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第4話:ラーメンと、おもてなし

 マリオン副団長のもとでの訓練は、ひとまず一区切りとなった。

「もう、あたしが教えることはないな」

 そう言われた時、寂しさと同時に、確かな達成感が胸に残ったのを覚えている。


 それからというもの、俺に向けられる周囲の目は、少しずつ変わってきた。

 部隊の訓練場では、仲間の騎士たちが冗談交じりに助言を求めてくることもある。

 それは、つい最近まで“新人”と呼ばれていた自分にとって、信じられないような光景だった。


 ――けれど、彼女だけは変わらない。


 リアノ=ルヴィア王女。

 気品と清廉の体現のようなその人は、どこか王国そのものを思わせる存在感を湛えていた。

 お淑やかで、瀟洒で、いつも凛としていて――

 俺がどれだけ変わろうとも、決してその立ち位置を揺るがせることなどできない、そんな距離感があった。


 けれど今日、姫様はふとした笑みとともに、こう仰ったのだ。


「本日は休日でございます。……勇者様、よろしければ、王都を少しご一緒いたしませんか?」


 まるでそれが、ごく自然な日常の一部であるかのように。

 そして、俺の胸に灯ったものが――ただの嬉しさだけではないことを、自分でもわかっていた。



 姫様が選んだのは、王都の南通り――活気にあふれた市場近くの一角にある、小さな食堂だった。


 看板には、力強い筆致でこう書かれている。


 《煌天国式 拉麺処 一撃軒》


 聞けば、この「煌天国」とは、東方の遥か彼方にある異国の名らしい。

 そこから伝来したという「ラーメン」は、今や王都の若者の間でちょっとした流行になっているのだという。


「わたくしも……少し、気になっておりましたの。以前、侍女が勧めてくれて」

 姫様は、恥ずかしそうに頬を染めながら言った。

 王族の口から「ラーメン」という響きを聞く日が来るとは、思いもしなかった。


 店の暖簾をくぐると、香ばしい匂いとともに、店主の威勢のいい声が飛んできた。


「いらっしゃい! マシマシチョモランマ、フュージョン完了ォッ!」


 謎の詠唱。異国語かと思えば、どうやら“量を増やせる”という注文用語らしい。


「おや……姫様、ですかな?」

 厨房の奥から現れた店主は、俺たちを一瞥すると、腕を組んでこう言い放った。


「だがこの店の中では、貴族も平民も関係ねぇ。姫様だろうと、俺が王だ」


 ……すごい自信だ。

 姫様は一瞬だけ驚いたようだったが、すぐにふふ、と小さく笑った。


「ええ、あなたが“この場所の主”であることに、異論はございませんわ」


 俺たちは並んでカウンター席に腰を下ろした。

 どこか懐かしさを感じる木の椅子と、油染みの残る天板。

 王城の食堂とは全く違うこの空間に、姫様が興味津々の視線を向けているのがわかる。


「勇者様は……どの品を?」

「えっと、じゃあ……“味玉肉盛りらぁめん・並盛・こってり”で」


「では、わたくしも同じもので」

 姫様は迷いなくそう仰った。


 まるで冒険の一環のように、嬉しそうに注文を重ねるその姿を見て――

 俺は、ほんの少しだけ、この休日がずっと続けばいいと思ってしまった。


 湯気が立ちのぼる丼が、カウンター越しに置かれる。

 煌天国式ラーメン――濃厚な香り、透き通る油膜、ぎっしりと詰まった具材。

 俺の目の前にあるそれと、姫様の前にあるそれは、当然ながらまったく同じものだ。


 ……だが、姫様の丼には、どこか荘厳な空気が漂っていた。


 まず、彼女は音も立てずに箸を構える。

 その所作は、まるで宝剣を抜くかのように慎重で、美しかった。

 続けてスープを一口――両手で器を支え、目を閉じて静かに啜る。


「……ふむ。香りと塩気、脂の重厚な調和……まさしく“庶民の滋味”ですわね」

 どこか詩的な感想を添えながら、彼女は淡々と麺へと箸を伸ばす。


 その瞬間だった。


「す、すげぇ……」

「なんか……麺が貴族になってる……!」

「俺たちが食べてるの、ほんとに同じラーメン……?」


 周囲の客たちが、ざわついた。

 がっつく者も、啜る者も、笑いながら盛り上がっていた店内の空気が――

 まるで高貴な儀式でも始まったかのように静まり返っていた。


 姫様は何ひとつ気負うことなく、淡く微笑みながら再び麺をすする。


 その音までもが、なぜか涼やかに感じられるのは――気のせいだろうか。


「……」

 俺は、自分の丼に目を戻した。

 たっぷりと湯気を立てる“味玉肉盛りこってり”――

 普段なら、ひと思いに啜っていたはずのそれが、今はなぜか視線に耐えかねている。


 だが。


 偏見だ。これは、偏見だ。

 ラーメンは本来、豪快に啜るもの。

 上品に食べたら負けな気がする……そんな気すらしてくる。


 俺は息を吸い込み、麺をひと束掴んだ。

 そして――


「……すするぅッ!!」


 魂の全力で啜った。

 ズゾゾゾゾッと響く音に、店の空気がビリつく。


「ふむ。勇者様の啜りも……勢いがあって、素敵ですわね」

 姫様は微笑む。その瞳は、どこまでもまっすぐだった。


 気品と豪快さ。

 交わるはずのなかったふたつが、今、ひとつの空間で共存している。


 ラーメンとは、かくも――奥深い食べ物だったのかもしれない。


 俺が半分ほど麺を食べ進めた頃、店の入り口ががらんと開いた。


「お〜っ、空いてんじゃ〜ん♪」


 白っぽい桃色の髪、ウサ耳みたいなアクセ、ふわっとしたラフな私服――。

 王都で最近人気になってるギャル風のファッションである。


 本人にその気はないが、どこにいても目立つ衣装は、店内の熱気にも臆することなくズカズカと中に入ってきた。


「えーっと、えらべばいいんでしょ? じゃあ、“チャーシュー祭りメガ盛・あっさり濃いめ”でお願いっ♪ あとメンマトリプルで~☆」


「了解、チャー祭りメガあっさこい、メンマトリ!」

 店主が怒涛のリズムで復唱する。


 そのまま、ギャルは俺たちの三席ほど隣のカウンターに着席。

 当然ながら、こちらの視線には気づいていない様子で、丼が届くと「きゃわ~♡」と一言つぶやき、

 ――そこからの少女は、沈黙だった。


 黙々と、ものすごい勢いで、ラーメンを食べ進めている。


 やがて、先に食べ終えたのは、そのギャルだった。


「ふうっ、今日もナイスラーメン! ごちでーす!」


 ギャルは満足げに立ち上がり、腰ポーチから財布を取り出すと、

 指の先に一枚の札を挟み、くいっと小さく店主に突き出した。


「これでよろ〜ん♪ おつり? いらな〜い☆」


「へい、あんがとよ姉ちゃん! また来な!」


 ギャルは片手をぶんぶん振りながら、あっという間に暖簾の向こうへと消えていった。


 まるで嵐のような来訪と退場。

 しかし、店内にはなぜか、明るい空気が残っていた。


 ギャルが去ったあと、ふと姫様が箸を止め、静かに口を開かれた。


「……今の方、以前、市場にてお見かけしたことがございますわ」


 そう言って、少しだけ微笑まれる。


「お名前までは存じませんが……印象に残る、朗らかなお方でした」


 姫様は、ラーメンの残りに箸を伸ばしながら、ふと視線をカウンターの空席へと向ける。


「……どうせなら、ご一緒してお話などできたら、楽しかったでしょうに」


 一瞬、店内が静まり返った。


 え? あの姫様が? ギャルと? 一緒にラーメンを?


「懐、深すぎるだろ……」

「女神かよ……」

「ギャル、認められた……!?」


 ざわつく客たちの間で、なぜか“ギャル=姫様に覚えてもらえる”という謎理論が発生した。


「俺もピンク髪にしてくる!」

「ちょ、お前スカート履くな!」

「ラーメン啜っても覚えてもらえないってことか……くそッ!」


 店主がぽつりとつぶやく。


「ギャルになれば姫様に認識される……それが新時代の合言葉ってわけか」


 姫様は、騒ぎに気づいていないふうで、最後の一口をゆっくりと啜る。


「……やはり、この一杯……味わい深いですわね」


 高貴な笑みとともに。


 ――この日、「ギャルとラーメンと姫様の懐」が、王都の都市伝説になった。


 店を出ると、王都の通りには柔らかな陽射しが降り注いでいた。

 昼下がりの喧騒もどこか穏やかで、腹ごなしの散策にちょうどよさそうな気候だった。


 姫様は足を止め、小さく深呼吸を一つ。


「……たいへん、美味しゅうございましたわ」


 言葉は端的ながら、その表情には確かな満足がにじんでいた。

 格式ある宮廷料理とはまるで違うが、そこには別種の魅力があったのだろう。


 しばし歩いた後、姫様はふと俺の方へ視線を向けて、軽く笑みを添えながら仰った。


「……ただ、少々、ニンニクが刺激的でしたわね」

「は、はい。俺も少し……感じました」


 言葉を選ぶようなその一言に、気品と自制が込められているのがわかる。

 誰も「匂い」とは言わない。

 ただ「刺激的」と評する――それが、姫様という方だった。


「城に戻って、少し休息をとるのが良さそうですわね。……このまま市場に寄れば、侍女たちに心配されてしまいますもの」


 確かに、姫様がラーメン屋から出てくるところなど、侍女に見られでもしたら……あとで何を言われるかわかったものではない。


「ご足労いただき、ありがとうございました、勇者様。……とても、楽しいひとときでございました」


 姫様は微笑みながら、歩を進めた。

 その背筋は、ラーメンという庶民食を経た今なお、いや、むしろ一層――気高く、美しかった。




 翌日。

 午前の陽が射し込む訓練場。

 今日もいつものように、俺は剣の素振りをこなしていた。

 けれど、どこか集中が続かないのは、ここ数日の“妙な違和感”が尾を引いているからだ。


 あの坑道――中層の“気味の悪さ”は、ただの地形の問題とは思えなかった。

 空気が重く、音が吸い込まれるようで……そして何より、**あの沈黙が“何かを隠していた”**ような感触が、今でも忘れられない。


「……勇者様」


 声に振り向くと、リアノ姫がこちらへと歩み寄ってくる姿があった。

 気品と凛々しさをまといながらも、どこか緊張を孕んだ面差し。

 ただの見回りや挨拶ではない、とすぐにわかる。


 姫様は俺の前で歩みを止め、静かに告げた。


「先日の鉱山……あの坑道の件で、王国調査隊が深部まで踏み入りましたの」


 俺は、無意識に息を飲む。


「……調査の結果、最深部より――魔王軍幹部の痕跡が検出されました」


 その言葉に、空気がひやりと冷たくなる。


「痕跡、というのは……奴らがいた、ということですか?」


「確証はございません。ですが……魔力の反応、それも尋常ではない濃度の“負”の波動が確認されております。おそらく、あの場で何かが……実験、あるいは儀式のようなものが行われていたのではないかと」


 俺の背筋が僅かにこわばるのを、姫様は静かに見つめておられた。


「その存在が、まだ生きている可能性は?」


「……不明です。が、消滅しているならば、あのような魔素の痕は残らないはず。むしろ……」


 姫様は言葉を切り、小さく瞳を伏せる。


「――“立ち去っただけ”である可能性が高い、との報告です」


 静かな口調。しかしその内容は、**“魔王軍幹部が地の底で目覚めつつある”**という、重く暗い予兆だった。


「ところで、訓練終了後に少しばかりお時間をいただいてもよろしいですか?」

「もちろんです、姫様。勇者として光栄の極みです」

「…………それでは、『いつもの場所』に、いらしてください」


 姫様は目を伏せて、少しばかり声のトーンを落とした。




 そして訓練後。

 王城の奥――緑に包まれた広大な庭園へと、俺は足を運んでいる。


 通称、迷宮庭園。


 季節ごとに剪定される生垣は背丈よりも高く、道筋は複雑に入り組んでいる。

 けれど、右手を壁に添えながら歩いていけば、迷うことはない。

 そんな話を、かつて騎士団の先輩がしていたのを思い出す。


 俺はその通り、手を壁に添えてゆっくりと歩を進めた。


 緑のトンネルをいくつも抜け、静寂と木洩れ陽の中を歩き続けること、しばし。

 やがて視界の先に、ひときわ明るい空間が広がった。


 そこには、白い石造りの東屋あずまやが佇んでいた。

 柱には蔦が絡み、天井には葡萄の葉がやわらかく揺れている。


 そして――


 東屋の中。

 背もたれのある木椅子に、リアノ姫が静かに座っていた。


 膝に置かれた本は、いつしかページが閉じられ、胸元にそっと手が添えられている。


 そのまま、深く、ゆったりとした呼吸。

 ――眠っているのだ、と気づくのに、時間はかからなかった。


 風が一筋、彼女の金の髪を揺らす。

 まぶたの上には、柔らかな陽の輪郭が差し込み、その頬はほんのりと色づいている。


 まるで――天使だ、と、思った。


 いつも毅然としていて、誰よりも高潔で、簡単には近づけない存在。

 それが今は、穏やかな寝息とともに、そっと時を止めている。


 言葉も、足音も、場の空気さえも――

 なぜかすべてが、この人を起こさないように、と自然に整ってしまう気がした。


 俺は、息を殺して立ち尽くす。


 ただ、その光景を――

 この王城で、いちばん静かで美しい場所を――

 目に焼き付けるように、見つめていた。


 そのとき――


 姫様のまつげが、ふるりと揺れた。

 細く目を開け、ゆっくりとこちらを見やると、瞬きを一つ。


「……あら」


 眠りから覚めたばかりの声は、いつもよりわずかに柔らかく、温度を帯びていた。

 俺と視線が合うと、姫様は目を見開き、そしてほんのりと頬を染める。


「お待たせしてしまいましたわね……みっともないところを、お見せしてしまって……」


「いえ、そんな……。俺の方こそ、訓練が長引いてしまって……遅れて、すみません」


 俺は立ったまま、姿勢を正して頭を下げた。


 姫様は目を細めて微笑む。

 その笑みには、どこか眠気の残る優しさと、心からの寛容さがあった。


「謝罪には及びません。……勇者様には、日々、大切なお務めがございますもの」


 その言葉が、少しだけ心に染みた。


 促されて、俺は姫様の隣に腰を下ろした。

 東屋に吹き込む風が、葉擦れの音とともに髪を揺らす。


 隣にいる姫様の姿は、変わらず凛としていて、

 けれどその余韻には、さっきまでのうたた寝の柔らかさがまだ残っているようだった。


 ふと、風が通り抜けたとき――


 花のような、淡く澄んだ香りが鼻先をかすめた。


 姫様の髪から、あるいは衣の香かもしれない。

 それは言葉にできないほど自然で、ただ心地よくて――


(……ああ、この人は、本当にすごいな)


 香水でも香木でもない、どこか気高く、優しいその香りは、

 俺の心を、すっと静かに整えてくれるようだった。


 変な意味じゃない。

 ただ、隣にいて、まっすぐにそう思えることが――嬉しかった。



 少しの沈黙の後、姫様は視線を東屋の柱へと移し、静かに口を開かれた。


「……本日、あなたをお呼びしたのは、魔王軍幹部に関する件でございます」


 その声音には、わずかな緊張が宿っていた。

 けれど、それを包むような気品と理性が、いつもの彼女らしさを保っている。


「彼らの狙いは……ご承知のことかと存じますが、明らかに私を標的としております」


 視線が、ゆっくりと俺に向けられる。


「それでも、本当に……大丈夫でいらっしゃいますか?」


 その言葉は、形式ではなかった。

 王女としてでも、指揮官としてでもなく――一人の女性としての問いかけだった。


 俺はすっと背筋を伸ばし、自然と立ち上がって一礼する。


「当然でございます、リアノ様」


 言葉に迷いはなかった。

 騎士団で学んだ礼儀と、騎士道精神に基づく覚悟。

 それに加えて、胸の奥にある、もっと個人的な想いも――すでに言葉にする覚悟はできていた。


「俺は、勇者として、あなたを守る責務を果たします。それがどれほど危険であっても、退くことはありません」


 そして、少しだけ間をおいて。


「……けれど、それだけではありません」


 姫様が、わずかに目を見開く。


「俺は、あなたを……愛する者としても、守りたいと思っています」


 それは訓練でも演説でもない、たった一人に向けた、まっすぐな言葉だった。


 しばらくの沈黙。

 庭園の風が、静かに葉を揺らす。


 やがて姫様は、ゆっくりと目を伏せ、小さく微笑まれた。


「……忠誠心を、確かめたかったわけではないのです」


「私は、あなたに“当然です”と――そう言っていただきたかったのだと、今なら気づけます」


 その微笑は、どこか寂しさを帯びて、けれど穏やかだった。


「愛する者に、愛していると……言われたかった。……それだけなのです」


 その言葉は、まるで誰にも聞こえないように、けれど確かに――俺の心に届いた。


 そして俺は、改めて隣に腰を下ろした。

 隣に座る、かけがえのない人の気配を感じながら。

 その背中を、未来を――この手で、守ると誓った。


「話は変わりますが勇者様、本日も……街へお出かけいたしませんか?」


 その言葉に、俺は思わずきょとんとする。


「えっ、あの……昨日も行きましたけど……?」


 無礼のつもりはなかった。ただ、素直な反応だった。

 姫様は、そんな俺の戸惑いを見て、ふわりと微笑まれた。


「ええ、そうですわね。昨日も王都の空気に触れました」


 風にそよぐ金髪を指で整えながら、姫様は静かに続ける。


「けれど――どこに行ったか、ではありませんの」


 その瞳はまっすぐに俺を見つめていた。


「誰と行ったか、が大切なのですわ。」


 その一言は、詩のように、胸に届いた。


 言葉自体は優雅で、控えめだった。

 けれどそこには、はっきりとした感情があった。


 この人は――今日という日を、俺と過ごしたいと思ってくれている。

 ただそれだけを、こうして、丁寧に伝えてくれたのだ。


 俺は一拍置いて、頭を下げた。


「……はい。喜んで、ご一緒させていただきます」


 王都の大通りを並んで歩きながら、姫様はゆったりとした口調で仰った。


「……ラーメンは昨日いただいたばかりですもの。今日は別の食文化を味わいたいですわ」


「なるほど。では、そういう方向で探してみます」


 俺は商店街の並びを見渡しながら、どこか面白そうな店はないかと目を走らせる。


 すると、少し路地を入ったところに、ひときわ渋い木製の看板が掛かっていた。


 《 おもてなし 》


 ただ、それだけが、筆文字で描かれている。


(……店名、ですよね……?)


 気になって覗き込んでみると、そこは――


 畳敷きの小さな座敷、障子に盆栽、ほのかに香る抹茶の香。

 明らかに、異国「硯環楼けんかんろう」由来の、“和”をコンセプトにした空間だった。


「うわぁ……すごい……」


 姫様がぽつりと感嘆の声を漏らす。その視線は、壁に掛かった四季の掛け軸へと向けられている。


 そのとき、店の奥から店員がにゅっと顔を出した。

 和装、丸眼鏡、なぜか腰に扇子を差している。


「硯環楼はすごいんですよ」

 挨拶もなく、突然の語り口だった。


「硯環楼には、四季があるから」


 そのままのテンションで、頷きながら続ける。


「春には桜、夏には蝉、秋には紅葉、冬には雪……この輪廻があるからこそ、食も魂も整うのです」


(いや、それならエルデンティアにも四季はあるんですが……)


 俺は心の中で突っ込みつつ、恐る恐る口を開いた。


「その……王国にも、四季はあると思いますが……」


 店員は、ふっ、と目を細め、何も言わずに厨房へと引っ込んでいった。


 やがて、運ばれてきたのは――


「お茶漬けです」


 湯気の立つ小鉢を、無言で俺の前に置く店員。

 だがそこには、何か訴えかけるような表情があった。


「……これは、つまり……?」


 横を見ると、姫様がそっと目を伏せながら答えてくださった。


「……これは、“さっさと帰れ”という意味でございますわ」


 まったく悪意のない口調で、静かに言語化される“もてなし”。


 その解釈に、俺はなぜか逆に安心しながら、箸を手に取った。


「……いただきます」


 障子をくぐったその瞬間――空間の重心が、明らかにずれた。


 白木の柱の下、畳に直に敷かれた緋毛氈ひもうせんの上に、

 紅の傘をさしたまま腰掛ける少女の姿があった。


 ゼアミンだった。


 白装束を纏った小柄なその姿は、まるで空間そのものと一体化しているかのように、無音の存在感を放っていた。

 その装束は儀式のような簡素さと、舞台衣装のような計算を孕んでおり――その身に纏う“静”が、逆に目を引く。


 すらりと伸びた手足。無駄のない細身の輪郭。

 その右頬には、鬼面の隙間から覗く白い素顔があった。


 涼やかな口元と、伏せられた睫毛。

 ――無表情なのに、なぜか見惚れてしまう。


 (……なんだ、この……)


 一瞬、胸の奥で小さなざわめきが走る。

 表情も動きもないのに、そこにただ佇んでいるだけなのに――

 なぜか“目を奪われる”気配を帯びていた。


 それはきっと、幼さの中にある、完成された静寂のせいだ。

 どこにも拙さがなく、どこにも乱れがない。

 完璧に“計算されていない”はずの存在が、完成された絵画のように空間を支配している。


 そしてその頂点に、

 ――なぜか、室内で開かれている紅傘。


 天井に届くほどの立派な番傘を、ゼアミンはさも当然のように頭上に差していた。

 誰も突っ込まない。誰も不自然だと言わない。

 彼女自身にその“演出”の意図を問うことが、はばかられるほどの、圧倒的な調和がそこにはあった。


 姫様が、俺の隣で静かに言葉をこぼす。


「……彼女はきっと、“この空間のために”存在しておられるのでしょうね」


 それは、称賛でも驚愕でもなく――納得のつぶやきだった。


 ゼアミンは何も言わず、ただ串団子をゆっくりと一つ口に運ぶ。

 その動作さえ、舞の一部のように滑らかで。


 まるで“自分の存在”そのものが、舞台であるかのようだった。


 こちらに気づいたゼアミンは、ゆっくりと立ち上がると――

 傘を閉じることなく、そのままトコトコと、俺たちの方へと歩いてきた。


 紅傘の下から顔を覗かせたまま、正面に立つ。

 その瞳には言葉よりも早く、感情が宿っていた。


 無表情なのに、どこか嬉しそうだった。


「……いらしたのですね。勇者殿に、姫様」


 相変わらず、声は静かで抑揚がない。

 けれど、俺たちを見る目は、柔らかな光を帯びていた。


「ここは、お気に入りの店です。エルデンティアにありながら……硯環楼の香りが、いたしますので」


 その言葉のあと、ゼアミンはふと立ち止まり、少しだけ首を傾げる。


 紅傘を見上げて、俺が尋ねた。


「……どうして、その……傘を、差しているんですか?」


 ゼアミンは答えなかった。

 ただそのまま、何事もなかったかのように、再び店員の方へと向かい――


「お茶漬けを。一つ」


 簡素な注文をし、その湯気立つ椀を、両手で持って戻ってきた。


 そして――


 俺に、差し出してきた。


「えっと、ゼアミンちゃん?」


 俺がお茶漬けを受け取ったまま固まっていると、ゼアミンはじっとこちらを見つめた。


 そして、しばしの沈黙の後――


「……“おかえりどすえ”という意味」


 突然の、超ストレートな言葉だった。


「えっ……」


 あまりにも明快すぎる返答に、俺も姫様も言葉を失った。


 今までの“舞のような沈黙芸”は何だったのかと、心の中で軽くツッコむ。


 ゼアミンは、気にする様子もなく淡々と続けた。


「……硯環楼では、“言わないこと”が、礼儀」


「……」


「相手の言葉の余白を読み、気配を見て、目の奥にある本音を掬い……」


 俺が黙っていると、ゼアミンは小さく瞬きして、しれっと結論を述べた。


「……つまり、“空気を読んで察しろ”という強迫観念が、日常です」


「強迫観念て……」


 俺は思わずこぼす。

 姫様も珍しく、目を伏せて唇を押さえていた。笑いを堪えておられるらしい。


 ゼアミンは真顔のまま、俺をじっと見つめた。


「……勇者殿が今のまま硯環楼に行ってしまえば……」


「うん」


「……一生、お茶漬けばかり出されます。」


「重ッ!」


 思わず突っ込んでしまった。


「……ご飯と出汁と、何らかの漬物が、黙ってずっと並べられ続ける……。

 “あなた、何もわかっていませんね”という意味を込めて」


「言ってくれればいいのに!」


 俺の叫びに対し、ゼアミンはふわりと首を傾げる。


「……言わないのが、情緒です」


 完全なる、無敵の文化圧。

 俺はそっと、ゼアミンから提供された茶漬けをかき込んだ。


 その後、俺は店の隅に掲げられた一枚の札に目をとめた。


 《 わんこそば 五十杯 一口ずつ 》


「……あれ、なんですか?」


 つい気になって姫様に声をかけると、ゼアミンが口を開く前に姫様が微笑んだ。


「“わんこそば”……小さな器に盛られたお蕎麦を、何杯もいただく東方の食文化だと伺ったことがあります。少量ずつなら……面白そうですわね」


 俺もその気になって、つい言ってしまった。


「じゃあ、頼んでみますか。わんこそば、ふたり分で――」


 その瞬間、ゼアミンの手がすっと上がった。


「姫様は……普通のざるそばが、よろしいかと」


「えっ?」


 珍しく、明確な“止め”の意志が表に出た。

 ゼアミンが誰かの注文に口を挟むのは極めて珍しい。


 姫様も目を細めてゼアミンを見つめ、やがて静かに頷いた。


「……では、勇者様だけ、いただいてみてくださいませ」


 運ばれてきたのは、小さな木の椀がずらりと並んだ――五十杯分のそばだった。


「おぉ……これは……見た目はかわいい……」


 最初は楽しかった。

 一口サイズのそばを、さくさくと食べ進める。

 つゆも香り高く、薬味も多彩で、思わずテンポよく食べてしまった。


 ……だが。


 二十五杯を超えたあたりで、空気が変わった。


「……っく」


 胃が、重い。

 水気で膨れた蕎麦が、ずしりと腹の底にたまっていく。


 なのに、ゼアミンは、何も言わない。


 ただ、そっと――


 一杯、また一杯と、蕎麦を俺の前に滑らせてくる。


 紅傘の下、真顔で、流れるような動作。

 その顔には、感情も容赦もない。


「……これ……あと、何杯……?」


 俺が震える声で尋ねると、ゼアミンは静かに告げた。


「……おもてなしだから、黙って受け入れて」


「いやそれ、おもてなしの言い方じゃない!」


 叫んだところで止まらない。

 ゼアミンの手は止まらない。

 まるで、何かの儀式のように、俺の前にそばが積み重なっていく。


 五十杯目を終えたとき、俺は静かに俯いた。


「……お腹いっぱいで……動けないです……」


 姫様が心配そうにお茶を差し出しながら、ぽつりと漏らした。


「……これは、まさしく“食による詩的攻撃”でございますわね」


 一方、ゼアミンは、何食わぬ顔で団子の串を口元へと運んでいた。




 俺が椀を前に動けずにいると、姫様はそっと微笑んでおっしゃった。


「勇者殿は、もてなされたわけですから……つまり、喜ばしいことですわ」


「……いや、それ理屈としてどうなんですか……」


 反論しかけたが、姫様の笑顔があまりにも美しかったので、俺は何も言えなかった。


 そのとき。


 ゼアミンが、ふわりと立ち上がった。

 団子はすでに完食していた。


 ゼアミンは紅の傘を開く。

 まるで舞台の幕引きのように――滑らかな一連の動作だった。


「……わたくし、これより講演でございます。舞台“幽の章”、はじまりますゆえ」


 そう言って、彼女は懐から小さな紙片を二枚取り出した。


「どうぞ。特等席です。静かにご覧くださいまし」


 それは、今夜の公演のチケットだった。

 上品な筆致で「能楽堂 硯環楼」と記されている。


「お気をつけて」


 姫様が軽く一礼すると、ゼアミンは微かに頷き――


 紅傘をさしたまま、スッ……と店の戸を押し開けて外へと出ていった。


 快晴。


 雲ひとつない青空のもと、堂々と傘を差していく後ろ姿。


(……いやいやいやいや、日傘の角度じゃないし……)


 ツッコミが喉元まで出かかった。


 だが、ここで何かを言ったら――また茶漬けが来る。


 俺は静かに目を閉じた。


 文化とは、時に……試練である。


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