第1話:雪原の女帝と黒き影 後編
お笑いとは、すなわち論理の芸術である。
対象の感性――その文化的背景、情緒の機微、価値観の傾斜――を的確に読み取り、それに呼応した「ずらし」や「反復」を挿入することで、意図的に“笑い”という感情の揺らぎを誘発する技術だ。
リアノ姫は、かねてよりその本質に気づいていた。
外交という舞台において、相手の心証を操作する手段は言葉に限らない。
時には軽妙な冗談を交えることで場の緊張を和らげ、あるいは“こちらは敵意を持たぬ”というサインを発する――そうした経験を、姫は幾度となく積んでいる。
したがって、彼女の鞄には常に「分類されたネタ帳」がひそかに収められている。
国別、階級別、年齢層別……状況に応じて切り分けられた、極めて実用的な“外交的ユーモアの兵站”である。
「たとえば勇者様は、庶民的な感性をお持ちですので」
と、姫は控えめに口を開いた。指先でページをめくりながら。
「このような特徴的なリズムで動きますと、自然と口角が上がる傾向にございます」
そう言って姫は、両腕をぎこちなく振りながら、
淡々とした調子で呟いた。
「……えっほ、えっほ、アーリャはアル中って伝えなきゃ。えっほ、えっほ」
それはもはや、動きのリズムではない。儀式である。
その無表情さ、王女としての威厳を一切捨てていない姿勢が、かえって不可思議な滑稽さを生む。
思わず、俺は声を出しそうになった。
――が。
もし、これをアーリャがやったらどうなるだろうか?
いや、想像するまでもない。彼女がこの「えっほ、えっほ」を無表情で繰り返した瞬間、
誰かが銃声を耳にし、誰かが牢の扉の音を聞くことになるだろう。
リアノ姫は次に、学者用のネタもあると述べた。
スヴェリカの女帝が嗜む笑いには、別種の論理があるそうだ。
彼女が好むのは、秩序の揺らぎである。
すなわち、自己の支配下にあるはずの空間で、予想を逸脱した動きが生じたとき――彼女はそこにわずかな興を覚える。
かつて俺が、儀礼中の場にて剣に手をかけた一件があった。
外交上は無礼を極める行為であったが、彼女は銃を向けることなく、それを咎めもしなかった。
あれは、彼女の意識の外からの行動であり、つまりは笑い――否、“関心”の範疇であったのだ。
そんな彼女を笑わせるには、どうすればよいか?
その問いに、リアノ姫はまたしても極めて真剣な面持ちで答えた。
「――いきなり眉間に拳銃を突きつけてくる人間。ムカつきますよねぇ」
……静寂。俺は一瞬、聞き間違いかと思った。
「えっ?」
「そこで我が国が開発した魔法の出番です。名を、弾丸リフレクターと申します」
リアノ姫は、涼やかに言葉を継いだ。
「この魔法を発動すれば、相手の弾丸を跳ね返すことが可能となります。眉間に照準を合わせて発砲してきた相手には、そのまま同じ場所に跳ね返る。シンプルですが、極めて抑止力の高い技術ですわ」
「……あ、あの姫様、それって――」
「これで、もうムカつく女帝の恐喝にも怯える必要はありません」
リアノ姫の語調は終始丁寧だったが、内容は完全に開戦前夜だった。
「えっと、その、もしかしてこれは冗談で――」
「そしてこのタイミングで、ウォッカの瓶で頭を殴られるのが、様式美です」
全ての説明を終えた後、姫はようやく一息つき、しずかに微笑を浮かべた。
俺は、まばたきも忘れたまま、ひとつだけ理解した。
――お笑いは、難しい。
「次は、勇者様用のネタを考えましょう」
そう言って、リアノ姫はふと視線を天井へ向けた。
微動だにせず思索に耽るその姿は、まるで深淵を覗き込む巫女のようでもあった。
そして数秒後、ぴたりと動きを止めた姫の口から、静かに発せられる言葉。
「……コント。勇者追放」
その声は妙に落ち着いていて、しかし内容はまるで落とし穴のようだった。
「お前は勇者ではない!」
「え?」
間の抜けた返事をした俺の前で、姫は両手を背に組み、厳かな口調で続ける。
「おお勇者よ。光の剣を所持しておらぬとは何事じゃ。お前のような者は、リアノと結婚する資格などない! 追放じゃ!」
……地味に、国王陛下の声真似がうまい。
目を閉じていれば、王座の間が浮かぶほどである。
「そんな! 俺はまだ勇者にすらなってないのにどうして! 光の剣なんて聞いたこともないのに!」
今度は俺の口調を模した姫の演技。語尾の震え具合がやたらとリアルだ。
「光の剣は王家のみが知る重要機密。一般市民の貴様が知っているわけがなかろう」
「……じゃあ、持ってるわけないじゃないですか」
「言い訳を抜かすな。貴様は勇者じゃろ! 怠慢なうえに、王であるこの私に暴言とは何事だ。貴様を追放にするのは、どうやら正論だったようじゃな……」
姫は、少しだけ声のトーンを下げ、まるで劇場の締めくくりのように言った。
「ここから、追放された元勇者のあなたが、国王にざまあをする展開となります」
「えっと……ざまあが成立するまで、そのネタは続くんですか?」
「はい。およそ二時間ほどかけて」
「……それコントじゃなくて舞台じゃん!」
「そういうツッコミが、理想ですわ」
最後に浮かんだ姫の微笑は、真顔による“想定内の笑い”への満足を湛えていた。
俺はただ、深く息を吐いた。
――たぶん、これが本当に舞台化されたら、観客の誰もが俺に同情するだろう。
あの女帝が笑う姿など、誰も見たことがない。
微笑も愛想も存在しない――記録に残る彼女の表情は、銃を構えたときか、ウォッカを煽るときのみ。
それ以外の情動は、すべて氷の帳に覆われていた。
「アーリャが笑う可能性は、今のところどれほどですか?」
俺がそう問うと、リアノ姫は迷いなく即答した。
「――0%でしょう」
「……えっ!?」
あまりに即断すぎて、つい声が裏返った。
「彼女は、ネタの内容にはほとんど反応しません。反応するのは、誰がそれをやったか――です。
つまり、私のような、彼女にとって関心の薄い存在がどれほど一生懸命に演じても……表情ひとつ変えぬでしょう」
声の調子も、表情も、いつもと変わらない。だがその分析には、ひたすらに冷静な諦観があった。
……そんな。リアノ姫で無理なら、俺にどうしろっていうんだ。
あの氷の女帝を笑わせるなんて、そんな芸当、できるわけ――
「ですが、あなたなら違います」
遮るように、姫が言った。
その声音には、迷いがなかった。
事実の列挙ではなく、予測でもない。確信だった。
「あなたなら、あの方の氷を、溶かすことができるでしょう」
俺は、その言葉を額面どおりには受け取れなかった。
冗談だとか、希望的観測だとか――いくつもの言い訳が頭をよぎった。
だが、そのどれもを飲み込むように、姫の視線はまっすぐだった。
押しつけがましさのかけらもなく、ただ静かに、俺を信じていた。
……そこまで、言われたら。
ここまで、信じてくれたのなら。
俺は、やるしかない。勇者として。
それがたとえ、笑いをめぐる戦場であっても――戦う意味がある。
翌日。
正午を告げる鐘の音とともに、王宮の広間には各国の要人と兵たちが静かに整列していた。
緊張の気配が立ち込めるなか、女帝アーリャはただ一人、静かに玉座に腰掛けている。
「……ところで、ニコライは?」
「風邪だ」
短く答えたアーリャの声音には、嘲りも憐れみもなかった。
「どうやら、ただの馬鹿ではなかったらしい」
そしてすぐさま、視線がこちらに向けられる。
「リアノ姫は、今回は参戦しないのか?」
「あーい!」
広間に突然響いたその声に、俺は思わず腹を抱えた。
……いや、姫様!? いきなり知らないボケを差し込むのはやめて!
だが――
アーリャの表情は微動だにしなかった。
その冷たい無表情に、俺はようやく確信する。
姫様の分析は、やはり正しかった。
「勇者よ。私を笑わせる準備はできたか?」
「はい。ただ……一つ、提案があります」
「言ってみよ」
「“笑わせる”とは、何もネタを披露することだけではないと思うのです。
お笑いとは“干渉”の一種です。ならば、異なる角度からの刺激でも、同じ効果を得られる可能性がある」
「……ふむ」
「ですので、もし許されるなら、俺なりの方法で“干渉”させていただいても?」
「構わぬ。試してみよ」
「あーい!」
――もう姫様!
今は真面目な交渉中なんですよ!?
静まり返った広間に、俺の声が響いた。
「では……コサックダンスを踊りましょう」
その瞬間、アーリャの眉が――わずかに、ほんの一瞬だけだが、ピクリと動いた。
「なぜだ?」
低く鋭い問いだった。だが、そこに殺気はなかった。
「ダンスは、人を自然と笑顔にします。理屈を超えた“共有の衝動”が、感情の壁を打ち破るのです」
言葉は即興に近かったが、俺の中では確信に近かった。
笑いとは、必ずしも冗談や言葉によるものではない。
身体と言葉の境界を越えた――“共振”でも、笑いは生まれる。
「理屈は、わからなくもない」
アーリャはわずかに目を細めた。だが、すぐに顔を背ける。
「だが、なぜ女帝たる私が……お前と踊らねばならん?」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「――まさか、祖国のダンスを踊れないのですか?」
その言葉が引き金となったのか、アーリャの指が無意識に動いた。
軍服の懐に手を滑らせ、冷たい金属を握ろうとする。
だが次の瞬間、その動きは理性によって止められた。
「……ダンスは、苦手だ」
それは、アーリャが初めて見せた“弱さ”だった。
誇り高き女帝が、自らの不得手を口にする――それだけで、何かが動いた気がした。
だから、俺は静かに言った。
「なら――勇者の私が、あなたをエスコートしてさしあげます」
その言葉に、アーリャの唇が、かすかに弧を描いた。
自然な、作為のない微笑。
だが、彼女は何も言わず、視線すらこちらに向けなかった。
まるで反応などなかったかのように。
――だが、それで十分だった。
俺はゆっくりと、彼女の目の前へと歩み寄り、そして右手を差し出した。
「お手をどうぞ、女帝陛下」
それは、舞踏会の誘いではなかった。
戦いの申し出でもない。
ただ、ひとつの“感情の橋”だった。
アーリャはしばし無言のまま、差し出された手を見つめ――
そして、そっと、自らの手を重ねた。
結論から述べれば、アーリャは踊れた。
それも見事なまでに。
祖国の舞踊である以上、履修していない道理はなく、むしろ彼女の動きには、磨き抜かれた刃のような正確さと、凛とした威厳があった。
俺の動きが不格好に映るほどに、女帝のそれは研ぎ澄まされていた。
だが、彼女が見ていたのは「優劣」ではない。
技巧でも、形式でもない。
彼女の眼差しは終始、俺の“姿勢”を測っていた。
どれほど誠実に、どれほど真摯に――
俺という存在が、彼女に対して「真正面から向き合っているか」を。
踊りの最中、ときおり彼女は俺に囁くように小さく指摘を入れた。
姿勢、足の運び、腕の角度――どれも的確だった。
だがそれは、優越からくる冷笑ではなかった。
あくまで「伝統を汚すな」「敬意をもって踏み鳴らせ」という、凍てつく氷の奥に隠された情熱の証明だった。
そして――
ひとしきりのコサックダンスが終わったとき、広間には嵐のような拍手が鳴り響いていた。
誰もが、女帝のその姿に目を奪われていた。
そして、その中心にいた彼女は――確かに、微笑んでいた。
凍りついた冬の大地に、かすかな陽光が射し込むように。
雪解けを告げる一滴の雫のように。
冷たい氷の帳の下で、ようやく芽吹いた微笑みだった。
「……今度は、お前たちの祖国のダンスで、私を楽しませてみよ」
アーリャは、少し息を整えながらも、まっすぐに言葉を放った。
そこには命令ではない、文化への敬意と、交わりへの興味があった。
「それじゃあ――」
俺が応じかけたそのとき、彼女は一拍置き、静かに付け加えた。
「……約束は守る。それが私の意志だ」
それは、冷徹な支配者の言葉ではなかった。
言葉に背かぬ者としての、女帝の誇りだった。
拍手の中、誰よりも静かな存在であった彼女が、
この日、初めて静かに心を動かした。
その時。
ドシーン、ドシーンと遠くの方から地響きが近づいてくる。
地響きに釣られて、俺たちは全員広場と出る。
「な、なんだぁ!」
大勢の兵士が驚愕する。彼らの視線は一点に集中していた。
ニコライ=フルチンスキーが、悠々と舞台へ登場した。
だが、その姿はかつての“軍服の奇人”ではなかった。
全高十数メートル、古代の紋章と鋼鉄の装甲を纏った魔導機械の上――
まさに、暴威の化身と呼ぶべき巨体に騎乗して、彼は不敵に両腕を広げていた。
地響き。石床の割れる音。
「ふははははははは!! 見よ、これが我が秘密兵器……!」
自信満々に腕を広げるが、背後の兵器はぎこちなくガクンと動いた。
どうやら完璧な制御とはいかないらしい。
「……こほん。名前は《ケルベロス》。永久凍土の奥地より発掘された古代の魔導兵器だ。詳細は……うむ、難解でな。とにかく、すげぇんだ」
その説明の雑さに、アーリャが僅かに眉をひそめる。
そして次の瞬間、広場のあちこちに黒衣の者たちが降り立った。
十人。いずれも殺気をまとった暗殺者――間違いなく、狙いは俺たちだ。
「氷の女帝よ」
にやりと笑うニコライ。
「貴様の最期に相応しい舞台を整えてやった。踊れ、そして潰れろ!」
広場に再び、嗤うような地鳴りが響く。
絶体絶命――状況は、最悪のかたちで動き出した。
殺気が埋め尽くした。
十人の刺客。いずれも訓練された動きで、無音のまま俺とアーリャを取り囲む。
退路はない。瞬き一つすれば、誰かが倒れる――そんな空気だった。
「……やるしか、ないか」
俺は静かに光の剣を抜いた。
刃の奥に眠る魔力が、鼓動のように脈打つ。
かつて訓練の中で、一度だけ試した技があった。
己の身を軸に回転し、魔力を瞬時に解放して周囲を一掃する――《回転斬り》。
だが、それは無駄の多い動きだ。
一撃必殺でなければ意味をなさず、体力も魔力も著しく消耗する。
だからこそ、実戦では封印していた。
……それでも。いま、ここで。
目の前の誰かを――たとえば、アーリャを守るためなら。
「はあぁぁああッ!!」
俺は叫びと共に踏み込み、剣を振るった。
空気が裂け、光が咆哮する。
旋風のごとき斬撃が円を描き、広場に衝撃波が走った。
――刹那、黒衣の刺客たちが吹き飛んだ。
床に叩きつけられ、壁に突き刺さり、ある者は剣を折られ、ある者はその場に崩れ落ちる。
全員、即戦不能。
沈黙のあと、石畳に剣先がカンと音を立てて落ちた。
俺は肩で息をしながら、振り返る。
横に立つアーリャは、冷静な目で俺を見ていた。
「一撃にすべてを賭けるとは、賢明とは言えない。成功しなければ、その場で敗北だった」
「……えっと」
言い訳を探して、でも見つからなかったので素直に謝った。
「すいません」
「謝る必要はない」
「え?」
アーリャは静かに、だが確かに、口角を上げて言った。
「だが――私は好きだ。
助かったぞ、勇者」
彼女の瞳が、雪解け前の湖のように柔らかく揺れた気がした。
十人の刺客を一瞬で蹴散らした俺の前で、ニコライの哄笑が天井に響いた。
「よくもやってくれたな勇者よ! だがそんな端役どもが敗れたところで、私は痛くも痒くもないッ!」
高々と掲げた腕の下――彼が立つのは、永久凍土から発掘されたという、巨大魔導兵器の頭頂部。
魔力に応じて自律稼働するというその魔像は、黒鉄の三つ首を軋ませながら、俺たちを睥睨していた。
「このケルベロスこそ、古代の叡智が生んだ最強の破壊兵器! お前のような村育ちの雑魚が太刀打ちできるものか!」
咆哮とともに、ケルベロスが動き出す。
地面が震える。空気が軋む。三つの頭が光を帯び、氷塊を飲み込むように喉を膨らませた。
俺はアーリャの手を取り、広間の隅へ押しやるように移動した。
避難させた彼女は眉を寄せながらも一言だけ呟いた。
「勝て」
その一語が、剣を構えた俺の背に熱を灯す。
ケルベロスの氷弾が飛んだ。
一撃一撃が岩より重く、砲弾より速い。
だが――避ける。飛ぶ。滑る。跳ねる。
ちょこまかと、舞うように俺は動いた。
《この手の魔物、たぶん弱点は――喉奥か、頭部内の魔核……!》
目の前で三つの口が開いた。
俺は一瞬のタイミングで跳躍、振り下ろされる氷弾を――
「お返しだッ!」
光の剣で打ち返す。
弾道が湾曲し、真っ直ぐ――その喉元へ吸い込まれた。
ズガァァン!
一撃で喉奥が凍てつき、顎が閉じなくなった。
絶好の機会だ。俺は剣を構え、思考を集中させる。
――心を、揃えろ。
心と剣をひとつにせよ。
これは、聖女カルテシアと交わしたあの日の教え。
俺は深く息を吸い、静かにその名を呼んだ。
「――光よ」
放つは、ただ一撃。
剣が鳴り、空が裂ける。
その刃は一直線に、三つ首の中央――ケルベロスの主たる頭部を正確に貫いた。
炸裂音。風圧。咆哮。全てが、音とともに止まった。
巨大な獣体が揺れ、制御を失う。
崩れゆく支柱のように、まっすぐ――時計塔の方角へと突っ込んでいく。
「ま、待て! そっちは――!」
ニコライの悲鳴が広がるが、遅い。
《ドオォォォォォォォン!!》
ケルベロスは、王都の象徴たる時計塔に真正面から突っ込み、
そのまま塔の基部をなぎ倒しながら――ぺしゃんこになった。
天を仰ぎ、両腕を上げたまま潰れたニコライは、無惨にも残骸の下敷きに。
崩落した塔のてっぺんには、無様にひっくり返った金の鐘が――ちん、と鳴った。
静まり返った戦場で、俺はゆっくりと剣を収めた。
数日後、王宮の謁見の間。
静寂の中、真紅の絨毯の先に立つ女帝アーリャは、以前と変わらぬ軍服姿でそこにいた。
――だが、どこか、印象が違っていた。
銃を携えている。
腰に銀の装飾を施した拳銃を帯びてはいるが、その手は添えられていない。
相変わらずの無表情ではあったが、その眼差しにかつての氷壁のような冷気はなかった。
「……勇者」
アーリャの声は低く、静かに響く。
「先日、我が国の政庁において発生した反乱及び兵器暴走の一件――その全てに対し、貴殿の迅速かつ的確な対応を感謝する」
俺は一歩進み、頭を下げた。
「いえ、当然のことをしたまでです」
「……謙遜も、わかる。しかし我々は現実を見る。
貴殿がいなければ、あの兵器は街を破壊していた」
アーリャは小さく息をつき、僅かに顔を上げる。
「ついては、我がスヴェリカ公国は、これまで通り貴国との同盟関係を継続する意志を持つ。
我が手より、それを表明する」
アーリャは、隣に控えていた大臣へ視線を送り、用意された文書が正式に手渡された。
それは王国と公国との間にある、平和と協力の証。
幾度も改訂されながら交わされてきた盟約の、新たな署名であった。
リアノ姫はその文書を受け取り、ゆっくりと顔を綻ばせた。
「……この日を、王もきっと喜ばれることでしょう。ありがとうございます、女帝陛下」
アーリャは答えなかったが、わずかに視線を逸らすその仕草は、どこか照れにも似ていた。
その横で、俺は安堵の息をついた。
――よかった。
誰も死なず、同盟も保たれた。
あの、無茶ばかりの旅も、ようやく終わりを迎えた気がする。
そして、帰り際。
アーリャは一歩だけ、前へ進んだ。
「……勇者」
「はい?」
「――繰り返すが、あれは良い踊りだった。次の機会があれば……また、案内せよ」
それだけ言うと、彼女は踵を返した。
俺は一瞬だけ呆気に取られたが、背中越しにそっと微笑んだ。
その微笑みを、リアノ姫もまた、横で小さく受け止めていた。
式典も一段落し、謁見の間に穏やかな余韻が漂いはじめた頃だった。
「ところで――」
俺は、ふと気になっていたことを口にする。
「……あの男は、どうなったんですか?」
若干の語尾の迷いに、アーリャの肩がわずかに揺れる。
「……ニコライのことか」
女帝は短く言ったあと、わずかに唇を吊り上げる。
「奴は――シベリアル辺境州へと左遷された。永久凍土の研究所にでも入れられたのだろう」
「えっ……処刑じゃないんですか?」
俺の素直すぎる反応に、その場の空気が一瞬だけ止まる。
「というか、あんな反乱を起こして、国家兵器を暴走させたってのに……帰ってきちゃって、いいんですか?」
アーリャは一拍ののち、小さく――しかし確かに笑った。
「案外、ああいう騒がしい男は、嫌いではないのだよ」
その声音に、非情さも好意も混ざっておらず、ただ淡々とした人間味だけが宿っていた。
「……半年もすれば、きっと戻ってくるだろうな。懲りもせず、また何かを企んで」
「再犯する気満々じゃないですか……」
俺はぼそりと呟いたが、それもまたどこか、もう日常のひとコマのように思えた。
王都へと向かう帰路、車輪の音が緩やかに草原をたたいていた。
春風が車窓を抜け、干し草と鉄の匂いが混じる馬車の中。
俺が軽く目を閉じかけたそのとき、隣に座るリアノ姫が、小さな金属音とともに何かを取り出した。
「ふふ。これ、女帝陛下よりいただいたのです」
誇らしげに掲げられたのは、銀の自動拳銃。装飾こそ控えめだが、無駄のない造形と冷ややかな質感が威圧感を放っている。
それを、まるで新しいおもちゃでも手に入れたかのように、姫はくるくると角度を変えては眺めていた。
「……姫様、もしかしてそれで俺を守ってくれるんですか?」
俺の問いかけに、姫はぴたりと手を止め、視線だけを向けた。
そして、軽やかな微笑を浮かべて、首を横に振る。
「いえ。守りませんよ。それは、私の役割ではありませんから」
あくまで当然のように、そう言い切った。
風が、二人の間を通り抜ける。
――俺を守るのは、俺自身。そして、剣に託された意志。
姫はそれを誰よりも理解しているのだ。だからこそ、あくまで“支える者”としての矜持を崩さない。
それでも、彼女が拳銃を懐に収める仕草は、どこか楽しげで――
俺は、そんな子供っぽさを見せる姫を、微笑ましく思った。