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その傲慢に、さよならを

作者: 藍田ひびき

「リオン。離縁してください」

「……またか。ナタリア、俺は忙しいんだ。お前の下らない虚言に付き合っている暇はない」


 夫は執務机に向かったまま私の顔も見ずに答えた。執事がちらりと私へ視線を向けたが、素知らぬふりをして目を伏せる。

 私はつかつかと歩み寄り、手にした離縁届を夫へ突き付けた。


「嘘ではございません。すでに私の署名はしてありますわ」

「今度は何だ。先日朝帰りしたことか?それとも夜会の件でまだ拗ねているのか」

「そんなこと、どうでもいいです」


 ようやく顔を上げたリオンと視線が合う。その瞳は驚きで見開かれている。

 

「もう、疲れたのです。貴方を愛することも。……貴方の妻でいることにも」



 ◇ ◇ ◇



 私はずっと、世界は自分を中心に回っていると思っていた。


「可愛いナタリア。お前はどこの令嬢よりも美人だよ」


 両親はいつもそう言って私を溺愛した。今はそれが親の欲目だったと分かるけれど、幼い私は親の言う通り、自分が世界一美しく気高い令嬢だと信じていた。

 リーヴィス公爵家の娘である私に、同年代の令嬢たちは媚びへつらう。それも私の勘違いを増長させた。私は皆をひれ伏させるほどに、素晴らしい人間であるという思い込みを。


 そんな私は、初めて恋をした。

 相手は同級生のリオン・ヘイワード伯爵令息だ。銀の髪にエメラルドグリーンの瞳、すらっとした長身。令息たちの中でもとびきり美しいリオンに憧れる令嬢は多かった。

 彼に一目惚れした私は「リオン様と婚約したい!」と父へ頼み込んだ。私に甘い父はすぐにヘイワード伯爵へ打診。あっという間に婚約が纏まった。


 それを聞いた私が大喜びしたのは言うまでもない。いずれリオンの妻になる日々を夢見て、甘い夢想に浸った。

 公女であり、かつ誰よりも美しい私を娶るのだ。彼も幸せだと思っているに違いない。きっと恋愛小説のようにリオンは私を溺愛し、毎夜愛を囁いてくれるのだと信じていた。

 全く知らなかったのだ。リオンには密かに将来を約束した恋人がいたなんて。


 婚約している間のリオンは優しかった。

 その瞳に熱が宿っていなかったとしても。舞い上がっていた私は、彼も私を愛してくれていると無邪気に信じていた。



「最初に言っておく。俺に何も期待するな」


 今から初夜を迎えようという時に向けられた言葉。

 何を言われたか理解できず呆然とする私を憎々しげに睨みつけながら、リオンは別れた恋人のことを話した。


 相手はグレンダ・エアリー子爵令嬢。リオンとは貴族学院へ入る前から愛し合う仲だったらしい。正式に婚約していなかった理由は、彼女を守るため。

 グレンダは以前、リオンへ思いを寄せる令嬢からひどい嫌がらせを受けた。相手が高位のご令嬢であったため抗議することもできなかったらしい。だから成人するまで婚約を正式に発表しなかったのだ。


 リオンは当初、私との婚約を突っぱねた。だが公爵家からの縁談に飛びついたヘイワード伯爵は強引に婚約を押し進めた。後から知ったことだが、父はかなりの権益をヘイワード伯爵家へ約束していたらしい。今まで優しいふりをしていたのは、伯爵から「絶対にナタリア嬢を逃がすな」と命令されていたからだった。


「私、全然知りませんでした。婚約する前に言って頂ければ……」

「公爵家から持ち込まれた縁談に伯爵家が逆らえると思うか?しかもお前は彼女の家にまで圧力を掛けたそうじゃないか」


 リオンに恋人がいることを知った父は、エアリー子爵家にも圧力を掛けた。彼女は後妻として隣国の貴族へ嫁がされたそうだ。


「それは父が勝手にやったことです。私はただ、貴方を愛しただけで」

「お前が周囲からどう言われているか知っているか?『高慢ちきな我が儘公女』だ。他人の人生を思い通りに動かして、さぞや満足だろうな」


 ショックのあまり、しばらく言葉が出なかった。私に媚びてきた令嬢や令息たちが裏でそんなことを言っていたなんて。皆から敬意を受けていると思っていた私はとんだ道化だった。


「夫としての義務は果たす。伯爵夫人として、お前には正当な待遇を約束しよう。だがそれ以上のことは期待するな」


 現実をなかなか受け止められない私に、リオンが追い打ちを掛けた。夢見ていた甘い結婚生活が粉々になって砕け落ちる。


 その後の初夜は酷いものだった。職務をこなすかのように淡々と、雑に扱われ。終わってすぐにリオンは寝室から出ていった。


 砕かれたプライドと身体の痛み。何よりも愛する人にぶつけられた心無い言葉……。

 身体も心も傷付けられ、私は朝まで泣き続けた。



「政略結婚なのだから最初はうまく行かないこともある。長い間共に過ごすうちに、信頼と愛情が芽生えるものだ。妻として誠心誠意リオンを支えれば、いずれ仲も深まるさ。どのみちリーヴィス公爵の娘であるお前をないがしろにすることなど出来ないのだから」


 父はこうなることを予想していたようだった。聡い父は、彼の本意などとっくに見抜いていたらしい。


 ヘイワード伯爵領には鉱山があり、そこから産出される鉱石やそれを使用した武具や機材が主な財源だ。

 実家のリーヴィス公爵家が手がける事業のひとつに転移魔法を使った運輸事業があり、王国中に張り巡らせた輸送網を持っている。それを利用できるのはリーヴィス公爵家と提携した貴族や商家のみ。そしてヘイワード伯爵家は公爵家の縁戚として、輸送料を大幅に減額されていた。


 輸送料が安ければ、その分は商品の品質向上に力を入れられる。さらにリーヴィス公爵家の伝手で取引先が増え、ヘイワード家の事業はどんどん拡大した。


 ヘイワード伯爵家からすれば、私は金の成る木だ。

 それをよく理解している義両親は私に気を遣い、リオンの態度を叱った。だが夫は変わらない。むしろ、より意固地になっていった。

 大嫌いな女の実家の恩恵を受けているという事実が、気に食わなかったのかもしれない。

 

 私は常に彼の意に沿うように、彼を怒らせないように気を遣った。それが父の言う通り、夫婦仲を改善できる道だと信じて。

 

 伯爵家の侍従や使用人に聞いて、彼の好みに合う女性へなろうとした事もある。髪型を変え、服も淡い色合いのものに変え落ち着いて見えるように。人気デザイナーに頼み込んで彼へ最高級のスーツをしつらえたり、リオン好みのお茶や煙草を他国から取り寄せたりもした。だがどんな努力も、夫は「無駄なことを」と鼻で笑うだけだった。


 夜会に夫婦で出席する事もあるが、共にいる時間はほとんどない。リオンは入り口まで私をエスコートすると、すぐに離れていってしまうのだ。当然、私たちの不仲は社交界中に知れ渡ることになった。

 既婚者となっても彼は女性に人気がある。妻との隙間に入り込もうとする女たちに、リオンはいつも囲まれていた。

 父の力を使えば、彼女たちなど家ごと潰すことも可能だったろう。だが私はそうしなかった。そんなことをしたら、またリオンに軽蔑されてしまうからだ。それが余計に女たちを、そして夫を増長させたのだと思う。


 ある夜会で、リオンを取り巻く女の一人が夫の浮気を暴露した。勿論親切心ではない。彼女はニヤニヤと笑いながら「リオン様の()()お相手はファロン伯爵夫人ですわ。やはりお相手が公女様では、リオン様も委縮なさって満足できないのかしら」と言ってきたからだ。


 

「浮気をなさっているというのは本当ですの!?」

 

 帰宅した後、私はリオンを問い詰めた。向けられたのは夫の冷めた瞳。


「だから何だ?」

「それは(わたし)に対する重大な侮辱です!」

「妻を愛せないのだから、外で調達するのは当然だろう。俺に期待するなと言ったはずだぞ」


 わなわなと震える私に、リオンは事も無げにそう答えた。

 

 その後も彼は浮気を続けた。何度も口論になり、飛び出して実家へ戻ったこともある。だけど両親は私を諫めた。


「お前が彼と結婚すると言い張ったんだろう。そのくらい、我慢できなくてどうする」

「ちょっとした浮気でしょ。貴方は正妻なのだから、どっしり構えていればいいのよ。子供が出来れば彼も変わるわ」


 子供は出来なかった。閨事は月に一回、義務的に行われるだけ。それで授かるわけがないだろう。しかも夫は「子供が出来ないのは妻のせい」と口外していたらしい。


 こんなに夫を愛しているのに。どれだけ手を伸ばしても、彼は応えてくれない。

 私の心は少しずつ少しずつ、疲弊していった。

 

 そうして10年近くが経過した頃、私と夫の仲を決定的に決裂させる出来事が起きた。

 グレンダ・エアリー元子爵令嬢が戻ってきたのである。


 彼女の夫が病で亡くなり、前妻の息子が跡を継いだ。グレンダは継子と折り合いが悪く、籍を抜かれ実家に戻ってきたそうだ。


 再会したグレンダとリオンはあっという間に恋仲となった。その仲睦まじさは人々の噂に上るほどだ。ひと目もはばからず、身体を寄せ合う姿を度々目撃されていたらしい。


 今までのリオンは、一人の女性に長期間入れ込むことはなかった。遊びなのだと私も必死で割り切ろうとした。だけど今の夫は――明らかにグレンダへ入れ込んでいる。

 浮気には目を瞑るからせめてもう少し控えてくれと頼み込んだが、無駄だった。このまま続けるようなら離縁すると脅しをかけるも、夫は「お前が離縁なんて出来るわけがない」と相手にしない。

 悔しいけれど確かにその通りだった。そのときの私は、まだ彼を愛していたのだから。



「おや、ヘイワード伯爵夫人。伯爵はご一緒ではないのですかな?」

 

 アルドリッジ侯爵家で開かれたパーティに参加していた私は、侯爵に声を掛けられた。夫はいつも通り、私を放置してどこかに行ってしまっている。


「え……ええ。友人と話し込んでいる様子でしたので」

「そうですか。久しぶりにお話したかったのですがね」

「まあ、申し訳ございません。探してきますわ」


 会場を探し回ってようやく見つけたリオンは、カーテンに隠れた椅子でグレンダと身体を寄せ合い囁き合っていた。嫉妬と怒りでカッとなり、私はつかつかと歩み寄る。


「リオン様!主催者にご挨拶もせず、そんなところで何をなさってますの!?」

「ああ……アルドリッジ侯爵には後で挨拶にいく。お前は向こうへ行ってろ」


 いかにも鬱陶しいという顔でシッシッと手で払う仕草をするリオン。


「リオン様、貴方を探して下さった奥様に対してそのような言い方は失礼ですわ」

「優しいね、グレンダは。こいつのことは気にしなくていい。お前を隣国へ追い払った張本人なのだから」

「またそのような昔のことを……。ごめんなさいね、ナタリア様」


 申し訳なさそうな顔で謝罪しているグレンダだが、その口角は愉快そうに上がっていた。頭に血が上る。

 

「このっ、薄汚い泥棒猫の分際で!」


 気が付けば私は彼女へ掴みかかり、頬を叩いていた。リオンに突き飛ばされ、倒れ伏した私を見て二人はせせら笑う。


「夜会の場で騒ぎを起こすとは、恥ずかしいやつだ。お前のような妻を娶った俺は本当に不幸だよ」

「浮気を繰り返すのは、恥ずかしいことではないのですか!?」

「最初に宣言した通り、俺は夫としての義務は果たしている筈だ。文句を言われる筋合いはない」


 グレンダと寄り添って去っていくリオンは、去り際に「明日は抱いてやるつもりだったが止めた。罰としてしばらく房事は無しだ」と言い捨てた。

 

『抱いてやる』という言葉に、私は茫然とする。

 

 月に一回、淡々と済ませられる閨事は、私にとって苦痛の時間でしかなかった。

 なのに彼は、それが私に対する褒美だと思っているのだ。

 私の中で、何かがぷつんと切れた。



 ◇ ◇ ◇



「もう、疲れたのです。貴方を愛することも。……貴方の妻でいることにも」

「勝手なことを言うな!お前のせいで、俺とグレンダがどれだけ辛い思いをしたか」

 

 リオンは私を睨みつけながら怒鳴った。こんな時まで()()なのね。


「それについては申し訳ないと思っているわ。だから離縁して頂戴。私がいなくなったら、好きなだけ彼女と添い遂げればいいでしょう」

「ふん。それで気を引いているつもりか?」

「そんなつもりはありません。良いじゃありませんか。これで大嫌いな女と離れられるのだから。貴方もせいせいするでしょう?」

「……後悔するなよ。後から土下座して謝ってきても許さないからな」


 リオンが殴り書きのようにサインした離縁届を持って、私はその日のうちにヘイワード伯爵邸から去った。



 実家に戻った私を、両親は複雑な表情で出迎えた。

 いくら愛娘といえど、出戻りだ。娘をどう扱って良いか困っている両親の顔を見るのは私も辛かった。


 

「家庭教師?」

「ええ。ウォルシュ辺境伯のお孫さんの、お話し相手になってくれないかって」


 ウォルシュ辺境伯夫人は母の友人だ。彼女には幼い頃から可愛がって貰っている。

 辺境伯には嫡男がいたが、馬車の事故により妻と共に亡くなった。今は辺境伯夫妻が残された幼い孫を養育している。私に孫の家庭教師となって、勉強だけでなく貴族の流儀や王都のことを教えて欲しい、と言われたそうだ。


 公爵令嬢が家庭教師など、普通は考えられないことだ。騒がしい王都から私を遠ざけ、辺境の地でゆっくり心の傷を癒させようという計らいなのだろう。

 どうせ行くあてもないのだ。私はありがたくこの話を受けることにした。



 辺境の地の生活は快適だった。辺境伯夫人は「ここは年寄りばかりだから、若い人が来てくれて嬉しいわ。いつまでもここに居てもらって構わないのよ」と温かく迎えてくれた。

 両親を亡くして一時期は引きこもっていたというエリック様も、今ではすっかり私に懐いている。勉強の合間には一緒に遊んだり、王都で流行っているものを教えてあげたり。素直で愛らしい彼と過ごすのは楽しい。


 訪れる者も少ない閑静なこの屋敷と温かい人たちに、私はゆっくりと癒されていった。思えばリオンと結婚してから今まで、心が平穏になったことなどなかった。先行きの不安はあるけれど、離縁して後悔は無い。



「ナタリア」

「アーネスト様。いらしていたのですか」

 

 庭にしつらえたテーブルでお茶を飲んでいた私に声をかけたのは、ウォルシュ辺境伯の次男アーネスト様だ。

 魔法学に精通しており、王宮の魔術研究所に勤めている。跡継ぎは長男に任せたと、今まで結婚もせず仕事に打ち込んでいたらしい。一時は彼をウォルシュ家の跡継ぎにという話もあったが、辺境伯が「あいつは当主に向かない」と一蹴。アーネスト様自身も継ぐ意思はなかったので、エリック様が跡継ぎに決まった。

 とはいえウォルシュ辺境伯も年輩だ。自分に何かあった場合は、エリック様が成人するまでアーネスト様に辺境伯代理を任せる算段になっている。だから最近はこうして時々領地に来て内政を教えて貰っているそうだ。


 アーネスト様は私の向かいに座り、侍女へお茶の追加を申し付けた。


「エリックはずいぶんナタリアに懐いているようだね。……済まない。俺は最初、貴方に対して無礼な態度を取っていた。謝罪する」

「気にしておりませんわ」


 会ったばかりの頃、アーネスト様は私に対して警戒心を隠さなかった。王都にいたのなら、私の悪評を聞いていただろう。我が儘放題の公女。そんな女が実家へ入り込むのだから、警戒して当然だ。


「だけど君を見ていたら、根も葉もない噂だと分かったよ。噂通りの女性ならエリックが懐くはずはない。母にも噂に惑わされるなと怒られた」

「ありがとうございます。でも、噂も全く嘘というわけでもありませんわ。以前の私は、決して淑女らしい振る舞いをしていたとは言えませんもの」

「それはヘイワード伯爵のせいだろう。君が荒れたのは彼と結婚してからだと母が言っていた」


 社交界では敵ばかりだと思っていた。私を信じてくれる人が、家族以外にもいたということがとても嬉しい。


「それはもしや、彼からの手紙か?」


 アーネスト様が私の手元にある紙へ目を落とした。


 最近、リオン様から怒り任せのような乱暴な文章の手紙が何通も届いているのだ。

 「勝手に離縁届けを提出するなんてどういうことだ」「お前のせいで事業が破綻しそうだ。責任をとれ」「これ以上我が儘を通すなら、訴える。後悔するぞ」等々。


 何を訴えるのかさっぱり分からない。離縁状は偽造ではなく、彼が自分で署名したものだ。離婚した以上、ヘイワード伯爵家の財政がどうなろうが私には関係ない。


「どういう考えを持っていたら、妻であった人にそこまで酷い言葉を投げられるのか……。皆目理解できないな」

「私を下に見ているだけでしょう。昨日届いたこの手紙には『お前のような女、再婚相手もいないに決まっている。行き遅れになる前に戻ってきた方が身の為だぞ』と書かれていますもの。まあ、それについては彼の言う通りでしょうけれどね」

「そんなことはない」


 苦笑しながら卑下した言葉を、アーネスト様は即座に否定した。

 気を遣ってくれるのは有り難いが、社交界中に悪評が出回った30歳近い女を娶る物好きはいないだろう。


「ちなみに聞くが、ヘイワード伯爵に未練は?」

「これっぽっちもありませんわ」

「それは重畳。ならば来月、王都へ同行してくれ」

「はぁ。それは構いませんが……」


 その真意がわからず曖昧な返事をした私に、アーネスト様はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「王弟殿下の誕生パーティに、父の代理として出席するように言われているんだ。主立った貴族の当主は皆呼ばれているから、ヘイワード伯爵も当然来るだろう。行き遅れなどと無礼なことを言う相手に思い知らせてやろうじゃないか」


「ああ、なるほど。アーネスト様と私が愛し合っているフリをしてリオンへ見せつけるのですね。私、演技は苦手ですけど頑張りますわ」

「いや、演技ではなく……まあいいか」


 もうリオンとは関わり合いになりたくないけれど、このまま手紙を送り続けられるのも面倒だ。私がヘイワード家へ戻る意思がないことを、いい加減分かって欲しい。

 私は有り難くアーネスト様の提案に乗っかることにした。



 ◇ ◇ ◇



「リオン。ナタリアが居なくなったと聞いたが」


 久しぶりに本邸へ顔を出したと思ったら、開口一番でそれか。俺は父の薄くなってきた頭髪を眺めつつ、心の中で毒づいた。


「いつもの悋気ですよ。すぐに戻ってくるでしょう」


 妻のナタリアは気に入らないことがあると、すぐに離縁を言い出したり実家へ帰ったりする。いつまでたっても娘気分が抜けない我が儘女だ。

 しばらく放っておけば大人しくなる。相手にするだけ馬鹿らしい。


「女遊びも大概にしろ。私の所にまで噂が聞こえてきているぞ」

「父上、俺は子供ではありませんよ。当主の座を譲ったというのに、まだ監督するつもりですか」


「これは助言だ。女遊びもいいが、こっそりやれ。リーヴィス公爵家と縁付いたことで我が家がどれだけ恩恵を受けているか、お前も分かっているだろう。フリだけでもいい。妻を大切にしろ」

「……善処します」


 妻には伯爵夫人として十分な待遇を与えている。あの女がしたことを考えれば、これでも贅沢すぎるくらいだ。


 我が儘公女。それが社交界におけるナタリアの渾名だ。

 最初に会ったときから高慢な女だと思った。まさか、俺があいつに目を付けられるなんて。


 ナタリアとの婚約が決まった日、俺とグレンダは抱き合って泣き明かした。グレンダが他の男へ嫁いでいくのを、涙を飲んで見守ったあの日の屈辱は今でも忘れない。

 望む通り、結婚はしてやろう。だが絶対にナタリアを愛するつもりはない。俺が味わった分、あの女を不幸にしてやると誓った。



『俺に何も期待するな』

 

 そう言ってやったときの、ナタリアの傷ついた顔……。あれには溜飲が下がったな。

 それでもあいつは一生懸命俺に尽くした。涙ぐましい程だ。無駄な努力だというのに。


 

「リオン様、お可哀想。あんな我が儘女を押し付けられて」


 そう囁きながら近づいてくる女は山ほどいる。俺は彼女たちと刹那的な関係を楽しんだ。

 妻は悋気を起こしたが、その姿がまた滑稽だった。あの道化ぶりを見たくて、俺は浮気を繰り返した。


 だがあの日、グレンダに再会したのだ。

 以前と変わらぬ美しさ……いや、年を重ねてさらに艶っぽさを増した彼女。

 そこからグレンダと関係を持つまでに、時間はかからなかった。彼女も同じように俺を忘れず、想い続けてくれていたのだ。俺たちは禁断の恋に身を焦がした。


 あの夜会の日、ナタリアはこともあろうに嫉妬のあまりグレンダへ暴力を振るった。許せない。ナタリアのくせに、俺のグレンダに傷をつけるなど。

 しかも翌日、離縁届なんて持ち出してきた。そうすれば俺が折れるとでも?

 

 俺とグレンダは被害者であり、ナタリアは加害者だ。だからあいつは一生、俺に対して贖罪を抱えるべきだ。



「旦那様。輸送業者から、当家の分はこれから通常の金額にすると言ってきているのですが」

「何だって!?」


 我が領の産出物については、輸送料を通常料金の半額にする取り決めだったはずだ。俺はリーヴィス公爵家の縁戚なのだから。


 さてはナタリアだな。

 あれから妻は実家へ戻ったままだ。きっとあの女が父親へ泣きついたに違いない。

 公爵も公爵だ。娘可愛さとは言え、こんなつまらない嫌がらせに加担しなくても良いものを。


 リーヴィス公爵家へ使いを出しても、そういう契約だと言われて追い返されたらしい。仕方なく、俺は自ら公爵家へ足を運んだ。



「何の用だ?」


 応接間で俺を迎えたリーヴィス公爵は、ひどく機嫌が悪い様子だった。普段は、少なくとも表面上はにこやかに応対してくれる人なのだが。


「輸送料の割引については、契約書を交わしたはずです。これは契約違反では?」

「契約書には君とナタリアが夫婦であることが、料金割引の条件だとも記載していたはずだ。ナタリアと君の離縁届は既に受理されている」

「えっ!?」


 あの離縁届……ナタリアが脅しで出してきたと思っていた。まさか本当に提出するとは。


「どうして止めて頂けなかったんです!?ちょっとしたすれ違いがあっただけなのです。それで離縁なんて」

「君がエアリー元子爵令嬢と、頻繁に逢瀬を重ねている事が『ちょっとしたすれ違い』なのかね」

「そ、それは……」

「高いドレスや宝石を買い与え、逢瀬は高級ホテルのスイートルーム。随分羽振りがいいようじゃないか。輸送料金くらい払えるだろう?」


 俺の背中にじっとりと汗がにじむ。公爵はどこまで知っているんだ。


「リーヴィス公爵家を甘く見るな。後腐れのない女遊びくらいは目を瞑ってやっていたが。今回の件は私も腹に据えかねている」

「ナタリアに会わせて下さい!会って話をすれば、誤解が解けます」


 とにかくナタリアに会わねば。俺が彼女へ命令すれば、離縁を撤回するはずだ。今までのように。


「娘はここにはおらんよ」

「では、どこへ?」

「君が知る必要はない」


 そうして俺は公爵邸から放り出された。



 その後も何度かリーヴィス公爵家へ直談判に言ったが、取り付く島もなかった。輸送料が値上げした以上、商品の製造費用を下げるか、あるいは製品の価格を上げるしかない。

 我が領の鉱石やその加工品は安価で高品質が売りである。俺は職人や鉱夫などの賃金を下げることにした。だが収入の下がった職人たちは怒り、ストライキを起こした。

 このままでは製造が止まってしまう。やむを得ず賃金を戻し、製品の価格を上げることにした。


 そうすると、今度は顧客が離れていった。彼らは一様に「この値段でこの品質なら、他領から購入する」と言ってくる。


「アスター商会やバンクス伯爵家からも、取引を打ち切るとの連絡がありました」

「なぜだ!?彼らとは長く信頼関係を築いていたはず。同じ価格ならば、長い付き合いのある取引先を選んでも良さそうなものを」

「リーヴィス公爵家を怒らせた相手との取引は遠慮すると」


 事業は縮小の一途。伯爵家の収入は激減した。

 別邸を手放しただけでなく、使用人の一部を解雇した。そのせいか、この本邸も何となく寂寥とした雰囲気がある。



「茶葉を変えたのか?」

「はい。今までの茶葉は奥さ……ナタリア様が取り寄せておられた物でしたから」

「前の味の方がいい。同じ物を買え」

「ナタリア様はリーヴィス公爵家の売買ルートを使っておられました。我が家では取り寄せることができません」

 

 俺は舌打ちした。またナタリアか。

 

 グレンダもいなくなってしまった。エアリー子爵家へ会いにいくと「娘は修道院にやった。公爵家に睨まれたくないから、二度と来ないでくれ」と門前払いを喰わされた。


 なんだか酷くイライラする。全部ナタリアのせいだ。あいつが居なくなってから、何もかもうまく行かない。


 俺は伝手をたどり、ナタリアがウォルシュ辺境伯家に滞在していると知った。何度か手紙を出したが、「私には関係ありません」と一度だけ返事が来た後は梨の礫だ。何様のつもりだ、あの女は。



「こんばんは、フォレット伯爵夫人」

「あ、あら。ヘイワード伯爵、ごきげんよう」


 俺はその日、王弟殿下の誕生パーティへ出席するため王宮へと出向いていた。正直に言ってそんな場所に出る気分ではなかったが、主立った家の当主は全て呼ばれている。参加しないわけにはいかなかった。


 今まで俺に煩いくらい纏わりついていた女どもは、俺へ近づいて来なかった。話し掛けてもそそくさと逃げていく。リーヴィス公爵家を恐れているのだろう。

 男性たちもだ。高位貴族は勿論、下位貴族すら俺を遠巻きにしている。こっちの羽振りがいい時はへこへこしていたくせに、手の平を返しやがって。


 話し相手もなくポツンと立っていた俺の耳に、夫人たちの甲高い声が届いた。入口の方だ。


「まあっ、あれはナタリア様じゃありませんこと!?」

「隣にいらっしゃるのはウォルシュ辺境伯のご令息ですわ。なぜナタリア様とご一緒なのかしら」


 ナタリアだと!?


 人混みをかきわけてそちらへ向かった俺が目にしたのは――。

 アーネスト・ウォルシュ辺境伯令息にエスコートされ優雅に歩くナタリアの姿だった。

 

 柔らかな微笑みを浮かべる彼女は碧色のドレスを身にまとっていた。アーネストの瞳の色と同じ色。それの意味することくらいは分かる。


 アーネストは魔法学の高名な研究者で、数々の新技術を打ち出していると聞く。確か、次男であるため辺境伯が持っていた伯爵位を継承していたはずだ。その男が何でナタリアなんかと……?

 

 そうか。きっと、自分が他の男と共にいる姿を見れば俺が嫉妬すると思っているのだ。ナタリアが他の男に目を向けるはずはないからな。

 辺境伯令息まで巻き込むとは。全くもって傍迷惑な女だ。


 俺は足音荒くナタリアへ歩み寄り、彼女の名を呼んだ。



 ◇ ◇ ◇


「ナタリア!」


 怒気を孕んだ、聞き慣れた声にゆっくりと振り向く。久しぶりにリオンと再会した私の心は驚くほどに凪いでいた。結婚していた頃は、彼の言葉にあれほど一喜一憂していたというのに。


()()()()()()()、ごきげんよう」

「何度も手紙を出したというのに無視しやがって。お前のせいで事業が大赤字だ。すぐ戻ってこい」

「お断りしますわ。貴方とは既に離縁しております」


「俺は認めていない。お前が勝手に出しただけだ」

「貴方がご自分で署名なさったのでしょう?」

「このっ……いいから言うことをきけ!」


 リオンが私の手を掴んで引っ張ろうとする。バランスを崩しそうになった私の体を、後ろから温かい手が抱き止めた。


「俺のパートナーに乱暴をするのはやめて頂こう」

「アーネスト様………」


 演技だと分かっていても、背中に伝わる温かさと逞しい手に胸がときめく。顔を赤らめる私を見て、リオンが顔を歪ませた。

 

「お前……アーネスト・ウォルシュだったか。こんなロクでもない女に侍るのは止めた方がいいぞ。それとも公爵家に金でも掴まされたか?」

「彼女は俺にとって大切な女性だ。愚弄するな」


「ナタリアは俺の妻だ」

「元、だろう。いい加減、彼女へ付きまとうのは止めたまえ」

「こいつは横恋慕の挙句、俺とグレンダの仲を引き裂いた傲慢な女だ。今になって俺から勝手に離れるなど、道理が通らないだろう!」


「……君は、いつまで被害者のつもりなんだ?」


 アーネスト様の顔には、心底軽蔑するような表情が浮かんでいる。

 

「確かに君がグレンダ嬢と引き離されたのは気の毒だ。しかし本当に添い遂げたいのなら嫡子であることを捨て、彼女と結婚する道もあっただろう。だが結局、君はナタリアと結婚することを選んだ。しかも10年もの間、散々リーヴィス公爵家からの利を享受していた。例え愛せなくとも夫として誠実な態度で接するべきだったのに、彼女を傷つけ続けた。君はもはやナタリアにとって加害者だ」


「う、煩い煩い!この女は俺の人生を滅茶苦茶にしたんだ。だから俺にどんな扱いをされても、文句を言えない筈だ!」


 ひどく歪んだ顔でリオンが叫ぶ。

 ……なんて醜い顔だろう。彼の精神(こころ)を表しているかのようだ。

 

 リオンをここまで歪ませてしまったのは、私の罪。だからこそ、この雁字搦めの糸を私が切り離さなくてはならない。

 

「私はこの10年、貴方に尽くしたわ。どんな酷い言葉も受け止めて、貴方のために、ヘイワード伯爵家のために働いた。それでもまだ足りないと言うの?」

「ああ、足りないね。お前は一生、奴隷のようにはいつくばって俺へ尽くすべきだ」


「……話にならないな。これ以上の会話は無意味だ。行こう、ナタリア」

「ええ」


「待て、ナタリア!お前は俺を愛しているはずだ。そうやってまた、俺の気を引こうとしているだけだろう?」

 

 アーネスト様に肩を抱かれ、去ろうとする私へリオンが追い縋る。

 泣き出しそうなその顔に、ほんの少し胸が痛んだ。

 

 私の中にこんな感情が残っていたなんて驚きだわ。

 いいえ。これはきっと、愛ではなく情の残滓。

 

「貴方への愛は、とっくに消え失せていたのよ。それを認めたくなくて、私は貴方へ執着していたのだと思うわ。もう、終わりにしましょう」

「嘘だろう……ナタリア……」


 確かに若い頃の私は愚かで傲慢だったと思う。だけどこの10年、どれだけ誠意を尽くしても貴方は応えてくれなかった。

 自分は愛どころか誠意すら返さないくせに、愛し続けてもらおうというのも、また傲慢だわ。

 

「もうお会いすることもないでしょう。さようなら、ヘイワード伯爵」

 

 名を呼び続けるリオンへ背を向け、私はその場から立ち去った。

 

 

 

 数年後、私はアーネスト様と再婚した。何度か求婚を断ったけれどアーネスト様は諦めなかった。こんな評判最悪の出戻り女より、良い令嬢はいくらでもいるだろうに。

 最終的に「この縁を逃したら、アーネストは一生結婚できないに違いない!」と辺境伯夫妻に懇願され、求婚を受け入れた。私はエリック様の養育があるので辺境領に留まっているが、彼の成人後は夫と共に王都へ戻る予定だ。


 ヘイワード伯爵家は隠居していた元伯爵が戻って事業の立て直しを図り、何とか破綻を免れたらしい。私からもお父様へこれ以上追い打ちを掛けないように頼んだ。義両親には良くしてもらったし、領民に罪は無いもの。


 リオンからはあれからも何度か手紙が届いたが、私が再婚した後は送ってこなくなった。

 女遊びも鳴りを潜めているらしい。再婚の話も聞かない。いまだに元妻を想って嘆いている、あるいは妻と恋人の両方に逃げられたショックで不能になったなどとまことしやかに噂されている。


 いつの日か、彼の心にも平穏が訪れることを祈っている。私にそんなことを願う資格は無いのかもしれないけれど。



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