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閉じた社会における"現在"と"未来"の物語 ー丸山眞男講義録を読んでー

掲載日:2025/01/05

丸山眞男の講義録で日本思想について勉強している。途中、江戸時代の話が出てきて、(今の日本によく似ているな)と思った。これは以前から南井三鷹さんが指摘していた事だ。

 

 確かに、オタク文化と江戸時代の文化にはある程度の類似性があると思う。ただ全般的には江戸時代の方がレベルが高いし、今のオタク文化から近松門左衛門とか井原西鶴くらいの作家も出てこないだろうが、そういう点に関してはこの文章では触れない予定だ。

 

 私が「オタクっぽいな」と思ったのは次のような箇所だ。

 

 【官能的欲望を恋愛に昇華するというような倫理化は行われない。恋愛の精神的意味は徳川芸術にはほとんど感じることはできない。それは直接的感覚的欲望につねに基礎づけられている。しかし欲をそのまま描くのではなく、官能自身を象徴化し美化してゆく。抹消的なまでの形式美の追求がなされる。形態的優美と、形態から立ちのぼるほのかな雰囲気の醸成がある。純粋な猥本と芸術の区別がはっきりしない。】

 (p203 「丸山眞男講義録別冊一」)

 

 このあたりの記述は今のオタク文化とよく似ている。例えば、エロ同人なども、抹消的な努力が積み重ねられるとあたかもそれ自体が芸術であるかのような雰囲気を帯びてくる。

 

 これはエロに限らない。アニメ作品なんかも人は「作画がどうのこうの」という話をしたがる。音楽や絵の美しさ、細かな技術的努力にはうるさいが、根底的な作品のテーマに対する物足りなさが語られる事はほとんどない。人々が欲しているのは江戸時代と同じく、「抹消的なまでの形式美の追求」なのだ。

 

 丸山が論じている江戸時代はどのような時代だったかと言えば、周知の通り、徳川幕府が君臨して、静的な社会が三百年も続いた。泰平の世だった。

 

 このような時代においては、世界全体の構造を問うような作品は現れない。目線は上ではなく、下へ下へと向かう。

 

 丸山の本によれば、当時は「色道」というような考え方があって、遊女の仕草もいちいち細かく規定していたらしい。

 

 このあたりもいかにもオタク的な発想だろう。権力構造それ自体は固定化されているので、目線は細部へと向かう。雄大な企図などは見られない。

 

 世界を覆したり、異世界に行ったり、過去を改変したり。アニメやゲームでは一見、雄大そうに見えるテーマが描かれるが、実際には、泰平の現在、快楽の追求が可能な自分たちを追認する事が目的でしかない。この文章ではそのあたりの事について述べようと思う。

 

 ※

 近頃に多いのが「過去を改変する物語」だ。「シュタインズ・ゲート」「まどかマギカ」「君の名は。」などが頭に浮かぶ。ヒット作も多い。調べれば他にもあるだろう。

 

 「過去を改変する物語」の基本は、現在の地点に何らかの異常があり、過去に巻き戻って、やり直し、正常に戻すというものだ。図にすると、下のようになる。

 

 

 過去ーーーーー異常な現在

   |

   |

   -----正常な現在


まず異常な現在から始まり、過去に遡り、異常の原因を取り除いて、正常な現在に世界を変える。これが基本的な過去改変ものの構造だろう。

 

 ただ、私が思うのは、こうする事によって、本来は一回限りの、いわば一期一会の「現在」の価値が減じてしまうのではないか、という事だ。

 

 考えもみて欲しいのだが、もし「今」という時が過去に遡り、改変可能であったとしたら、たどり着かれた「正常な現在」もまた改変可能だという事になり、物語はいつまでも終わらないという事になる。

 

 もっと問題なのは、こうした作品構造の場合、「時間が進まない」という事だ。

 

 こうした作品構造の場合、最初に念頭に置かれているのは、「永遠の現在」という観念だ。

 

 アニメ作品は不思議なほど学園ものが多い。ほとんどが学園だ。アニメは延々と学生時代を輪廻している。これは、「永遠の現在」と通底する作品設定である。

 

 というのは、先に言った江戸時代のように、静的で権力構造が変化しない時代においては大きな事を考えても仕方ないからであるし、そうであるならば許される範囲で快楽を追求するのが◯、という事になる。

 

 世界は変化しない。変化するのは、自分たちの欲望と、その成就であり、その欲望が満足される瞬間を永遠に持続する事。これこそが、オタク文化の本質だろうと思う。

 

 江戸時代に遊女の仕草が細かく規定されるというのも、例えばその後の明治維新や、それ以前の戦国時代と比べればバカバカしい事ではあろう。というのは乱世では、それどころではないからだ。世界そのものが変革をしている時に、世界の抹消部分に目を向けている余裕はない。

 

 現代の社会は江戸時代と違って、「アメリカに守ってもらいながら欲望を満足させる事」がテーマとなっている。それが繰り返されればいいと念願されている。

 

 現在のサブカル作品ではこの現在が永遠に繰り返される。現在に破れ目ができればそれを修復する事。主体としての大衆が肯定される事。そして大衆とは世界の権力構造を容認し、細部に目を向け、生活する事によって満足しようとする存在に他ならない。

 

 現在が肯定されるのは何故だろうか。それは未来がないからである。未来がない、とはどういう事だろうか。それは変化しないという事だ。

 

 世界は変化しない。それは最初に諦められている。だから、視線は細部に向かう。どうでもいい、くだらない抹消部分をできるだけ美化したり、共有して共感する事。それがこの社会では望まれている。

 

 こうした我々の精神構造、社会構造をヒット作品は映し出している。ただ、問題は先に書いたように、そのように作られた現在そのものが、過去に戻って改変可能ならば、そうした現在そのものは揺らいでしまうのではないか?という事だ。

 

 過去に戻り、現在をやり直せるなら、繰り返し現在は作られ続ける事になる。作品は、幸福なカップルのキスで閉じられるかもしれないが、そのキスはまた誰かによって破壊される可能性がある。こうした作品の物語は一つの作品をはみ出し、別の作品の物語として受け継がれる。

 

 それでも、時間は進まない。「欲求が充足される現在」に永遠に達し続けるのが目的であり、その現在は未来へと動く事はない。世界は変化しない。というのは、もう人々の視界には世界の変化それ自体がなんであるか、そうした歴史的出来事自体が過去の遠い記憶となってしまっているからだ。

 

 ※

 世界は変化せず、現在だけが存在する。繰り返し、現在に達し続ける時間の停止した世界。それが"今"だ。

 

 このような世界を現代のサブカル作品は模倣している。


 それでは、この世界に対する解決策を、文学的に求めるとしたらどうなるか。私の考えでは、「死」を描くという事が一つの解決となるだろう。

 

 死は、生の反対物である。生とは、我々が他者に頭を下げる事によって許されている、そうしたものだ。私達は社会のあり方を無意識的に是認している。どんな革命者も、生きる為にはどこかしら、社会に媚を売っている。そうでなければ生きられないのだ。パンを肯定するとはそういう事だ。

 

 ハッピーエンドの物語は生の肯定である。生の肯定とは欲望の肯定に他ならない。では欲望肯定が可能なのはどうしてだろうか。

 

 もっと簡単に、我々が金を稼いだり、恋愛をしたり、人々の上に立ったりできるようになるのは何故だろうか。それは私達が社会に順応するからだ。世界のあり方に順応する事によって、我々は世界からいくらかの報恩をもらう。その報恩によって適度に、欲望を肯定する事ができる。

 

 生の肯定とはいずれにしろ、社会構造の肯定の物語へと繋がっていく。人は生きていく為に頭を下げなければならない。頭を下げる先とは、この世界そのものであり、また多くの他者であり、人々の群れだったりする。

 

 一方で「死」はそれとは違う価値を持つ事が可能となる。死は生と違い、未来を内包する事ができる。

 

 「人形の家」のノラを考えてみればいい。旧社会の秩序を捨てて、「家」を飛び出た彼女をこの先待ち受けているのはなんだろうか。ハッピーエンドだろうか、バッドエンドだろうか。

 

 生を肯定する為には社会に順応しなければならない。…それでは社会に順応できない個人が向かう先はどこだろうか。それは「ここではないどこか」であるが、文学的に端的に言えば「死」である。主体的な死への決断、それによって自らの生への欲求を断つ事ーーそれが、彼を未来へと羽ばたかせる。

 

 だが、未来は現在には存在しない。未来というのはそもそも決して存在しない。だから彼は死ぬのである。死ぬしかないのだ。

 

 未来を内包する物語とは、主体的な死への決断を含む物語であろう。一方で、世界の構造を是認する物語は、細部の美を磨き上げ、欲望の肯定を高らかに謳うだろう。

 

 本当の事を言えば、人々が「ハッピーエンド」を好み「生を肯定するのは素晴らしい」と言うのは、彼らの根底にあるのがニヒリズムだからだ。要するに、自らの生をかけて勝ち取られるべきなにものか(例えば"未来")が全く存在しないからだ。だから彼らはやむなく、自らの存在を肯定する。

 

 生を賭すべき何かが見つからないから、生そのものを肯定する。一方で、自らの死を勝ち取るものは、生を越えた諸価値を認めている。私は自らを越える価値観を持たない人々は根底的にニヒリストであると思う。そういう意味では私は宗教家により一層親身である。

 

 ※

 整理しよう。静的で固定された社会においては、世界の構造を問うような作品は現れない。興味の対象は細部へと向かう。それはオタク的な掘り下げ方だ。

 

 また、これらは「生の肯定」という外観を取る。生というのは、「おかみの認可」あってのものであるから、その構造を問わずに抹消へと目を向けるという事は、その底では自己保存の欲望がまず第一にある。

 

 一方で、世界を否認するという事は必然的に死への欲求を語る事になる。生は世界との連関によってのみ保証されるから、生を否認する事は、生=世界を否定し、「その先」へと運動しようとする試みに他ならない。

 

 ちなみに、今の世界を否定して、全く新しい世界を構想するような物語は作れるのではないか?と考える人もいるかもしれない。私は自他を顧みて、そんな事は不可能だと思っている。

 

 江戸時代のど真ん中にいて、明治維新と、その先を構想するなどというのは不可能であると私は思う。想像力というのは実際には極めて制約されている。新しい世界を構想するような壮大な物語というのは、大抵は既存の世界を模倣したものにとどまる。

 

 それ故に、死への突入というのは、ただ自己と世界を否定して「より次」へ移行しようとする、その志向性を示すものに他ならない。言ってみればただそれだけだ。それ以上の高邁な価値などは全然ない。

 

 それでも、文学とか物語とかいうものに可能なのは、私はその程度の事であると思う。個人としてはそれぐらいできれば上等だろう。

 

 そういう目線で言えば、例えば近松門左衛門の心中物なんかも、無意識的には未来を志向していたと言いうるかもしれない。近松の心中物は恋愛の話であるから、欲望充足の話であるが、しかしその理想郷は死の世界の内においてほかない。

 

 という事はその理想郷は、現在の世界にはないという事を意味するのだから、裏返して考えれば、現在の、つまり当時の江戸社会への批判を含んでいる。心中物は、"現在"を脱して"未来"を志向している。そういう風に見る事ができるかもしれない。

 

 こうした作品構造は、基本的にはサブカル作品には現れない。サブカル作品が目指しているのは、世界に是認された上での生の肯定であって、永遠の現在にたどり着き続ける事、それによって未来を疎外する事だからだ。



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