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第3話:難しいことは考えるな 後編

 

「で、今回の目的だけど――」


 隣に座るマリオン副団長が、手綱を握る御者に声が届かない程度の声で、ぽつりと切り出した。


「鉱山跡地に関する、魔力帯の再調査。放棄された鉱区に、魔族系の痕跡が出たって報告があってね。王国としては見過ごせない」


「……魔族の痕跡、というのは?」


「魔素反応。地脈の歪み。あと、遺された獣骨に不可解な腐蝕痕とか。魔物にしては痕跡が濃すぎる」


 そう言って、彼女は手帳の端をめくりながら続けた。


「でも、報告者は全部冒険者。だから信憑性は半々ってとこ。……今回は、その精査と、もしもの時の封鎖判断。私と、あんたの“見立て”が必要ってわけ」


「なるほど……」


 俺は素直に頷いた。

 素朴な疑問が浮かんだので、そのまま口にする。


「……でも、どうして騎士団じゃなくて、冒険者の方が先に見つけたんでしょうか?」


 その一言に、マリオンはふっと目を細めた。


「うん、いい質問。好感度上がった。すごく」


「……は?」


「鉱区ってのは、王都からも外れててね。地元住民や冒険者のほうが足が早いのよ。こっちは報告を受けてから動く。だから、今回みたいな“裏の噂”には、民間の動きに便乗するのが早いってわけ」


 そうこうしているうちに、馬車は途中の宿場町で一度停まった。

 乗り合い馬車のため、他の客が乗り込んでくる。


 ドアが開き、軽快な笑い声と共に入ってきたのは、若い男女の冒険者――どうやら、見た目通りのカップルらしい。


「わーい、最後の席空いてたね〜! 運命ってやつ?」


「はは、やっぱ俺たち、どこまでも一緒だな~」


 俺たちの向かいに、ぴったりと寄り添って座る二人。

 雰囲気は完全にラブラブ空間。俺はなんとなく、身を引き気味に座り直した。


 ……そもそも、マリオン副団長とこうして二人旅なのも、かなり緊張する状況なのに。


 そんな空気を察してか、女の方が無邪気に口を開いた。


「ねえねえ、そっちのお二人も恋人同士?」


 ――は?


 俺の呼吸が止まった。


 顔に熱がのぼるのが、自分でも分かる。慌てて否定しようとしたその時、


「ええ、そうよ」


 先に答えたのは、マリオンだった。

 しかも、超真顔で。


 さらに、彼女は身を乗り出して、俺の耳元でささやく。


「一般人と思われることも、大事なの。調査の一環として、ね」


「……そ、そうなんですか……」


 声がうわずってしまった俺に、マリオンは小さく笑った。


「ま、赤くなるのも演技に見えて丁度いい。あんた、ほんと優秀だね」



 馬車が村の広場に止まり、乾いた砂を巻き上げた。


 俺とマリオン副団長は静かに荷を降ろし、そのまま無言で歩き出す。陽はすでに傾き、空は茜色に染まっていた。


「こっち。騎士団の派出所。宿代もかからないし、記録類も整ってる。いろいろ便利よ」


 彼女の先導で、俺たちは村の外れにある石造りの小さな建物へと向かった。外観は簡素だが、入り口には王国の紋章が掲げられている。


 記帳を済ませ、受付の老騎士に一礼して部屋の鍵を受け取る。

 部屋は別。副団長という立場を考えれば当然だ。


「夜更かしはダメよ。明日、現地入りする前に一度打ち合わせするから」


 マリオンの言葉にうなずき、別れを告げて自室へと入った。


 部屋は、木床と薄い布団、それに小さな机と椅子だけという簡素なつくり。

 剣を壁に立てかけ、俺はそのまま布団に寝転がった。少しだけ、体が沈み込む。


 ――何気なく、携行していた地図を取り出して、畳の上で広げる。


 目的地である鉱山跡の位置を指でなぞり、そこから視線を南へずらした瞬間だった。


 地図の右下、小さく記された“深林の境界”という地名に、俺は小さく息を呑んだ。


 あの森だ。


 かつて、命を落としかけた俺を、ためらいなく助けてくれた青年――ラルフ。

 彼が住んでいた場所。

 そして、俺にだけその正体を明かしてくれた“病魔”の住処でもある。


 ……そう、彼は魔族だった。

 だが、魔物でも悪鬼でもなく、ただ静かに森で暮らしていた。


 理由は特にない、と彼は言った。

 助けた理由も、意味もなく、ただ「できたから」と。


 不思議な存在だった。危険な魔力を抱えながら、どこまでも穏やかで、優しくて――

 あの時の俺は、彼を“人”としてしか見ていなかった。


 ……今も、そうだ。


「また会えたらいいな」と、自然に思った。

 剣を向けるべき相手ではなく、もう一度、言葉を交わしてみたい。

 そして、もし彼がまだあの森にいるなら、今度は――


 俺が、何かを返せたらいい。


 そんな想いを胸に、布団の中で目を閉じた。

 外は静かで、ただ風が木々の間を通り抜ける音だけが、遠くから届いていた。



 鉱山の坑道は、想像以上に深く入り組んでいた。


 岩壁に灯された照明石の明かりがぼんやりと道を照らし、足元には砕けた鉱石の欠片が散らばっている。

 湿った空気に混じる金属の匂いが鼻を刺し、どこか遠くで滴る水音が、空間の広さを物語っていた。


「このあたり、以前は採掘区だったけど、近年は崩落の危険で封鎖されてた。だいぶ整備が進んだのかもね」


 マリオンが小声で呟く。俺はうなずきつつ、視線を前方へと向けた。


 そのときだった。

 曲がりくねった坑道の先に、人影が見えた。


 外套を羽織った旅人風の青年。

 銀髪に近い灰色の髪を持ち、静かに、こちらの存在に気づいたように立ち止まる。


 ――その姿に、胸が高鳴った。


「……ラルフ?」


 思わず声が漏れる。

 彼もこちらを見て、少しだけ目を細めた。


「ああ、久しぶりだね。こんな場所で会うなんて」


 変わらぬ、落ち着いた声音。表情も、まるでいつもの調子だった。

 だがその一瞬、マリオンの腰の剣が、かすかに鞘鳴りを立てた。


「……っ、待ってください! この人は――!」


 俺は、マリオンの前に出て、手を広げるようにして制止した。

 彼女の視線は鋭く、警戒は解かれていない。


「魔族の気配がする。……あんた、何者?」


「俺を……助けてくれた人です。以前、命を――」


 言いかけた俺の言葉に、マリオンの目がわずかに揺れた。

 そのまま、俺の説明を最後まで黙って聞いてくれる。


 ラルフが、病魔でありながらも遺跡での一件――イザベラによる姫様誘拐の場面――で助力してくれたこと。

 そして、俺がその正体を知った上で、彼を“人”として信じていること。


 ……長い沈黙のあと、マリオンはゆっくりと剣の柄から手を離し、頭を下げた。


「……疑って悪かった。姫様を助けた者だというなら、私の非だ。すまない」


「気にしてないよ。初対面なら、警戒されて当然だ」


 ラルフは少し笑って、それ以上は何も言わなかった。

 その態度に、マリオンもようやく緊張を解いたようだった。


「それより……」


 ラルフが何かを言いかけたその時だった。

 坑道の奥から、コツン、コツン、と小さな足音が聞こえた。


 ――跳ねるような音。


 振り返ると、そこには不思議な少女が立っていた。

 年の頃は十二、三といったところか。白く透けるような肌と、風にそよぐ青緑の長髪が目を引いた。陽の光を浴びるたびに、髪は水面のようにきらめき、見る者の意識を自然と引き寄せる。


 その瞳――深い蒼の奥には、星を模したような五芒の紋が微かに揺れていた。

 まるで、空を映す湖に封じられた祈りのかけらのようだった。


 身に纏うのは、水色と白を基調とした巫女装束を思わせるワンピース。裾には淡い月の刺繍が縫い込まれ、腰には細い帯とリボンが結ばれている。

 足元に靴はなく、地に触れる素足はどこか儚げで、それでも静かな自信を宿していた。


 無言のまま、彼女はじっと俺を見つめていた。

 その瞳に敵意はなく、けれど感情を読み取るのは難しい。

 まるで、“存在そのものが問いかけ”のような、そんな不思議な少女だった。



「この子――言葉は話さないみたいなんだけど、俺の後をついてきてね。……お父さんを、探してるんだって」


 ラルフは、少女の頭をそっと撫でながら言った。


 ――坑道の薄闇の中、魔族と少女と俺たち。

 不思議な構図に、しばし言葉を失う。


 だが、どこか温かな空気が、そこにはあった。


 ふと、気になって俺は訊ねた。


「……あの、その。お父さんを探してるって、さっき言ってましたけど」


 ラルフは少女の頭をぽんぽんと撫でながら、こくんとうなずく。


「うん。この子のお父さん。どうも長いこと会ってないらしいんだ」


「でも……こんな、鉱山の坑道にいると思ったんですか?」


 俺の問いに、ラルフは目を瞬かせた。


「え? そうなの?」


「……いや、“そうなの?”って訊かれる側はこっちです」


 思わず、力なく返してしまう。

 ラルフの表情は真剣そのもので、悪びれた様子はまったくない。


「俺、森の外はあまり知らなくてさ。……人って、だいたい暗いところに隠れてるもんじゃないの?」


「……まあ、そういう人もいますけど……」


 言葉を濁しながらも、どこか間違っていないような気がして返せない。


「じゃあ、王都で探した方がいいってこと?」


「はい。人探しするなら、情報の集まる場所の方が――」


「ああ、なるほど。ありがとう。……じゃあ、あっちだね」


 ラルフは少女とともに、俺たちが来た坑道の奥――

 つまり、王都とは真逆の方向へ、さも当然のように歩き出した。


 ……。


 ……。


「えっ、逆です逆です!」


「ほんと? でも、こっちの方がなんか落ち着くから……まあ、いいか」


 そう言って、ラルフは少女と並んで“ゆるやかに間違えた方向”へ歩みを進めていった。

 少女はぴょん、と軽く跳ねて、こちらを一度だけ振り返る。


 ……俺は深くため息をついた。

 俺は手持ちの簡易地図を鞄から取り出し、ラルフに手渡した。


「この道を辿れば、王都に出られます。途中に村もあるので、物資もどうにかなると思います」


 ラルフは地図をしげしげと見つめてから、ふっと笑った。


「助かるよ。ありがとう、勇者くん」


 少女も、何も言わずに小さく頭を下げる。

 ……言葉はないけれど、その仕草だけで、何かが伝わってくるようだった。


 やがて、二人は坑道の入り口へと向かって歩き出し、やがて見えなくなった。

 微笑ましいような、不安になるような、奇妙な感情だけがその背中に残る。


「……さて」


 俺は背後に気配を感じて振り向いた。

 マリオン副団長が、すでに剣の柄に手を添えた姿で、黙ってこちらを見ている。


「仕切り直しね。実地調査、再開するわよ」


 俺はうなずき、ふたりで再び坑道の奥へと歩き出す。

 先程まではほの暗いだけだった空間が、なぜか徐々に空気を変えていく。


 ――数十メートルほど進んだところで、変化があった。


「……あれは」


 マリオンの声が低くなる。

 坑道の壁が不自然に崩れ、その奥にぽっかりと開いた縦穴が覗いていた。


 空気が変わった。重たく、ひどく濁っている。

 肌を刺すような嫌な風が、地の底から這い上がってくる。


「……魔力ね。しかも、ただの魔物じゃないわ。禍々しい……“中層由来”の魔力よ、これは」


 俺も息を呑んだ。

 訓練で触れた“瘴気”とは明らかに異質で、もっと根源的な……本能的な嫌悪を喚起させるそれ。


 マリオンと俺は、無言で顔を見合わせた。

 そして、互いに小さくうなずく。


 ――ここは、ただの鉱山じゃない。


 調査は、想定よりも一段、深くなる予感がした。


「これは……一度、麓の村に戻りましょう」


 マリオン副団長は、剣に手を添えたまま静かに言った。

 その声は落ち着いていて、だからこそ異常事態を察しているのが伝わってくる。


 俺も、うなずいた。


「はい。これ以上進むのは、危険かもしれません」


 そう言って、二人で踵を返しかけた――そのとき。


「――ッ!!」


 地下から、断末魔のような悲鳴が響いた。


 反射的に振り向く。

 音の主は、さっき見つけた縦穴の奥――もっと深い場所からだった。


 次の瞬間、俺の体は、考えるより先に動いていた。


「おい、待ちなさい!」


 マリオンの声が背後で響くのを聞きながら、俺は足を蹴って穴へと飛び込んだ。

 これは訓練じゃない。任務でもない。

 ――でも、間に合うのが俺しかいないと、そう思った。




 着地と同時に膝を折り、体勢を整える。


 そこは、思ったより広い空間だった。鉱山の中腹に、自然にできた空洞か。

 倒れている人影が見える。……冒険者たちだ。三人、いや四人……みんな動けない。


 その前に、影が立っていた。


 鱗に覆われた巨体。鈍く光る刃のような尾。両腕に剣を構えた――リザードソードマン。


 その眼が、俺を捉えた。


 次の瞬間、咆哮とともに突進してくる。


(……くる)


 全身の感覚が、研ぎ澄まされる。

 無駄な動きは一切要らない。

 左足を半歩だけ引き、上体を傾ける――ギリギリの間合いを保ち、刃の軌道を“見切る”。


 真横を裂いた大剣が空を切る。


「……っ!」


 右手の剣を抜きながら、わずかに重心をずらす。


 一歩。――それだけで、相手の腹部に切っ先が届いた。


 風が、止まったように思えた。


 刹那、リザードマンの巨体が、重たく崩れ落ちた。




 しん、と静まり返った空間の中で――誰かが、ぽつりと呟いた。


「……す、すげぇ……」


「たった一撃で……動きが……見えなかった……」


 俺は剣を納め、倒れている冒険者たちへと駆け寄った。

 重傷は避けられそうだ。まだ、間に合う――

 安堵と同時に、胸の奥で何かが静かに鼓動する。


 リザードマンの巨体を横目に、俺は倒れていた冒険者の手当てを始めた。

 傷は浅くはなかったが、致命傷ではない。早く手を打てば、きっと助かるはずだ。


 そんなとき、背後の縦穴から風が動いた。


「……状況は?」


 マリオン副団長だった。息一つ乱さず、俺の隣に膝をつく。


「冒険者が四名。うち一名は足に骨折の疑い、二名は打撲、最後の一人は軽度の出血と錯乱状態です」


 簡潔な報告に、マリオンはすぐ頷いた。


「了解。医療班との連絡は私がする。あなたは負傷者のそばを」


 指示は的確で早い。

 剣を抜きそうになっていたときとは、まるで別人のように落ち着いていた。




 冒険者たちを応急処置し、搬送の段取りまで済んだ頃。

 俺はマリオンに呼ばれた。副団長の表情は読めない。


「……怒られますか」


 思わず先に口に出すと、マリオンは微かに目を細めた。


「怒る理由はない。だが、理由は聞いておくべきだと思ってな」


「理由……というより、その……悲鳴が聞こえて、気づいたらもう、体が動いていたというか」


 言いながら、自分でも歯切れが悪いと思った。

 けれど、嘘はつきたくなかった。


 そんな俺を、マリオンはじっと見つめ――ふっと、目元だけで笑った。


「それが、勇者の証だよ」


「……え?」


「歴代の勇者たちも、そうだった。理屈ではなく、本能で動く。自分の安全や命を考える前に、“誰かを助けたい”という気持ちが体を動かしてしまう」


 マリオンは、少しだけ空を見上げるような仕草をした。


「理屈で動ける者も、決して悪くはない。だが、君のように“先に踏み込める”資質は、ごくわずかしか現れない。だからこそ、王も聖女も姫様も、君に心を預けた」


「……そんな、大げさな」


「いいや、大げさじゃない。私は今日、確信した。あんたは、ちゃんと“選ばれた”んだよ」


 マリオンの声は、どこまでも静かだった。

 けれど、その言葉は、胸の奥深くに、確かに届いた。


 搬送の段取りが落ち着き、坑道の空気も静けさを取り戻していた。

 マリオン副団長は、しばらく何かを考えるように黙っていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。


「……もう、あたしがあんたに教えることはないな」


「……え?」


 あまりにあっさりとした口調に、俺は思わず声を漏らしてしまった。


「それって……もしかして、勝手に突っ込んだせいで?」


「ちがうちがう。命令違反の話なんて、今さらどうでもいいのよ」


 軽く手をひらひらと振ると、マリオンは俺の顔をまっすぐ見た。


「あたしが育成係として、あんたに望んでたのは、剣技とか技術じゃない。そういうのは訓練所でも教えられる」


「じゃあ……何を?」


「“姫様以外”にも、あんた自身の想いを向けられるようになること。……誰かのために、全力で動けるようになること」


 俺は言葉を失って、ただ静かに聞いていた。


「勇者ってのは、何も“姫様の騎士”である必要はない。もちろん、あの方を想う気持ちは尊いよ。でも――」


 マリオンは少しだけ笑って、俺の胸を指先で軽く突いた。


「あんたは、もう持ってるじゃない。誰かの悲鳴に反応して、命を張って飛び込む。その“誰か”が姫様じゃなくても、だ」


 その言葉に、胸の奥で、何かが静かに震えた。


「……そういう人間を、あたしはずっと勇者だと思ってたんだ。理想として、追い求めてた。……まさか目の前で見せられるとは、ね」


 その声に、怒りも高ぶりもなかった。ただ、心からの納得が滲んでいた。


「育成任務は、これで完了。おめでとう、勇者くん。あんたは、もう“誰かのために戦うことができる”」


「……俺は……そんな立派なものじゃ……」


「いいの。本人が自覚してないくらいがちょうどいい。あたしは、ちゃんと見てたから」


 それだけ言うと、マリオンは俺に背を向け、坑道の出口へと歩き出した。

 けれど――その背中は、どこか誇らしげだった。



 王都の空気は、坑道の湿り気とはまるで違っていた。

 陽光の差す回廊を歩きながら、俺は胸の奥で、小さな緊張と静かな高揚を覚えていた。


 報告のため、王城の応接室を訪れると――そこには、リアノ姫がすでに待っていた。


「おかえりなさいませ、勇者様」


 微笑とともに向けられたその声に、俺は背筋を正して一礼する。


「ただいま戻りました、姫様。……実地調査、無事完了いたしました」


 姫様は立ち上がり、静かにこちらへと歩み寄ってくる。

 そのまなざしは、柔らかく、けれど確かな意志をたたえていた。


「……よろしければ、少しだけ、わたくしとお話を」


「もちろんです」


 案内された窓辺の席に腰を下ろすと、姫様はそっと目を細めて言った。


「……雰囲気が、変わられましたね。勇者様。どこか、一段階……大きくなられたように見えます」


 俺は思わず視線を落とす。

 褒められ慣れていない自分には、まだその言葉の正面に立つ勇気がなかった。


「マリオン副団長のおかげです。……あの方は、感情を……言葉にするのが、とても上手な方でした」


「まあ」


 姫様は少し驚いたように目を見開き、そしてふわりと微笑んだ。


「勇者様も、ずいぶんと詩的な表現ができるようになられましたのね」


「い、いえ……そんなつもりは……」


「では――」


 そのまま、姫様はわずかに身を乗り出す。

 王女としての気品と、一人の少女としての可憐さをたたえた声が、そっと届いた。


「……わたくしへの“お気持ち”も、言語化していただけませんか?」


 その一言に、俺の喉が鳴った。


 言葉を選ぼうとすればするほど、頭が真っ白になっていく。

 そして、ついには何も出てこないまま――顔だけが、じわじわと熱を帯びていった。


「……か、感情を……言語化、は……その、まだ……むずかしいです……」


「ふふ、そう思っておりましたわ」


 姫様は、あくまで穏やかに微笑んでいた。

 まるで、“今はそれで十分です”とでも言うかのように。


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