表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/38

第1話:雪原の女帝と黒き影 後編

 お笑いとは、すなわち論理の芸術である。

 対象の感性――その文化的背景、情緒の機微、価値観の傾斜――を的確に読み取り、それに呼応した「ずらし」や「反復」を挿入することで、意図的に“笑い”という感情の揺らぎを誘発する技術だ。


 リアノ姫は、かねてよりその本質に気づいていた。

 外交という舞台において、相手の心証を操作する手段は言葉に限らない。

 時には軽妙な冗談を交えることで場の緊張を和らげ、あるいは“こちらは敵意を持たぬ”というサインを発する――そうした経験を、姫は幾度となく積んでいる。


 したがって、彼女の鞄には常に「分類されたネタ帳」がひそかに収められている。

 国別、階級別、年齢層別……状況に応じて切り分けられた、極めて実用的な“外交的ユーモアの兵站”である。


「たとえば勇者様は、庶民的な感性をお持ちですので」


 と、姫は控えめに口を開いた。指先でページをめくりながら。


「このような特徴的なリズムで動きますと、自然と口角が上がる傾向にございます」


 そう言って姫は、両腕をぎこちなく振りながら、

 淡々とした調子で呟いた。


「……えっほ、えっほ、アーリャはアル中って伝えなきゃ。えっほ、えっほ」


 それはもはや、動きのリズムではない。儀式である。

 その無表情さ、王女としての威厳を一切捨てていない姿勢が、かえって不可思議な滑稽さを生む。


 思わず、俺は声を出しそうになった。


 ――が。


 もし、これをアーリャがやったらどうなるだろうか? 

 いや、想像するまでもない。彼女がこの「えっほ、えっほ」を無表情で繰り返した瞬間、

 誰かが銃声を耳にし、誰かが牢の扉の音を聞くことになるだろう。


 リアノ姫は次に、学者用のネタもあると述べた。

 スヴェリカの女帝が嗜む笑いには、別種の論理があるそうだ。


 彼女が好むのは、秩序の揺らぎである。

 すなわち、自己の支配下にあるはずの空間で、予想を逸脱した動きが生じたとき――彼女はそこにわずかな興を覚える。


 かつて俺が、儀礼中の場にて剣に手をかけた一件があった。

 外交上は無礼を極める行為であったが、彼女は銃を向けることなく、それを咎めもしなかった。


 あれは、彼女の意識の外からの行動であり、つまりは笑い――否、“関心”の範疇であったのだ。


 そんな彼女を笑わせるには、どうすればよいか?

 その問いに、リアノ姫はまたしても極めて真剣な面持ちで答えた。


「――いきなり眉間に拳銃を突きつけてくる人間。ムカつきますよねぇ」


 ……静寂。俺は一瞬、聞き間違いかと思った。


「えっ?」


「そこで我が国が開発した魔法の出番です。名を、弾丸リフレクターと申します」


 リアノ姫は、涼やかに言葉を継いだ。


「この魔法を発動すれば、相手の弾丸を跳ね返すことが可能となります。眉間に照準を合わせて発砲してきた相手には、そのまま同じ場所に跳ね返る。シンプルですが、極めて抑止力の高い技術ですわ」


「……あ、あの姫様、それって――」


「これで、もうムカつく女帝の恐喝にも怯える必要はありません」


 リアノ姫の語調は終始丁寧だったが、内容は完全に開戦前夜だった。


「えっと、その、もしかしてこれは冗談で――」


「そしてこのタイミングで、ウォッカの瓶で頭を殴られるのが、様式美です」


 全ての説明を終えた後、姫はようやく一息つき、しずかに微笑を浮かべた。


 俺は、まばたきも忘れたまま、ひとつだけ理解した。


 ――お笑いは、難しい。


「次は、勇者様用のネタを考えましょう」


 そう言って、リアノ姫はふと視線を天井へ向けた。

 微動だにせず思索に耽るその姿は、まるで深淵を覗き込む巫女のようでもあった。

 そして数秒後、ぴたりと動きを止めた姫の口から、静かに発せられる言葉。


「……コント。勇者追放」


 その声は妙に落ち着いていて、しかし内容はまるで落とし穴のようだった。


「お前は勇者ではない!」

「え?」


 間の抜けた返事をした俺の前で、姫は両手を背に組み、厳かな口調で続ける。


「おお勇者よ。光の剣を所持しておらぬとは何事じゃ。お前のような者は、リアノと結婚する資格などない! 追放じゃ!」


 ……地味に、国王陛下の声真似がうまい。

 目を閉じていれば、王座の間が浮かぶほどである。


「そんな! 俺はまだ勇者にすらなってないのにどうして! 光の剣なんて聞いたこともないのに!」


 今度は俺の口調を模した姫の演技。語尾の震え具合がやたらとリアルだ。


「光の剣は王家のみが知る重要機密。一般市民の貴様が知っているわけがなかろう」

「……じゃあ、持ってるわけないじゃないですか」

「言い訳を抜かすな。貴様は勇者じゃろ! 怠慢なうえに、王であるこの私に暴言とは何事だ。貴様を追放にするのは、どうやら正論だったようじゃな……」


 姫は、少しだけ声のトーンを下げ、まるで劇場の締めくくりのように言った。


「ここから、追放された元勇者のあなたが、国王にざまあをする展開となります」


「えっと……ざまあが成立するまで、そのネタは続くんですか?」


「はい。およそ二時間ほどかけて」


「……それコントじゃなくて舞台じゃん!」

「そういうツッコミが、理想ですわ」


 最後に浮かんだ姫の微笑は、真顔による“想定内の笑い”への満足を湛えていた。

 俺はただ、深く息を吐いた。

 ――たぶん、これが本当に舞台化されたら、観客の誰もが俺に同情するだろう。


 あの女帝が笑う姿など、誰も見たことがない。

 微笑も愛想も存在しない――記録に残る彼女の表情は、銃を構えたときか、ウォッカを煽るときのみ。

 それ以外の情動は、すべて氷の帳に覆われていた。


「アーリャが笑う可能性は、今のところどれほどですか?」


 俺がそう問うと、リアノ姫は迷いなく即答した。


「――0%でしょう」


「……えっ!?」


 あまりに即断すぎて、つい声が裏返った。


「彼女は、ネタの内容にはほとんど反応しません。反応するのは、誰がそれをやったか――です。

 つまり、私のような、彼女にとって関心の薄い存在がどれほど一生懸命に演じても……表情ひとつ変えぬでしょう」


 声の調子も、表情も、いつもと変わらない。だがその分析には、ひたすらに冷静な諦観があった。


 ……そんな。リアノ姫で無理なら、俺にどうしろっていうんだ。

 あの氷の女帝を笑わせるなんて、そんな芸当、できるわけ――


「ですが、あなたなら違います」


 遮るように、姫が言った。


 その声音には、迷いがなかった。

 事実の列挙ではなく、予測でもない。確信だった。


「あなたなら、あの方の氷を、溶かすことができるでしょう」


 俺は、その言葉を額面どおりには受け取れなかった。

 冗談だとか、希望的観測だとか――いくつもの言い訳が頭をよぎった。

 だが、そのどれもを飲み込むように、姫の視線はまっすぐだった。

 押しつけがましさのかけらもなく、ただ静かに、俺を信じていた。


 ……そこまで、言われたら。


 ここまで、信じてくれたのなら。


 俺は、やるしかない。勇者として。

 それがたとえ、笑いをめぐる戦場であっても――戦う意味がある。




 翌日。

 正午を告げる鐘の音とともに、王宮の広間には各国の要人と兵たちが静かに整列していた。

 緊張の気配が立ち込めるなか、女帝アーリャはただ一人、静かに玉座に腰掛けている。


「……ところで、ニコライは?」


「風邪だ」

 短く答えたアーリャの声音には、嘲りも憐れみもなかった。

「どうやら、ただの馬鹿ではなかったらしい」


 そしてすぐさま、視線がこちらに向けられる。


「リアノ姫は、今回は参戦しないのか?」


「あーい!」


 広間に突然響いたその声に、俺は思わず腹を抱えた。

 ……いや、姫様!? いきなり知らないボケを差し込むのはやめて!


 だが――


 アーリャの表情は微動だにしなかった。

 その冷たい無表情に、俺はようやく確信する。

 姫様の分析は、やはり正しかった。


「勇者よ。私を笑わせる準備はできたか?」


「はい。ただ……一つ、提案があります」


「言ってみよ」


「“笑わせる”とは、何もネタを披露することだけではないと思うのです。

 お笑いとは“干渉”の一種です。ならば、異なる角度からの刺激でも、同じ効果を得られる可能性がある」


「……ふむ」


「ですので、もし許されるなら、俺なりの方法で“干渉”させていただいても?」


「構わぬ。試してみよ」


「あーい!」


 ――もう姫様!

 今は真面目な交渉中なんですよ!?


 静まり返った広間に、俺の声が響いた。


「では……コサックダンスを踊りましょう」


 その瞬間、アーリャの眉が――わずかに、ほんの一瞬だけだが、ピクリと動いた。


「なぜだ?」


 低く鋭い問いだった。だが、そこに殺気はなかった。


「ダンスは、人を自然と笑顔にします。理屈を超えた“共有の衝動”が、感情の壁を打ち破るのです」


 言葉は即興に近かったが、俺の中では確信に近かった。

 笑いとは、必ずしも冗談や言葉によるものではない。

 身体と言葉の境界を越えた――“共振”でも、笑いは生まれる。


「理屈は、わからなくもない」


 アーリャはわずかに目を細めた。だが、すぐに顔を背ける。


「だが、なぜ女帝たる私が……お前と踊らねばならん?」


 俺は一歩、彼女に近づいた。


「――まさか、祖国のダンスを踊れないのですか?」


 その言葉が引き金となったのか、アーリャの指が無意識に動いた。

 軍服の懐に手を滑らせ、冷たい金属を握ろうとする。

 だが次の瞬間、その動きは理性によって止められた。


「……ダンスは、苦手だ」


 それは、アーリャが初めて見せた“弱さ”だった。

 誇り高き女帝が、自らの不得手を口にする――それだけで、何かが動いた気がした。


 だから、俺は静かに言った。


「なら――勇者の私が、あなたをエスコートしてさしあげます」


 その言葉に、アーリャの唇が、かすかに弧を描いた。


 自然な、作為のない微笑。


 だが、彼女は何も言わず、視線すらこちらに向けなかった。

 まるで反応などなかったかのように。

 ――だが、それで十分だった。


 俺はゆっくりと、彼女の目の前へと歩み寄り、そして右手を差し出した。


「お手をどうぞ、女帝陛下」


 それは、舞踏会の誘いではなかった。

 戦いの申し出でもない。

 ただ、ひとつの“感情の橋”だった。


 アーリャはしばし無言のまま、差し出された手を見つめ――


 そして、そっと、自らの手を重ねた。




 結論から述べれば、アーリャは踊れた。


 それも見事なまでに。

 祖国の舞踊である以上、履修していない道理はなく、むしろ彼女の動きには、磨き抜かれた刃のような正確さと、凛とした威厳があった。

 俺の動きが不格好に映るほどに、女帝のそれは研ぎ澄まされていた。


 だが、彼女が見ていたのは「優劣」ではない。

 技巧でも、形式でもない。

 彼女の眼差しは終始、俺の“姿勢”を測っていた。


 どれほど誠実に、どれほど真摯に――

 俺という存在が、彼女に対して「真正面から向き合っているか」を。


 踊りの最中、ときおり彼女は俺に囁くように小さく指摘を入れた。

 姿勢、足の運び、腕の角度――どれも的確だった。

 だがそれは、優越からくる冷笑ではなかった。

 あくまで「伝統を汚すな」「敬意をもって踏み鳴らせ」という、凍てつく氷の奥に隠された情熱の証明だった。


 そして――

 ひとしきりのコサックダンスが終わったとき、広間には嵐のような拍手が鳴り響いていた。


 誰もが、女帝のその姿に目を奪われていた。


 そして、その中心にいた彼女は――確かに、微笑んでいた。


 凍りついた冬の大地に、かすかな陽光が射し込むように。

 雪解けを告げる一滴の雫のように。

 冷たい氷の帳の下で、ようやく芽吹いた微笑みだった。


「……今度は、お前たちの祖国のダンスで、私を楽しませてみよ」


 アーリャは、少し息を整えながらも、まっすぐに言葉を放った。

 そこには命令ではない、文化への敬意と、交わりへの興味があった。


「それじゃあ――」


 俺が応じかけたそのとき、彼女は一拍置き、静かに付け加えた。


「……約束は守る。それが私の意志だ」


 それは、冷徹な支配者の言葉ではなかった。

 言葉に背かぬ者としての、女帝の誇りだった。


 拍手の中、誰よりも静かな存在であった彼女が、

 この日、初めて静かに心を動かした。




 その時。

 ドシーン、ドシーンと遠くの方から地響きが近づいてくる。

 地響きに釣られて、俺たちは全員広場と出る。


「な、なんだぁ!」


 大勢の兵士が驚愕する。彼らの視線は一点に集中していた。


 ニコライ=フルチンスキーが、悠々と舞台へ登場した。

 だが、その姿はかつての“軍服の奇人”ではなかった。


 全高十数メートル、古代の紋章と鋼鉄の装甲を纏った魔導機械の上――

 まさに、暴威の化身と呼ぶべき巨体に騎乗して、彼は不敵に両腕を広げていた。


 地響き。石床の割れる音。


「ふははははははは!! 見よ、これが我が秘密兵器……!」


 自信満々に腕を広げるが、背後の兵器はぎこちなくガクンと動いた。

 どうやら完璧な制御とはいかないらしい。


「……こほん。名前は《ケルベロス》。永久凍土の奥地より発掘された古代の魔導兵器だ。詳細は……うむ、難解でな。とにかく、すげぇんだ」


 その説明の雑さに、アーリャが僅かに眉をひそめる。


 そして次の瞬間、広場のあちこちに黒衣の者たちが降り立った。

 十人。いずれも殺気をまとった暗殺者――間違いなく、狙いは俺たちだ。


「氷の女帝よ」


 にやりと笑うニコライ。


「貴様の最期に相応しい舞台を整えてやった。踊れ、そして潰れろ!」


 広場に再び、嗤うような地鳴りが響く。

 絶体絶命――状況は、最悪のかたちで動き出した。


 殺気が埋め尽くした。


 十人の刺客。いずれも訓練された動きで、無音のまま俺とアーリャを取り囲む。

 退路はない。瞬き一つすれば、誰かが倒れる――そんな空気だった。


「……やるしか、ないか」


 俺は静かに光の剣を抜いた。

 刃の奥に眠る魔力が、鼓動のように脈打つ。

 かつて訓練の中で、一度だけ試した技があった。

 己の身を軸に回転し、魔力を瞬時に解放して周囲を一掃する――《回転斬り》。


 だが、それは無駄の多い動きだ。

 一撃必殺でなければ意味をなさず、体力も魔力も著しく消耗する。

 だからこそ、実戦では封印していた。


 ……それでも。いま、ここで。


 目の前の誰かを――たとえば、アーリャを守るためなら。


「はあぁぁああッ!!」


 俺は叫びと共に踏み込み、剣を振るった。

 空気が裂け、光が咆哮する。

 旋風のごとき斬撃が円を描き、広場に衝撃波が走った。


 ――刹那、黒衣の刺客たちが吹き飛んだ。


 床に叩きつけられ、壁に突き刺さり、ある者は剣を折られ、ある者はその場に崩れ落ちる。

 全員、即戦不能。


 沈黙のあと、石畳に剣先がカンと音を立てて落ちた。

 俺は肩で息をしながら、振り返る。



 横に立つアーリャは、冷静な目で俺を見ていた。


「一撃にすべてを賭けるとは、賢明とは言えない。成功しなければ、その場で敗北だった」


「……えっと」


 言い訳を探して、でも見つからなかったので素直に謝った。


「すいません」

「謝る必要はない」

「え?」


 アーリャは静かに、だが確かに、口角を上げて言った。


「だが――私は好きだ。

 助かったぞ、勇者」


 彼女の瞳が、雪解け前の湖のように柔らかく揺れた気がした。


 十人の刺客を一瞬で蹴散らした俺の前で、ニコライの哄笑が天井に響いた。


「よくもやってくれたな勇者よ! だがそんな端役どもが敗れたところで、私は痛くも痒くもないッ!」


 高々と掲げた腕の下――彼が立つのは、永久凍土から発掘されたという、巨大魔導兵器ケルベロスの頭頂部。

 魔力に応じて自律稼働するというその魔像は、黒鉄の三つ首を軋ませながら、俺たちを睥睨していた。


「このケルベロスこそ、古代の叡智が生んだ最強の破壊兵器! お前のような村育ちの雑魚が太刀打ちできるものか!」


 咆哮とともに、ケルベロスが動き出す。

 地面が震える。空気が軋む。三つの頭が光を帯び、氷塊を飲み込むように喉を膨らませた。


 俺はアーリャの手を取り、広間の隅へ押しやるように移動した。

 避難させた彼女は眉を寄せながらも一言だけ呟いた。


「勝て」


 その一語が、剣を構えた俺の背に熱を灯す。


 ケルベロスの氷弾が飛んだ。

 一撃一撃が岩より重く、砲弾より速い。

 だが――避ける。飛ぶ。滑る。跳ねる。


 ちょこまかと、舞うように俺は動いた。


 《この手の魔物、たぶん弱点は――喉奥か、頭部内の魔核……!》


 目の前で三つの口が開いた。

 俺は一瞬のタイミングで跳躍、振り下ろされる氷弾を――


「お返しだッ!」


 光の剣で打ち返す。

 弾道が湾曲し、真っ直ぐ――その喉元へ吸い込まれた。


 ズガァァン!


 一撃で喉奥が凍てつき、顎が閉じなくなった。

 絶好の機会だ。俺は剣を構え、思考を集中させる。


 ――心を、揃えろ。

 心と剣をひとつにせよ。

 これは、聖女カルテシアと交わしたあの日の教え。


 俺は深く息を吸い、静かにその名を呼んだ。


「――光よ」


 放つは、ただ一撃。


 剣が鳴り、空が裂ける。

 その刃は一直線に、三つ首の中央――ケルベロスの主たる頭部を正確に貫いた。

 炸裂音。風圧。咆哮。全てが、音とともに止まった。


 巨大な獣体が揺れ、制御を失う。

 崩れゆく支柱のように、まっすぐ――時計塔の方角へと突っ込んでいく。


「ま、待て! そっちは――!」


 ニコライの悲鳴が広がるが、遅い。


 《ドオォォォォォォォン!!》


 ケルベロスは、王都の象徴たる時計塔に真正面から突っ込み、

 そのまま塔の基部をなぎ倒しながら――ぺしゃんこになった。


 天を仰ぎ、両腕を上げたまま潰れたニコライは、無惨にも残骸の下敷きに。

 崩落した塔のてっぺんには、無様にひっくり返った金の鐘が――ちん、と鳴った。


 静まり返った戦場で、俺はゆっくりと剣を収めた。



 数日後、王宮の謁見の間。

 静寂の中、真紅の絨毯の先に立つ女帝アーリャは、以前と変わらぬ軍服姿でそこにいた。


 ――だが、どこか、印象が違っていた。


 銃を携えている。

 腰に銀の装飾を施した拳銃を帯びてはいるが、その手は添えられていない。

 相変わらずの無表情ではあったが、その眼差しにかつての氷壁のような冷気はなかった。


「……勇者」


 アーリャの声は低く、静かに響く。


「先日、我が国の政庁において発生した反乱及び兵器暴走の一件――その全てに対し、貴殿の迅速かつ的確な対応を感謝する」


 俺は一歩進み、頭を下げた。


「いえ、当然のことをしたまでです」


「……謙遜も、わかる。しかし我々は現実を見る。

 貴殿がいなければ、あの兵器は街を破壊していた」


 アーリャは小さく息をつき、僅かに顔を上げる。


「ついては、我がスヴェリカ公国は、これまで通り貴国との同盟関係を継続する意志を持つ。

 我が手より、それを表明する」


 アーリャは、隣に控えていた大臣へ視線を送り、用意された文書が正式に手渡された。


 それは王国と公国との間にある、平和と協力の証。

 幾度も改訂されながら交わされてきた盟約の、新たな署名であった。


 リアノ姫はその文書を受け取り、ゆっくりと顔を綻ばせた。


「……この日を、王もきっと喜ばれることでしょう。ありがとうございます、女帝陛下」


 アーリャは答えなかったが、わずかに視線を逸らすその仕草は、どこか照れにも似ていた。


 その横で、俺は安堵の息をついた。


 ――よかった。

 誰も死なず、同盟も保たれた。

 あの、無茶ばかりの旅も、ようやく終わりを迎えた気がする。


 そして、帰り際。

 アーリャは一歩だけ、前へ進んだ。


「……勇者」


「はい?」


「――繰り返すが、あれは良い踊りだった。次の機会があれば……また、案内せよ」


 それだけ言うと、彼女は踵を返した。


 俺は一瞬だけ呆気に取られたが、背中越しにそっと微笑んだ。

 その微笑みを、リアノ姫もまた、横で小さく受け止めていた。


 式典も一段落し、謁見の間に穏やかな余韻が漂いはじめた頃だった。


「ところで――」

 俺は、ふと気になっていたことを口にする。


「……あの男は、どうなったんですか?」


 若干の語尾の迷いに、アーリャの肩がわずかに揺れる。


「……ニコライのことか」


 女帝は短く言ったあと、わずかに唇を吊り上げる。


「奴は――シベリアル辺境州へと左遷された。永久凍土の研究所にでも入れられたのだろう」


「えっ……処刑じゃないんですか?」


 俺の素直すぎる反応に、その場の空気が一瞬だけ止まる。


「というか、あんな反乱を起こして、国家兵器を暴走させたってのに……帰ってきちゃって、いいんですか?」


 アーリャは一拍ののち、小さく――しかし確かに笑った。


「案外、ああいう騒がしい男は、嫌いではないのだよ」


 その声音に、非情さも好意も混ざっておらず、ただ淡々とした人間味だけが宿っていた。


「……半年もすれば、きっと戻ってくるだろうな。懲りもせず、また何かを企んで」


「再犯する気満々じゃないですか……」


 俺はぼそりと呟いたが、それもまたどこか、もう日常のひとコマのように思えた。



 王都へと向かう帰路、車輪の音が緩やかに草原をたたいていた。


 春風が車窓を抜け、干し草と鉄の匂いが混じる馬車の中。

 俺が軽く目を閉じかけたそのとき、隣に座るリアノ姫が、小さな金属音とともに何かを取り出した。


「ふふ。これ、女帝陛下よりいただいたのです」


 誇らしげに掲げられたのは、銀の自動拳銃。装飾こそ控えめだが、無駄のない造形と冷ややかな質感が威圧感を放っている。

 それを、まるで新しいおもちゃでも手に入れたかのように、姫はくるくると角度を変えては眺めていた。


「……姫様、もしかしてそれで俺を守ってくれるんですか?」


 俺の問いかけに、姫はぴたりと手を止め、視線だけを向けた。

 そして、軽やかな微笑を浮かべて、首を横に振る。


「いえ。守りませんよ。それは、私の役割ではありませんから」


 あくまで当然のように、そう言い切った。


 風が、二人の間を通り抜ける。


 ――俺を守るのは、俺自身。そして、剣に託された意志。

 姫はそれを誰よりも理解しているのだ。だからこそ、あくまで“支える者”としての矜持を崩さない。


 それでも、彼女が拳銃を懐に収める仕草は、どこか楽しげで――

 俺は、そんな子供っぽさを見せる姫を、微笑ましく思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ