第1話:雪原の女帝と黒き影 中編
氷雪の広間――その名に相応しく、白銀に彩られた謁見の間には、一切の装飾過剰を排した威厳が宿っていた。
白漆喰の天井、霜のごとく光を反射する床、そして壁面を覆う刺繍紋章の幕。重々しき沈黙の中、その中央に据えられた玉座に、彼女はいた。
アーリャ=スヴェリカ。
東方連邦スヴェリカ公国を束ね、即位して間もない若き女帝――その姿は、まるで極北の氷精をそのまま具現化したかのようだった。
肩まで届く銀糸の髪は、透き通るような白の中にわずかな青味を帯びており、頭にはウシャルカ帽。耳当てを下ろしたまま、格式を意に介する様子もなく座している。
纏うのは白を基調とした軍装風の礼装。装飾は極限まで排され、鋭角的な裁断と直線の縫製が冷たい気配をまとわせていた。
その姿は、威圧よりも静謐で――けれど、空気の温度すら下げるような存在感を放っている。
そして、アーリャは――
瓶のまま、ウォッカを飲んでいた。
薄氷の器も、金属の盃も存在しない。ただ無造作に運ばれてくるガラス瓶を片手で掴み、そのまま傾ける。
ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ――。
濁りも抵抗もない喉越しに、ただ黙々と流し込まれる純白の液体。空になった瓶が音もなく下げられ、次の一本が運ばれてくる。
静寂の中に、その律動だけが繰り返された。
その異様な光景に、誰もが言葉を失っていた。
だが、最も静かだったのは当の本人――女帝アーリャ自身だった。
彼女の目が、こちらを見た。
――視線が合った瞬間、背筋に冷水を浴びせられたような感覚に襲われる。
氷のような、いや、それよりも冷たい。まるで凍土の底から浮かび上がった光。
その瞳は、一切の激情も含まず、それでいてこちらの心の最奥をのぞき込むような無感情の審判だった。
冗談や取り繕いなど、いっさい通用しない。
すべてを見透かされた――そんな錯覚が、脳裏にこびりついた。
思わず、隣に立つリアノ姫を横目に見る。
普段ならば、どんな場面であれ気品を崩さぬその人も、今回ばかりはわずかに肩が強張っていた。
冷や汗をかいているわけでも、怯えているわけでもない。
ただ、ほんの少し――まばたきの間隔が乱れていた。
それだけで十分だった。
あのリアノ=ルヴィアが、対等なる王の視線を前にして、明確な“緊張”を示した。
それは、この女帝アーリャという存在が、いかに只者ではないかを雄弁に物語っていた。
静寂を破ったのは、玉座に控える女帝ではなかった。
声を発したのは、玉座の左手――補佐席に位置するひとりの男。
スヴェリカ公国の政治を担う「ナンバー2」、外政庁筆頭・ニコライ=フルチンスキー。
その顔は紅潮しており、まるでこの場を待ち構えていたかのように口を開いた。
「旅の途中で、陛下の悪口を語ったそうだな!」
――その場に、緊張とも嘲笑ともつかぬ空気が流れる。
リアノ姫の視線が、わずかに宙を泳いだ。
その反応は、一瞬の遅れではあったが――確かに“動揺”と読まれてもおかしくない間だった。
姫はすぐに背筋を伸ばし直し、澄ました声で応じる。
「どうして我々が、同盟相手の君主を貶める必要がありましょうか。きっと根も葉もないうわさでございます」
その口調は、いつも通りに穏やかで品格に満ちていた。
だが、ニコライはその答えを意にも介さず、むしろ勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「とぼけるな! このスヴェリカの地には、耳の良い者が大勢いるのだ! “ここの女帝はアル中なんだぜw”と、笑いながら語っていたと聞いている市民が多数いる!」
俺は思わず声を荒げた。
「で、でたらめだ! そんなこと、言ってない!」
「ふんっ、やはり図星か。言葉に焦りが滲んでおるぞ。これだから異民族は――教養も礼儀もない」
理不尽な中傷が場を支配する中、広間の右手――もうひとりの重鎮が勢いよく椅子を鳴らし、立ち上がった。
「ニコライよ!」
その声は雷鳴のごとく鋭く響き、空気を一変させた。
白髭を湛えた、重厚な体格の男。スヴェリカ元帥府直属の政治監察官。ナンバー3にして、女帝派の忠臣――セルゲイ・ドミートリエフ中将である。
「証拠もない噂で場をかき乱すとは、貴様、同盟関係を破綻させるつもりか! 外交の場で軽々しく口を開くとは、官位を持つ者として恥を知れ!」
激しい声に、さすがのニコライも一瞬だけ唇を引き結んだ。
しかし、それ以上の圧が、その次に訪れることになる。
銃声――。
沈黙が砕けたのは、女帝アーリャが二本目のウォッカを飲み干した、まさにその瞬間だった。
彼女は瓶を静かに――まるで日常の所作のように――背後へと投げ捨て、懐から無造作に一丁の自動拳銃を取り出す。
そして、ためらうことなく、その銃口をニコライの足元へと向け――
パンッ
甲高く、冷え切った音が石床に跳ねた。
弾丸はニコライの足先をかすめ、床石に白い亀裂を刻み込んでいた。
「……ニコライよ、黙れ」
たったそれだけの言葉だった。
だが、それは絶対命令だった。
アーリャの声音に怒気も激情もなかった。ただ、凍土のような冷たさと、“静かなる意志”があった。
その瞬間――
「ひ、ひいいいいいいい!?」
ニコライは、顔面を蒼白に染めながら、その場で腰を抜かした。
身体を支えきれず、背後の椅子に尻を打ちつけ、みっともなくもんどり打って転がる。
誰も笑わなかった。
空気は冷えたまま、女帝の視線だけがその場のすべてを凍らせていた。
それはまさに――“氷の支配者”による静かな粛清であった。
銃声の余韻がまだ石の床に残る中、女帝アーリャは手にした拳銃を静かに懐へと戻した。
その動作は、まるで何事でもなかったかのような自然さだった。
場が沈黙に呑まれるなか、先ほどニコライを一喝したセルゲイ中将が、無言のまま姿勢を戻しかけた。
だが、その瞬間――女帝の声が、今度は明確な威圧を帯びて空気を裂いた。
「……お前もだ、セルゲイ」
その声音に、どこか異様な凍気がこもっていた。
「私の許可なく勝手に喋るな。この国の意志は――『私』だ」
静かに、しかし確実に。
その言葉には、説明も情緒も一切なかった。ただ、絶対の事実だけが淡々と告げられた。
セルゲイは、さすがの強面も青ざめたように目を伏せ、深く頭を垂れる。
「……申し訳ありません、陛下。以後、慎みます」
席に戻るときの動作に、軍人らしい規律はあれど、そこにあったのは“服従”だった。
――静寂。
誰もが、この場はようやく収束に向かうのだろうと思っていた。
だが。
女帝アーリャは、唐突にその視線を――リアノ=ルヴィアへと向けた。
「……はるばる遠方から来たところ、非常に申し訳ないが」
その声音はあくまで平坦であり、礼を欠くものではなかった。
「本日限りで、スヴェリカ公国は――エルデンティア王国との同盟を破棄する」
その言葉が放たれた瞬間、石造りの空間から温度が消えたような錯覚を覚えた。
何より先に――
「……へ?」
リアノ姫の、思わずこぼれた一言が響いた。
普段、どのような外交の場でも冷静沈着を貫く姫が、わずかに素の声色を漏らしたことで、場の異常さが誰の目にも明らかとなる。
しかし、彼女はすぐに態度を立て直し、静かに問いかけた。
「理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
アーリャは、わずかに首を傾けるように視線を固定したまま、感情の一切を排して言った。
「これまでの同盟関係は、歴代の君主が無能であったがゆえに結ばれた妥協の産物に過ぎない」
「……妥協、ですか」
「そうだ。本来、我が祖国は他国と対等に並び立つような器ではない。常に“頂点”に立つべき国だ。
私は、その使命を果たしているだけだ。女帝として、誇りと義務に従ってな」
アーリャの言葉は、まるで定理を述べるかのように平坦だった。
リアノは、一拍の沈黙を置いたのち、言葉を選んで応じる。
「陛下。現実問題として、我が国とスヴェリカとの同盟は、資源・技術・防衛上においても――互恵の関係にあります。破棄による損失は両国にとって小さくはないはずです」
静かに、そして理知的に。
だが、アーリャの返答は、それすらも意に介さなかった。
「我々と繋がりを持ちたいのであれば――属国として、支配下に降れ」
その言葉に、空気が凍りつく。
まるで“冷気”ではなく、“支配”そのものが空間に満ちていくような感覚だった。
その瞳には、何の迷いもない。
利得でも、敵意でもない。ただ――女帝としての“当然”がそこにあった。
リアノ=ルヴィアは、唇を引き結び、静かに姿勢を保ち続けた。
だがその碧眼には、確かに“戦いの予兆”が宿り始めていた。
――静寂を裂いたのは、再びニコライ=フルチンスキーだった。
空気を読まず、いや、読んだ上でなお暴発するかのような声音。
「やはり女というのは、感情に左右されすぎる。王国の姫だろうと例外では――」
その言葉は、言い切られる前にかき消された。
パンッ
鋭い銃声。今度は、その弾丸がニコライの頬を掠めた。
皮膚を裂いた赤い線が、頬に一筋、熱を帯びて浮かぶ。
悲鳴が上がる。
「ひぃいいいいいッ!?」
だが、アーリャの目線は変わらなかった。
彼女は玉座の上で静かに首を上げただけで、ニコライを振り返ることすらしない。
ただ、目の前にいるリアノ姫を――その姿を、視線で縫い止めたまま、淡々と告げる。
「……スヴェリカ公国からは、以上だ」
重たく落とされたその言葉に、リアノ姫はわずかに俯いた。
声にならぬ呼吸が胸の奥に沈み、彼女はそっと、自らの手をギュッと握りしめた。
その白くなる指先に、彼女の抑え込まれた悔しさが滲んでいた。
――そして。
俺は、立ち上がった。
その瞬間、場の空気がわずかにざわつく。
「俺は、外交をするためにここにいるわけではない」
俺の声は、淡々と、けれど一言一言を明確に穿っていた。
「だが……リアノの“パートナー”として、述べさせてもらおう」
アーリャの眉が、わずかに動いた。
「我々は、正式な手続きを経て、国家の意志としてここへ派遣された。
失礼な振る舞いもしていない。貴国の文化にも真摯に向き合った。
それにもかかわらず、理もなく拒絶される理由は、どこにもない」
そこで、一拍の間。
そして――
「……アナタには、“エルデンティア王国の要求を聞く義務”がある」
その瞬間、女帝アーリャの瞳に、わずかな光が宿った。
「……“聞いて欲しい”ではなく、“聞く義務”、か。
なかなか興味深い表現をするのだな」
彼女は、かすかに首を傾げたまま、言葉を続ける。
「だが……どれほど丁寧な善意を押しつけようとも、我々はなびかない。
我らは氷の大地。永遠に凍てつき、決して融けぬ。――不変である」
その言葉に、俺は、言葉を重ねた。
「――ひとつだけ、勘違いしないでほしい」
「?」
「今、この場においては――俺たちの方が“優位”だ」
その瞬間、俺は腰の光の剣を、抜いた。
煌めきとともに、剣先が――まっすぐに女帝へと向けられる。
誰もが息を呑んだ。
この空間において、唯一不変と思われた“冷静”という絶対法則が、今まさに壊されようとしていた。
「俺はいつでも、あなたの首を刎ねることができる」
声色は変わらない。叫ばない。
けれど、その言葉に込められた圧は、もはや“交渉”ではなく、“宣告”に近かった。
その場にいた全員が、言葉を失っていた。
――リアノ姫でさえ。
「……っ」
彼女の目が、俺を見つめたまま微かに揺れる。
驚き。動揺。恐れ。
それでも、俺を止める言葉を選べずにいるのは、今の俺に“何か”が宿っていると理解したからだった。
――それは、護る意志か、それとも剣としての覚悟か。
いずれにしても、そこにはもう、昔の“お人好しな青年”の影はなかった。
俺が剣を構えたまま、空気は凍りついていた。
だが――その張り詰めた空間の只中で、女帝アーリャはまるで何事もなかったかのように、三本目のウォッカを受け取った。
まっすぐ俺の剣先を見据えたまま、無言で瓶の口を傾ける。
ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。
真顔のまま、一切の表情の変化なく、飲み干す。
俺もまた、剣を下ろさず、その動作をじっと見つめ続けた。
他の誰もが口を噤み、空気に飲まれていた。
リアノ姫ですら、僅かに眉を寄せたまま言葉を挟まない。
空間にはただ、勇者と女帝――二つの異なる“静”の力だけがぶつかり合っていた。
やがて、瓶の底が乾いた音を立てる。
そのままアーリャは、拳銃のように背後へウォッカの瓶を投げ捨てた。
カシャン、と床を転がる音が響く。
「……名前は?」
アーリャが、ふと問いかけた。
俺は、迷わずに応じた。
「教える義理はない」
一拍。
その瞬間、女帝の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「――くく。悪くない返答だ。……気に入ったよ」
その言葉と共に、今まで一切反応しなかったニコライの名を呼ぶ。
「ニコライ」
「……は、はいっ!」
びくりと肩を跳ねさせて返事する男に、アーリャは静かに告げる。
「三秒くれてやる。“奴らにチャンス”を与えてこい」
「えっ?」
「――1」
「えええええっ!?」
「――2」
「えええええっとっ!? えええっとですね!? そ、その……! 陛下を……!」
「――3」
パンッ
鋭い銃声が響く。
ニコライの頭上すれすれを、銃弾が駆け抜けた。
青ざめたニコライが腰を抜かし、へたりこむ。
「……よくやった」
アーリャは、あくまで無感動にそう言い放つと、ようやくこちらに視線を戻した。
その氷のような蒼眼に、わずかながら“愉悦”の色が滲む。
「明日の正午。お前たちにチャンスをやろう」
「……」
「今、ニコライが口走った通りだ。私を笑わせてみろ。
それができれば――同盟は継続してやる。
無理だったら、そのまま祖国に帰るがいい」
そう言い残すと、女帝は何の未練もなく、会談の場を後にした。
その背に、誰一人として声をかけることはできなかった。
……しばしの静寂。
俺は、ふらりと剣を納めると――その場に、へたり込んだ。
「……こ、怖かった……」
思わず漏らしたその言葉に、会議室の石壁が、やけに冷たく感じられた。
会談の後。
沈みきった空の下、誰もいない回廊の片隅に、俺とリアノ姫は並んでいた。
白壁に射す夕陽の淡い光が、二人の影を長く落としていた。
風はない。静かだった。
やがて、姫は小さく口を開いた。
「……本当に、申し訳ございません」
その声音は、凛としていながら、かすかに震えていた。
「私が……私がもう少し強ければ。
あなたに、あのような思いをさせずに済んだのです」
視線を落としたままの謝罪だった。
その横顔に、いつもの気高さはあっても、言葉に宿る責任の重みが覆い被さっているのがわかった。
俺は、静かに首を振った。
「……剣を抜くと決めたのは、俺です。
誰に言われたわけでもありません」
そして、真正面から――その瞳を見つめて、言葉を続けた。
「……あの瞬間。俺が守りたかったのは、“アナタの心”です」
姫の瞳が、大きく見開かれた。
「だから――俺は、後悔なんてしていません」
一拍。
その場に、沈黙が落ちた。
リアノ姫は、ふと視線を逸らし、背を向ける。
その細い肩が、ほんの少しだけ震えたように見えた。
彼女は、かすれた声で呟いた。
「……ありがとう、ございます」
その背中越しの一言が、風よりも静かに、胸の奥へと沁み込んでいった。
一方その頃――
場所は王城の地下、旧兵舎跡に作られた秘密の作戦室。
厚い扉の向こうに響き渡るのは、まさに――憤怒の声だった。
「アーリャめぇえええええええええええええええええっ!!!!!」
卓上のグラスが粉々に砕け散る。
数人の側近が息を呑み、壁際に退避する。
中心に立つのは、スヴェリカ公国の宰相――ニコライ=フルチンスキー。
女帝の“忠臣”を名乗りながら、実態はただの野心家にすぎなかった。
「あの女さえいなければ……この国は、もうとっくに我が物だったのだ……!」
その顔は真っ赤に染まり、口元の唾が飛び散るほどの形相。
彼の背後に控えるのは、選び抜かれた10人の私兵たち。
中には、かつて勇者と交戦したあの少女の姿もあり、今は不安げに頬を引きつらせていた。
「ニ、ニコライ様……っ。お、落ち着いて……」
「黙れえええっ! お前らには、黙って俺の命令に従っていればいいんだ!!」
部屋全体に張り詰めた殺気が走る中、ひとりの技術官が書類束を携えて走り込んできた。
「ニ、ニコライ様! ご報告を! ……つ、ついに――例の古代兵器の解析が……完了しました!」
その瞬間、怒気に染まっていたニコライの表情が――にやり、と変わった。
「……んほおおおおおおおおお!?!?!?
よくやったぁ……! いや、実によくやったぞおおお!!」
狂気を孕んだ笑みを浮かべたまま、ニコライは机に身を乗り出す。
「これで……勝利の方程式が完成した……!
異民族の勇者も……あの氷の女帝も……すべて、まとめて始末してやる……!!」
その言葉と共に、彼の手の中で書類がぐしゃりと握り潰される。
「フルフルニィ……フルフルニィ……!
この世界の王にふさわしいのは――この俺だッ……!」
底冷えするような嗤いが、地下の石室にこだました。