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第1話:雪原の女帝と黒き影 前編

 王城の奥、重厚な扉の向こうに広がる謁見の間は、朝の日差しを受けて金と白の調和に包まれていた。高窓から差し込む光は、赤絨毯を照らし、石壁にかかる紋章旗を穏やかに揺らしている。


 その中心、玉座に座す王――エルデンティア王国の現国王にして、第一王女リアノ=ルヴィアの父君は、雪のごとき白髭をたくわえ、温和なまなざしを向けていた。まるで古の聖者を思わせる気配は、威厳を保ちながらも慈愛に満ち、話す者の緊張を和らげる。


「勇者殿。そして、リアノ……」


 低くもよく通る声が、静寂を破る。


「そなたらに、新たな任を託す。東方連邦の一角、スヴェリカ公国より、女帝即位の報が届いた。国交の深化を図るべく、王国より使節を派遣する手筈を整えておる」


 王の視線が、こちらへと注がれる。


「この任、勇者殿に――護衛兼交渉の随伴役を命じたい。そして、リアノ。そなたは我が娘であり、王国の象徴である。今回の旅は、我が祝福の証としてもあるのだ」


 その言葉に、リアノ姫は深く頭を垂れた。白銀の髪が肩をすべり、気品に満ちた仕草が室内の空気を一層引き締める。


「畏まりました、父上。エルデンティアの名を辱めぬよう、必ずや務めを果たして参ります」


 俺は、静かにひと呼吸おいてから、姫の隣に並び、膝をついた。


「この身、姫様と共にあらば、どのような地でも剣を携え、盾となる所存です」


 王は目を細め、長い髭に手を添えながら、微笑んだ。


「良い顔だ、勇者よ。――安心して送り出せるわ」


 そして、少し声音を和らげると、懐から小さな包みを取り出し、リアノに差し出す。


「婚約者としての祝いも兼ねてな。あまり派手ではないが……、旅の道中にて役立てよ」


 中にあったのは、白銀の織り込みが施された薄衣だった。極寒の地に赴くことを見越して用意された、特注のものだろう。


 リアノはそっと包みを受け取ると、微かに口元を綻ばせた。


「ありがとうございます。……必ずや、実りある旅路といたします」


 謁見の間に風が吹いたような静けさが訪れる。

 だが、確かに、この瞬間から新たな物語が動き出した。


 ――旅立ちは近い。



 出立の知らせが広まるのに、そう時間はかからなかった。

 俺が王城から戻ると、騎士団本部の空気はなぜか妙に温かく――いや、どこか浮かれていた。


「おーい勇者! 聞いたぜ! リアノ姫様と一緒に異国行きだってな!」


「くくっ、こりゃもう新婚旅行だろ、なぁ!?」


 くたびれた訓練用の鎧姿の仲間たちが、にやにやと肘を突き合わせながら俺のまわりを囲む。

 俺はただ苦笑いを返すしかなかったが、何も言わずとも耳がほんのり赤くなっていたらしい。


「……調子に乗るな、馬鹿者ども」


 低く、通る声が部屋を震わせた。

 即座に静まり返る騎士たちの間を縫うように現れたのは、鋼鉄の意志をそのまま人の姿にしたような男――王国騎士団長、カイゼル=グラント将軍その人だった。


「勇者殿は、この国を背負う者として、大任を受けたに過ぎん。ふざけた物言いは、己の軽薄さを曝け出すようなものだぞ」


「は、はっ!」


 叱咤のひと声に、団員たちは背筋を正して散っていった。

 俺も背を正すと、団長はしばし俺を見つめ――わずかに目を細めた。


「……我が騎士団の者として、お前がその任を果たすことを、私は誇りに思っている」


 その言葉は、厳しさのなかに確かな信頼を含んでいた。

 ただの民だった俺にとって、これは剣より重い意味を持つ。


「……ありがとうございます。必ずや、姫様を、そして王国の名を――守ってみせます」


 団長は小さく頷いたあと、ふと思いついたように尋ねた。


「ところで……異国に行くとなれば、礼服の一着は必要となるが……準備はしてあるのか?」


 礼服。……そういえば。


「いえ、申し訳ありません。まだ何を着るべきかもわからなくて……」


 団長はやれやれというように額に手をやり、すぐに口元を引き締めた。


「ならば、姫殿下にお聞きなさい。外交の場で失礼のないようにするのも、随伴者としての務めだ」


「はい」と俺が答えると、将軍はくるりと背を向け、そのまま何事もなかったように歩き去った。


 仲間たちはまだ遠巻きに俺の様子をうかがっていたが、さきほどまでの茶化しは鳴りを潜め、どこか引き締まった視線を感じる。


 俺は――

 確かに旅立つのだ。

 リアノ姫と共に、遠き異国へ。



 王城の回廊は、春の光に満ちていた。磨き上げられた白い石の床に、高窓から落ちる日差しが網目の影を描いている。


 俺は、先ほどの騎士団長の助言を胸に、緊張しつつも姫の姿を探していた。


 そして――


 ほどなくして現れたその人影に、自然と足が止まった。


 リアノ=ルヴィア。


 白銀の髪は日差しを受けて柔らかく輝き、王家の徽章があしらわれた淡い水色のローブが軽やかに揺れる。

 品格という言葉が、そのまま歩いているかのようだった。


 俺が近づく気配を察したのか、彼女は立ち止まり、ゆるやかに振り返る。

 深い碧眼がまっすぐにこちらを見つめ、ほんの一瞬だけ、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。


「ごきげんよう、勇者様。……何か、お困りごとでしょうか?」


 いつものように抑制された声色。けれどその問いかけには、確かな親しみがあった。


「あの……実は、礼服についてお伺いしたくて。異国の場に出るとなると、どんなものが相応しいのか、わからなくて……」


 俺がそう言うと、リアノ姫はほんの少しだけ目を細め、まるで「可愛らしいことを仰るのね」とでも言いたげな雰囲気を漂わせた。


「礼服については、王家が信頼を置く仕立て師に依頼済みですわ。寸法や色合いも、ある程度はわたくしの方で調整しております。ですが――」


 彼女はすっと視線を横に流し、城下町の方角を見やった。


「デザインや生地の感触に、何かご希望があるのでしたら、仕立て屋の方に直接伺ってみましょう。……折角ですし、少しばかりお散歩がてらに」


 その口調はあくまで丁寧だったが、わずかに浮かんだ笑みに、どこか楽しげな雰囲気が滲んでいた。


「それに……異国での場は“第一印象”がすべて。勇者様がどう見えるかという点で、わたくし自身、少々気になるところもございますので」


 少しだけ、声が近くなる。


 風に乗って、彼女のローブがかすかに揺れる。

 その立ち姿はまるで、歴史書に描かれる姫君そのもので――


 俺は自然と頷いていた。


「ぜひ、お願いします。……どんな礼服が良いのか、まだ想像もつかないけれど、姫様の選んだものなら、きっと大丈夫だって思えます」


 リアノは目を細めて微笑んだ。


「ええ。お任せください、勇者様。あなたを見れば、誰もが王国の“誇り”を感じられるように……お仕立ていたしましょう」



 王城の石畳を抜けて城下町に降りると、街の風は柔らかく、春の陽にあたためられていた。

 石造りの家々が整然と並ぶ通りを歩く姫の姿は、通行人の目を引いていたが、誰もが自然と距離をとり、その気品を静かに受け止めていた。


 仕立て屋は、老舗の小さな店だった。木製の看板には王家の紋章が刻まれており、城下町でも限られた者しか入れない高級店であることを物語っている。


 俺が戸を押して入ると、カラン、と小さな鈴が鳴った。

 店内は、絹と麻の香りが混じるような静けさがあった。棚には染め上げられた反物が並び、窓際には手縫いの礼服のサンプルが光を浴びている。


 リアノ姫が一歩、後ろから入ってくる。

 そのときだけ、なぜか空間の温度がすっと下がったように感じた。


「こちらが、わたくしどもがいつもお世話になっている仕立て屋ですわ。……勇者様の礼服について、もうすでにいくつか候補はございますが……お手にとって、ご覧になりますか?」


 そう言って、彼女は棚のひとつを指差した。

 俺は頷き、並べられた布地に手を伸ばす。光沢のある銀糸が織り込まれた深紺の生地は、手に取るとしっとりと吸い付くような重みがあった。


「……これは、少し派手すぎるでしょうか?」


「いえ、むしろ“格式”というものは、時にこのような誇張の中にこそ宿るものです。……異国では、衣の豪奢さで立場を測られることもございますゆえ」


 リアノの返答は、まるで礼儀作法の教本を引いたように整っていたが、ふと目が合うと、彼女はかすかに笑った。


「……とはいえ、勇者様がそういうのをお嫌いなら、もう少し控えめにいたしましょう。わたくしとしては、あなたが落ち着いて着られるものが一番ですわ」


 その声音には、どこか冗談めいた優しさがあった。


「……姫様が選んでくれるなら、俺はどれでも大丈夫ですよ。……たぶん、何を着ても、俺だけじゃ似合わない気がしてて」


 俺の言葉に、リアノはほんの一瞬きょとんとしたあと――微かに頬を染めた。

 けれど、それをすぐに押し隠すように、いつものような微笑を浮かべて言う。


「……では、わたくしが、似合うように仕上げてさしあげますわ。

 ――あなたが着れば、それが“王国の勇者の礼装”となるのですもの」


 あまりに真っ直ぐなその言葉に、俺は胸がすこしだけ熱くなるのを感じた。


 ふたりの距離は、不思議なほど近かった。

 けれど誰も邪魔をしない。

 仕立て屋の静謐な空間に、陽の光が降り注ぎ、反物の陰影を織りなしている。


 まるで――

 一枚の絵画の中に閉じ込められたような、凛とした時間だった。



 それから数日後。

 出発当日。

 王都を離れ、馬車はゆるやかな丘陵を越えて東の街道を進んでいた。

 車輪のきしむ音と、馬の蹄が敷石を叩く軽快な響き。その隣で、リアノ=ルヴィア姫は静かに一冊の手帳を閉じた。


「勇者様、今回の訪問先であるスヴェリカ公国について、少しお話ししておきましょうか」


 俺が軽くうなずくと、姫様は窓の外を一瞥し、ゆったりと語り出す。


「スヴェリカは東方連邦の中でも特に寒冷な地域に位置し、冬には氷雪に包まれます。

 農耕には適しておりませんが、その代わり鉱石資源や森林資源が豊かで、独自の文化と技術を育んできた歴史がございます」


 語りながらも姿勢はまるで揺れず、語調には静かな確信があった。

 俺は思わず感心してしまう。


「姫様って、本当に博識なんですね……。異国のことまで、そこまで知ってるなんて」


 すると姫様は、ほんのわずかに微笑んだ。


「……ふふ。そう仰っていただけると、勉強した甲斐がございますわ」


 その笑みに、どこか少女らしい喜びが滲んでいた。

 王女としての責務を果たそうとする強さと、称賛に静かに頬を緩める柔らかさ。

 その両方が、姫様という存在を形作っているのだと思った。


 国境を越える頃には、空気に冷気が混じり始めていた。

 吐く息は白く、馬車の窓には霜の粒が小さく浮かぶ。姫様は手早く、膝に置かれた外套を羽織ると、傍らの箱からふわふわの帽子を取り出した。


「……失礼いたします。やはり防寒は必要ですわね」


 ウシャンカ帽。耳当てのついた、東方ならではの毛皮帽子。

 リアノ姫がそれをかぶると、どこか幼さを含んだ、やわらかな雰囲気が生まれた。


「……」


 思わず、目を奪われる。

 こんな言い方は軽すぎるかもしれないが――かわいい、と思った。


 王都の大広間で見たときの気高く凛とした姿も。

 遺跡での思慮深い振る舞いも。

 けれど今、俺の目の前で頬を赤らめながら帽子を直すこの人は、

 どこかひとりの女の子として、俺の心にすとんと落ちてきた。


「……」


 俺の無言に気づいたのか、姫様が首をかしげる。


「何か……ついていますか?」


「あ、いえっ、なんというか……すごく、似合ってます」


 答えながら、ちょっとだけ顔が熱くなるのを感じた。

 姫様は目を瞬かせたあと、ふっと優しく笑う。


「ありがとうございます。勇者様にそう言っていただけるなら、寒さも悪くありませんわ」


 その微笑みは、真冬の陽だまりのように温かかった。


 俺の胸のあたりがほんのり熱を帯びる。

 寒気に包まれているはずなのに、指先がじんわりとあたたかく感じた。


「……勇者様も、お素敵ですわ」


 ふと、姫様がさらりと口にした。まるで深い意味などないかのように――けれど、間近で言われたその一言に、俺はどきりとする。


「そ、そんな……あまり近くで言われると……顔が……」


「お暑いのですか?」

 姫様は少し身を寄せて、のぞき込むように問いかけてくる。

 その声は本当に不思議そうで、でもどこか――楽しげでもあった。


「お外はこんなに寒くなってきているのに、不思議ですわね?」


「……ぜったい、わざとやってますよね……?」


「ふふ。ご想像に、お任せいたしますわ」


 微笑みながら、姫様はまた正面を向いた。

 その横顔は、まるで雪の中に咲いた花のように清らかで――けれど、ほんの少しだけ意地悪だった。


 その宿は、どこか温かみのある造りだった。木材と石材を巧みに組み合わせた壁面は、極寒の土地でもぬくもりを感じさせてくれる。


「ようこそ、遠いところから」


 出迎えに現れたのは、どこか見覚えのある女性だった。

 異文化交流パーティで踊っていた――あのコサックダンスのお姉さん。


 ※ 第4話の前編 参照



 今回は舞台衣装ではなく、艶やかな礼装に身を包み、化粧まで施している。


 ……その美しさに、一瞬、目を奪われた。


「――はっ」


 俺は慌てて目線を逸らし、すぐさま隣の姫様に頭を下げる。


「す、すみません姫様。つい、見惚れてしまって……」


 咄嗟の謝罪に、リアノ=ルヴィアはわずかに目を瞬かせた後、そっと微笑んだ。


「ご安心なさい、勇者様。あの方は、目を奪うほどお綺麗ですもの」


 責めるでも、呆れるでもなく、まるで当たり前のことのように。

 その声音には、たしかな品位と、ひとしずくの余裕が滲んでいた。


「……ただ、目を奪われたままですと、お足元をお確かめになれませんわよ? わたくしとの歩調が、乱れてしまいますもの」


 それは、たしなめるというよりも、どこか小さな嫉妬を包んだユーモアだった。

 だが、その“嫉妬”は誰かを責めるためのものではなく――自らの未熟を戒め、磨きつづける者の、静かな覚悟の表れだった。


「わ、わかりました。ちゃんと見ます。……足元も、姫様のほうも」


「ふふ。ええ、ではどうか、転ばぬように」


 姫様の笑顔は雪の夜の月明かりのように穏やかで――

 それを隣で見ていたコサック姉さんも、感心したように微笑んでいた。


 手にしたウォッカの瓶を片手で掲げ、彼女は唐突に問いかける。


「アナタ、ダンス……できる?」


「え?」


 思わず聞き返した俺に、彼女は軽くウィンクし、無邪気に笑う。


「ダンス、できないと……この先、関所で――」


 一拍置いて、指を銃の形にして撃ち抜く仕草をしてみせた。


「……射殺、される!」


 俺は思わず姫様の方を見た。が、リアノ姫もまた一瞬、言葉を失ったように瞠目していた。


「まさか……」


「……念のために申し上げておきますが、実際に命を奪われることはないはずです。これはおそらく――」


 姫様はそっと咳払いを一つ。


「“通行儀礼”のようなものでしょう。この国では、客人が歓迎の意思を示すには、その地の舞を踊る必要があると……以前、書物で見たことがございます」


「え、えぇと、それってつまり……」


「――私と踊ってください、勇者様」


 冗談かと思ったが、リアノ姫の瞳はいたって真剣だった。


 こうして俺は、宿屋の広間のど真ん中で、王国第一王女と共に、異国の伝統舞踊――

 つまり“コサックダンス”を踊ることになった。




 最初は足さばきがまったく追いつかず、俺の動きは木偶の坊のようだった。だが、姫様はしなやかな動作で、まるで音楽と呼吸を合わせるように軽やかに舞っていた。


「勇者様、左です。膝を落として、次は――回転ですわ」

「ま、待って、そんな急に言われてもっ――わっ!?」


 ぐるりと足がもつれ、俺は見事に尻もちをついた。


 その瞬間、女主人が手を叩き、目を輝かせて叫ぶ。


「アナタ達! 今日から市民!」

「何それ!?」と思わず突っ込みそうになったが、姫様は小さく笑っていた。

 こうして俺たちは、笑いに包まれながら、異国の夜を一つ超えたのだった。



 空は薄曇りで、白銀の靄が地平に沈む朝。

 俺たちは、街道を越えてスヴェリカ公国の内地へと進むべく、小高い丘の関所へと向かっていた。


 石造りの関門には鋼鉄の柵があり、防寒具に身を包んだ衛兵たちが警戒を怠らず見張っている。

 一見すると、ごく普通の出国管理――だが、俺は昨夜の宿屋の一幕を思い出していた。


「姫様、まさかとは思いますが……」


「ええ。ですが、念のために準備しておくに越したことはありませんわ」


 そして、案の定だった。


 俺たちの前に立った一人の兵士が、険しい表情で手を上げる。


「……関所通過には、証明書類に加え――」


 一瞬、言いよどんでから言った。


「――スヴェリカ伝統の歓迎儀式、“コサックダンス”が求められます」


 ……まじで言ってるのか。


「馬鹿を言うなッ! 王族にダンスを強要など、外交問題になるぞ!」


 傍にいた若い衛兵が思わず叫ぶ。しかし、指揮官は小さく首を振り、

「だがこれは……この土地に古くから伝わる掟だ。例外は……作れん」と静かに言った。


 場が凍りつく中、リアノ姫は一歩前へと進み出る。


「心得ております。こちらへ来る前に、踊る練習はいたしましたので」


「――えっ?」


 ざわめく兵士たちをよそに、姫様は静かに腰を落とし、スカートの裾を翻すと、きちんと足を構える。


 俺も慌てて横に並び、昨日の復習を思い出しながら構えた。


「それでは、まいりますわよ、勇者様」


 キッ、と視線を交わした瞬間、リズムのない大地に確かな拍が刻まれた。


 ふたりは踊った。


 膝を沈め、つま先を振るい、回転と跳躍のリズムが寒空に弾ける。

 姫様の優雅な舞と、俺の不格好ながらも全力のステップが交差し、

 無骨な兵士たちは、まるで夢でも見ているかのように目を見開いた。


「し、信じられん……」


 ぽつりと呟いた青年兵が、へたりとその場に尻餅をついた。

 その目から涙がこぼれ、思わず胸の前で手を合わせる。


「なんて、なんて美しい舞だ……!」


 次の瞬間、関所の広場は拍手に包まれた。

 ゴツゴツとした軍靴の音が混じり、誰かが「ブラボー!」と叫ぶ。


「通過、通過ァア! この通過は最上級通過です!!」


 どうやら通過は……無事らしい。




 関所を越えてすぐ、馬車を進める俺たちは、近隣の村で小休止をとることとなった。


 村といっても、東方連邦のそれは驚くほど活気に満ちていた。広場では太鼓と弦楽が鳴り響き、子どもから老人まで、誰もがコサックダンスを踊っていた。ストーブの香りと、ウォッカの匂いが鼻をつき、初春の寒風を忘れさせる熱気が立ちこめていた。


「おや、あなた様方は……」


 一人の村人が声をかけてきた。肩幅の広い中年の男で、どこか厳ついが笑顔が人懐こい。


「もしかして、あの関所で踊った王家の方々ですかな?」


「……ええ、まぁ」


 返事をすると、男は「見たぞォォ!」と叫び、周囲にいた者たちが一斉にこちらを取り囲んだ。


「踊ったってよ!」

「異国の姫様が、膝を曲げてリズムを取ったってよ!」

「まごうことなき同志だァ!!」


 皆が肩を組み、即席の宴が始まった。踊れ、食え、飲め。まるで百年来の友人を迎えるかのような歓待。


 そのうち、酔いのまわった村長が椅子から転がるように降りて、膝をついたままこちらに囁いた。


「お嬢さん、お若いの。……実はな、この国、いま中が揉めておるんじゃ」


 声をひそめてはいたが、周囲の村人たちも頷いている。


「女帝派と、大臣派。表向きは仲がよさそうにしとるが、裏じゃもう剣呑よ。あのアーリャ姫様も、ようやっと即位したばかりで……利用されとるのさ」


「……それほどのことを、我々に話してよろしいのですか?」


 リアノ姫がそう尋ねると、村長は豪快に笑った。


「構わんさ! 踊った奴は同志だ! この国じゃ昔からそう決まっとる!」


 ――俺たちは、ほんの数十秒のダンスで国家機密に触れてしまったらしい。





 首都――その名もグラースカ。

 東方連邦の中でも最も栄えた都市であり、同時に、最も奇妙な都市でもあった。


 馬車を降りた俺は、思わず口を開けてその景色を見上げた。

 眼前に広がるのは、白銀の地平線に突き刺さるように建てられた巨大な建造物群。

 教会塔、行政庁、商館、果ては馬の市場までが、すべて氷の上に鎮座している。


「……これ、下って湖なんですよね? 解けたら、やばくないですか?」


 俺のつぶやきに、近くの案内人らしき男が豪快に笑った。


「ハハハ! 溶けないからセーフ! 百年、いや千年凍ってる永久凍土よ。先祖代々、こうやって建ててきたんだ!」


 俺はチラリとリアノ姫を見やる。

 姫様は微笑みをたたえたまま、しかし静かな声で応じた。


「文化とは、時に命よりも重んじられるものですわ。……ですが、構造上の安全性については、後ほど個人的に調査させていただきましょう」


 この都市、大丈夫なんだろうか。

 でもたぶん、大丈夫って言ってるし、大丈夫なんだろう……多分。


 その時、群衆のざわめきが聞こえてくる。

 振り向くと、冷たい風と共にひとりの女が視界に入った。


 ――彼女は、雪の上に立っていた。


 黒布で目元を覆い、顔の表情は見えない。

 それでも、体の輪郭が浮き彫りになる漆黒のスーツが、彼女がただの旅人ではないことを明確に物語っていた。

 両腕に力は入っておらず、しかしその手には黒鋼の剣が握られている。

 鍔も装飾もない。まるでただ“斬る”ためだけに作られた刃。


 彼女は首をわずかに傾けた。

 そして――冷たい声で、まるで機械のように言い放つ。


「標的確認。エルデンティア王国第一王女、リアノ=ルヴィア。これより、抹殺します」


 その言葉に、空気が凍りついた。

 一部の市民は、「殺し屋……ってコト!?」と叫ぶ。


 俺は反射的に手を剣に伸ばした。

 だが、それより先にリアノが一歩前に出る。

 声を荒げることなく、むしろ静謐なまま、凛とした問いを投げかけた。


「……わたくしを、誰の命により?」


 女は、わずかに顔を上げた。

 その黒い布の奥から何かが、こちらを“見ている”気がした。


「……任務情報開示、対象外。感情制御、継続中。交渉不要。……攻撃開始」


 次の瞬間、黒き影が風を切り、雪を裂いた。

 俺はリアノの前に立ち塞がり、すぐさま剣を構える。


 斬撃同士がかち合い、激しい火花が散る。

 そこから幾度も剣戟がかわされる。

 幼いが剣にはたしかな重みがある。

 素早い身のこなしに俺は次第に劣勢となり、閃光のような一撃が光の剣を打ち上げ、白銀の軌跡が空を舞う。

 それはまるで――希望そのものが手のひらを離れていくようだった。


「っ……!」


 俺の手から滑り落ちた剣は、遠く石畳へと突き刺さり、市民のどよめきを誘った。


 ――武器を失った。

 戦いを見守っていた市民は悲鳴を上げた。



 その刹那、俺は動きを変えた。

 身を低く構え、足さばきは鋭く、相手の刃をかわし、体重を預けてのタックル――


 軽業のような回避。拳による急所への反撃。時折、足元をすくう巧妙な足技。

 それは、武器を持たぬ者の戦いではなかった。剣を持たぬからこそ、磨かれた戦技だった。


「……あいつ、剣を失ってからの方が強くないか?」


 市民の一人がつぶやき、それは波紋のように周囲へ広がっていった。


 すると、すぐ傍でその声を聞いたリアノ=ルヴィアが、微笑を浮かべて頷いた。


「当然でございます。勇者様は、日々の訓練において、剣を弾かれる場面を幾度も経験しております」


 凛とした声が響く。


「数にして……おそらく、三千回は下りません。ゆえに、武器を失った後の立ち回り――彼は誰よりも熟知しておいでです」


「……褒められてるんだけど、なんか複雑だ……!」


 汗を拭う間もなく、俺は迫り来る黒き刺客の刃を、掌と足の動きだけでいなしていく。


 光の剣はまだ戻らない。

 でも、もう一度取り戻すまで――倒れるわけにはいかない。


 その意地が奇跡を起こした。

 市民の一部が俺を応援し始めた。

 一人の声が波のように伝染していき、周囲は喧騒が轟く。

 刺客の動きが鈍った。

 感覚が過敏な分、こういった騒ぎの中では対応にラグが起こるのだろう。


 そして

 俺はその隙を見逃さなかった。


 疾風のように飛び出した身体が、刺客の間合いを躱す。

 左手で地を擦り、剣のもとへ滑り込むように手を伸ばした。


 手に戻った光の剣が、眩く一閃。

 勢いのまま横薙ぎに放たれた刃は、ただの斬撃ではなかった。

 光が圧縮され、刀身より外へと――射程を超えて、意志ごと伸びる。


「っ……!」


 刺客の身体が空を舞う。

 無防備な脇腹に直撃した光の斬撃は、彼女の姿を石壁へと叩きつけた。

 地響きとともに崩れ落ちたその姿は、もはや戦闘の意志を持たない。


 ――静寂。

 一瞬だけ、世界が止まったようだった。




 周囲からどよめきが広がる。歓声。拍手。驚きと賞賛が入り混じった市民たちの声。



「情けないところを見せてしまいました……」


 剣を握りしめながら、俺は小さく呟いた。

 あの一瞬、民衆の前で武器を落としたこと。それが勇者として失態だったのではないかと――心のどこかで、そう思っていた。


 だが。


「勇者様」


 彼女は俺の前に立ち、視線をまっすぐに向ける。


「その一振りは――“あなた”だからできたのですわ」


 静かに微笑んだその言葉は、祝福よりも温かく、光よりもまっすぐだった。

 胸の奥で、何かがふっと溶けていく音がした。



「命を狙われていることが、はっきりといたしましたわね」


 静かに、しかし一分の揺らぎもない声音で、リアノ=ルヴィアは言った。

 仮初めの平穏の背後に潜む影を、もはや否定できぬ以上――覚悟を示す時だった。


 俺は思わず問いかける。


「……逃げますか?」


 短く、けれど真剣に。

 彼女の身を思えば、当然の選択だった。異国の地で、しかも命を狙われている状況。

 王女としてではなく、一人の人間として安全を望むことは、決して弱さではない。


 だが、彼女の答えは、あまりにもリアノ姫らしかった。


「いいえ。逃げませんわ」


 そう言って、彼女はまっすぐに俺を見つめる。

 その瞳は、夜の湖面のように深く、どこまでも透き通っていた。


「この国には、二つの派閥が存在する。ならば、敵の敵は味方。道が閉ざされているわけではございません」


 理性が冷静に状況を読み解く。

 だが、彼女の言葉に込められた熱は、理屈を超えていた。


「それに、勇者様。あなたが、わたくしの隣にいるのです」


 風が、かすかに髪を揺らす。

 彼女は一歩、こちらに近づくと、静かに微笑んだ。


「信頼するあなたが傍にいて――わたくしが臆するなど、あってはならないこと。

 それはすなわち、勇者様への――冒涜ですもの」


 その言葉には、飾り気も誇張もなかった。

 ただ、真摯な信念と、揺るがぬ敬意があった。


 俺は何も言えなかった。ただ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 この人を守るために、自分は剣を握ったのだ――その意味が、今、明確に胸に刻まれた。






 窓の外では、遥か王都グラースカの灯りが白銀の氷原に滲んでいた。

 巨大な黒檀の机に指を組み、男は黙然と報告を聞く。


「……姫の暗殺、失敗との報せにございます」


 沈黙。

 燃え差す炉の薪がパチ、と乾いた音を立てる。だが、男は微動だにしない。まるで報告の内容が、朝の気温程度の無意味な情報であるかのように。


「任務失敗を気にされませんか?」


 側近が恐る恐る問うたそのとき。男はふいに椅子を引き、静かに立ち上がる。


「むしろ好都合だよ」

 微笑は冷たい。むしろ、張りつめた氷に似ていた。


 ゆっくりと踵を返すと、そこには――


 まったく同じ漆黒の戦闘服を着た少年少女たちが、九人。

 黒い布で目を覆い、沈黙のまま整列している。


「一人が倒れたからといって、計画は揺るがぬ。むしろ……」

 男は手を掲げ、魔道計器のスイッチを入れた。


「これで、我らが女帝陛下は“暗殺を企てた”という、よく練られた証拠を手にすることになる。国際問題に発展すれば、あの王国も沈黙せざるを得ん」


 彼はゆっくりと、黒き暗殺者たちの間を歩いた。高まる緊張。だが、その声はひどく愉悦に満ちていた。


「我が道を阻む者は、すべて“悪”に変えてやろう。何人も、この国の真実には辿り着けない」


 氷の床にブーツの音が反響する。

 男は拳を握り締めると――にやり、と笑った。


「私が、この国を支配する……フルフルニィ……!!」


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