第2話:聖女、バンドを組む
王都・騎士団本部の中庭には、午前の光が差し込んでいた。
空気は澄んでいたが、妙に喉が乾く――緊張のせいだろう。
「例の馬車、今、門を通過したそうだ」
ランツェ部隊長が、俺の隣で短く言う。
彼の手も、わずかに汗ばんでいるようだった。
「カルテシア聖女が……王都に?」
「ああ。前回は“光の剣に魔の手が迫る”って神託だったな。……今回は、別件らしい」
「別件、ですか」
「勇者と――お前と、“直接話がしたい”と言っていたぞ」
やがて、白銀の馬車が中庭に滑り込むように到着した。
扉が開かれ、静かに一人の人物が姿を現す。
――カルテシアだった。
以前の布面積の少ない神官装束ではない。
今回は、白と金を基調にした荘厳な礼装に身を包んでいた。
銀白の長髪が、太陽の光を反射して淡く輝く。
足元まで届く聖女のローブには、黄金の刺繍が静かに光を受け、聖域そのもののような気配をまとう。
蛇腹剣を手に携えながら、カルテシアはゆっくりと俺の前まで歩いてきた。
歩くたび、空気が張り詰めていくようだった。
そして――表情を変えぬまま、彼女は告げた。
「……あなたとバンドを組もうと思いました」
……は?
「……カルテシア。いま、なんて?」
喉の渇きが限界を超えた。
カルテシアはまばたきもせず、まっすぐな声で続ける。
「共に音を奏で、調和を作る。
あなたの力を神意に重ね、響かせることで……さらなる高みに至る。
“共鳴”――それが、必要だと……女神が」
(……“バンド”って、そういう意味か!?)
俺は何も言えず、ただ彼女の真顔を見つめていた。
荘厳で、清廉で、揺らぎが一切ないのが、かえって恐ろしい。
背後から、ごく小さな呻き声のようなものが聞こえた。
振り返ると、騎士団部隊長ランツェが顔をこわばらせていた。
額には冷や汗。両手は震えをこらえるように組まれている。
「……こ、これはきっと、王都に危機が訪れる――不吉の前触れに違いない……」
誰に言うでもなく、つぶやくようにそう呟いた彼は、まるで現実から逃れるように一歩下がった。
そして唐突に、カルテシアが口を開いた。
「ちなみに、これが私の歌声です」
え?
聖女は、まっすぐに俺を見たまま、軽く喉を開く。
「あー……」
それは、冗談抜きで天上の楽器のようだった。
澄みきった高音。揺れのない発声。
楽器も伴奏もないはずなのに、確かに音が“響いて”いた。
だが――
「し、聖女様が叫ぶなんて……こうしちゃいられねぇ!!」
限界を迎えたランツェが、踵を返して全力で駆け出した。
「カイゼル団長に報告だァ!!」という叫びを残しながら、中庭から脱兎のごとく消えていった。
その背中を、カルテシアは静かに、まばたき一つせず見送った。
彼女は静かに言った。
「……結界に、緩みがございます。再構築が必要です。
ですがその際、儀式者は完全に無防備となります。護衛が必要なのです」
真っ当な依頼だ。
だが、一つ気になって訊ねた。
「……自分のところの近衛騎士は、信用できないんですか?」
カルテシアは間髪入れずに応じた。
「僻地なので」
……え?
「……敵が強いんですか?」
「僻地なので」
俺は一拍、沈黙を置いたのち、慎重に言葉を選んだ。
「……でも、ほんとに俺でよかったんですか? 聖女様が動く場面なら、もっと――」
「くどい。すべては僻地です。理屈は後からついてきます」
目の前の銀髪の聖女は、一点の曇りもなくこちらを見ていた。
淡々と、まるで礼拝でもするように、まぶたひとつ動かさない。
「……わかりました。
聖女様が直々に要請されるなら――断る理由は、ありません」
言葉を選びながらも、俺は頭を下げた。
冗談めいたようなやりとりが続いていたが、相手は女神の代行者。
その依頼には、真正面から応じるべきだ。
すると、カルテシアはごく自然な動きで頷いた。
「――では、さっそく向かいましょう」
「え? もう今から行くんですか?」
「ええ。他の騎士がついてくると面倒なので」
「??」
「これは私のワガママです」
「……前回、騎士団の者が儀式中に勝手に介入して祈りを妨げた、とか?」
「そういうことにしておきましょう」
「えぇ……」
今日のカルテシアはなんだか奇妙だ。
理屈ではなく、感情が先行しているように感じる。
「……王都を出発するその前に、行きたい場所があります」
彼女はそう言うと、ゆっくりと踵を返し、王都の通りを歩き出す。
銀白の髪が光を反射し、白と金の礼装が町並みの中にひときわ神聖な存在として浮かび上がる。
騎士団の者たちは誰もが一礼し、民衆は道を開ける。
聖女の一挙手一投足が、まるで儀式のようだった。
――そんな彼女が、迷いなく向かった先は。
「……楽器屋……?」
俺は思わず声に出してしまった。
王都の商業区、その一角にある古びた店の前。
ショーウィンドウには、リュートや笛、鐘付きタンバリンのような品まで並んでいる。
カルテシアは店先で足を止め、扉に手をかける。
「え……あの、本当に演奏するつもりなんですか……?」
彼女は、こちらを振り返る。
相変わらず、声の調子も表情も、一切の揺らぎがなかった。
「無論、そのつもりです。
――最初に説明したではありませんか?
“あなたとバンドを組む”と」
彼女の瞳は、ただまっすぐだった。
信仰によって鍛えられ、神の言葉を伝えるためだけに存在するその目に、迷いなどあるはずもない。
店の奥。
ひときわ丁寧に磨かれた木製のヴァイオリンが、ひっそりと壁際に吊るされていた。
それを見たカルテシアは、何の躊躇もなく歩み寄り、そっと手を伸ばす。
その手つきに戸惑いや確認の素振りはない。
あたかも、長年それを知っていたかのように、自然だった。
彼女は楽器を手に取り、肩に添えた。
細く長い指が弓を握る――そして。
――音が、満ちた。
弓がひとたび弦を擦るだけで、空間が変わる。
震えるような高音が、木とガラスの店内に反響し、
やがては清澄な旋律となって静かに流れ出す。
それは風の音にも似ていた。
山の礼拝堂で聞いた神官たちの聖歌にも似ていた。
だが、どれとも違っていた。
確かに“音楽”でありながら、そこには祈りがあった。
信仰と調和のかたちを、たった一本の弦が語っていた。
――演奏が終わる頃には、誰もが言葉を失っていた。
沈黙を破ったのは、楽器屋の老主人だった。
目を丸くし、震える声で言う。
「す、すごい……素晴らしい……っ。
まさか、ここまでの演奏を……いつからお引きになられていたのですか?」
カルテシアは淡く首を傾げ、変わらぬ調子で答える。
「今、はじめて弾きました」
「えっ、今……はじめて……?」
「――楽器の魂と、心を合わせるのです。
そうすれば、音は導かれます」
目を逸らすことなくそう言い切る彼女に、誰もツッコむことができなかった。
なぜなら、その“無根拠の確信”が、演奏と完全に一致していたからだ。
「……さ、さしあげますので……そのまま、お持ち帰りくださいませッ!」
彼の額からは滝のような汗。
だが、それは怯えではなく、圧倒的な芸術との対峙に対する畏敬だった。
「……無償で入手できましたね」
と、俺がぽつりと漏らすと、カルテシアはふっと微笑んだ。
「……さあ、次は僻地へ向か――その前に」
彼女は少しだけ言葉を切り、思い出すように言った。
「……シクスも、連れて来られたらと……思いました」
その言葉には、わずかに――ほんのわずかに、
“懐かしさ”の色が混じっていた。
神の声をそのまま言葉にするような存在。
冷静で、揺らがず、何者にも影響されないはずのカルテシアに、
人間的な“情”が宿っていると感じたのは、その瞬間だった。
俺は、少しだけ嬉しくなった。
だが――
「あの、すごく申し訳ないのですが……シクスは“消えました”」
「……消えた?」
カルテシアがゆるやかに首を傾げる。
その表情は変わらない。だが、空気に微かな波紋が走ったような気がした。
「『オレより弱い奴に会いに行く』と言って、旅立ったんです」
「…………ふざけてます?」
「俺はいたって真面目です。ふざけてるのはあのロボです」
「一生、見つからないですよ」
「で、ですよねー」
カルテシアは無言で立ち尽くし、遠くを見つめていた。
まるで、神の使徒が初めて“この世界の理不尽”に触れたかのように。
彼女はほんの少しだけ間を置いて、口を開いた。
「……次に出会ったら、説教します」
その言葉には怒気はなかった。
だが、確かに“裁定”の気配があった。
それは神の名を語る者が下す、清らかで容赦ない天秤のようだった。
――それから間もなく、馬車の準備が整えられた。
王都の西門に停められた白銀の馬車。
車体には聖印が刻まれ、護衛も付き添いも一切なく、ただ二人を乗せるためだけに用意されていた。
カルテシアは、振り返ることもなく馬車に乗り込んだ。
「勇者、あなたも」
短くそう言われて、俺は頷き、後を追った。
車内には、香のような淡い清香が漂っている。
車輪がきしむ音とともに、馬車はゆっくりと門を出た。
白銀の帷が、陽光を受けて静かに光った。
旅は、思いのほか穏やかだった。
かつて共に過ごした日々――
一ヶ月以上にわたる共同生活の記憶は、カルテシアとの距離感を自然と形づくっていた。
口数は少なく、表情も乏しい彼女だが、
**“近くにいても苦にならない間合い”**というのがある。
それを俺は知っていたし、彼女もまた、知っていたのだろう。
「……楽ですね、こういうのは」
馬車の揺れの中で、ふと口にすると、
カルテシアは窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「……慣れた距離は、祈りの呼吸に似ています。
深く、浅く、揺らがずに……一定の波として、保てる」
言葉の調子は淡々としていたが、
その響きは柔らかく、音のない笑みにさえ似ていた。
日が沈む頃、宿場町の外れに設けられた仮の野営地。
旅程の中日、周囲に人気はなく、焚き火の音が時折ぱちぱちと鳴っていた。
カルテシアは一人、やや離れたところに座り込んでいた。
草むらの小さな音に耳を澄ませている。
何かと思って近づこうとした、そのときだった。
「……あげても、よいのでしょうか」
彼女の膝には、小さな獣――
野兎のようなものが一匹、警戒心も見せずに身を寄せていた。
聖女の手元には、携行用の乾燥果実がひとつ。
「ああ、食べ物には困ってないし。大丈夫だと思いますよ」
そう返すと、カルテシアはゆっくりと果実を差し出した。
小動物がぴくぴくと鼻を鳴らし、遠慮がちにかじり始める。
カルテシアはそれをじっと見守っていた。
「……この子、迷っていたのだと思います」
「野兎が?」
「はい。近づくべきか、逃げるべきか……
でも、空気が“敵ではない”と教えたのです。
だから、この子は来た」
その声音に、迷いはなかった。
ただ、まっすぐな事実として彼女は語っていた。
火に照らされたその横顔を見て――
俺は、ほんの少しだけ思った。
――ああ、やっぱり、会えてよかった。
あの時、あの場で再び出会えたことが、
たった一度でもこうして言葉を交わせたことが、
理屈ではなく、ただ嬉しかった。
自分の信仰を、誰かに押しつけないこと。
ただ静かに在り、世界に“善い波紋”を落とし続けること。
彼女は、そういう人だった。
焚き火の火が、静かに揺れる。
野兎は果実を食べ終え、すっと草陰へと消えていった。
カルテシアはその背を目で追い、
「……無事であれ」と小さく呟いた。
――三日が過ぎた。
馬車を降りた俺たちは、僻地の小高い丘に立っていた。
見渡すかぎりの草原と、ところどころに点在する古い石碑。
空気は澄んでいるが、霧のように薄い魔力の層が地を這っている。
「この地脈が、結界の中核です」
カルテシアは静かにそう言って、ヴァイオリンを取り出した。
陽の光を反射して、銀の弓が微かに光る。
ひとたび弓を引けば――音が、風と共に大地へと降りる。
それは旋律であり、同時に儀式だった。
音は地脈に触れ、波動を生み、結界の織り目に新たな糸を通す。
この地に刻まれた古の神文に、再び“神意”が息づき始める。
――しかし、地脈が動けば、それを感じ取る魔のものたちも動く。
咆哮とともに、木陰から次々と姿を現す魔獣たち。
牙をむき、槍のような爪を掲げ、血と魔力の気配をまき散らして迫る。
俺は迷わず剣を抜いた。
旋律の中で――まるでその音に導かれるように、
俺の体は自然と戦いに溶けていく。
数多の魔獣が群れをなしていた。
だが、一振りごとにその数は減っていく。
切っ先が描く円が、風を裂き、敵を断ち、
やがてその場に残ったのは、音と光と、わずかな息づかいだけだった。
ヴァイオリンの音が、風とともに静かに消えていく。
「……立派になられましたね、あなた」
カルテシアは、いつもの調子でぽつりと呟いた。
「以前は、体の動きと感情が噛み合っていませんでした。
ですが今は――音と合っています。
剣が、ちゃんと“音楽”になっている」
褒められたのは、戦いの技術ではなかった。
祈りの場で音と調和できたことそのものだった。
俺はそれを聞いて、どこか誇らしくなった。
神意の地にて。
音と剣とが交差し、祈りと戦いがひとつの楽章を刻んだ。
――それが、俺とカルテシアの“共鳴”のかたちだった。
魔物の気配は、すでに風の中に溶けていた。
剣を納める俺の背で、音はまだ、途切れていなかった。
カルテシアのヴァイオリン――その弓が、滑らかに空気を裂いている。
だが、旋律はもはや“音楽”ではなかった。
それは神文であった。
光の粒子が、弓の動きに沿って編まれていく。
一音ごとに、虚空に浮かぶ“文字”が紡がれ、
見えざる筆で大気に“祈りの文章”が書かれていく。
それらは古代の結界符――王国以前の時代より残る封魔文式。
けれど、カルテシアが奏でる旋律は、それを超えていた。
光は律動し、神文は空に広がる。
音は風に乗り、草の葉を振るわせ、地脈の波と共鳴する。
空が、金に染まりはじめた。
それは夕陽の色ではない。
音に触れた大気が震え、熱を帯び、神意の光へと転じていく。
俺はただ、息を殺してその場に立っていた。
剣も言葉も、この瞬間には何の意味もない。
今この場を満たしているのは、“女神の旋律”そのものだった。
そして――
光の筆が、最後の一文字を空に描き終えたとき、
大地がごく微かに、鼓動のように震えた。
カルテシアが弓を降ろす。
音は止み、光は霧のように散っていく。
そして空には、薄く澄んだ結界の気配だけが残った。
「……完了、です」
そう告げた彼女の顔には、うっすらと汗がにじんでいた。
俺は一歩、彼女に歩み寄り、静かに訊ねた。
「……無事に済んだんですね?」
カルテシアは、うなずいた。
「……はい。勇者の剣が魔を退け、音が文を編みました。
この地は、またしばらく安寧を得るでしょう」
それは儀礼的な答えだった。
だが、彼女はそのあと、少しだけ視線を落とした。
そして、珍しく、ほんの一拍の“間”を置いてから――
「……楽しかったです」
その言葉は、風のように小さく、柔らかかった。
顔は相変わらず無表情に近かったが、
どこか、声の調子にだけ、**“人間の温度”**が宿っていた。
儀式を終えた後、丘の上には再び静寂が戻っていた。
風は柔らかく、陽も傾き、結界の余波が草をなでる。
カルテシアはヴァイオリンを納め、俺の隣に並んで空を見ていた。
しばらく、どちらからともなく沈黙が続いた。
けれど彼女は、ふと迷いなく口を開いた。
「……不思議ですね」
その声は、いつになく柔らかだった。
演奏の余韻を引きずっているのか、それとも――心の内からの音色なのか。
「私とあなたは、本来そこまで相性がよい性格ではないはず。
あなたは“感情”を。私は“理”を。
本来なら、相反するものを持っている」
彼女の言葉は、断定ではなく、確認だった。
そう――そこには、かつてのような冷たい切断線ではなく、
“交差を許す余地”があった。
「……ですが」
彼女は続ける。
「未来より現れた、あの上位存在。
あれを共に迎え撃つために、あなたと私は向き合いました。
それがなければ――きっと、こうして穏やかに言葉を交わすこともなかったでしょう」
忘れもしない、あの戦い。
全てが理を逸脱していた。
俺とカルテシアは『それ』に真正面から立ち向かった。
武器と、祈りと、覚悟とで。
「……私は、そういう意味では――あの戦いに“意味”があったと、考えています」
その言葉は、静かに空に溶けていった。
感情でも、理でもなく。
ただ、それは“信じる”という行為だった。
俺は答えなかった。
だが、隣で立つ彼女の存在が、ほんの少しだけ“近い”と感じられた。
王都に戻ったとき、俺たちは思わず立ち止まった。
正門の広場。
整列する騎士団。
城壁の上から振られる旗。
神殿区からは祈祷の鐘が鳴り響き、
市民の一部は何やら白装束を纏って「再結界おめでとうございます」と頭を下げていた。
「……なんか、すごいことになってない?」
呆然としたまま、俺が小声で問うと、
隣のカルテシアは首を傾げた。
「……わかりません。
再結界の報告は、簡素な文面で提出したはずですが……」
そう――彼女の提出書類は、**“僻地にて地脈安定。式典不要”**の一文のみだったはずだ。
その中に――見覚えのある顔があった。
「……部隊長?」
俺が声をかけると、ランツェは一瞬こちらを見て、ピシィッと敬礼した。
その額には、今も冷や汗が滲んでいる。
「よ、よかった……ご無事で……!
し、聖女様が叫ばれてからというもの、不吉な夢が三晩続きまして……!」
俺が苦笑しながら視線を向けると、カルテシアは淡々と応じた。
「それは大変申し訳ないことをしました。もう悪夢を見ることはないでしょう」
「やはり儀式が成功したんですね!」
「あなたの夢の件はいま適当に述べました」
「やったぁ! 儀式は成功したそうだぞ!」
「「「「「おおおおおお!」」」」」
完全に納得してしまった人々は、背筋を伸ばして叫んだ。
カルテシアは、
ただ、静かに。
ただ、当たり前のように。
到着後にすぐ、形式上の別れの挨拶を済ませた。
馬車に乗り、窓から身を乗り出すと、
「では、私はこれで」
その別れの言葉は俺にだけ向けられているように思えた。
神殿都市を発ち、王都へと向かったのは、“神託”などではなかった。
いや、あってもおかしくはない出来事ではあった。
だが、実際のところ、女神は何も語っていない。
私自身も、それを明確に自覚していた。
なぜなら私は、“自ら選んで”王都へ向かったのだから。
定められた聖典の言葉ではなく、
女神の代行としての役割でもなく、
ただひとつ、私自身の願いとして。
――もう一度、あの剣の持ち主と会いたい。
その思いが、どこまでも穏やかで、どこまでも確かだったから。
あの人に触れた時の、確かで静かな鼓動を……もう一度確かめたかったのです。
私は一人、神殿の広間に立った。
足元に落ちる影はまっすぐに、影法師のように真北を指していた。
そして私は、誰に向けるともなく、
天を仰ぐ。
蛇腹剣――セラフィム・ブレードを、太陽へ向けて高く振り上げる。
「――心を解放せよ」
無機質な金属が、陽光を斬るかのごとく空へと疾駆した。
この想いが、私だけのものならば。それでもなお、貫くべきとするならば。
また、あの人の名前を――呼びたい。