進みだす
一週間後、清一君は入職日を迎えた。
なんだか自分のことのようにそわそわしてしまい、何かしたくなって行動した結果、私は早く起きて彼のためにお弁当を作った。……母親かな?
作り終えて片付けをしていると、起きてきた清一君が私を見るなり動きが止まり目を見開いた。
平静を装いながら私はにこりと笑いかける。
「おはよう清一君」
「おはようございます。早いですね、早紀さん」
「う、うん。実は、良かれと思ってお弁当作ったんだけど……いる?」
「え?」
目を泳がせて、押し付けがましくならないように控えめに問う。
冷静になってみれば余計なお世話だったかなぁと一抹の不安がよぎったからだ。
緊張した面持ちで眼鏡越しの瞳を見つめていれば、彼の目元が緩んだ。
「嬉しいです!ありがとうございます!」
ぴかーっと輝かんばかりの笑顔を向けられ、ニヤけそうになる口をん!と引き締める。
弁当を作る上で応援したい気持ちが大部分を占めていたが、この笑顔が見たさも実はちょっとあった。
清一君の嬉しそうな顔を見ると癒されるのよねぇ。
「僕のために早起きしてくれたんですか?」
「応援したい気持ちを形にしたいなって思って」
照れて落ち着かない体を抑えるように片手で頭を撫で触る。
応えると清一君はふと頬を緩ませた。
「早紀さんが応援してくれるなら、どんなことがあっても頑張れそうです」
「ふふ。それは大袈裟じゃない?」
そんなやり取りをしていれば凛も起きてきた。
大学の講義があると聞いていたので、お節介かなと思ったが凛の分もお弁当を作っている。
一応渡してみると彼女はお弁当をじっと見つめ「お弁当……久しぶり……」と呟く。
どきどきしながら様子をうかがってると彼女は顔を上げ照れくさそうに口を尖らせて「ありがと」とお礼を口にした。
なんか可愛い兄妹の反応に私は朝から胸が満たされた気分になり、(これが三文の徳か〜)なんて呑気に思った。
二人を見送った後、私は履歴書を書くにあたって過去の栄光もとい全商簿記と書くのが躊躇われ、急遽日商簿記2級の勉強に取り掛かっていた。
最近はネット試験というものがあるらしくほぼいつでも受けられるようになっているので、詰め込んで3、4ヶ月で取れないかなと画策している。
合格率は低いので自信はないけど仕事をしている時より時間はあるんだから頑張るしかない。
自室で勉強していれば戸をたたく音がして秀介さんが私の名前を呼んだ。
立ち上がり戸を開ける。
「どうしたんですか?」
「そろそろ本格的に引っ越してきたらどうかと思ってな。小さい荷物なら車出すぞ」
少しずつ荷物は持ってきているが、確かに家移りしてもいいかもしれない。
三日に一度は帰っているので郵便物などは滞りないとはいえ、長く家を留守にするのは不用心だ。
となると、家に帰って引っ越し準備しないと。
物はあまりないが家電とかをどうするか決めなければならない。
「あ。住所変わるなら色々手続きしないといけないのか……」
「そうか。市役所に郵便局も行かないとな。まあ、時間はあるから言ってくれればいつでも付き合うぞ」
「……」
「どうした?」
あまりに優しい気遣いに呆けていれば、秀介さんが不思議そうに顔を覗き込んできた。
はっとして思ったことを口にだす。
「えっと……久我家の人たちって皆優しいなって」
「ん?そうか?別に普通じゃないか?」
「なんか穏やかで温かい感じがするんだよね」
「穏やかで温かい……?そんなの清一くらいだろ?」
怪訝な表情で首を傾げる秀介さん。
無自覚なのは優しいことが当たり前だからだろう。
だからこそちゃんと伝えておきたい。
「清一君もそうですけど、秀介さんも凛も穏やかで温かいって感じてますよ」
「……自分じゃよくわからないが、褒め言葉として受け取っておこう」
ピンときてない様子だったが、すんなりと受け入れてくれた。
私は微かに笑みを浮かべてこくりと頷く。
こういうのは口に出すことが大事なのよね。
「じゃあお言葉に甘えて車出してもらってもいいですか?」
「ああ。遠慮するな。それに元々ここに来るよう言い出したのは俺だしな」
そもそもの発端を改めて耳にすると、未だに明かされていない理由があったことを思い出す。
前に清一君たちの前では話せないと言っていたが、今なら都合よく2人きりなので聞けるかもしれない。
「そういえばまだ話せない方の理由聞いてない」
「あー……」
指摘すると途端にバツの悪い顔をして言葉を濁し、視線を逸らされる。
腕を組んでドア枠にもたれた秀介さんはしばし黙り込んだ後「また今度な」と返事した。
やけに勿体ぶっている。
「そんなことより目先の面倒事をさっさと済ませるのが先決だ。早速今日行くか?」
「うーん……やること書き出してからと、あ!家の管理会社に連絡もか。……ちょっと色々確認してから決めてもいいかな?」
「了解だ。無理して急がなくてもいいからな」
頭にポンと大きな手を置かれたと思ったら、秀介さんはそのまま踵を返し去っていった。
私はほうけたまま彼の背中を見送り、感じた重みを確認するように片手で頭を擦った。
彼から見たら私は年齢的に妹のような存在なのかな。
兄がいなかった身としてはこういうやり取りはなんだかくすぐったく感じてしまう。
扉を閉めてローテーブルの前に腰を下ろす。
それにしても車を出してくれるのは本当に助かる。
交通の便がいいとはいえ、目的地が複数となると乗り換えをしなくてはならない。
だけど車は好きな時に好きな場所にいける。
やっぱり車はいいなぁ。
しみじみそう思ってから、手で拳を作りよしっ!と気合を入れる。
やらなければならないことを片付けて、勉強に専念するぞ!
それから燃えに燃えた行動力のおかげで引っ越しの手続きを一週間ほどで終わらせることができた。
仕事をしていないおかげというなんとも悲しい理由もあるけれど。
清一君の方も今のところ問題なく仕事を続けていけそうとのことで、とりあえず一安心。
今日も早くに起床し、朝食のハムエッグサンドを作り終えて、使った調理器具を流しに置いた。
「おはようございます、早紀さん」
「おはよう……あれ?清一君、眼鏡はどうしたの?」
気持ちの良い挨拶に顔を上げると、清一君の顔から黒縁眼鏡がなくなり素顔が露わになっていたので思わず問いかける。
スポンジを置いて手についた泡を水で流し、タオルで手を拭う。
「えっと、眼鏡が壊れてしまうことがあるみたいなので仕事の時はコンタクトにしようかなって」
眼鏡が壊れる?
首を傾げると清一君は簡単に説明してくれた。
認知症等で興奮した入居者が職員に暴力を、となることもあるそうだ。
本人は分かっていないので悪気はないとのこと。
職員の虐待とかはニュースになるけど、逆はないから知らなかった。
「清一君、大丈夫なの?」
「そうですね……声かけとかアプローチの仕方で落ち着いたりするので色々考えるのは楽しいですね」
心配になって声をかけたが、彼は思い出すように視線を上にあげてのんびりした口調で返事した。
特に気にしていないようだ。
二人と一緒で清一君もマイペースなのよね。
秀介さんと凛の顔が頭に浮かぶ。
まあ、本人が大丈夫そうならいいか、と息を吐く。
「そっか。無理はしないでね」
「はい。ありがとうございます。あ、片付け手伝いますよ」
「少ないからいいよ」
断ったが清一君は止まることなく隣にやってきた。
腕まくりして流しを強引気味に奪われ、私は横にふらりとずれた。
食洗機もあるが、洗い物が少ないと自力で洗ってしまう。
続きを洗い始める清一君の横顔を私は黙ってじっと見つめる。
眼鏡をかけていると少し幼く見えていた清一君。
そんな彼の素顔はなんというか……美青年だ。
肌もきめ細かいし、まつ毛も長い。
眼鏡越しからも端正な顔立ちとは分かってはいたけどまさかここまでとは。
その美しさに思わずぼーっと見惚れていると清一君がこちらを向いてバチッと目があった。
「な、なにか変でしょうか?」
「あ、ううん。初めて素顔みたなぁって思って、つい見つめすぎちゃった。ごめんね」
途端に動きが固まり顔を赤くする清一君を目にして、身を引いて見過ぎていたことを反省する。
それにしてもこんなに美青年なら彼女の一人や二人いたんじゃないだろうか。
とはいえ、誠実な清一君が何人もの女性と付き合っているイメージはないから、元カノがいたとしてもなにか理由があって別れたに違いない。
と、勝手に妄想してみるのは失礼か。
「清一君は彼女はいたことあるの?」
「ないですよ」
「意外。清一君カッコいいのにいたことないなんて」
「か、かっこいいですか?」
迷わず頷く。
世間一般的な目線から見てもイケメンの部類に入るだろう。
チラリと清一君の手元に目を落とすと、先程から流水で長々とフライ返しを洗い流している。
「清一君、もうそれいいんじゃない?」
「え!? あ、そうですねっ!」
指摘に彼はあたふたと蛇口を止め、フライ返しを水切りラックの上に置いた。
「告白とかはされなかったの?」
「……ありましたけど、恋とかそういうのよくわからなかったので断ってました」
「そうだったんだ」
清一君は眉尻を下げて恥ずかしいのか顔は赤いままだった。
やっぱり告白されたことあるんだ。
そりゃあそうよね。こんなイケメンが学校にいたら放っておかないわよ。しかも性格もいい。
やっぱり、あの婚活の場にいた事自体謎なのよ。
そこでふと思い出す。
そういえば、秀介さんから行くように言われたって言ってたっけ。
……って、恋バナなんて朝から話すような内容じゃなかったわ。
清一君は今から仕事なのに。
「――早紀さんはいたんですか?」
不意に問われた。
気のせいか、声のトーンが少し低く聴こえた。
そっかー。聞かれちゃうよねぇ。私から聞いたんだもん。答えないわけにはいかないか。
どういう反応をされるのか少しドキドキする。
「実はいたことないのよね」
「そうなんですか? 一緒ですね!」
間髪入れず笑顔を浮かべ弾んだ声でめちゃめちゃ喜ばれた。
くっ。なんだか恥ずかしい。
学生時代は好きな人とかはいたけど、女友達と一緒に遊んでる方が楽しかったから必死に彼氏を作りたいとは思わなかった。
社会人になってからは……まあ、恋愛に向き合いたくなかったってことになるのか……。
「おはよう。お兄ちゃん朝から元気ねー」
欠伸をしながら凛が顔をのぞかせる。
時計を見てもうそんな時間かとはっとする。
先に清一君と凛に食事を摂ってもらう。
清一君は目に見えて上機嫌で凛が不思議がっていた。
まあ、嬉しそうなら教えた甲斐もある……のか?