……勇者くん。ありがとう」


 その声には、まだ微かな痛みが残っていた。

 けれど、その言葉の響きは、限りなくあたたかかった。


「ボクには、言えない気持ちを……言ってくれて」


 それだけを言って、ラルフは目を閉じた。

 その顔は、いつものように無表情で――けれど、そこには確かに、安堵が宿っていた。



 翌朝、訓練場はいつもと変わらず、剣の音が響いていた。


 俺は第三部隊の一員として、朝の基本鍛錬をこなしていた。

 昨日のことが嘘のように、王都は静かだった。けれど、その静けさがありがたい。


 ふと、門の方を見ると、見覚えのある小柄な影が、こちらに向かって手を振っていた。


「おはようございます、勇者さまっ!」


 水色の衣を翻しながら、セレナが駆けてくる。

 いつもの笑顔。まっすぐで、柔らかくて、まるで朝の風のようだった。


「ラルフさんは、森に行ってしまいましたけど……でも、わたし、もう平気です。

 だって、あの人は、いつもちゃんと帰ってきますから」


 そう言って、セレナは胸に手を当てて、笑った。

 そこに迷いはなかった。


 俺は思わず、頬を緩めた。


「……うん。ラルフは、そういう奴だよな」


 傷が癒えたわけじゃない。昨日の恐怖が、すっかり消えたわけでもない。

 でも、セレナはもう“守られるだけ”の存在ではなくなっていた。


 そんな中――


「忘れ物よ」


 聞き覚えのある、冷静な声が届いてきた。


 訓練場の隅。

 そこでは、ギルド長のアザレアが、あのランツェ隊長を――説教していた。


「おー、サンキュー。持つべきものは最愛の妻だなぁ」

「私はもう少し優秀な夫に恵まれたかったよ」


 ランツェの呑気な言葉に、アザレアの眉間の皺が増えていく。


 俺は困惑しながら視線をやった。


「……な、なんであの二人が……?」


 そのとき、たまたま訓練場を横切っていたマリオン副団長が、俺たちの反応を見て、意外そうな顔で、さらりと口を開いた。


「なんだ知らなかったのか? あの二人は夫婦だぞ」


 その言葉で時が止まった。


「――ええええええええええええ!?」


 俺とセレナの声が、見事に重なった。


 セレナは目を丸くして、唇に手を当てた。


「そんな……あんな綺麗な人が……ランツェ隊長の……奥さん……? なんだか、すごく素敵ですっ……!」


 うるうるした目で見つめながら、感動しているような感想を口にするセレナ。

 嵐の夜は過ぎ去り、今日も王都に穏やかな朝が訪れていた。



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