5話
辻村が集落内の探索に切り替えた頃、ようやく致は百々瀬家から出ることができた。百々瀬家には現在、当主である天和と小百合が住んでいるらしい。夫婦には兄弟の子供がいるが、数年前から進学のために県外で各々一人暮らしをしているのだという。渡をここへ連れてきた男・百々瀬克樹は、百々瀬天和の実の兄であり、最近まで市内で生活していたのだとか。最近の彼については渡の方が詳しいだろう、とそれ以上の追及は冷たく断られてしまった。
そして当の克樹はというと、昨日から家に帰っていないのだという。特に珍しいことでもないのか、天和も小百合も「申し訳ないが、そのうち帰ってくるので待つしかない」の一点張りだった。適当に付近で時間でも潰してから帰るかと思っていた致だったが、出て行くより早く百々瀬家から来客を理由に追い出されてしまった。
特に有力な情報を得られたわけでもなく、ただただ時間を無駄にしたという喪失感だけが手元に残っている。致は渋い顔をして調査から引き上げることにした。
山奥の日没は早い。あっという間に暗くなりかかった集落を、致は速足で抜けていく。幸いにも九十九家へ続く道には外灯が設置されおり、足元に困ることはなかった。少し顔を上げてみれば、薄暮の空には黒い雲が立ち込めていた。怪しい空模様に嫌な予感がした致は、坂を必死に駆け上がる。
その道中、通りかかった車庫の壁に意識が吸い寄せられる。擦り切れ、端が緑に染まった尋ね人のポスターが一枚。初老の女性がこちらに向ける柔らかな視線と目が合った。その文字を読み取ろうとしたものの、鼻先に落ちてきた雫が思考を意識を掻っ攫う。すぐに無くなるものではないだろう、そう言い聞かせて致は歩を速める。
致が九十九家の門前に到着すると同時に、驟雨が屋根を叩き始めた。雨のにおい、土のにおいがごちゃ混ぜになって、服にしみついてくる。どこで鳴いているのだろうか、かわずの声が二重奏三重奏にもなって集落を賑わせていた。眼鏡や髪に着いた水滴を払い落としながら離れの二階に駆け込めば、座敷牢の前で座り込んでいた辻村がにこやかに出迎える。
「おー、遅かったっすねぇ。収穫は? どうでした?」
「どうもなにも……ほぼない」
「ありゃまぁ」
致の報告に目を丸くしながら辻村は致の荷物からハンドタオルを引っ張り出して放り投げる。
「おい、勝手に開けるな。渡は?」
「熱ぶり返してるらしいんで寝てもらいました。ちょっと一階に降りましょうか」
辻村の提案に致は頷いて了承する。
「それで、百々瀬家はどうだったんです?」
「掛け軸については興味がなさそうだったな。克樹さんが勝手に持ってきたもんだって感じだった」
「へえ、じゃあ克樹さんだけが躍起になって色々やってる感じ、なんですかね?」
「それどころか疎まし気に見られているようにも見えたな。なんというか……」
「兄弟仲が悪い、みたいな?」
「なにかしらの確執があるのは分かるんだが、詳しくは聞き出せなかった。こちらが掛け軸のことで疑っているのも分かってるんだろうな。さっさと追い出された」
「はー、なるほど。だいぶ温度差があるんですなァ」
「結局克樹さんには会えなかったしな。克樹さんの行動については知らないの一点張りで。しかもなんだ、『あんな掛け軸が家宝だったなんて聞いたことがない』って言われたぞ」
「あれ? そんな話でしたっけ。九十九仙蔵の話だと、ただ本物を持ってきたって感じでしたけど」
「そうだったか……? まぁ、とにかく克樹さんは家宝だって言って天和さんたちに見せたらしいぞ」
「へえ、でも現当主は聞いたことがないって言ったんですよね」
「だな。克樹さんが言うには『父が家を出た時からずっと隠し持っていたもので、機が熟したから村に持ち帰ってほしい』と遺言と一緒に託されたんだと」
「機が熟したって、一体なんのですかね?」
「それがな……『九十九を失脚させろ』と」
「へえ」
「ただ、これについては百々瀬家の二人はとんでもないと首を横に振っていたな。失脚させたいのは克樹さん一人なんだと、主張していたが」
「ここまで来ると分かりませんな。ただそのつもりなら、盗難の犯人とは考えにくくないですか?」
「……そうだな。それなら鑑定で白黒はっきりつけてもらう方が大事だ。分かり切ってはいたが、克樹さんがやるとは考えにくい。わざわざ犯罪行為に走るリスクより、鑑定を待つ時間の方が確実に軽い。けど、百々瀬家は……いまいち分からないな」
「ええ、そっちは保留ですな。つっても九十九家も怪しいもんでさァ。当主夫婦に話は訊けてませんし、長男はどこにいるか教えてもらえなかったですし、話を訊けたのは使用人三姉妹だけっした」
「でも大して情報はなかったんだな?」
「ですぜー、分かったのは三姉妹は仲良く九十九家で仕事してますってコトだけ。証言も渡さんの話と一致しますね。大方他と一緒で、疑うには証拠不十分」
「けど白にするには不透明ってか」
「克樹さんからすれば嬉しいことこの上ないか。盗まれたのなら本物だと言い張れる。だから九十九も公表してないんだろうし」
「ま、広まるのは時間の問題だろう。その場合の周りの反応も気になるところだが……」
「一番怪しいのは九十九、として依頼をした理由はどう思います?」
「この件が発覚した時のための駒として確保された説、本当に盗まれた被害者だった説、があるな」
「まぁ、前者ですかね」
「だな。とはいえ他に怪しいのがいないだけだ。誰でも盗もうと思えば盗めた状況だったんだからな」
容疑者三百人の巨大密室に、致たちは迷い込んでしまった。不気味さを飲み込んだ二人の耳に、かたん、と木を動かす音が階下から飛び込んできた。
「……っと、飯か」
「みたいだな。しょうがない。取りに行くぞ、辻村」
「ういーっす」