第1話:突然ですが、結婚します
突然だが、俺は勇者になった。
きっかけは、村の広場に刺さってた「光の剣」をなんとなく抜いたこと。
特に誰も驚かなかった。
村長は「あー抜けたか」って感じだったし、子供たちは剣より虫に夢中だった。
それくらい平和な村だ。
でも、平和は長く続かなかった。
ある日、村に場違いな馬車が現れた。
金も装飾もやりすぎだろってくらい豪華なヤツ。
で、そこから降りてきたのが――
「私はエルデンティア王国第一王女、リアノ=ルヴィアと申します」
金髪、青い瞳、貴族の作法。完璧にお姫様だ。しかも俺と同い年くらい。
どうやら、俺が抜いた剣を“予言の証”と見てやってきたらしい。
曰く、勇者には紋章が宿る。
曰く、その紋章は結婚の証でもある。
曰く、「ですから、即結婚ですね」
……えっ、ちょっと待て。
俺、村人だぞ?
いやまあ、勇者だけどさ。
そんなこんなで、俺は村を出ることになった。
王都エルデンティアへ、姫様直々の馬車でレッツゴー――
運命とか使命とか、たぶんそのへんの始まりである。
馬車の中は静かだった。
外の景色が揺れていく中、リアノ姫は姿勢を正したまま、俺に向き直った。
「改めまして、私はエルデンティア王国第一王女、リアノ=ルヴィアと申します。
このたびは予言の勇者様にお会いでき、光栄です」
俺なんかに、丁寧すぎるほどの言葉遣い。
所作のひとつひとつに品があって、なんかもう――現実味がなかった。
金髪は陽の光を浴びてさらさらと揺れ、表情は優しく穏やかで。
こんな綺麗な人が、自分と結婚するって言ってる。
……夢みたいだ。いや、夢でも言われたことない。
「そ、そんな……俺、ただの村人で……」
しどろもどろになりながら言うと、リアノはふっと微笑んだ。
「そう考えるのは、アナタがお優しいからですわ」
言葉にとげは一切なくて、むしろ申し訳なさすら包み込むような声音だった。
「強さのことはご安心ください。王都の騎士団で鍛えていただけます。
“紋章持ち”であれば、どんな教練も優先されますわ」
そっか、騎士団……鍛えてもらえるのか。
やるしかないよな、勇者だし。結婚も、予言も、何もかも突然だけど――
せっかくなら、ちゃんと向き合いたい。
「……頑張ります」
そう言った俺に、リアノはもう一度、優しく笑ってくれた。
王都エルデンティアに到着した。
正直、門のデカさでまずビビった。あんなの開け閉めするだけで筋肉痛になるだろ。
「ようこそ、我が王都へ。……歓迎の準備は、ほどほどですけれど」
姫様は控えめに言ってたけど、門前には音楽隊と花束を持った人々が待機してた。
ほどほどって言葉、貴族的には“だいぶガチ”って意味らしい。
馬車から降りた俺は、正装モードのリアノに手を引かれ、まるで貴族になった気分。
※実際はボロ村の勇者。
「さて、まずは王都騎士団にご挨拶ですわ。勇者様の訓練環境を整えていただきます」
ということで向かった先は、でっかい訓練場。
筋肉に人格を乗せて歩いてるような団員たちが並んでいる。こええ。
「……あれが、勇者様?」
「めっちゃ普通だな……」
「なんか細くね?」
さっそくヒソヒソされている。傷つくぞ。もっとオブラートに包め。
「おい! 声がでかいぞ! 王女殿下の前だぞ!」
そこに現れたのは、無駄に爽やかなイケメン隊長。鎧ピカピカ。歯も白い。
「俺がこの騎士団の隊長、ランツェだ! 勇者くん、よろしくな!」
気さくに握手された。手のひらが鍛えすぎてて岩だった。
「では、軽く体験してみましょうか」
リアノの一声で、訓練場に案内された。剣の構え方、足の運び方、基礎の基礎。
「いいか、まずは振ってみよう!」
「えい!」
「違う! 剣じゃなくて棒きれみたいだ! もっと魂を込めろ!」
魂って何!? ていうか棒きれって言うな!!
そんな感じで、初めての訓練はツッコミと汗まみれで幕を閉じた。
「……ふふ、お上手でしたわ」
最後にリアノがそう言ってくれたから、今日のところは満点でいいと思う。
訓練が終わると、リアノがそっと俺に手を差し伸べた。
「では、勇者様のお部屋をご案内いたしますわ」
そうして案内されたのは――
城の一角に用意された、信じられないほど豪華な部屋だった。
天井は高く、天蓋付きのベッドは大の字でも寝返りでも余裕。
家具は全部ピカピカだし、クローゼットの中身は俺の身長と合ってる謎のフルセット。
誰が用意したんだこれ。
「ここが勇者様専用の寝室となります。なにかご不便があればすぐに」
「……リアノの部屋は?」
「別室にございますわ。王族の慣習により、夫婦であっても寝室は別とされています。
お互いのプライベートを尊重し、適切な距離感で関係を育むべき――という考え方ですの」
なるほど、王族は夫婦でさえ「ちょっと距離を置くくらいがちょうどいい」ってスタンスらしい。
たしかに、いきなり同室とかだったら、こっちが死ぬほど緊張する。
一緒に寝るとか、絶対寝返りすら打てん。
「そっか……ありがたい、正直ほっとしてます」
俺がそう言うと、リアノは少しだけ微笑んで、やわらかく首を傾げた。
「無理のない関係から始めましょう。――でも、勇者様。
いずれは隣でお休みになりたいと思っていただけるよう、わたくし、努力いたしますわ」
なんか急に将来を見据えられて、心臓の動きがバグった。
姫様、攻めるタイミングが上品なのにズルい。
「それでは、おやすみなさいませ」
リアノは静かに頭を下げて去っていった。
豪華すぎるベッドに一人で寝転びながら、俺は思う。
――なんか、王都って、すごい。
翌朝――太陽の光が窓から差し込み、やたらと豪華なカーテンを黄金色に染める。
……うん、ちゃんと起きれた。
初日で疲れ果ててたのに、意外と体が軽い。
朝食は胃にやさしいスープと焼きたてパン。
リアノからは「本日も、どうかご無事で」とお見送りの笑顔。
なんだろう、最近の俺、めちゃくちゃ待遇がいい。
そんなわけで、今日も王都騎士団の訓練場へ向かった。
「おっ、勇者殿! 今日は顔が死んでないな!」
ランツェ隊長が開口一番にそう言ってきた。軽口の爽やか筋肉。
「昨日よりは、マシな動きができそうです!」
そう返して、今日も剣を握る。
昨日教わった構え、重心の置き方、足の向き――頭の中で復習しながら、一歩、二歩と踏み出す。
「よし、その踏み込みだ! 力はまだ軽いが、芯ができてきた!」
「ほんとですか!?」
「おうとも! いいか、勇者ってのは才能で選ばれるもんじゃねぇ。選ばれた後に鍛えるんだ!」
ランツェはにやっと笑って、俺の肩をどん、と叩いた。相変わらず岩。
「ただ――」
ちょっとだけ、顔が真面目になる。
「お姫様をお守りするには、まだまだだな。期待してるぞ、勇者殿」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締まる。
昨日は“できない自分”が恥ずかしかったけど、今日は“できるようになりたい”って思った。
「はい、任せてください!」
自然と背筋が伸びてた。
きっとまだまだ未熟だけど――俺、やれる気がする。
訓練を終え、汗を拭きながら城へ戻ると――
白と金の回廊の向こうから、ひときわ上品な足音が近づいてきた。
「勇者様。お疲れさまでした。少し、お時間をいただけますか?」
そこにいたのは、リアノだった。
今日も完璧に整った金髪と、柔らかな微笑み。
まぶしい。主に身分差で。
「え、あ、はい! もちろん!」
「よかった。では、せっかくですから……お城の中をご案内いたしますわ」
そうして、姫様の“お散歩”に随行する形で、城内見学ツアーが始まった。
「こちらが『迎賓の間』。外国の使者や貴族を迎える部屋です。
装飾は王国創建期のものを忠実に再現していて――」
どこを見ても金ぴかで、絨毯ふかふかで、飾ってある花はたぶん毎日取り替えてる。
“生活感”の概念が消えてる空間だった。
「この奥が『音楽室』。王族や貴族たちが演奏や舞踏を楽しむ場ですわ。
夜会なども、ここで開かれます」
「夜会って、あれですよね……お上品なダンスとかするやつ」
「はい。勇者様も、いずれご参加いただく機会があるかと」
「嘘だろ……」
次に通されたのは、白いアーチをくぐった先の長い廊下。
「この廊下の右手が『書庫』。歴代の王の記録や、禁書級の魔導書も保管されています。
そして左手が『日輪の回廊』。王族のみが通る特別な道ですの」
「……この時点でもう、俺の村、全体で負けてる気がする」
「ふふ。王都にも、素朴な良さは足りないかもしれませんわね」
最後に案内されたのは、南側のガラス張りの広間だった。
「こちらが『陽光の間』。正式な式典や、戴冠の儀が行われる場所です。
いずれ、勇者様との正式な婚約式も、ここで――」
「ま、まままま待ってください!? 式!? ここで!?」
「……あら、まだ早かったでしょうか」
リアノは、口元だけ笑っていた。完全にわざとである。
「……そ、そのときは、がんばります……」
「ふふ。楽しみにしておりますわ、勇者様」
王城の中は広くて、きらびやかで、俺には場違いな気もするけれど――
姫様と一緒に歩くだけで、不思議と、ちゃんと“居場所”がある気がした。
「……正直に申し上げますと、勇者様がどのような方か、お会いするまでは不安でしたの」
案内の途中、ふと足を止めたリアノが、柔らかな声でそう言った。
「伝承の中の勇者は、力強く、時に傲慢でもあり……
けれど、アナタはお優しそうな方で、安心しておりますわ」
静かに続く言葉は、どこか冷静で――そして誠実だった。
「私にできることは、勇者様と友好的な関係を築き、王国をより良く導くこと。
それが私の役割です。……感情よりも、少しシステム寄りの考え方で申し訳なく思います」
彼女の目はまっすぐだった。
義務感で語るのではなく、自分の選んだ道として話しているように見えた。
俺は、慌てて首を振った。
「いえ、全然そんなことないです! むしろ、そうやってちゃんと考えてくれてるの、すごく安心します!」
どんなに立派な肩書きでも、本音が見えなければ人は怖い。
でもリアノは、自分の不器用さも含めて、ちゃんと伝えようとしてくれている。
その言葉に、リアノは小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます、勇者様。そう言っていただけると、報われますわ」
やわらかな空気が流れる。
金色の髪が光を受けて揺れ、静かなその笑みに、俺は少しだけ見惚れた。
「それでは――案内を再開いたしましょうか」
リアノは踵を返し、再び歩き出す。
その背を追いながら、俺もまた一歩、城という場所に馴染んでいく気がした。
翌朝、俺は“謁見の間”へと案内された。
天井は高く、壁は彫刻だらけ。やたら反響する足音に緊張が倍増する。
「勇者様、ご到着されました」
先導の声が響いたその先――
王座に座っていたのは、白い髭をたくわえた、ふくよかで丸みのある人物だった。
どこか見覚えがある。そう、サンタだ。
サンタ体型で、サンタ顔で、服だけ違う。
でも目元には知性と優しさがにじんでいて――見た瞬間、たぶんこの人、いい人だなって思った。
「うむ。遠路ご苦労であった、勇者よ。よくぞこの国の光の剣を抜いてくれた」
国王陛下は、にこやかに、やわらかくそう言った。
「わたしはエルデンティア国王、アルフォンス=ルヴィア。リアノの父でもある」
その口調も、声のトーンも、とにかく穏やかであたたかい。
悪人の口車にコロッといきそうなほど、善人オーラが強い。
「陛下、お身体の調子はいかがですか」
横で控えるリアノが、深く礼をしながら問いかける。
「うむ、相変わらず快調じゃよ。して、おぬしは今日も気品に満ちておるのう」
……ほんと、それな。
姫様は、こういう緊張感のある場でも一切乱れない。
背筋はピンと伸び、声は澄んでいて、動作のすべてに無駄がない。
昨日まで「同い年くらいの女の子」って認識だったけど、今日からはちょっと違う。
――この人、ほんとに王女なんだな、って思った。
「勇者よ、リアノのことも、どうかよろしく頼む。
あの子は……わしら王族にしては、少し感情より理を重んじるところがある。
だが、それもまたこの国の未来のためじゃと、わしは信じておる」
「はい。俺、ちゃんと頑張ります」
言葉にすると、胸が少し熱くなった。
王様は、姫様のことも、俺のことも、ちゃんと見てくれてる気がした。
「うむ、よい返事じゃ。リアノ、勇者殿を頼んだぞ」
「はい、父上」
謁見の間に響く、落ち着いた声と、優しさと、少しの重み。
たぶん、今日のこの場面は、一生忘れない気がした。
謁見が終わると、予定はしばしの“フリータイム”――つまり暇だ。
どうしていいか分からず庭でぼーっとしていると、ふわりと金色の髪が視界に入った。
「勇者様、本日はお疲れさまでした。少し、お時間をいただけますか?」
声をかけてきたのはリアノ。さっきまで王の前で完璧に気品を振るっていたはずなのに、
今はどこか柔らかい雰囲気をまとっていた。
「せっかくですから、王都の街を少しご案内いたしますわ。
勇者様の目から見たこの国を、私も知りたいのです」
「えっ、王都……外ですか? えっと、姫様が出歩いて大丈夫なんですか?」
俺の心配に、リアノは小さく笑って、まっすぐに言った。
「問題ありません。だって――勇者様がご一緒ですもの」
……えっ、俺!?
「勇者様がいらっしゃるということは、すなわち最高の護衛がついているということ。
これ以上心強い状況はありませんわ」
さらっと言ってのけたその言葉に、顔が熱くなる。
嬉しい。嬉しいけど。
責任、重すぎる!!
「わ、分かりました! ちゃんと、守りますから! えっと、万が一にも何かあったら――いやでも俺が守るんだよな!?」
「ふふ、では参りましょうか。街路に咲いている花々が、ちょうど見頃ですの」
リアノはそう言って、俺の隣に並ぶ。
城の門が開き、王都の風が吹き抜けた。
額には冷や汗。けど、足はしっかりと前へ進んでいた。
姫様の隣――勇者として、ちゃんと立たなきゃって思ったから。
王都の街は、想像以上に活気に満ちていた。
店の軒先ではパン職人が焼きたての香りをふりまき、
花売りの少女たちが通りに彩りを添えている。
荷馬車が行き交い、市場からは威勢のいい声が飛び交う。
笑顔の多さが、街の豊かさを物語っていた。
土地が肥えてるって、こういうことか……と謎の納得感がある。
「どうですか、王都の景観は」
隣を歩くリアノが、ふと問いかけてくる。
「いや、すごいです。……みんな笑ってる」
「この街は、王都の中でも特に商業の集まる地区ですわ。
主に穀物と織物、それから薬草の取引が中心です」
姫様は今日も相変わらずの完璧なガイドっぷりだった。
ただし――
その格好だけは、どう見ても“王女そのまま”。
たしかに上からフード付きのローブは羽織ってる。けど、
中のドレスは思いっきり王族仕様。
刺繍入りの上質な生地、腰のリボン、靴も革製の特注品。
「……姫様、それでバレないんです?」
「え?」
「いや、だってその、どう見てもお姫様っていうか、隠す気ゼロっていうか……」
「ふふ。なぜか皆さん、気づかれませんの」
リアノはあっさり笑って言った。
謎である。というか、街の人たちが優しすぎる説もある。
「ちなみに、帽子を深くかぶると完全に“別人”になれると思ってますの」
「変装のレベルが小学生……!」
それでも誰も騒いでないあたり、王都の平和さと姫様の謎オーラがすごいのかもしれない。
王都の空は高く澄み渡り、午後の光が石畳の通りを黄金色に染めていた。
人々の笑顔が絶えず行き交い、活気と豊かさが街路に満ちている。
市場の中央広場、香草と炭火の匂いが交錯する一角で、リアノは立ち止まった。
「こちらの串焼き、庶民の間でも特に評判の良い品ですの。
香辛料の使い方が絶妙でして……勇者様にも、ぜひ一度召し上がっていただきたいと思っておりました」
そう語る彼女の目元は穏やかにほころんでいた。
王族の装束の上に羽織った一枚のローブが、僅かに風に揺れる。
その変装が“意味を成している”のかはさておき、街の人々は誰も彼女の素性に気づくことなく、穏やかに日常を送っていた。
目立たず、しかし存在が際立つという矛盾――
それもまた、彼女が纏う品格のなせる業かもしれない。
しばしの食べ歩きを終え、通りを東に折れたところで、妙な違和感が風に混じった。
沈む夕日を背に、路地の奥から現れたのは、黒いローブを纏った老女。
手にはひときわ大きな水晶玉。
その中で、何かが――蠢いている。
「……見えたぞ……光と金の双影……運命に選ばれし者よ」
老女の声は、風に震えるような、しかし芯のある響きを持っていた。
「この国は、滅びの運命を辿ろうとしている……
その先触れは、北西の辺境に遺された古き封印の地。
導かれるままに向かうがよい……選ばれし者たちよ……」
人々は足早に通り過ぎていく。誰も立ち止まらず、誰も耳を傾けない。
だが――リアノだけは、無言のまま一歩、前に出た。
「この術式痕……断片ながら視認呪式に類似した構成。
水晶の輝度と、周囲に滲む魔力……」
彼女の目は、水晶玉を貫くように凝視していた。
「勇者様、この予言……信憑性があります。
おそらく、遺跡に封じられていた魔王が、再び蠢き始めているのです」
彼女の声は冷静だったが、静かな緊張が言葉の端々に滲んでいた。
「遺跡への調査、そして可能であれば封印の再強化。
急ぐべきでしょう。予言が事実ならば……刻は、あまりにも短い」
王都の賑わいの中に、不意に差し込んだ異質の影。
終わりの鐘はまだ鳴っていないが――その音色は、確かに風に乗って近づきつつあった。
城へ戻ると、リアノはすぐさま国王のもとへと進み、謁見の許可を得た。
玉座の間。夕刻の陽が赤く差し込む中、王は静かに娘の言葉に耳を傾けていた。
「……水晶の魔力反応、視覚式による呪術構造……その老女が“何か”を視たのは事実かと存じます」
リアノの声音は一貫して冷静だった。
虚偽や誇張ではない、論理的な分析と言葉の重みが、空間に張り詰めるような緊張を生む。
国王アルフォンスは、白い髭に手を添え、しばし黙考した。
「魔王……か。封印がなされたのは、おそらく百年以上前。
だが、それが事実ならば……王国にとって看過できぬ脅威となろう」
老王の声には深い懸念が滲んでいた。
やがて静かに、だが確かな口調で言葉を継ぐ。
「勇者よ。そなたに調査を正式に依頼したい。
王国の守り手として、その地に赴き、真実を見極めてきてほしい」
玉座からの直々の指名。その責務の重みが、否応なく背にのしかかる。
だが、言葉はまっすぐに返された。
「……はい。引き受けます」
王は満足げに頷き、続けて視線をリアノに向けた。
「リアノ、お前は――」
「わたくしも、随行いたします」
王の言葉を遮ることなく、静かに、しかし強い意志で返された。
「魔王に関する文献は王宮書庫に数多く残されています。
それらの知識を活用するには、王族である私が同行するのが最も理に適っております」
それは、もっともらしく、そして王として否定しがたい理由だった。
王は数瞬だけ目を伏せ、そして静かに頷いた。
「……ならば、頼んだぞ。二人とも、どうか無事に帰ってきてくれ」
そして夜が明ける。
王都の門前。
旅支度を整えた俺とリアノを、王宮の騎士たちと侍女たちが整列して見送っていた。
「無事を祈っております、勇者様……!」
「姫様、どうかお気をつけて……!」
祝福の言葉が並ぶ中、リアノは一礼し、静かに呟いた。
「この旅路が、王国の未来を救う一歩であることを、願って」
王女の声は澄み、そして力強かった。
俺はその隣に立ち、背筋を伸ばす。
二人を乗せた馬車が、王都の石畳をゆっくりと進み始める。
風が旗を揺らし、空の青が旅路を照らす。
かくして――勇者と王女の旅が、静かに始まった。
馬車の揺れが一定のリズムを刻み、窓の外には緩やかな丘と広がる麦畑が見えていた。
日差しがやわらかくなり、街道を渡る風もどこか穏やかだった。
「こうして馬車に揺られていると、少しだけ実感が湧きますわね」
リアノがぽつりと呟いた。
「何の、ですか?」
「……国を離れるということです。
王宮にいると、どうしても“見えてこない”ことが多いものですから」
「たしかに、王都の外って思ったより人が多くて、活気もあって……俺、ちょっとびっくりしました」
リアノは静かに頷いたあと、ふと俺の方を見た。
「勇者様も、お疲れではありませんか? 王族と同行する旅など、窮屈ではないかと……」
「全然そんなことないです。姫様と一緒なら、むしろ助かってますよ。
ちゃんと前を見ててくれてるし、考えてくれるし……俺、あんまり考えが得意な方じゃないから」
それは本音だった。
自分がこの旅で本当に“足を引っ張っていないか”という不安は、まだずっと胸にある。
リアノは少しだけ目を伏せ、それから静かに微笑んだ。
「……わたくしも、同じですわ。
感情のままに動ける人を、どこか羨ましく思うことがあります」
「え?」
「いつも最適解ばかりを探してしまって。
その場でただ笑うとか、怒るとか、そういうことが……上手くできませんの」
風がひとつ吹き抜けた。
会話が途切れたのではなく、互いの言葉が静かに交差したような沈黙だった。
「……じゃあ、ちょうどいいのかもしれませんね、俺たち」
リアノは、その言葉には答えなかったが、かすかに口元をゆるめた。
「ところで勇者様。昨日の串焼き、鶏と羊、どちらがお好きでした?」
「……あ、戻った」
「王女としての市場調査ですわ」
旅の道はまだ長い。
けれどその時間は、少しずつ、心の距離を縮めてくれるものでもある。
車輪が急にきしんだ。
「――っ!?」
揺れは馬車の傾きとともに突如訪れ、座席にいたリアノの体が浮く。
俺は反射的に腕を伸ばし、その身体をしっかりと受け止めた。
「だ、大丈夫ですか……?」
「……ええ、ありがとうございます。驚きましたわ」
リアノの手が、わずかに俺の袖を掴んでいた。
吐息が近く、思わず視線が合う。けれど、その空気はすぐに破られた。
「モ、モンスターですッ! ゴブリンが出ましたァ!」
御者の叫びが、馬の鳴き声と共に外から響いた。
「……ここで止まるのは危険だ。俺、行ってきます!」
腰の剣に手をかけ、馬車の扉を押し開ける。
地面に飛び降り、外の空気に身を晒したその先に――いた。
森の縁、茂みから現れたのは、身の丈は人間の半分ほど。
青黒い肌に、濁った黄色の眼。
脂ぎった皮膚の上に粗末な布を巻き、手にはごつごつとした棍棒。
牙を剥き出しにし、唾を撒き散らしながら、ギリギリと喉を鳴らして近づいてくる。
――ゴブリン。
人語を解さぬ下級種族ながら、集団での襲撃や火の使用も報告されている。
油断すれば旅人を簡単に殺す、それがこの世界の常識だった。
「悪いけど、先に動かせてもらうよ」
腰の光の剣に意識を集中する。
柄を握った瞬間、透明な輝きが刃に宿った。
目の前のゴブリンが、叫び声とともに棍棒を振りかぶる――その一瞬前。
刃が、弧を描いた。
次の瞬間、光が閃き、ゴブリンの動きが止まった。
棍棒は地に落ち、鈍い音を立てて転がった。
風が通り抜ける。
ゴブリンの身体が、音もなく崩れ落ちた。
「……一体、だけか」
肩の力を抜き、剣を静かに下ろす。
刃は血を吸わず、汚れひとつないまま、微光を放ち続けていた。
背後で、馬車の扉が開く音がする。
振り返ると、リアノがこちらを見つめていた。
「……ご無事で、なによりですわ」
その声に、わずかな安堵が滲んでいた。
ゴブリンの亡骸は、やがて周囲の空気に溶けるように消えていった。
魔物が倒されたときに起こる自然な現象――だが、リアノの視線は、その場から離れようとしなかった。
「……このあたりは、地図上では“出現制限区域”のはずですわ」
「出現制限区域?」
「はい。王国の管理下において、モンスターの出現頻度が極端に低い、あるいは結界によって抑制されている区域。
本来、魔物の姿を見ることはまずありませんの」
リアノの言葉に、風がひとつ吹き抜けた。
あたりには森のざわめきしかなく、他に異常は見られなかった。
だが、確かに今、ゴブリンはここにいた。そして――武器を持ち、明確な殺意を抱いていた。
「……封印の緩みだけじゃないかもしれないな」
俺の呟きに、リアノはわずかに頷く。
「可能性としては否定できません。
世界の均衡に、なにかしらの歪みが生じている……それを裏づける前兆とも取れます」
王都を出て、まだ一日も経っていない。
けれどこの旅が、“ただの調査”で終わらないことを、どこかで感じ始めていた。
リアノはそこで、ふと視線を向けてきた。
「……それはそれとして、勇者様。
先ほどの一撃、見事でしたわ」
言葉は穏やかで、どこか誇らしげでもあった。
「光の剣の扱いも、随分と様になっておりました。
たった二日でここまで戦えるようになるとは……驚きです」
「え、あ……ありがとうございます」
思わず頬が熱くなるのを感じながらも、胸を張る。
「俺、剣の才能があるってわけじゃないけど……
誰かを守れるくらいには、なりたいって思ってました。
二日間、ちゃんと教えてくれた人たちのおかげです。……姫様のおかげも、たぶん」
リアノは少し目を見開き、そして微笑んだ。
「“たぶん”ではなく、“確実に”であってほしいところですわね」
言葉の端に、冗談の色が混じる。
だが、その笑みはやはり静かで、美しかった。
馬車の再整備が終わり、御者が手綱を整える。
再び進み出した車輪の音が、夕暮れの空に溶けていく。
異変の影は確かに忍び寄っている。
それでも――隣に並ぶこの人となら、進めると思った。