2話
道中、天気がよいにも関わらず、人とすれ違うことはほとんどなかった。水田の方に皆でているのだろうか。そう思いそちらを見てみれば、遠目でも十人ほどは確認することができた。ゴーストタウンではなく、やはりちゃんと人が住んでいるらしい。年齢層は山奥の山村にしては少し低めだと思った。もしかすると彼ら以上の高齢者は外に出てこないのかもしれない。
長い一本道の坂を登り切って一つ、ため息が出る。振り返ってその高さに肝を冷やし、金清野致は眼前の門扉を見上げた。造りとしては質素な方である。少し背伸びをしてみれば、塀の内から立派な母屋が顔を覗かせた。
しばしの間逡巡した後、彼は門扉を叩いて声をかける。やや間があって、思い扉がずれて老婆が顔を出した。門前に立っていた二人を見るや否や、彼女は訝しげな顔をする。
「なにか御用でしょうか……?」
「すみません、金清野致というものですが。兄がお世話になっているようで」
「兄、ですか?」
「金清野渡というんですけど。お宅に滞在しているはずです」
致の言葉を聞いた女性は「少々お待ちください」と言い残して門扉を閉じる。二人が内に招き入れられたのは、それから二分後だった。案内人の後ろについて広い庭を横切り、玄関にたどり着く。案内をしてくれる女性は使用人なのだろうか。梅染色の着物がよく似合う落ち着いた雰囲気の老婆だ。広い土間の隅で靴を脱ぎ、二人は屋敷の中へ入り込んだ。土間もそうだったが、屋内の段差という段差が低めに改装されている。どうやらこの家の住人は足元に不安があるらしい。壁や遠目に見た階段には比較的新しめの手すりが取り付けられていた。応接間らしき部屋を通り過ぎ、案内人は離れへと向かう。致は行先にやや不安を覚えて視線を泳がせた。外廊下を通り、離れへ入ってすぐ横にある階段を登っていく。狭く、暗い和風建築特有の急な階段を抜けると、これまた暗く湿っぽい部屋が出迎えた。
「……あの、ここは?」
歩を止めた女性に致は思わず声をかけた。彼女は黙って壁際まで近寄り、スイッチを押す。チラつきながらついた電灯が部屋の中を明らかにしていった。普遍的な和室の中、一つだけ存在感を放つものがある。
「ちょっと、これ、どういうことですか?」
それを目にした致は、案内人の女性に掴みかからん勢いで問いかけた。壁の一面に埋め込まれるようにして設置されていたのは座敷牢、だった。その中で、己の探し人が布団に包って寝込んでいるではないか。
「ちょちょ、いきなり暴力はダメっすよ」
状況を見かねた辻村が致を抑え込む。軽く掴まれただけの腕は少しも動かせなくなってしまった。彼はそれ以上伸ばそうとした手を止め、辻村をうっとおしそうに振り払って引き下がる。
「すみません、説明はわたくしがいたしますので」
不意に背後から男の声が割り込んでくる。今しがた階段を登ってきたのだろう、初老の男が部屋に顔を出した。二人はぎょっとして部屋の隅に寄る。
「ああ、すみません。驚かせるつもりはなかったのですが……金清野致さん、ですよね」
男は致の肯定を見て表情を少し緩めた。急な訪問だったにも関わらず、上品で整った服装をしている。この人物が家主なのだろうか。細身な体形はどこか年齢を感じさせる危うさを孕んでいた。しかし背筋はよく伸びており、足腰もしっかり立っている。
「そうです。すみません、急に押しかけるような真似をして」
「いえ、仕方のないことです。そちらの方は?」
九十九家の当主……らしき男は柔らかな表情のまま辻村へ視線をやった。
「あー、これは辻村真といいます。ただの荷物持ちでして……同席させても構いませんね?」
「いえいえ、お気を使わせてしまいましたね。構いませんよ」
少し威圧的に出た致に対し、淡々と言葉を返しながら男は襟を正した。
「申し遅れました。わたくし、九十九仙蔵と申します。お兄さんのことでいらしたとお聞きしました」
「ええ、兄とは二人暮らしでして。先日急に家に帰れなくなったという旨の連絡がありまして、なにかがおかしいと感じて参ったのですが」
致は座敷牢と双子の兄を一瞥して続ける。
「これはどういうことです?」
突き刺すような視線と声が九十九仙蔵へ浴びせられる。彼はそれを一切合切意に介さないのか、柔和な態度のまま首をゆるゆると横に振った。
「いえ実は……お兄さんなんですが、盗難事件の容疑がかかっているんです」
「盗難事件……?」
少し動揺した様子の致を見、九十九仙蔵は眉を動かす。
「おや、ご存じありませんでしたか。そうなんです、一昨日我が九十九家が所有していた掛け軸が行方知れずになりまして。一番盗むことができたであろう人物がお兄さんだったんです。未だに掛け軸は見つかっておりませんし……」
「だから家に帰すわけにはいかないと……?」
「ええ。あれは江戸時代から我が家に伝わる重要な家宝の一つなんです。なんとしても見つけたいのですが……」
困った困った、と言わんばかりに九十九仙蔵は目を細めた。
「…………分かりました。なら、その掛け軸は俺が探し出しましょう。見つけた上でなら、兄を連れて帰っても構いませんね」
「いえ、さすがにそこまでは及びませんよ。こちらも総力を挙げて探しておりますし」
「相当に価値のあるものなんでしょう。ならどうして警察に通報しないんですか。いくら市内から離れているとはいえ、俺たちがここに来れて、警察が来れないことはないとおもいますが。通報してないんですよね? ここなら電波も通じますし、できないとは言わせませんが」
致の追及に九十九仙蔵は答えない。
「もし仮に真犯人が見つかったとしても、俺は渡を連れて帰るだけです。兄は俺が説得します。なにかしら、通報できない事情がおありなのでしょう? 昨今は治安も悪いですし、貴重な掛け軸であるのならなおさら。大事にせずに済む唯一の方法でも、あると思うのですが」
最後は特に語気を強めて、致は脅し文句を添えて九十九仙蔵に迫った。これで駄目なら、もっと別の方法を考えなければならないだろう。しかし強気な態度の致を見てなにを思ったのか、九十九仙蔵は頬を緩めて頷いた。
「そうですね、分かりました。それならばこちらから依頼したと、いうことにしてもいいですか? もし本当に掛け軸を見つけていただけるのであれば、報酬もお支払いいたします」
「……それで構いません。あとで契約書でも作りましょうか。いいな辻村」
「ぅいっす」
疑心を全開にして致は九十九仙蔵の提案を了承する。至極適当な返事を寄越した辻村には少しばかり鋭い視線を送っておく。
「そうですね、依頼ということですし……期限を設けましょうか。本日から三日以内。それまでに掛け軸を見つけてほしいのです。ちょうど祭りもございますし」
「なら、それまで兄の安全は保障していただけるということですね」
「ご心配なら、こちらの離れに泊まりますか? 構いませんよ。こちらも綺麗にしておりますので」
致の隅を突くような言動にも全く動じない九十九家当主はにこやかに話を進めた。
「では、当時のことを詳細にお伝えしますので一旦場所を移しましょうか。ソメ、二人を応接間に案内しなさい」
短く指示をした後に九十九仙蔵は階段を下りていく。致と辻村は躊躇いつつもソメと呼ばれた女性について応接間へ移動した。
招かれた応接間はというと、生活感の一切ない──言い方を選ばないのであれば少しぎらついた空間だった。部屋の作りは和風なのだが、畳の上にはカーペットが敷かれ、ソファーが置かれている。ガラス製のテーブルの上には、これまた瀟洒なデザインの灰皿が鎮座している。棚に仕舞われている彫刻や食器類も一目見ただけで、手の届かない価値を持っていることが分かる。よく言うのならば豪華絢爛、悪く言うのなら遠慮が無さすぎるインテリアの数々に、致は気圧される。
「……息が詰まる」
案内の使用人が離れたのを確信してから、致はため息混じりに呟いた。
「案外ってなんだよ……お前俺が生粋の平民だってこと知ってるだろ」
「んまぁね。そりゃアタシも同じ」
淡々と返しつつも、辻村はちらちらと室内に視線を這わせて回っている。
「……そうか」
一つ頷いて返した後は突っ込みだけはすまいと黙り込む。
「そういえば、なんで代わりに探すなんて提案したんすか」
「今の渡は盗難事件の最重要人物を通り越して犯人と決めつけられている。他にそれっぽい人物がいないからなのか、そもそも他所者だから体よく押し付けられているかの二択だろうな」
「だから掛け軸を探し出して、潔白を証明する必要があるってわけか。強行突破じゃダメなんです?」
「いや……どう強行突破するっていうんだよ。車があるならまだしも、俺たちは歩きだぞ」
「あー、そうか。確かにー」
会話がちょうどひと段落したところで、九十九仙蔵とソメが部屋に入ってくる。変な前置きも、間もなく、彼は詳細を離し始めた。
「ちょうど一昨日のことなのですが、百々瀬克樹さんが渡さんと一緒にうちへいらっしゃいました。克樹さんはうちにある掛け軸が偽物で、本物はこちらが持っているものだ、と」
「それは急な話ですね」
「ええ。わたくしどもとしては驚くばかりで……そこで急遽、渡さんの見識をお借りして、鑑定会を行うことになったんです。克樹さんはこれが狙いだったようですね。渡さんへは二つの掛け軸を預けることになりました」
九十九仙蔵は湯呑を手に取って一口茶を飲んだ。それを見た致は辻村に視線を送る。彼女は小さくウインクをして彼の申し出を了承した。
「しかし鑑定には時間がかかるものです。渡さんには集中ができるようにと離れを貸しておりましたが、その日の深夜まで作業はかかってしまったのだとか。しかし翌朝、渡さんの元にあったはずの掛け軸がなくなっておりまして」
「なくなったのは、二つともですか?」
「ええ、両方です九十九家の所有するものと、克樹さんの持ち込んだ掛け軸の両方が消失しておりました」
「両方、ですか……」
「本来は二つ存在するはずがないものなのです。なので、どちらかが偽物と思われますが……うちにあったものは、しっかり鑑定もされて由緒もはっきりとしたものです。偽物とは思えませんね」
「持ち込まれたものが偽物と考えるのは当然ですね」
致は相槌を打ちつつ、九十九仙蔵の絶対的な自信に辟易する。
「それで……離れに近づいた人物は兄以外にはいなかったんですか?」
「ええ。その夜はいませんでした。克樹さんも実家へ帰っておりましたし、わたくしどもは母屋で生活しておりますので、離れに用事はございません」
「なくなる直前に掛け軸の近くにいたのが兄だったから、疑われているということですね。確かに疑念を晴らす要素がないですが……掛け軸が見つからないのは妙では?」
「ええ、ですのでわたくしどもも首を捻っているのです。生憎渡さんは体調を崩しておりまして、満足に動くこともできませんし、あまり長話もできません。かといって持ち物を調べてみても、どこにも掛け軸はありませんでした」
九十九仙蔵の説明に、致は思わず顔をしかめそうになる。
「失礼ですが、この屋敷の警備はどの程度で?」
「ありません。この集落は知り合いしか住んでおりませんので。門は施錠ができますが、することはないですね」
分かりました、と致は静かに返事をする。無表情の彼の横で、呑気な顔をして辻村は茶と茶菓子を楽しんでいた。
「そうですか……では一昨日はあなたはなにを?」
「一昨日は……夕方まで祭の準備のために神社へ出かけておりました。その後は戻って夕食を取り、二十三時には就寝しました。就寝まで自室で作業をしておりましたので、一度も母屋からは出ていません。このことはソメや栄に訊けば証明ができると思います」
「分かりました。あとで確認してみます。その、祭というのは? 先ほども期限の話の際に仰ってましたけど……なにか関係が?」
「この集落の年に一度の大きなイベントでしてね。うちの家宝も数点展示に出すんです。展示ができないとなるのが一番困りますので」
「それで期限が必要なわけですか」
「まぁ、そうですね。そういう背景もあります」
「つまり、このことは集落の方々は知らないと?」
「今のところは公表していません。克樹さんが帰ってきていることは皆さんご存じだと思いますが……知れ渡るのも時間の問題でしょうね」
「そうなんですね。確かに祭のことがあるのなら、できるだけ伏せておきたいでしょうし……」
毎年表に出すほど価値のある物が盗まれたとなれば、権力者であろう九十九家にとって不利になる。できるだけ隠しておきたいことではあるが、この閉ざされた集落では限界があるのだろう。九十九仙蔵もその点については諦めているようだった。
(なるほど、だから保険として犯人にできる渡を置いてるんだな)
思い当たった結論を思考の端へ追いやる。
「事情は理解できました。後ほど聞き込みをしてみますので」
「分かりました。宿泊には離れをお使いください。ただ、向こうには風呂場だけがありませんので、そちらは後ほど使用人に案内をさせます。少々お待ちくださいね」
そう言って九十九仙蔵は席を立つ。廊下に出た彼の使用人を呼ぶ声が小さく聞こえる。しんとした応接間で、致は天井を見上げた。
「こりゃ大変そうですな」
「面白がってんじゃねえよ。どう考えても命の……」
致は耳に入った音に反応し、言いかけた言葉を飲み込んだ。そのタイミングでソメとは違う使用人が顔を出す。
「離れへご案内いたします」