第3話:難しいことは考えるな 前編
王都騎士団には、明確な階級制度が存在している。
最上位は「団長」。王直属の武威を象徴する存在であり、政治と軍事の両面から王国を守護する。現在その座にあるカイゼル団長は、威厳と実直さを兼ね備えた名将として知られていた。
その下に控えるのが「副団長」。団長を補佐し、日々の実務や作戦指揮、団全体への方針伝達を担う重要な地位だ。
副団長には正式任命の前段階として「育成枠」が設けられており、資質ある騎士たちがその枠の中で訓練・判断・指導力を磨いていく。
さらに下には、各部隊を統率する「部隊長」。部隊運営を直接担い、部下の技量や精神面にも目を配る実務の要だ。
俺が所属する第三部隊――ランツェ隊もその一つで、主に王都の外縁警備や巡回任務を担っている。
騎士団全体は「正騎士」「見習い騎士」によって構成され、実績次第で昇格の機会がある。上下関係はあるが、強制よりも信頼と責任が重視される雰囲気だった。
俺はまだ、見習いの身分だ。だが、剣技訓練や任務での立ち回りから、徐々に周囲の目が変わり始めている――
そう実感し始めていた矢先のことだった。
「……勇者様。少し、お時間をよろしいでしょうか?」
中庭の端、石造りの回廊の影から、リアノ姫が静かに現れた。
朝の光に照らされたその姿は、変わらぬ威厳と気品を宿していたが、どこか、いつもよりも柔らかな雰囲気を纏っている気がした。
「姫様……何か、ありましたか?」
俺の問いかけに、彼女は一拍だけ言葉を選ぶように目を伏せ、そして視線を戻す。
「……あなたが、“副団長候補の育成対象”に選ばれたそうですわ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
彼女の言葉は確かに落ち着いていたが、俺の内側では、思考の波が急激に広がっていく。
「……俺が、ですか?」
「ええ。団長殿と副団長候補の一名から、あなたの成長に目をかけたいとの申し出があったそうです。王命に準ずる形で承認されました」
一瞬、胸の奥が熱くなった――驚きと戸惑い、そして少しの誇らしさが入り混じるような感情だった。
それが、どの副団長候補なのかは、まだ聞かされていない。
けれど、その事実だけで、今までの訓練の重みが変わるような気がした。
リアノ姫は、俺の戸惑いに気づいていたのか、ふっと微笑を浮かべる。
「あなたの力は、既に多くの者の目に留まっております。……自信を持ってよろしいのではなくて?」
俺は、かすかに息を吸い込む。
自信――そんなもの、まだ持てる段階ではない。
けれど、逃げる理由も、もうないと思った。
「……ありがとうございます、姫様。……俺、精一杯やってみます」
彼女は何も言わず、ただ一つ、静かに頷いた。
それが妙に、誇らしく感じられた。
「――いくつかの要因があると、わたくしは考えておりますの」
リアノ姫は、俺の正面でゆっくりと腰を下ろすと、視線を外さずに言った。
彼女の声音は静かで、けれど言葉の一つひとつに確かな裏打ちがあった。
「まず一つ目は、王都近郊に現れた占い師にまつわる件ですわ」
それは、俺もよく覚えている。
胡散臭い雰囲気の女占い師が“光の剣に死の兆しあり”などと騒ぎ立て、その出所を探るべく、姫様と俺は共に遺跡調査に赴いた。
あの先で待ち受けていたのが、魔王軍幹部――イザベラ。
占い師と同一人物であり、王国に混乱をもたらそうとしていた張本人だった。
「あなたは、わたくしを守るだけでなく、あの者の術中に屈することなく対峙しました。そして――討ち果たした」
言葉の節々に、姫様なりの感情がにじんでいる。
あの時の戦いは、たしかに俺にとっても忘れられない経験だった。
「二つ目は……カルテシア聖女殿からの報告に基づくものですわ」
彼女は、少しだけ視線を泳がせる。
「詳細は明かされておりませんが、“推定魔王級”の上位存在と交戦し、これを討ち滅ぼした――そう記録されています。……聖女殿はあなたの精神的強度と判断力を高く評価しておられました」
それは事実だ。
けれど俺自身、あの戦いは半ば本能と勢いで乗り切ったようなもので、戦果として正当に評価されるとは思っていなかった。
「三つ目は、外交の件」
姫様の語り口が、わずかに穏やかさを帯びる。
「スヴェリカ公国との会談の折、あなたが示してくださった助言と対応……わたくしにとっては、あれがなければ同盟継続の道は遠のいていたことでしょう」
あれは、形式的には“同行”という形だったが、姫様の背後で必死に空気を読んで動き続けた記憶がある。
外交は剣より難しい――そう痛感した数日間だった。
「そして最後に、これが最大の理由です」
姫様は静かに言葉を結んだ。
「カルテシア聖女殿から、あなたへの“直接指名”が、三度にわたってなされました」
「直接、ですか……?」
「ええ。結界修復任務を含め、複数の場面で“彼を寄越してほしい”との要請があったそうです。――聖女殿は、個人的な情で動く方ではありません。それが何を意味するか……騎士団も、王も、理解しておられますわ」
俺は、言葉を失った。
評価というものは、努力や忠誠だけでは届かない。
けれどその中で、何かが届いていた――それを、姫様はこうして丁寧に言葉にしてくれたのだ。
「……光栄です。……ただ、まだ自分には、重すぎるような気もします」
すると姫様は、かすかに微笑んだ。
「その謙虚さもまた、選ばれた理由の一つかもしれませんわね……それにしても、こうして整理してみますと……」
姫様はふと、視線を上に流し、考え込むように呟く。
「……あなた、まさかとは思いますけれど……正式な“正騎士任命”は、もう受けておられますのよね?」
「……いえ。俺、まだ“見習い”のままです」
その瞬間、姫様の眉がほんのわずかに上がった。
「……まあ。――それは、少々……意外ですわね」
滅多に動じないリアノ姫の声に、わずかな驚きが混じるのを感じた。
「実績から見れば、既に二階級ほど上でもおかしくはないのに。制度というのは、時に追いつかないものですわね……」
彼女は静かに首を振ると、ため息とも微笑ともつかぬ表情を見せた。
「ならば、なおのこと。“副団長候補育成枠”への選出は理に適っていますわ。――形式ではなく、中身で選ばれたということですもの」
そう言って、彼女はまっすぐに俺を見た。
その瞳には、どこか誇らしさのような色が宿っていた。
リアノ姫はふと視線を中庭の石畳へ落とし、思案を巡らせるように言葉を継いだ。
「ところで――あなたの“正騎士叙任式”ですが……その日程について、何か伝えられておりますか?」
突然の問いに、俺は少し首を傾げながらも、正直に答えた。
「……ええと、はい。……“姫様とのご結婚式と、同時に行う”と、国王陛下から直接……」
一拍の沈黙。
リアノ姫は、まるで時間が止まったかのように瞬きを一つしてから、小さく肩を竦めた。
「……陛下、またそのような……」
その声音は、呆れと微笑が半々に混じったものだった。怒りではない。ただ、ほんのりとした脱力と、王家ゆえの諦観。
「きっと、“おめでたいことは全部まとめて済ませれば効率的で良い”――という、お得構文に則ってのご発言ですわね」
彼女は小さく、ほとんど聞こえないほどのため息を吐いた。
「……国事と慶事を同時に執り行うのは、本来であれば段取りも格式も複雑化いたしますのに。……陛下は、時にそのあたりをお好みの“ハッピー構文”で強行なさる節がございます」
言葉に棘はない。だが、その中には確かに――王族としての冷静な観察眼と、長年付き合ってきた父王への苦笑がにじんでいた。
しばし無言が落ちた後、リアノ姫は目を伏せながら、やや慎重に問う。
「……勇者様。陛下のそうした“軽さ”に、不満はおありですか?」
俺は、その問いにすぐには答えなかった。
だが――心の中に浮かんできたのは、やはり一つの想いだった。
「……いえ。むしろ、姫様とのご結婚式と、叙任式を合わせていただけるなんて……俺にとっては、名誉の極みです」
その答えに、リアノ姫はわずかに目を見開き――そして、柔らかく、深く頷いた。
「……そのように思っていただけるのなら、何よりですわ。……わたくしも、その日が来るのを楽しみにしております」
彼女の声は、今まででいちばん穏やかだった。
中庭の風が再び吹き、陽の光がその頬にやわらかく差し込んでいた。
翌朝、騎士団本部に足を運ぶと、すぐに呼び出しがかかった。
第三部隊の訓練場――いつもの場所で、ランツェ隊長が手を振っているのが見えた。
「おはよう。今日はちょっと特別な人を紹介しようと思ってね」
その隣に立っていたのは、一人の女性騎士だった。
赤毛を無造作に束ね、片肩だけに銀の鎧をまとっている。精悍で、どこか近寄りがたい気迫を纏っていた。
「……マリオン=アールレイン副団長だ。これから君の“育成係”になる方だよ」
その名を聞いて、俺は思わず姿勢を正した。
顔を合わせるのはこれが初めてではないはずだが、これまでまともに会話を交わしたことはなかった。
(……この人が、俺を育てる……?)
そんな疑問を抱いていると、マリオン副団長は俺の全身を一瞥し、飾り気のない声で言った。
「挨拶とか説明とか、そういうの面倒でね。悪いけど――さっさと剣、抜いてくれる?」
「……剣、ですか?」
「剣で話そう。そっちのほうが、手っ取り早い」
口調に棘はないが、拒否の余地もない。
俺は一瞬だけ戸惑ったが、上官の指示とあらば従うしかない。
「……承知しました」
俺は光の剣を抜き、静かに構えを取った。
マリオンは、既に抜刀していた。その動きに、一点の無駄もない。
次の瞬間、風が巻いたかと思うと、彼女の剣が襲いかかってきた。
初撃からして、重い。斬撃というよりも“ぶつかってくるような”力の波。
けれど、俺の体は自然とそれを受け止め、流し、返していた。
二撃、三撃――
そのたびに剣が火花を散らし、足元の砂が跳ね上がる。
けれど、不思議と恐怖はなかった。ただ、向き合うべき“問い”がそこにあると感じていた。
やがて。
マリオンの剣が止まった。
ふっと息を吐き、俺の光の剣にそっと己の刃を当てて、そして静かに鞘へと戻した。
「……へぇ。聞いてた以上だね」
その目が、まっすぐに俺を見ていた。
「私から教える剣術は、もう何もないよ。あんたの剣――完璧だ。すでに実戦で磨かれた、信じられる剣だ」
その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
褒められるとは思っていなかった。
けれど、それ以上に、その評価がどこか……真っすぐに胸へ響いた。
マリオンは軽く顎を引き、ぽんと俺の肩を叩いた。
「……安心しな。私が育てるってのは、剣だけじゃないからさ。むしろ――これからが本番ってやつだ」
そう言って、彼女はくるりと背を向けると、訓練場をゆっくりと歩き出した。
俺はその背中を見つめながら、静かに剣を鞘に戻した。
マリオン副団長は、俺の肩を一度だけ軽く叩いたのち、歩き出した。
その足取りは風のように軽やかで、だが確かな意志を伴っていた。
「さっきの決闘で、あんたの評価は決まった。あたしの基準じゃ――もう、合格以外に選びようがなかったよ」
不意に向けられたその言葉に、俺は思わず歩調を緩める。
彼女は振り返らずに言葉を続けた。
「強さってのは、単純な腕っぷしだけじゃない。あたしが信じる“強さ”には三つ、必要なもんがある」
一本、指を立てるような口ぶりだった。
「まず一つ。――圧倒的な剣の技術。体が動く前に、剣が応えてた。あれはもう、理屈じゃない。染みついてるってやつさ」
二つ目、と間髪入れずに続ける。
「仲間を絶対に見捨てないっていう、“信頼”の感覚。戦場での判断、あれは偶然じゃできない」
三つ目――そこで彼女は、ふっと振り返って俺を見る。
「王国への忠誠心。口にしなくても背中が語ってたよ。あんた、守るものを間違えない目をしてる」
俺は思わず、目を伏せた。
そんな評価を正面から受け止めるには、まだ慣れていない。
だがマリオンは、さらに一言、重ねてくる。
「それだけじゃない。あんたには、もうひとつある」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「剣を交えてて、はっきり感じた。“隣に立ちたい相手がいる”っていう、強い意志だ。――リアノ姫様の隣に、ってな」
その瞬間、俺の顔が熱を帯びるのが自分でもわかった。
「……っ、それは……っ」
言い淀む俺を見て、マリオンはくつくつと笑った。
「別に恥じることじゃない。――その想い、ちゃんと“強み”として出てた。自覚してるなら、なおさらだ。誇りに思っていい」
彼女の声は、珍しく柔らかかった。
目指す場所がある。
けれど、その先へ進むには、まだ学ばなければならないことがある。
――この道は、きっと正しい。
そう思えたのは、マリオン副団長の背中が、少しだけ頼もしく見えたからかもしれない。