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第5話:竜の記憶と約束の空

 王都に戻って二週間。

 騎士団の訓練も、ようやく一区切りがついた頃――

 俺は、再び“あの青年”に出会った。



 空気が、違っていた。


 遺跡の奥へ進むほどに、石壁に貼りついた苔すらも鳴りを潜め、空間そのものが呼吸を忘れたかのように沈黙している。

 その終着点――崩れかけた石柱の向こうに、ふたつの人影があった。


 ひとりは、痩身の青年だった。

 闇を吸い込んだような黒髪。風にも波打たぬ静謐な気配。

 無地の法衣は埃ひとつなく、まるで彼が“此処に属する存在”であることを告げていた。


 そして、その隣に立つのは――歳若い少女。


 年端もいかぬ風貌ながら、どこか浮世離れした気配を纏っていた。

 長い青緑の髪は、灯りのない空間でなお仄かに揺らめき、水底の光を思わせた。

 白と水色を基調とした衣は簡素ながら清浄で、腰に結ばれた淡いリボンが、呼吸に合わせてかすかに揺れている。

 裸足のまま、痛みも冷たさも知らぬように立ち尽くすその姿は、まるで――精霊のようにさえ見えた。


 少女の瞳が、俺を見ていた。

 蒼のなかに、淡く。五芒星のような光が、静かに瞬いている。


「……ラルフ」


 俺がその名を呼ぶと、青年はごく自然に振り向いた。


「久しいね。元気そうで、なによりだよ」


 相も変わらず、声に波はない。

 だが、言葉の底には、わずかながら安堵の色が宿っていた。


「どうして、ここに……」


 問うた俺の声も、自然と囁きに近くなる。


 ラルフは短く視線を巡らせたのち、真っ直ぐにこちらへと告げた。


「この先が、遺跡の最奥なんだ」


 重く閉ざされた石扉。その先に何があるのか、俺は知らない。

 けれど、彼は躊躇なく続けた。


「転移魔法陣がある。……行き先は、空島だよ」


 空島――聞いたことのある、だが伝承にしか登場しないはずの言葉だった。


「空島って……空の、上の?」


「ああ。空のずっと上にある、大地のかけら。人が辿り着ける場所じゃない。

 仮に行けたとしても……そこには天竜がいる。空島は、彼らの領域だ」


 語りながらも、ラルフの声音は変わらない。

 まるで、ひとつの事実を確認するかのように。


「地上の人間が近づけば、愚か者とされる。理由は……行ってみれば、わかるかもしれない」


 静かな言葉だった。

 だが、その奥には、ひとつの覚悟があった。


 ――人の常識を越えた場所。

 神話のような空島。その転移魔法陣が、目の前にあるというのか。


 俺は、ラルフの隣に立つ少女をもう一度見た。

 何も言わず、ただ俺を見つめるその瞳は――なにかを、待っているようでもあった。



 ばしの沈黙ののち、俺は口を開いた。


「……お前は、本当に、空島に行くつもりなのか?」


 問いかけた瞬間、ラルフは一拍の間も置かず、そっと頷いた。

 その動作には、ためらいも、誇張もなかった。ただ、そこにあるべき答えとして。


「この子がね――」


 隣に立つ少女へと視線をやりながら、ラルフは続けた。


「……ずっと、空を見ていたんだ」


 少女の横顔には、変わらぬ静けさがあった。

 けれど、たしかにその蒼い瞳は、どこか遠くを見つめていた――目の前の俺ではなく、天を越えた、その先を。


「誰が何を言っても、空島のことだけは譲らなかった。

 行きたい、じゃなくて……行かなくちゃ、って顔をしてた」


 ラルフの言葉は、相変わらず淡々としていた。

 けれど、その静けさの裏に、“ただの旅”ではないことを、俺は感じ取った。


「きっと、そこに――答えがあるんだろうと思ってる。

 彼女にとっての、“なにか”が」


 少女は、何も言わない。

 けれどその瞳は、真っ直ぐに天を射抜いていた。

 まるで、そこに帰るべきものがあると知っているかのように。


 俺は、言葉を失い、ただしばらくのあいだ、その瞳と空のはざまを見つめていた。



 風のない遺跡の空間に、ふとした問いが落とされた。


「ところで……勇者くんは、どうしてこんなところにいるんだい?」


 振り返ったラルフが、少しだけ首を傾ける。

 声音に責める意図はなく、ただ静かな好奇心からのものだった。


「ここは王都とは少し距離があるはずだけど……偶然、とは思えないよ」


 俺は少し口を噤み、視線を宙に泳がせた。

 ……あまりにも説明がつかないのだ、この経緯というものは。


 それでも、言うしかない。


「神託で……ここに行けと、言われたんだ」


 ラルフは一瞬、瞬きをした。


「……誰に?」

「聖女様に。その人、予言ができるんだ」

「…………なるほど」


 それ以上、彼は何も言わなかった。

 ただ、ほんの僅かに眉が上がったような気がしたし――そのあと、気のせいか笑ったようにも見えた。


「……それなら、仕方ないね」


 それだけで、すべてを受け入れるらしい。

 俺自身、納得しているような、していないような――けれど、それが現実だった。


 少女は、何も言わなかった。

 けれど、こちらを見つめる瞳の奥には、確かな意志が宿っていた。


 ラルフは振り返らないまま、静かに歩き出す。

 少女がそれに並ぶように続き、やがてふたりの背が、闇の向こうへと滲んでいった。


 俺もまた、躊躇いをひとつ、胸の内に押し込んでから、その後を追った。


 ――遺跡の最奥。


 そこは、天然の岩壁を削って作られたような広間だった。

 天井は高く、天窓のような開口部から差し込む光が、まばらに石床を照らしている。

 その中央には、円形の紋章が刻まれていた。


 転移魔法陣。


 かすかに脈打つような光が、淡い青で輪郭を形作っていた。

 その上に、ラルフと少女は静かに立つ。


「……大丈夫。何も怖くないよ」


 そう言ったラルフは、少女の手を取った。

 手を引くのではなく、隣に並ぶように。


 俺もまた、一歩、魔法陣の内側に踏み込んだ。

 重力が少しだけ緩んだような錯覚とともに、足元の紋様が微かに輝きを増す。


 そして――


 眩い光が、辺りを包み込んだ。




 次の瞬間、足元の感覚が、ふわりと消える。

 風のような圧が、全身を撫で抜けていく。

 目を閉じていたわけでもないのに、世界が白で満たされていた。




 ……そして、視界が開けた。




 眼下に、雲海が広がっていた。

 地平の代わりに、白銀の波が空を覆い、遥か彼方の空には、淡く光る二重の虹が弧を描いている。

 足元にあるのは、空に浮かぶ“島”だった。


 石造りの街並みが、緑に飲み込まれながら残っている。

 苔むした塔、崩れた橋。風車の羽根がゆっくりと回っていた。

 空を裂くように枝を伸ばした一本の巨樹が、島の中央にそびえている。


 鳥の鳴き声も、獣の足音もない。

 あるのは風の音と、時折、どこかから聞こえる水の流れるような音だけ。


 まるで、時間が止まったかのような世界だった。




 ラルフは無言で、その風景を見つめている。

 少女もまた、ほんの少しだけ目を見開いて、空の彼方を眺めていた。


 この場所が、彼女の――

 いや、俺たちの“目的地”であることを、何よりもその静けさが物語っていた。


 少女が、ふと振り返った。

 何も言わず、ただ小さく頷く。


 その仕草だけで、俺たちは歩き出した。

 言葉は要らなかった。

 彼女が“どこへ向かうべきか”を、はっきりと知っているのだという確信だけが、道標だった。




 空島の中心――緑と瓦礫の入り混じる小道を越え、半壊した石橋を渡ると、視界がひらけた。

 そこには、ひときわ巨大な存在が、息を潜めるように佇んでいた。




 ――天竜。




 雲よりも白く、空よりも深い青を纏った、古き竜。

 その体は、石造りの大地に溶け込むように横たわっていた。

 巨大な翼は折りたたまれ、鱗は風化した岩のように静まり返っている。


 けれど、確かに生きていた。


 竜の目が、ゆっくりと開かれる。

 その瞳は、深い深い蒼――そして、少女と同じく、その奥に五芒星の光を宿していた。




 少女が、そっと前に出た。


 裸足が苔むした石を踏む音すらも、風がさらっていく。

 彼女は、ゆっくりと天竜のもとへ歩み寄る。




 ――その光景を、俺は息を呑んで見守った。


 竜は吠えなかった。威圧もなかった。

 ただ、見つめていた。

 長い時を超えて、ようやく戻ってきた“何か”を。



 天竜の瞳が、完全に開かれた。

 その奥に宿る光が、娘を見つめるものではなく、敵を識別する者のものに変わったのは、一瞬だった。


 風が変わった。


 圧倒的な質量が、空気ごと空島を軋ませる。

 竜が、吠えた――いや、それは音ではなかった。意思の咆哮だった。


「くるぞ!」

 ラルフが短く叫んだ次の瞬間――




 ――世界が、裏返った。




 気づけば、石畳が砕け、体が吹き飛ばされていた。

 何が起きたのか、理解する暇もなかった。


 天竜の翼が、たった一度、空気を叩いただけで、視界が崩壊したのだ。


 俺は石壁に叩きつけられ、息が止まる。

 ラルフは――横で、うずくまり、動かない。




 ……だめだ。これじゃ、戦えない。


 こいつは、俺たちがどうこうできる相手じゃない。

 そもそも、人間の手で触れていい存在ですらない。




 だが――


 風のなかを、一人の少女が歩いていた。




 青緑の髪が、空に舞い、

 水色の衣が、裂けそうな風に逆らわず、ただ――前へ、進む。


 彼女の手は、小さく拳を握っていた。


 そして、口を開いた。


 小さく、確かに。


「……遅くなってごめんなさい。

 これで、本当に――おわりにします」


 天竜が吠えた。


 空島全体が軋むような衝撃音と共に、圧倒的な魔力が、竜の喉奥から放たれようとしていた。


 だが――その刹那。


 少女は、地を蹴った。


 足場が割れ、空気が悲鳴を上げる。


 そして。


 少女の拳が、竜の胸部に届いた。


 音は――なかった。


 ただ、竜の胸が、静かに砕けた。


 波紋のように、亀裂が広がり、鱗が剥がれ、骨が光へと還っていく。


 天竜は、抵抗しなかった。

 いや、どこか――微笑んでいるようにも見えた。


 そして、崩れるように。

 風とともに、空へと還っていった。


 天竜は、もういなかった。


 ただそこに、拳を握ったまま立ち尽くす少女がいるだけだった。


 意識が戻ったとき、俺は空を見ていた。

 雲より高い場所にあるはずの空が、まるで海のように広がっていた。


 頬を撫でる風は穏やかで、竜の咆哮も、震えるような魔力の波動も、もうどこにもなかった。


 ……終わったのか。


 ぼんやりとした頭のまま、俺は身を起こした。

 腹に鈍い痛みが走る。戦えてなどいなかった。

 それでも、立ち上がらなければと思った。




 彼女が、いた。


 風の止んだ空島の中心に、ただひとり――少女が立っていた。

 衣は少し破れていて、裸足の足元には細かな石片が散らばっている。

 けれど、顔を上げた彼女は、どこか晴れやかな顔をしていた。


 俺は、ふらつきながらも彼女のもとへ駆け寄った。


 少女が、こちらを見た。

 そして――口を開いた。


「……あの。あらためまして……セレナ、です」


 その声は、澄んでいて、どこか照れているようだった。


 俺は、思わず言葉を失った。


「……喋れたのか……?」


 セレナは、小さく頷いた。

 瞳の奥の星が、静かに瞬いていた。


「ずっと……喋れなかったんです。

 魔王の呪いが、かかっていて……声を出すと、痛くて。

 でも、さっき、消えました。あの人が……いなくなったときに」


 その“あの人”が誰を指しているのか、言葉にせずともわかった。


 天竜――彼女の父。


 その魂が昇華されたことで、セレナを縛っていた呪いもまた、解かれたのだ。


「だから……いま、ちょっとだけ……練習中です」


 照れ隠しのように、セレナが微笑む。


 俺は、何か言わなければと思ったが、うまく言葉が見つからなかった。


 ――けれど、言わなくてもいいのかもしれない。


 彼女が、初めて自分の声で語ったその瞬間が、何よりの“はじまり”なのだから。


 空島の風は、もう凪いでいた。

 戦いの爪痕を包みこむように、柔らかな陽が差し込む。


 ふと、セレナが後ろを振り向く。


 少し離れた場所に、ラルフが立っていた。

 無傷ではないはずなのに、どこか他人事のような顔をしている。

 それでも、彼の目だけは、ずっとセレナを見守っていた。


 少女は、迷わずそのもとへ歩いていった。


 そして、すっと頭を下げた。

 ぎこちない、けれど真っ直ぐな所作だった。


「……ラルフさん。ありがとうございました」


 初めての言葉を、そのまま彼に向けて紡ぐ。


「あなたが一緒に来てくれたから……

 わたし、パパに……会うことが、できました」


 その声は震えていなかった。

 涙もなかった。

 けれどそこには、数百年の孤独と、報われた祈りのすべてが込められていた。


 ラルフはしばらく何も言わなかった。


 やがて、彼はそっと視線を落とし、ほんの少しだけ肩をすくめるように言った。


「……困ってたから、助けただけだよ」


 それは、いつものラルフの調子だった。

 感情を抑えた、淡々とした――けれど、どこまでもあたたかい声だった。


 セレナは、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、小さく微笑んで、その隣に立った。


 ふたりの間には、それだけで十分なものが、あった。


 セレナは、少しだけ俯いたまま、しばらくラルフの顔を見上げていた。


 そして――

 ふいに、小さな体を、そっと彼に預けた。


 細い腕が、ラルフの胴にまわされる。

 その動きに迷いはなかった。

 誰かに教わったわけでも、誰かと約束したわけでもない。

 けれどその仕草は、まるで――長い時を越えて、ようやくたどり着いた“愛しさ”そのものだった。


「……ありがとう、ラルフさん」


 そう囁いた彼女の声は、はっきりと聞こえた。


 抱きしめるのではなく、抱きつく。

 自分の意思で、自分の感情で。

 それは、親子に似たような、もっと深くて素朴な、人と人との温度だった。




 ラルフは、返す腕を持たなかった。

 ただ、静かにそのままの姿勢で、受け止めていた。


 その優しさが、言葉よりもずっと多くを物語っていた。




 ――俺は、少しだけ離れた場所から、その様子を見ていた。


 これまでの道のりを思い返す。

 空島に来たのも、天竜と向き合ったのも、

 俺は、ほとんど……何もしていない。




 いや、マジで俺、特に必要なかったな。




 そう思ったら、なぜか肩の力が抜けた。


「……まあ二人が幸せならいいや」


 誰にともなく、心の中で呟く。

 何かを成したわけじゃない。でも、こうして立ち会えた。

 それだけで、今は十分だと思えた。


 風がまた、優しく吹いた。


 空の高みに浮かぶ島で、誰かの想いが終わり、誰かの始まりが訪れていた。

 その傍に、勇者の影がひとつ、静かに佇んでいた。


 風が静かに吹いていた。

 空島の最奥に、戦いの痕跡だけが残る。


 俺は、セレナとラルフを交互に見てから、ぽつりと口にした。


「……よし。じゃあ、魔法陣で地上に戻るか」


 誰かが答える前に、周囲を見渡す。


 ――が、魔法陣が、ない。


「……あれ? 魔法陣、どこ行った?」


 気配すらない。転移の気配も、術式の残滓も、一切感じられない。


 ラルフが、あくまで淡々と呟いた。


「……あの魔法陣、一方通行だよ」


「は?」


「一度きり。帰り道は、ない」


「いやいや待て、それ聞いてないぞ!? 普通はあるだろ!? 往復セットで!?」


「常識的には、ね」


 俺の叫びに対して、ラルフはわずかに肩を竦めただけだった。

 いや、そういう顔じゃない。こいつは本当に、最初からそう思っていた顔だ。


「じゃあ、どうやって帰るんだよ……!? ここ、空の上なんだぞ!?」




 そのとき――セレナが、満面の笑みを浮かべた。

 それはもう、見事なまでのドヤ顔だった。


「ふふーん、問題ありません!

 わたしが変身して、ドラゴンになれば、お二人を背中に乗せて地上に戻すことも可能です!」




 その瞬間、風が吹いた。

 どこからか英雄譚のBGMでも流れそうな雰囲気だった。


 ……が。




 セレナは目を閉じ、腕を広げ、胸を張り――


 ――そのまま、固まった。




 数秒。


 十秒。


 三十秒。


 ……一分経っても、何も変わらない。




 俺とラルフは、沈黙のままセレナを見つめていた。


 セレナのこめかみに、汗が滝のように流れている。


「…………っ、ちょ、ちょっと……まってください……いま……いま、変身中……ですから……!」


 引き攣った笑みのまま、彼女は足元をぷるぷると震わせながら踏ん張っていた。




 だが――どこから見ても、ただの少女のままだった。




「…………もしかして、もう変身できないんじゃないか?」


 俺の呟きに、セレナの肩がぴくりと震えた。


「う、うそ……そんなはず、ない、はず……で、でも……っ」




 少女のドヤ顔は、じわじわと崩れ、

 やがて――




「…………魔力ゼロ、だから……かも……しれません……」


 その場にぺたんと座り込み、呟くようにそう言った。


「……つまり」


 沈黙のなかで、俺は言葉を繋いだ。


「魔力が回復するまで、この空島に足止めってことか」


 ラルフは俺の隣で、いつも通りの声色で補足した。


「うん。別の魔法陣もないし、下に降りる術もない。

 つまり、現状……閉じ込められてるってことだね」


 俺は、空を仰いだ。

 竜がいた巨木、崩れかけた橋、無音の遺跡――

 美しい。けれど。


「……実質、監禁じゃないか」


 その瞬間、ビシィッとセレナが指を突き出してきた。


「わ、私の故郷を牢獄みたいに呼ぶのはやめてくださいッ!」


 セレナの怒りはごもっともだ。俺だって彼女と同じ立場なら怒るだろう。

 俺たちはセレナにそれぞれ謝罪した。




 空島の探索は、意外な成果をもたらした。


 竜の祠から少し離れた場所、崩れかけた石垣の向こうに、畑が残っていたのだ。

 規則正しく並んだ段丘、萎れかけの作物、干からびた灌漑用の水路――それはかつて、誰かがここで暮らしていた証だった。


「……まだ食べられそうな野菜、いくつかあるな」


 俺の言葉に、ラルフは無言で頷き、さっそく手際よく収穫を始めた。

 セレナはというと、なぜかものすごく真剣な顔でトマトとにらめっこしていた。


「……この実、赤いです。食べごろです!」


「そうだな。ありがたいことに、こっちは餓死せずに済みそうだ」


 簡易の焚き火と、拾った鍋で作る即席のスープ。

 それは王都の食堂にも、宿屋の食事にも到底及ばない――けれど、どこかあたたかかった。



 空が赤く染まり、やがて星が瞬く。


 俺は、古い祭壇跡を背もたれにして座り込みながら、ぼんやりと空を見上げていた。

 風は穏やかで、虫の声はなく、空気は澄んでいた。


 ふと気づけば、セレナはすでに眠っていた。

 ラルフの隣で、小さく丸まるようにして、彼の肩に軽く頭を預けている。


「……すごく懐いているね。もしかしてラルフのことが好きなのかも」


 俺がそう言うと、ラルフは小さく首を振った。


「……不安だったんだと思う」


 ラルフの声音に、わずかな優しさがにじんでいた。


「寝る前に、誰かの体温があるって、安心するものだから」


 その言葉に、俺は何も返さなかった。

 ただ――火の揺らめきを見つめながら、静かに夜を迎えた。



 夜が明けた。


 空島の朝は、どこまでも澄んでいた。

 雲海の上に昇る陽は地上よりも近く、白い風車の羽根が、静かに軋みながら回っていた。


 焚き火の灰をかき混ぜていると、セレナが足取り軽くやってきた。

 その顔には、はっきりと“自信”の色があった。


「おはようございます! ……今日のわたしは、ちがいます」


 そう宣言すると、彼女は胸を張って続けた。


「……魔力、戻ってきました。いまなら、たぶん――竜にも、なれます!」


 前日とは違う。瞳にはしっかりとした光が宿っていた。

 魔力の流れも微かに感じる。たしかに、彼女はもう“ただの少女”ではない。


「……よし。じゃあ、今度こそ――」




 俺とラルフが見守るなか、セレナは目を閉じ、静かに両手を広げた。

 空気がわずかに震える。風が、彼女の髪を持ち上げる。


 魔力の波動――ある。


 いける……いけるか?




 しかし――




 変化は、起きなかった。




「…………あれ?」


 再び集中。


 魔力は循環している。

 流れている、たしかに。

 だが――形にならない。意識と、肉体が、つながらない。


「……あれっ……? なにこれ……変わらない……なんで……?」


 その場で、彼女の呼吸が急速に浅くなる。


「ちょっと、まって……ちょっと……違うんです、これは、なにかが……!」


 声が震えていた。

 目は焦点を失い、手がわずかに震えている。


 ――これは、まずい。


 俺は、何も言わず、そっと彼女の肩に手を置いた。




「……大丈夫。焦らなくていいよ、セレナ」




 静かな声だった。

 俺の手は軽く添えるだけで、力は入れていない。


「ちゃんと魔力はあるって、わかってる。

 でも、身体がついてこないだけ。……昨日、いろいろあったしな」


 セレナの震えが、少しずつ、和らいでいく。


「焦ったって、いいことないって……俺は、昨日も一昨日も、何もしてないけど……

 今ここで、“落ち着ける係”くらいにはなれるからさ」




 ふ、とセレナの肩の力が抜けた。


 彼女はゆっくりと目を閉じ、数度深呼吸をしたあと――ぽつりと呟いた。


「……はい。すみません、わたし……ちょっと、あせっちゃって……」




 俺は何も返さなかった。

 ただ、手を離し、空を見上げた。


 雲の切れ間から射す陽光が、少女の青緑の髪をやわらかく照らしていた。


 空島での暮らしにも、ある種の“慣れ”が生まれ始めていた。

 朝は畑で食料を確保し、昼は風の通り道を探して過ごし、夜は焚き火を囲んで言葉を交わす。

 文明とは程遠い生活だったが、不思議と不自由はなかった。


 ただ――セレナの様子だけは、日を追うごとに焦りを増していた。


「……昨日より魔力は安定してます。今日なら、いける気がします!」


 そう言って何度も変身を試みる。

 けれど、結果はすべて同じ。風は揺れ、魔力は反応するが、身体は変わらない。


 そして、セレナは必ず笑顔で言う。


「だ、大丈夫ですっ! 明日には、きっと……!」




 ――その笑顔が、少しずつ、無理をしているように見え始めた。




 焚き火の残り火を見つめながら、俺はひとり、考えていた。




 ――あれは、“恐れ”なのかもしれない。




 セレナの中で、竜化は“力”であると同時に、別れの象徴だった。


 あの日、彼女は竜の姿を取り戻し、たった一撃で父を――天竜を、昇らせた。

 それは救いだった。

 けれど、同時に“終わり”でもあった。


 あの瞬間から、セレナの“竜の姿”は、もう「お父さんのいない世界」に属している。


 だからこそ――

 無意識に、それを拒んでいるのかもしれない。




 変わればまた、誰かを喪うかもしれない。

 変わることで、過去が本当に“過去”になってしまうかもしれない。




 火の粉が舞う。


 俺は手のひらをかざして、それを見送った。


「……セレナ」


 小さく名前を呼んだ。

 少女は、焚き火の向こう側で、静かに顔を上げた。


 その表情に、また今日も笑顔が貼りついている。


 それが、妙に切なかった。



 朝の光が、雲の合間から差し込んでいた。

 空島の街路にはまだ靄が残り、遠くの塔の影が淡く揺れている。


 俺は、静かに焚き火を片付けながら、ふと声をかけた。


「なあ、セレナ。今日は……この島を案内してくれないか?」


 少女は、きょとんとした顔で振り返る。


「……案内、ですか?」


「ああ。ここ、きれいな場所が多いし。畑と祠しか見てないしな。

 お前が知ってる“セレナの空島”、ちょっとだけ、見てみたい」




 セレナは少し俯いて、考えるような仕草を見せた。

 そして、ぽつりと呟いた。


「……でも、案内より……はやく、お二人を地上に戻さないと。

 わたしが変身できないせいで……困ってますよね。きっと……迷惑も、かけてて……」




 その声には、明らかに自分を責める色があった。


 俺は立ち上がって、セレナと同じ高さに目線を合わせた。

 そして、はっきりと口にした。


「……俺は、ここでずっと暮らしてもいいと思ってるよ」




 セレナが、目を見開いた。


「……え?」


「この島、静かだし、景色もいい。お前もいるし。ラルフもいる。

 正直……俺にとっては、悪くない場所だ」


 冗談めかして言ったつもりだった。

 けれど、セレナはその言葉に、なにかが解けるような顔をした。


「……でも……わたし、ずっと帰れないかもしれないのに……」


「帰れないかもしれないって、お前が一番怖いんじゃないのか?」




 セレナは息を呑んだ。


 俺は続ける。


「だから、帰ることだけがすべてじゃないと思う。

 もし、この島に少しでも“帰ってきた”って思える場所があるなら……

 それを、俺にも見せてほしいんだ」




 しばらくの沈黙のあと――


 セレナは、ようやく、ほんの少しだけ、笑った。


「……じゃあ。

 “ちょっとだけ”、ですからね?」


 その声は、どこか軽くて、ようやく肩の力が抜けたようだった。



 セレナは、静かに歩き出した。


 俺とラルフはその後を追う。

 少女の足取りは軽やかというにはまだ遠く、

 それでも、ほんの少しずつ、迷いのない軌道を描いていた。




 風が通る回廊、崩れた水路、昔の暮らしを思わせる祭壇跡。

 セレナは多くを語らなかった。

 けれど、立ち止まる場所ひとつひとつに、“誰か”の痕跡があった。


「ここ……お母さんが、よく歌ってた場所です」


 そう呟いたとき、セレナの瞳が揺れた。


 けれど、彼女は泣かなかった。

 ただ、微笑もうとして――それをやめた。




 いくつもの階段を上った先、

 高台の門を抜けると、そこに――それはあった。


 島の端、断崖に設けられた小さな見晴らし台。

 柵は朽ちており、足元もいくらか傾いていたが――その先に広がる光景は、言葉を失うほどだった。


 遥か下に、雲海が広がっていた。

 白銀の波が、静かに脈打ち、地平線の代わりに天球を描いていた。

 遠くには小さな空の島々が、まるで星々のように浮かんでいる。


 そして――その空を裂くように、朝陽が昇る。




 セレナが、足を止めた。


 俺とラルフがその横に並ぶと、彼女はそっと振り返って言った。


「……ここが、一番の景色です」


 視線の先、遥か彼方の雲海には、ちらちらと光るものがあった。

 星でも、灯でもない。

 雲のひとつひとつが、まるで星屑を抱いているかのように、微かな光を湛えている。

 夜空に浮かぶ星が、地上の夜に寄り添うように――ここでは、空の底が、星を映しているようだった。


 そして、ぽつりと続けた。


「お父さんと、お母さんと……昔、ここで、空を見て……

 “ここから見える空は、どこよりもきれいなんだよ”って、教えてもらって……

 それで……それで、ずっと……」




 言葉が、途切れた。


 セレナは、静かにしゃがみこんだ。


 肩が、小さく震えた。




「……ずっと……だいじょうぶだって、思ってたんです……

 わたしは、竜だから……ぜんぶ、平気だって……

 でも……っ……でも……!」




 声にならない音が、喉から漏れた。


 セレナは、顔を両手で覆った。


 涙が、止まらなかった。




「もう、誰もいないって……気づいたら……っ、

 この景色、見せる相手が……もう、いないって思ったら……っ、」




 嗚咽が、風に混じって響いた。

 崩れ落ちた少女の姿は、竜でも聖者でもなく――

 ただ、失ったものを抱えた、ひとりの少女だった。




 俺は、何も言わずに隣にしゃがみ込んだ。

 ラルフも、近くの石に腰かけて、空を見上げている。


 言葉なんて、いらなかった。

 いまこの涙は、“誰かに届けるため”じゃない。

 “自分で気づくため”の涙なのだから。


 涙は、やがて静かに止まった。

 セレナは俯いたまま、しばらく動かなかった。


 俺も、ラルフも、言葉を挟むことはなかった。


 空はどこまでも澄んでいた。

 雲海の上を流れる風が、頬を撫でていく。




 やがて、セレナはゆっくりと立ち上がった。


 目元は赤く腫れていたが、その顔には、確かな光があった。


「……わたし、ずっと……間違ってました」


 静かな声だった。


「竜になれなかったんじゃなくて……

 竜になったら、ここから離れなきゃいけないって思ってたんです」


 拳を、小さく握る。


「ここで泣いたことも、思い出も……全部、わたしのなかにあるのに。

 でも、それを置いていくのが……こわくて」




 風が、舞った。


 空気が、変わる。


 俺は直感した。――くる。




 セレナの足元に、微かな光が集まり始める。

 風の流れが旋回し、空気の密度が上がっていく。


 魔力が、今までとは違う“質”で彼女の周囲を満たしていく。

 空気が、淡く光を帯び始める。

 微細な粒子が宙に浮かび、風に乗って舞っていた。

 それは光でも塵でもなく、魔力の残響――この空島という聖域に息づく、目に見える“息吹”だった。




「でも、もう……」




 セレナは、目を閉じて、微笑んだ。


「もう、行けます。

 だって……お父さんも、お母さんも、

 この空も、この島も――全部、ちゃんと胸の中にあるから」




 次の瞬間――


 光が、彼女を包んだ。


 肉体が、しなやかに伸び、衣が輝く粒子とともに風に溶ける。


 蒼く、しなやかな鱗。

 水面のように光を弾く翼。

 青緑のたてがみを風にたなびかせ、彼女は――美しい竜となった。




 その姿は、威厳でも神秘でもない。


 ただ、**ひとつの決意を持った少女の延長線上にある“本当の姿”**だった。




 彼女は俺たちに顔を向け、ゆっくりと頭を下げた。

 竜になっても、セレナは――セレナのままだった。




 俺は、ほっと息を吐いた。


「……そうだな。これで、帰れるな」




 ラルフが、ほんの少しだけ笑った。


「でもまあ……名残惜しい景色ではあるけどね」


 そう言って、彼は空を見上げた。




 そして、俺たちは竜の背に乗り、

 空島をあとにする。


 けれど、振り返ることはなかった。


 なぜなら、セレナのなかに、この空はすべて残っていると――

 俺は、もう知っていたからだ。


 雲を裂いて、王都の大地が見えた。

 遥か遠くに見えていた白壁と尖塔が、ゆっくりと近づいてくる。


 背中に乗っているのは、青緑の鱗を持つ、美しい竜。

 羽ばたくたびに風が軋み、空が波打つように感じられた。


 けれどその背は、どこまでもあたたかく、安心できた。




 やがて、城門の外――丘の上に降り立つ。

 大地の衝撃も、風の流れも、全てが現実に戻ってきた証だった。




 光が溶けるように竜の体から剥がれ、

 その中心に――少女がいた。


 白と水色の衣に戻ったセレナは、そっと地面に足をつける。

 顔を上げると、俺たちに静かに向き合った。




「……ありがとう」




 その声は、とても小さく。

 けれど、まっすぐで、確かな言葉だった。


 “誰に”とも、“なにに”とも明言せず、

 だからこそ、その「ありがとう」は、すべてに向けたものだった。




 ラルフが、その横で軽く頷いた。


「お疲れさま。……よく頑張ったね」




 それきり、ラルフは言葉を継がなかった。


 灰色の瞳が、森のほうへと向けられていた。


「……じゃあ、ボクは、そろそろ」




 俺も、それがどういう意味か、すぐにわかった。


 ――ラルフは、ここで役目を終えるつもりだ。




 だが。




「まって!!」




 その声は、思った以上に大きかった。

 風に乗って、森の静寂すら揺らした。


 セレナが、駆け寄っていた。


 ラルフの袖を、ぎゅっと掴む。

 けれど、その手は震えていた。


「……だめ、です……もう、ひとりには……なりたくないんです……!」




 声が、潤んでいた。


「ラルフさんがいたから……わたし、ここまでこれたんです。

 お父さんと、ちゃんとお別れもできたんです。

 なのに、なんで……なんで今、いなくなるんですか……!」




 ラルフは、セレナの手を見つめたまま、何も言わなかった。


 沈黙の時間が流れる。




 その背中に、“消えていく者の影”があった。

 けれど、それを止めようとする声は、たしかに――生きる者の声だった。




 やがて、ラルフが小さく息を吐いた。


「……ボクは、助けたいから助けただけだよ。

 でも……そうやって言われると、少し、困るね」




 その声には、わずかに笑みが混じっていた。




 そして彼は、セレナの頭にぽんと手を置いた。


「もうちょっとだけ、王都にいるよ」




 セレナの瞳に、ぱっと光が戻った。


「……はいっ!!」



 俺は、そのふたりのやり取りを見て、自然と微笑んでいた。


 それは――

 ようやく訪れた、“新しい日々”の始まりの景色だった。


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