7話
数十分後、致が独特なステップを踏みながら廊下に飛び出し、そのまま転ぶ。それを声を抑えて笑いながら辻村は出迎えた。
「おお、おかえり」
「な、んだったんだ……アレ……」
半ば呆然とした様子の致に、辻村は目を丸くして手を差し出す。
「なんすか? なんか幻覚でも見たんすか? というか飲み過ぎでは?」
「飲み過ぎ……は、否定しねぇ、けど。いや、九十九家長男が出てきたんだよ」
「え? あぁ、いたんすか?」
気にはなるが、致の様子からしてなにかがあったのは確かだ。誰かが聞いているかもしれない場所で追及するのはよろしくないだろう。辻村は好奇心を胸中で叩きのめしてから致に肩を貸す。
「あ、しまった、酒と漬物……」
「それはもう辻村さんが貰ってきて持って行っておいたぞ」
「んだぁ……そうか…………」
「いやいや、しっかりしてくださいよ清水センセ」
「その……はぁ……」
なにかを言いかけて、致は口を噤んだ。辻村は致を引きずって離れへ戻る。一階に用意しておいた布団へ致を放り投げた後に、彼女は二階から持って降りてきたペットボトルを差し出した。
「とりあえず水飲んだらどうすか?」
「え、なんだこれ」
「行きがけに買ったヤツの余り。ちょうど開けてなかったんで」
「無駄な買い物してんじゃねぇよ……」
そう言いつつも、致はペットボトルを受け取る。
「その無駄に助けられてるのは誰なんだか」
一口、一気に半分ほど飲み干して致は盛大にため息をついた。
「渡さん今寝てるんで、話はこっちでしましょうや」
「……そうか」
辻村の反応を見るに、渡はそこまで重篤ではないようだ。一定の信頼を預けつつ、致は座り直す。辻村は致が見たものがなんなのか気になってしょうがないのだろう。前のめりになりながら口を開いた。
「んで、なにを見たんですって?」
「九十九家の長男だ。どうもかなりの出不精だったみたいだな。存在自体が集落の人から疑われてたらしい」
「はえー、そこまで。アタシらもそれなりに出不精だとは思いますけど、存在を疑われるレベルになったことはないっすよねぇ」
「仕事の成果がそれなりに出ればな。現に俺は死亡説が囁かれ始めてるが」
苦々しい顔で致は呟く。
「あぁ、検索のサジェストに出ますもんねェ。『清水あゆみ 死亡』つって。SNS運用もないっすもんねぇ。そりゃ生存が疑われますわ。アカウント作るだけ作ったらどうです?」
「誰があんなのやるか。仕事で作るとなると面倒ごとしかないだろうが」
眉間に強く皺を寄せて眼鏡の縁に手をかける。辻村はSNSでの活動も活発な方だ。なんだかんだ言いつつ、彼女も死亡説が囁かれた時期はあるが今はほぼ毎日更新している。適当な運用では効果はないだろうし、勝手に火を放たれることもある。思わぬ場所から燃え出すこともしばしばだ。そう思うとメリットがあまり見いだせない、と致は何度目かの反論を脳内でこねくり回す。
「んで、それはさておき?」
気を悪くしかかった致を放って辻村は話題を戻す。
「ああ、噂をすればご本人が登場して、んで…………その、顔を見せたというか」
「はあ、顔を」
辻村の反応を見て、致は補足をするべく指を立てる。
「スケキヨみたいだったんだ」
その一言で、彼の顔がどんなものだったのか想像がついたのだろう。しかし辻村はどこか納得のいかない様子で小首を傾げる。
「なるほど? それにしては、なにかマズイものでも見たって顔じゃないっすか」
「そうだな。悪いが詳細は言いたくない。伏せさせてもらう」
「……アタシの予想が当たっていると仮定して訊くんすけど」
「なんだ」
「もし、その状態の顔なのだとしたら、本人という証明にはならないのでは?」
もっともな指摘に致も思わず頷いた。
「それか。いや、俺もそう思ったんだが……どうも例の長男は目の色が特別薄いらしくてな」
確かに彼の眼は綺麗な薄緑色をしていた。騒いでいた集落の人間もそれを見て閉口していたのだ。当然疑いが拭い切れたわけではないが。とにかく絶妙に嫌な空気をしていた。早く忘れたい一心で致は首を横に振る。
「ふーん、じゃあ元々出不精だったんすかね」
「そう……かもな。あの薄さじゃかなり眩しいだろうし……」
記憶に刻まれた色を思い起こしながら、致は静かに頷いた。
「ところで……梅酒分けてもらったんすけど、いります?」
真面目な話から一変、後輩はニヤリと笑いながら酒瓶を取り出した。自家製なのだろうか、瓶のラベルは剥がされており銘柄は分からない。いつの間にやら辻村の手元にはロックアイスとグラスが用意されていた。致は黙ってそれを受け取り、差し出した。
(あ、まだ飲むんだ)
そう思いつつも、辻村は頷いて酒を注ぐ。もう一つ用意しておいたグラスにも注ぎ、少しすればすぐに酔っ払いが出来上がった。致は先ほどの宴会で出会った男と梅酒の話をする。
「ここ、梅酒作ってる人多いんすね」
「あー、形が悪いのとか大きさが不十分なのとかを漬け込むらしいな。あんまりにも酷いのはできんらしいが……」
「梅酒って昔っから作ってたんすかねぇ?」
「あー、江戸時代にはあったんじゃないか? 今とは違うかもしれんが……今と同じようなのはたぶん明治以降に作られ始めたんだろ」
「えぇ、んな適当な」
「大体そういうモンだ。今に伝わるものは大概最近できたモンなんだよ。伝統だなんだ古臭く言うがな」
「言っても清水センセは江戸時代のこと最近だと思ってるじゃあないですか。アタシらとは基準が違うじゃないですか、ねぇ」
グラスの中で氷を転がしながら、辻村は指摘する。何度目かの文句に致は変わらず首を横に振った。
「別にいいだろ。これでも史学専攻だったんだからな。つかお前、俺が巻き込まれてる間にのんびりしやがって」
「まぁいいじゃないっすか。あそこでアタシが割り込んでもいい結果にはならないっすよ。情報も集まったんですし」
なあなあで済ませようとしているのだろう。致の鋭い視線を躱しながら、辻村はつまみ代わりの漬物を頬張った。
「まぁ、そうだが……結構酔ってたかもしれないし」
「足元は結構危なっかしかったですね。のわりには呂律とかしっかりしてたと思いますが」
「なんか、女の人がいると思ったんだけど、いなかったんだよなぁ」
「はあ……?」
暗い部屋の隅を見ながら、致はふと宴会場での出来事を思い出す。
「宴会場の隅に、花柄ワンピの若い女性がいたんだよ。ただ話もせず、ずっとニコニコしながら座ってただけなんだが」
「花柄ワンピねぇ……」
辻村はふと目を細めて顎に手を当てる。なにか思い出すことでもあったのか、そう問いかけようとした致を制して辻村は話を続きを促した。
「今はいいや、それで?」
「そんだけだ。気づいたらいなくなってた。あ、そうだ。盗難事件のこと、すっかり広まってるぞ」
「えぇ? 早くないですか?」
「俺もそれは思った。しかも変な噂が流れているんじゃなくて、そこそこ正しい話が広まってる。渡のことは広まってはないが……」
宴会場で見聞きしたことを致は軽くまとめて話す。九十九家は伏せていると話していたが、さすがに三日前のこととなると情報漏洩を防ぎ続けるのは難しいらしい。特にこんな閉ざされた集落では、話題も限られている。広まる速度はすさまじいだろう。
「百々瀬克樹が言いふらした可能性はありそうですね」
「それが納得できる。当の本人は今どこにいるのか分からんが」
これ以上はどうしようもないか、と二人は首を横に振った。
「……お前あんま飲まねえよな」
軽くなった後輩のグラスをちらりと見て致はふと呟く。
「ん、まぁそうっすね。言っても清水センセも飲まないのでは?」
「まぁ、飲まない」
普段は、と小さく呟いて補足をしておく。それを辻村も理解しているのだろう。ニヤニヤとご機嫌に笑いながら彼女はグラスを置く。
「アタシはゲームしたいんで飲まないんすよ」
「そういや……そんなこと言ってたな。ちょうどいいからなんかするか? ボドゲなら少しはあるが……」
「え、イヤっすよ」
「はあ?」
口先を曲げながら辻村はもう一度首を横に振った。
「だってぇ。致氏はさあ、ゲームでもいつも特攻してくるじゃないですか」
「違う、あれは下手くそだから他に手段がないだけだ。ていうかいつの話をしている」
「そういうところっすよ。ゲームだからって命がけ連発してえ」
ネチネチと昔の失態をついてくる辻村に、致も負けじと言い返す。
「お前はお前で負けそうになったら、変なルール作り始めるし挙句の果てには盤面ごと没収するじゃねえか。ゲーム内で抵抗してる俺の方がマシだ」
「どーだか!」
わはは、と軽快な笑い声が離れに響いた。結局二人はボードゲームで一勝負して、酒瓶を空けたのだった。