第3話:難しいことは考えるな 中編
マリオン副団長に連れられてたどり着いたのは、王都南部にある冒険者ギルドだった。
この建物には、過去に何度か足を運んだことがある。
最初は王国騎士団による「正式研修」の一環として。
その後も、自主的な訓練や模擬戦の場として、時折顔を出していた。
扉をくぐると、すぐに鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。
ギルドの一角に併設された食堂――地味ながら、地元では評判の良い隠れた名店だ。
中にはすでに数人の冒険者たちがいた。顔なじみもいれば、初見の者もいる。
その中に、ふと目が合った男がいた。
「……おお。お前さん、また来たのか」
アルフレッド。かつてこのギルドで俺の研修を担当した中堅冒険者の一人。
研修当時は、俺の存在を“C級”と評し、容赦なく突き放していた――が。
魔王軍幹部と偶発的に遭遇。
彼が逃げ出したあとに、俺がその尻拭いをした。
それ以来、彼の態度はずいぶん柔らかくなった。
「……あんときのことは、今でもちょっと引きずってんだがな。まさか、見習いのままで副団長付きになるとはな」
「……いえ、あの時は、俺のほうこそ未熟でしたから」
そう答えると、彼は無精髭の下で苦笑した。
「やめろって、その態度が余計にこたえるんだよ」
そんなやりとりを交わしていると、マリオンが背後から割り込んできた。
「はいはい、再会は後にして。――空いてる席、あっち取っといたから」
促されるまま、奥のテーブル席に着いたところで、ようやく問いが口をついた。
「それで……副団長。どうして今日は、冒険者ギルドに?」
この場に呼ばれたのが、何か育成課程の一環なのか、それとも訓練の下見なのか、理由はわからなかった。
俺の問いに、マリオンはあっさりと、いやむしろあっけらかんと答えた。
「え? いや、単純に――ここの飯が美味いからさ」
「……飯、ですか」
「そう。あんたも知ってるだろ? ここのシチューと焼きパン。特に“昼前に仕込んだ回”のは絶品。今日はちょうどその時間なんだよ」
育成の話はどこへやら、完全に“腹を満たす”方向へ意識が向いている。
「まあ、食いながらでも話はできるしさ。別に四六時中、剣構えてろって言うつもりはないよ。あんたが“人としてどういう奴か”ってのを、のんびり知るくらいはしたいと思ってさ」
その言い回しは、実にマリオンらしかった。
豪快で、雑に見えて、妙にこちらの心をほどいてくるような――そんな力があった。
俺は静かに頷き、隣の席に身を落ち着けた。
「……わかりました。では、お言葉に甘えて」
香ばしいパンの香りが、さらに強く鼻をくすぐってくる。
訓練の時とはまた違った、肩の力の抜けたやりとりが、俺と副団長の“本当の始まり”になるような気がしていた。
熱々のシチューが卓上に運ばれた。
濃厚な香りが鼻をくすぐる。表面には刻まれたパセリが浮かび、湯気の向こうに見えるのは柔らかそうに煮込まれた肉と、綺麗な形に切り揃えられた野菜たち。
マリオン副団長は、スプーンを手に取る前に、一呼吸おいてシチューの中身をじっと見つめていた。
「……にんじんの切り方、やっぱり今日は“八分楔形”だな。ここの調理長は、日によって三種くらい切り方を変えるんだよ」
「八分……けつ……?」
「楔形。ほら、こういう斜めに切られてるやつ。これだと煮崩れにくい上に、食感に立体感が残る。で、香辛料はクローブが中心。鼻の奥で残る甘みが特徴だな」
俺は、シチューにスプーンを入れようとしていた手を止めた。
副団長の口から出てくる言葉が、まるで訓練時の戦術講義のような調子に聞こえてしまったからだ。
「……副団長、詳しいんですね」
「当たり前だろ。あたしはこの食堂の常連なんだぞ? ここに来るたび、厨房の連中に訊いてんだよ。“今日のルゥは何で取った?”ってな。料理ってのは、実戦と一緒だよ。素材、配置、手順――全てに意味がある」
ぐっと人差し指を立てて語る姿に、思わず背筋を正しそうになった。
「香辛料ってのは、辛味のためだけにあるわけじゃない。たとえばクローブは、血の巡りを良くして疲労回復を促す。肉の匂いを抑えるのも兼ねてるし、胃にも優しい。……騎士の飯には、理に適ってるんだよ」
俺はスプーンを口に運びながら、思った。
(……これは、もはや座学だ)
剣術の講評よりも饒舌なマリオンの姿に、なんとも言えない感情がこみ上げてくる。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、心がほどけていくような温かさがあった。
「あと、あんたのパンの盛りつけ方。左手で自然に取れる向きにしてある。細かいけど、気配りってのはこういうところに出る」
「……なるほど……」
もはや俺は、半ば感心しながら相槌を打っていた。
騎士団の副団長としての剛胆さと、この異様に細やかな食への洞察力。そのギャップに、少し笑いそうになりながらも、なんだかありがたい話を聞いている気がしていた。
「食うことは、生きること。だから手を抜くな。食い物を味でしか評価しない奴は、戦場でも大雑把になる」
その言葉に、俺は素直に頷いた。
剣を教えないと言い切った彼女が、今こうして語っていること――それもまた、騎士の在り方の一端なのだと思えた。
パンの耳をちぎり、まだ温もりの残るシチューに軽く浸す。
口に運ぶと、香辛料と肉のうまみがほどよく染み渡り、思わず息が漏れた。
その時だった。
ふと、テーブルの上に影が落ちる。
俺が顔を上げると、そこに立っていたのは――
「……!」
漆黒の髪を後ろで束ね、深紫の制服に身を包んだ女性。
縁の細い金縁眼鏡をかけたその姿は、記憶の奥で確かに見たことがあった。
(――アザレアさん……!)
研修の初日、水晶による基礎資質判定。
周囲が小さく笑った中、彼女だけは一切笑わず、ただ無言で俺を見ていたあの鋭い瞳。
再会と呼ぶには、あまりにも静かで、あまりにも唐突だった。
「……あなたがここにいるとは。珍しい組み合わせね」
彼女の視線は俺からマリオンへと移り、そして再びテーブルに戻った。
「――構わないかしら?」
それだけを言って、返事も待たずに椅子を引いた。
「おう、いいぜ。どうせあんた、そのうち顔出すと思ってた」
マリオンは、まったく動じる様子もなくパンをかじりながら応じる。
「……おふたり、知り合い、なんですね?」
俺の問いに、マリオンは片眉を上げて笑った。
「あたしが副団長やってる間に、何度かギルドに頭下げに来たことあるんだよ。逆もある。――どっちが主導権握ってたかは秘密だけどな」
アザレアは目線を落としながら、やや口元をほころばせたように見えた。
けれどその笑みは、鋼で磨かれたような冷静さの中にあった。
「あなたの育成を、彼女が担当しているとは……興味深いわ」
俺に向けられたその視線は、まるで白銀の刃のように静かで、正確だった。
「私も、少しだけ時間があるわ。食事を邪魔するつもりはない。――ただ、以前とどれほど変わったのかを、少し見てみたいだけ」
テーブルに置かれた彼女の手には、どこにも緊張がなかった。
ただそこに在るだけで、周囲の空気が自然と正されるような――そんな存在感。
俺は姿勢を正し、静かに頷いた。
「……はい。よろしくお願いします」
冷たいけれど、決して否定ではない。
アザレア――あの時、俺を笑わなかった人が、再び目の前にいた。
アザレアは、俺とマリオンの向かいに腰を下ろすと、ギルド食堂のメニューを一瞥し、すぐに店員に声をかけた。
「日替わりと、ブラックのままのコーヒー。――甘いものはいらないわ」
その口調が、以前の印象とどこか違って聞こえた。
(……ん? “わ”口調? ……たしか、研修のときは“ですます”だったような……)
俺の中に小さな違和感が浮かぶ。
当時の彼女は、もっと事務的で硬質な言葉遣いだったはずだ。
すると、アザレアは俺の視線の変化に気づいたのか、わずかに視線だけをこちらに向ける。
「……気になるの? その顔は、たぶん気になってるわね」
「えっ……あ、いえ、その……」
「以前、“ですます”だったこと? あの時、王女殿下がその場にいたでしょう。礼儀として、少しだけ調子を変えていただけよ」
「……ああ、なるほど……そりゃ、そうですよね」
俺は思わず納得の言葉を口にしていた。
たしかに――あの場にはリアノ姫が同席していた。
俺の“Cランク判定”を見守る一団の中に、王族の姿があったのだ。
アザレアの言葉遣いは、誰に対しても一律ではない。
相手を、場を、目的を見て最適を選ぶ――そういう人だと、今になってようやく理解できた気がする。
彼女はわずかに口元を緩めると、メニューをテーブルに戻して言った。
「私は、必要なときだけ型を整える主義なの。……それ以外では、言葉に縛られるのは好まない」
その静かな言葉に、マリオンがパンをくわえたまま笑った。
「だろうな。言葉じゃなくて、“立ってるだけで空気変わる”ってのが、あんたの本質だからさ」
アザレアはそれには応じず、ただ淡く瞳を細めただけだった。
そしてその無言のやり取りの中にも、不思議な信頼関係のようなものが漂っていた。
コーヒーが静かに運ばれ、アザレアはその香りを一度だけ確かめると、器に手をかけた。
「……でも、あなたは――リアノ姫の前でも、あまり言動を変えないのでしょうね」
それはまるで、事実を述べるような調子だった。
だが、わずかに視線をずらしたその一言には、静かな皮肉が込められていた。
俺は一瞬だけ口を開きかけたが、それより早く反応したのはマリオンだった。
「おいおい、どういう意味さそれ。……あたしだって、姫様の前ならちゃんと敬語で話すし!」
口調こそぶっきらぼうだが、珍しく語尾にほんの少し熱が乗っていた。
だがそれも怒号ではなく、気心の知れた相手への軽い抗議といった風だ。
アザレアは、コーヒーに口をつける寸前で小さく目を伏せ、すぐに薄く微笑んだ。
「……ええ、もちろん知っているわ。ただ、“あなたなりの敬語”という意味で、ね」
「っ……それ、今の微妙に馬鹿にしたろ」
「気のせいよ。言葉は正確に選んだつもりだけれど」
ふたりの間にほんの一瞬、火花のようなやり取りが走ったように感じた。
けれど、そこに険悪さはなかった。
むしろ――互いの“不器用な律し方”を、少しだけ認め合っているような空気すらあった。
俺はそのやりとりを見ながら、つい、口元を和らげてしまった。
(……なんというか、立場も話し方も全然違うのに、どこか似てるな、この二人)
アザレアは知性で場を制す。
マリオンは感情で人を動かす。
けれど、どちらも“言葉の奥にあるもの”を見ていることに変わりはない――そんな気がした。
コーヒーをひと口含んだアザレアは、ゆっくりと器を置くと、目を細めながら問いかけてきた。
「……王国は、今――どれほど“平和”かしら」
その問いは、何気ない雑談のようでいて、どこか本質に触れる響きを持っていた。
俺は答えかけて、少しだけ言葉を選んだ。
「……冒険者ギルドの任務板を見てる限りでは、いつも通りですね。討伐依頼や巡回警備も普通に回ってて、魔物の出現数も急増してるわけじゃないですし……」
「ふむ。つまり、表向きは“平穏”が維持されている、という判断ね」
アザレアはそう言うと、静かにマリオンへと視線を移した。
「――騎士団では、どう?」
マリオンは口を拭いながら、パンの残りをつまんでいた手を止める。
「まあ、ギルドと似たような感触だな。王都周辺は安定してるし、住民の暮らしも落ち着いてる。けど……」
言葉を区切り、少しだけ声を潜めた。
「……実際のところ、魔王軍幹部が単独で出没してる。しかも、場所も時期もバラバラ。こっちが討滅する前に必ず姿を消す。明確な“戦線”が存在しないのが、逆に厄介なんだよ」
アザレアは頷いたが、特に驚いた様子はなかった。
その顔には、既にいくつかの仮説がある――そんな静かな確信すら感じられた。
「共通点は、“幹部たちが単独で動いている”こと。そして、“目的が魔王の復活にある”という一点」
俺は静かに呼吸を整えた。
確かに、過去に出会った幹部――イザベラも、従軍者を率いるでもなく、ただ個人で“ある儀式”を行おうとしていた。
アザレアは、ふっと視線を遠くへ流した。
「今はまだ“平和”と呼べるでしょう。けれど……それは“秩序だった戦”ではなく、“不規則な破壊の兆し”が散らばっているという意味での、静かな前兆でもあるわ」
その声に、誰も言葉を返さなかった。
アザレアの言葉に一拍の沈黙が落ちたあと、パンを平らげたマリオンが肘をつきながら、やや低く呟いた。
「……まあ、あたしはね、“復活の鍵が姫様”っての、正直半信半疑なんだよ」
「……それは?」
俺が問いかけるより先に、アザレアが静かに応じた。
マリオンは椅子の背にもたれかかりながら、片手をひらひらと振った。
「幹部どもが共通して狙ってるのはたしかに“姫様”って線で一致してる。けど……現場でぶつかったときの口ぶりとか、行動パターンとか見てると――アレだ。理屈より、感情が先に走ってるんだよ、あいつら」
「感情、ですか……」
「うん。魔王復活がどうのこうのって叫ぶくせに、実際やってるのは“姫様に恨みごとぶつけるだけ”だったり、“王家の血に刃を向けたがる”ような、歪んだ執着だ」
マリオンの口調はあくまで冷静だったが、どこか読み解くような苦味が滲んでいた。
「つまり、王国を壊すって大義名分の裏に、個人的な怒りとか未練が入り込んでる。復活の鍵ってのも――姫様に意味があるってより、“姫様だからこそ狙われてる”ってほうが近い」
「それは、興味深い観点ね」
アザレアがそっと眼鏡を外し、指先でレンズを軽く拭きながら言う。
「王家への怨嗟を復活計画の形に乗せることで、幹部たちは“復活を装った自我の解放”をしている……と?」
「そういう小難しい言い方でもいいけどさ。要は、半分くらい私怨だよ。まともに復活させるつもりの奴がどれだけいるかは……わからない」
俺は思わず、リアノ姫の姿を思い浮かべた。
あの、理性と気高さに満ちた人を。
それを“王族”という肩書だけで狙い、怒りをぶつけてくる連中がいるとすれば、それは――どこか、あまりに身勝手で、浅ましく感じられた。
だがマリオンは、それを否定しない。
「だからこそ厄介なんだ。理屈が通ってない奴のほうが、こっちの予測をすり抜けてくる。姫様が本当に“鍵”かどうかは別として――奴らにとって“刺さる存在”であるのは間違いない」
アザレアは黙ってそれを聞き、やがて視線を再び俺に向けた。
「――君の立場も、そういう意味で少しずつ変わってきているわね」
俺は、その言葉の意味をすぐには測りかねた。
けれど、目の奥に宿る光が、ただの観察ではない何かを見据えている気がして、自然と背筋が伸びた。
アザレアは指先でコーヒーカップを回しながら、マリオンの話に耳を傾けていた。
幹部たちが“姫様を鍵”と称しつつ、その実、感情的に王族に怨嗟を向けているという指摘を聞いた後、ふと呟くように言った。
「――面白いわ。話を整理すると、魔王軍幹部たちの動機は、おおよそ四種に分類できそうね」
その口調は静かだが、どこか確信めいた響きを帯びていた。
マリオンはパンの皿を片づけながら、眉をひそめる。
「おい、また始まったな。あたしが言葉で殴った話を、なんでそんなに丁寧に磨き直せんだか……」
アザレアは、構わず続けた。
「まずひとつは、“正統派”。魔王復活を至上命題とし、忠実に儀式や手順を進めようとする者。言うなれば、教条主義的な再興派」
二つ目、と指を軽く立てる。
「“怨念派”。王族、あるいは王国そのものに対し、個人的な恨みを抱いて動く者たち。儀式は手段でしかなく、本音は私怨の発散に近い」
「三つ目は、“理想派”。王国の統治構造や文明そのものを否定し、新たな秩序を打ち立てようとする思想的動機を持った連中。――わかりやすく言えば、革命幻想ね」
そして最後に、目を細めて締めくくった。
「“遊戯派”。ただの快楽主義。混乱を起こし、破壊し、誰かが苦しむ様子に悦びを感じる……いわば狂気の享楽者」
俺は思わず、唾を飲み込んだ。
(……分類されると、逆に“本当にいる”感が出てくるな……)
だがマリオンは、まったく感心した様子もなく、肘をついたままぼそりと言い放った。
「……相変わらず分析やってんな。あたしには、全員“小物”にしか見えないけどね」
その声には、皮肉でもなく、軽蔑でもない。
ただ、戦場で剣を振ってきた人間だけが持つ、実感のこもった“断言”があった。
幹部の思想分類は四つ。
アザレアの静かな分析が終わったあと、ふうっと息を吐いたマリオンが、唐突に口を開いた。
「まあでも、いろんな思想があるって話だけどよ……」
パンのかけらを指先で払って、俺を真っすぐに見た。
「お前は難しいこと、考えなくていいからな」
「……え? どういう意味ですか?」
思わず問い返すと、マリオンは肘をテーブルに乗せて、ニッと笑った。
「いいか、覚えとけ。お前の役目はただ一つ――」
拳を軽く握り、俺の額の前でぴたりと止める。
「“姫様を守る”。それだけだ!」
その言葉に、俺の背筋が自然と伸びた。
――姫様を、守る。
それは、俺がこの世界に選ばれた日から、変わらず心の中にあったものだった。
けれど、つい口から出てしまった。
「……いや、王国を守る、じゃないんですか?」
マリオンの眉がピクッと跳ね上がる。
その瞬間――
「バッカヤローッッ!!!」
ドンッとテーブルが揺れる勢いで拳が落とされた。
「そういう正論ぶったことを言い出すから話がややこしくなるの! いい? 姫様ってのは“王国そのもの”なの! 守れば王国も守れるの! そこ間違えるなバカタレ!!」
「ひゃ、はいッ! すみません!!」
俺は姿勢を正して座り直す。アザレアが横でコーヒーをすすりながら、何とも言えない顔でこちらを見ていた。
「……まあ、正しいことを言ったのに怒られるのも珍しいわね」
「うっ……」
俺はもう一度小さく頭を下げながら、心の中で改めて誓った。
――姫様を、守る。
それが俺の“全部”なんだと。