6話
ぬっと入り口前へ出てきた二人を見たソメは、目を丸くして肩を跳ねさせた。
「ありがとうございます、あとは自分たちでやりますので」
「分かりました。ではこのままワゴンは置いておきますので……お食事が終わりましたらここに、お皿を置いて、ストッパーをかけて戸口前に置いておいてください」
「ありがとうございます」
ソメはさっさとワゴンを置いて母屋へ戻ろうとする。その背を追いかけようとして、致は母屋の方が少し騒がしいことに気づいた。
「すみません、母屋の方は今何を……? いえ、少し騒がしいので、何かあったのかと思いまして」
「……明後日に祭があるので、恒例の宴会をやっています」
「なるほど、そういうことでしたか。食事、ありがとうございますね」
そう返せば、今度こそソメは静かに下がっていった。それなりの人数が来ているのだろう。今日の晩飯として届けられた料理を見て、致はぎょっとする。
「何と言うか……豪華だな。重たそうだけど……」
「すごいな、これ……揚げ物ばっかりじゃん」
渡の分は事前に頼んでいた通りシンプルな煮込みうどんだった。少しシンプル過ぎる気もするが、今の渡はかなり疲弊している。このくらいがいいだろう、と結論付けて致はもう一度自分たちの皿を見た。エビフライ、とんかつ、多種多様なてんぷら、などなど……オードブルもびっくりな肉料理と揚げ物が主菜の顔をして鎮座している。おかずと言えばそのくらいしかなく、あとはシンプルな味噌汁と白米が普通盛で油物にお供していた。
「辻村、いるか?」
「アタシのことなんだと思ってんだボケナス。さすがの辻村さんでも二人分は無理だぞ」
「そうか……」
「なんでちょっと嬉しそうなんだよ。ムカつく」
口をへの字に曲げてしまった辻村を放って、致は膳を手に取る。わざわざ膳なんてものを使っているのは、何度も往復しなくてよいようにだろう。渡の分は二階に運び、二人の分は一階の部屋へ並べる。今一度盛られた料理を目の前にして致は感心した。
「すごいな、これ」
「とんかつって宴会料理に出すもの、なのかねえ……?」
瞬きをしながら辻村はとんかつをひとピース摘まんで頬張る。その表情が明るくなったのを見て、致もいそいそと皿に箸を伸ばした。
「とんかつはともかく、てんぷらとかは王道なイメージあるな。ほら、これとか」
などと話しながら、二人は食べ進めていく。しかし、数十分もすればそのスピードも落ちていくものだ。
「……厳しい」
難しい顔をして致は箸を置いた。それを見た辻村はニヤリと笑って彼の顔を覗き込む。
「おいおい、もう終わりっすか? 清水先生も歳を食いましたなァ」
「んなこと言ったって、お前もさっきから箸止まってんぞ」
「アタシは清水センセより食べてるんで」
残り三分の一となった大皿を見やり、辻村はドヤ顔をしてみる。が、その眉はいつもより角度が甘い。それに気づいた致は鼻で笑っておもむろに立ち上がった。
「漬物でも貰いに行こうぜ」
「それいいっすね。アタシも賛成」
「宴会だし、今日会えなかったヤツらもいるかもしれないっすね」
「確かにチャンスだな。ちょっと覗いてみたい気もするが……いけるのか?」
二人してそわそわしながら、母屋の方へ足を踏み入れる。外は相変わらず、少し強めの雨が降っていた。ぼたぼたと雨どいから落ちる水が跳ね、渡り廊下に小さな水たまりを作っている。雨戸はすべて閉め切られているが、宴会の賑やかさを隠すことはできない。大勢の声が絶え間なく談笑している。
「先陣は切りますぜ、へへっ」
「お前そういうキャラじゃないだろ」
致のツッコミを受けつつ、辻村はとある部屋の前で立ち止まる。
「お、ここで宴会か……広そうだな」
「たぶんぶち抜いて広くしてると思いますわあ。昼の時点ですっきり片付いてたし」
二人はこそこそと襖の隙間から宴会場の様子を伺う。幸い廊下は電気すらついておらず、襖も全て閉め切られている。完全に閉じられた宴の中を慎重に見やりながら二人は探りを入れる。
「九十九家の面々はいるか?」
「いるなあ……奥方はいる。けど、例の長男はいねえんじゃないかな。たぶんアタシらと同じくらいの年頃だろうし」
やはり宴会場は老人ばかりだった。もっと帰省してきた若者がいるものだと思っていたが、そうでもないらしい。小首を傾げて致は襖から離れる。
「なぁ、辻村、この集まりって──」
「おいおい、なんだ? 知らねえ顔がいるじゃないか」
ふっと上げた視線の先に、顔全体を紅潮させた初老の男性が立っていた。
(しまった、雨どいの音で)
辻村は臍を噛む。致も表情を硬くしてしゃがみ込んだまま男性の顔を見上げていた。
「ん? お前飲んでないのか……貰いそびれたのか?」
「あっ俺ですか、いえ、そういう感じでは」
「おぉい、まだあるだろー」
「あっ、ちょっ」
顔を青くした致の首根っこを掴んで、男性は中へ入っていく。辻村は静かに廊下の端に引き下がって身を隠す。一瞬目のあった致が恨めしそうな顔をしたが、見て見ぬふりをした。辻村は縁側に回って障子の隅を突いて穴を空け、室内の様子を窺う。金清野致は確か、そこそこ飲める方だったはずだ。ただ少し酒癖が悪く、調子に乗って失言をしたり超ご機嫌になってしまうくらいだったと記憶している。
(ヤバそうなら止めよ。まぁ、言葉は弾丸より早いから、いざとなったら放って帰るしかないね)
初老の男性に囲まれた彼はやや委縮しながら膝を折る。どうも本人もここまで来たらやるつもりらしい。ついでに何かしら聞ければ僥倖、とでも思っているのだろう。宴席が広いおかげだろうか、九十九家の人間はいつの間にか紛れ込んでいる致に気がついていない。
「ほれ、にしても見ない顔だなァ……」
「そうだと思います、ハイ」
冷や汗をかきながら、致は差し出された梅酒のソーダ割りに口を付けた。梅のフレッシュな香りが口いっぱいに広がる。
「…………うま」
「だろう? 梅の形は悪くても、味は一級品なんだよ。今年は特にうめぇんだよこれがな」
致の口角が上がったのを見た男は心底嬉しそうに酒の話を始める。どうやら彼が漬けた自信作の梅だったらしく、致の素直な反応が男の心を溶かしたらしい。賑やかな宴会場の隅で致含む男数人は他愛ない世間話に花を咲かせる。
「にしてもどこかで見たような気もするんだがなァ……どこだったか」
「俺ですか? そうですね、かなり久しぶりなので、覚えられてないのも仕方ないと思います」
適当に話を流して、己の正体を隠す。ここは酒の席だ。各々が気になるのは致の正体よりも酒の味らしい。男たちは酒の肴を探して辺りを見回し始める
「これもうまいんだよな。おい、もう刺身はないのか」
「あっちに菓子があったぞ」
楽し気なやり取りに釣られて泳いだ視線は、一人の女性に留まった。宴会場の隅の方に座ったセミロングの若い女性だ。箸も持たず、ひときわ賑やかに会話している奥様方をにこやかに見つめている。
「そういえば、あんた仕事はなにやってるんだ」
「……少し物書きを」
そちらへ視線をやったまま、致はまた酒に口をつけた。
「へえ、ウェブライター、とかいうやつかね?」
「そうですね、そんな感じです」
それらしい返答に驚いた致は、思わず男の方を振り返る。彼は得意げに口元を緩めて話を続けた。
「こんな爺がと思っただろう。うちの集落でもやってる人はいるんだぞ」
「そうだったんですか? あぁ、でも、そうか。ここなら回線も安定してますし、仕事もできますね」
致の言葉に、正解と言わんばかりに男たちは頷いた。
(やっぱ思ってるより文明の中にあるなぁ)
絶妙な困惑と、少しばかりの落胆を添えて致は箸を取る。例の若い女性は、相も変わらず隅に座り込んでいる。喧騒に掻き消されそうなほど線の細い彼女は、細やかな花柄のワンピースを纏っていた。この集落の平均年齢は確実に六十代後半だろう。九十九家の姉妹がこの場にいないことを考えると、どこかの家の孫か娘だろうか。それにしては少し異質にも思う。その根拠がぱっと思いつかない致はもそもそと漬物を齧った。
「そういえば知ってるか? 九十九家でひと悶着あったらしいぜ」
「ひと悶着? なんだ、また長男の家出か?」
不意に話題は九十九家へ遷移する。
「いんや? 家宝がなくなったんだと。詳しくは知らねぇが」
「あぁ、盗難事件だろ?」
ほいほいと飛び出してくる件の話に致は思わず表情を固めた。
「家宝が偽物だって指摘があったんだっけか? でもどっちも盗まれたんじゃ、こりゃ指摘は本当だったってことになるよなぁ」
「なにが盗まれたんだか」
「ま、九十九さんところも大変だなァ。最近は落ち着いているもんだと思ってたが」
口々に男たちは九十九の話を始める。致は誤魔化すようにもう一口、もう一口と漬物を齧っては咀嚼し続けた。が、そのうち皿は空になる。致が皿を空けていく間にも、男たちは盗難事件について話し合っていた。渡のことや、なにが盗まれたのかは分からないらしいが、百々瀬克樹が関わっていることまでは知っているらしい。
「じゃああの男がやったんじゃないか? この前だって騒いでたじゃないか」
「それが盗難したのが、他所から来た人だってんでさぁ。バカな話だねぇ……うん、どうした? 大丈夫か?」
呆けた様子の致を心配したのか、男は水を手に取り差し出してくる。
「あ、いえ。あちらにいる女性が気になって」
咄嗟に話題を変えようと致は宴会場の隅を見やり、硬直する。
「ん? 女?」
「あれ、さっきまで花柄のワンピースを着たじょせ、いが……いたと、思うんですけど……」
「いないな、そんな女。飲み過ぎたか?」
「ですかね……」
差し出された水を、致は怪訝な顔をして受け取る。女性についてはともかく、盗難についての話が広まっているのは想定外だった。しかも間違った情報が流れているのではなく、それなりに正確な情報が流れているのだ。渡が犯人扱いされていることも含め、嫌な予感がしてならない。焦りを誤魔化すように、もう一杯水を飲んだ。
「だったらなんだ、いると言われても、誰も一回も見たことがねぇんだぞ」
穏やかではない声が飛び込んでくる。直前まで致と談笑していた男も、手を止めてそちらの方を見る。声を荒げているのはこれまた老年の男だった。そして、その声が向けられているのはなんと、九十九栄だった。どうやら九十九仙蔵は席を外しているらしい。事態を少し意外に思いながら、致は息を飲んで成行きを見守る。
「みんな疑ってんだよ、本当にいるんだろうな? 大事な大事な長男殿はとっくの昔に死んでました、じゃ話にならねえぞ。前だってどっか行こうとして家出したんだろ。死んでなくてもここにいない可能性は十分あるんじゃねえか!?」
まくし立てる言葉の数々に、九十九栄は一切怯んだ様子を見せない。どうも男は九十九家長男の生存を疑っているらしい。無遠慮に飛び交う野次馬の声からしても、九十九家長男が姿を見せていないのは事実のようだが。
「……そんなに見かけないんですっけ」
小声で男に尋ねてみれば、彼は少し唸ってから答えを寄越す。
「まぁ、そうだな。俺も三年くらい見たことがない」
「あー、でも放っておけばいいのでは……?」
「そんなわけあるか。仙蔵さんと栄さんが健在だからそんなことが言えるんだ」
かの家に求められる仕事量は致の想像よりも多いらしい。確かに今現在、九十九家を継げるのは長男くらいだろう。姉妹は市内へ出ており、帰ってくるかも分からないのだという。とにもかくにも、翠嶺の人々にとって、九十九家長男は絶対に家を継いでほしいようだった。
ぐるりと辺りを見回して、視線が一点に集中していることに気が付いてしまう。しかし、彼女はそれらを一切意に介さず、ゆるりと首を横に振った。
「そんなに気になるのですか」
「あぁ、気になるな。それに家宝の盗難事件も起きてるんだろう? こりゃいよいよ九十九家も終わりなんじゃないかって騒ぎになったんだよ。知らねぇとは言わせないからな」
強気に出た男に対し、九十九栄は静かに視線だけを返した。しかし酒の力で立ち上がっている彼がそれで収まるはずもない。さらに事態は悪化するのでは、と致が危惧したそのときだった。
襖がかたりと鳴った。引っかかりながらも開かれた隙間から、ぬるりと背の高い男が入り込んできた。宴会場は一転して水を打ったように静まり返る。男は白い、つるりとした表面の仮面をつけていた。
「いいですよ、蔵介」
九十九栄の指示に、彼は手を仮面にかける。
「い、いや、そこまでは──」
まくし立てていた男も含め、その場にいた全員が顔を強張らせる。誰もが嫌な予感を覚えていた。仮面の下にあった御尊顔に、その場は凍り付く。